真鍋教授の「昔日の自転車回顧録」
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昔日の自転車回顧録

['98.5.18〜] 10.31更新
この後も、「いろいろあらあな」、で、自転車回顧録は続きます。
【 m e n u 】
その11「蓮根背負って学生と衝突」
その10「ばばちゃりと衝突自転車作り直し」
その9 「自滅大転倒顔面大怪我」
その8 「バック自動車と衝突」
その7 「オーダーメイド自転車」
その6 「ブレーキゴムすり減る」
その5 「達磨型自転車購入」
その4 「酔っぱらい運転」
その3 「自転車ライフの始まり」
その2 「本格化・中学校時代」
その1 「初体験・小学校時代」
その11・「蓮根背負って学生と衝突」
東京理科大学では、野田校舎の蓮池で取れる蓮根が、年末になると職員に配給される。たまたま自転車で行った日に配給されたので、これをナップザックから突出す形で背負って、夜道を帰った。青山通りから南へ入り、K学院大学の前の、坂の底に信号がある地形の交差点に差し掛かったところ、ちょうど授業が終わったのか、多くのK学院大生が横断しようとしている。こっちの信号が青だったので、バスに続いて交差点へ進入した。前方が見えないから、やや歩道よりを走っていた。3人ほどの男子学生が赤信号なのに出ようとする。目が合ったから引っ込むと思ってそのまま突っ込んだら、自転車だから甘く見たのか、数人いたから皆で渡れば怖くないと思ったのか、強引に出てくるじゃないか。一瞬の後、衝突し、大転倒。
蓮根は無事だったが、肩を打撲したようだ。バックミラーも少し壊れている。弁償しろよと言うと、こんなところでは金は払えないという、うん、それはたしかに正解だ。しかし肩をだいぶ打っているから、交通傷害保険の適用対象になる可能性があり、その場合は証明がいる。じゃあ交番へ行こうということになって、2人で歩き出した。最初はつんけんしていたが、喋っている内に次第に打ち解けて来て、小生が大学教授であることがわかると、急に態度を変えて(こういう権力に尻尾を巻く態度が全然理解できませんな)、ここで弁償しますなどといい出す。冗談じゃない、君が交番っていい出したじゃないかと、まもなく交番へ。事故証明をくれと言ったら、お巡りさんも面倒がって、互いの住所交換で良いだろうと言う。この学生ったら、用心深いのか本当なのか、学生証は持っていないなどという。不届きな奴だ。
後日、保険会社から書類を取り寄せてその学生に送った。電話したら親が出て、丁寧な対応で、書類は菓子折つきで返って来た。傷害保険はおりたが、後日、入院で大々的に保険の世話になるとは、さすがにこの時はまだ予想しなかった。
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その10・「ばばちゃりと衝突・自転車壊れてオーダーし直し」
朝、自転車屋だか何かに寄ったついでに、そのまま駒沢通りに出た。片側2車線の道路には、時々路上駐車がいるので、歩道寄りの車線が空いていて、2車線目を車が流れたり止まったりしている。左車線を時速20q内外でとろとろ走っていたが、一瞬メーターだかミラーだかを見た隙に、渋滞した車の間から急に老女の乗ったママチャリが飛出してきた。その老女は全く左右確認などしていないが、彼女にとっては、そこは駒沢通りを細い道路が横断する箇所で、彼女にとっては自分の道が渋滞で止まった車をクロスしている訳だ。
自転車の前フォークに鈍いショック、多分フォークが曲がったなと感じながら前へ投出され、1回転して仰向けに着地した。買ったばかり、まだおそらく2〜3往復目のヘルメットのおかげで、怪我は腕の軽い擦過傷だけ。しかしヘルメットは少し凹んでいた。自動車の運転手が見て驚いているが、あっちも流れに乗って前進するしかない。
問題はそのばあさんである。もし大怪我でもされたら一大事。起上がって自転車をどけて、様子を見ると、地面に俯せに倒れて呻いている。やばいぞ、と思ったが、彼女も起上がった。下手に謝って付け込まれたらいけないし、何と言って良いかわからない。1回転してショック状態の混乱した頭で一瞬の内にいろいろ考え、「もし私がバイクだったら、貴女、死んでますよ。」とか何とか言ったらしい。これを聞いた老女は怒ったね(当然だ)。「あんたは若くもないのに人間性に欠ける」とか「未熟者」だとか、要するに道議的・人間的なレベルで叱られた。住所を言いますとか、名刺を渡しますとか誠意を見せようとしても、関わりになりたくないの一点張りで、かたくなに顔をそむけて名刺を受け取ろうともしない。「お怪我でもなさっていたら保険もありますし、せめて住所とお名前ぐらい」と言ってもだめ。彼女の自転車を起こしてみたが(「普通の」自転車は重い)、頑丈なママチャリは無傷。彼女がハンドルに掛けていた(こういう乗り方が危ないんだ)苗木の鉢がこぼれたぐらいで、大きな怪我はなさそう。「「家内に迎えに来させますから、お宅までお送りします」と言ってみたが、憤然と
「私にも嫁がいますっ」。「本当に良いんですね、帰ってしまっても」と念を押して立ち去ろうとするが、自分の自転車は前が歪んでしまって走れない。本当に家内を呼ぶはめになった。
家内の車を待ち、大学には「事故った、遅刻する、授業は演習配ってやらしといて」と電話し、車のトランクに自転車を積んで家へ。大学へは電車で出直す、やれやれ。
自転車を修理に出した時は気付かなかったが、すぐ電話が掛かって来て、壊れたのは前フォークじゃなくてメインチューブだった。これには驚いた。行ってみると、前三角の付け根のチューブが2本とも座屈している。オーダーメイドの自転車は、結局4年で壊れてしまった。使える部品をけちけち残しても大した値段の差にならないので、まるごと作り直すことにした。以前と全く同じ仕様で、「脚の短さ」や「手・胴の長さ」等は前のデータでやってもらった。余った部品は取っておいたが、後年になって、追突されて予備のホイールが役立つなんて予想はしなかった。
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その9・「自滅大転倒大怪我頚椎捻挫顔面挫傷自宅療養2週間余」
自転車通勤開始して何とまだ6往復目のことである。1989(平成元)年12月9日(土)の夜、目黒通りを快調に飛ばして自宅付近まで帰って来たが、脇道へ入って暗くなったので、ライトをそれまでのブリンクから連続点灯に切換えようとした(この頃はずっとブリンクだけ)。前輪のハブに付けてあるライトに手を伸ばして切換スイッチを探ったところ、右手の親指が前輪に「ボロボロン」と音を立てて巻き込まれた。前輪ロック状態でハンドルも取られて、アスファルトの路面に顔から突っ込んだ。中空の固い球体が硬い地面に衝突する「こーん」(寧ろ「ご〜ん」だね)という音まではっきり覚えている。
寒い時期なので毛糸の帽子を被っていたようだが、当時はまだヘルメットは被っていなかった(危ない危ない)。起上がってみたら、顔全体から出血しているが、そんなことよりも、頚は動く、目は見える、指は繋がっている、意識ははっきりしている、などを冷静に確認した。スポークが数本切れて曲がって軸に巻きついてしまった自転車の前を持ち上げて引いて、徒歩3〜4分の自宅まで歩いて帰ったが、途中で擦れ違った若い娘が、擦れ違いざまに気付いて「ぎゃー」と悲鳴を上げた。「ちょっと自転車で転んじゃって」などとフォローする余裕があったのには自分でも驚いた。サングラスが折れてどこかへ飛んでしまったことは、帰宅後に気付いた。
家へ帰って玄関を開けた家人の驚くこと、子供などは「ゾンビだ〜」などと逃げる。近所の某A救急病院へ行って診てもらう。土曜日なのでとりあえず応急処置。額と鼻の横をひどく打撲し、擦りむいている。皮膚が削れているから縫うことは出来ない、ケロイドになる、頚椎を捻挫している、などと威かされ、当面はヨード剤(イソジン軟膏)を塗ってガーゼを当てるだけしか仕方がない。
あとは家で寝ているだけである
(写真:自宅療養風景)。月曜日になって同じ病院へ行ったが、顔じゅう包帯だらけの姿は人目を引く。頚椎捻挫の方は、そのせいかどうか、頚を回すとちょっと遅れて90゜違う方向へ頭がぐら〜っと回転する感覚。三半規管につながる神経がやられているようだ。しかし医者は気楽なもので、「レントゲンを撮ったが、石は入っていない」。え〜っ、こっちは頭を強打したのが心配なのに。別に後遺症は無かったので結果的にはそれでよかったのだが、今にして思うとちゃんとした病院でCTスキャンぐらい掛けてもらうべきだった。あとで近所のクリーニング屋さんに聞いたが、A病院なんかに掛かったら殺されちゃうと、H警察署の警官までが言うそうだ。
寝ていると、傷口からは多量の「汁」が出てきて、髪の毛はねばねば、ごわごわ、枕に敷いたタオルもべとべと。それに頭を動かすと「ぐら〜」である。もう不快で不快でしょうがないが、寝ているしか仕方がない。傷口が次第に塞がって来ると、A病院の医師は、今度は副腎皮質ホルモン軟膏をヘラ(油絵のパレットナイフですね、あれは)でべたべた塗り付ける。こういう治療法があったのか。たしかに傷の癒りは速い。
授業は10日ほど休講にしただけで、何とか復帰したが、顔中絆創膏だらけで授業に出たら学生はびっくりした(当たり前だ)(写真:大分癒ってきたけど)。年末に予定していた研究室のスキー合宿には、当然ながら参加出来なかった。
年が明けて、自転車も修理に出したが、フレームも、ホイールも使用可能で、スポークだけの交換で終わった。2月末になって、性懲りもなく自転車通学(通勤だね)を再開したのだが、最初はまだ頚が痛かった。でもその翌週、子供2人連れてスキーに行っていますね。これを機会に(和歌山の砒素殺人容疑者じゃないけど)行きつけの自転車屋さんが代理店をやっているD保険会社の交通傷害保険に加入した(これが実際に役立つなどとはその時は全く考えてもいなかったのだが)。なお、ヘルメットを買うのは更に2年経ってからである。
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その8・「バック自動車と衝突・ホイール変形」
自転車で通勤を開始してまだ4往復目で、まだ不慣れなころである。夜になって帰宅する際に、四谷3丁目の交差点で横断歩道(当時はまだ初心者なので何と普通の道路でも横断歩道を渡っていたのですねえ、今では堂々と車道を通りますが)を渡ろうとしたら、信号待ちで止まっていた乗用車がちょっと鼻が出ていたためバックした。小生は横断歩道の島の外側(交差点の中央より、右)を渡ってから、左へ曲がってその車の後へ回り込んだところだったので咄嗟に避け切れず、バックした車のお尻に軽く接触した。トランクの蓋をぼこんと叩いたら、運転手が焦って飛出してきた。まだどんな顔をして怒ったら良いのかもわからず、自分も渡り方が下手(アピールが足りず、相手の目線も見ていなかった)だったという反省・弱味もあって、ああ大丈夫です、なんて言っちゃって、損したかしら。横断してしまってから念のために見たら、ホイールが少し歪んだような気がする。翌日自転車屋で見て貰ったら、スポーク調整することになった。
反省点:上記のように横断することを止まっている車にアピールすること、相手がこっちを認識していることを確認すること(昨今では携帯運転野郎に要注意)、鼻を出して止まった車はバックする可能性があることを忘れないこと、等々。今ではこういう経験を重ねて、こうした対応はすっかり身に沁みついている。しかし油断は禁物。
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その7・「いよいよオーダーメイド自転車発注」
平成元(1989)年11月、初めて自転車をオーダーメイドで作ることにした。それまでは、競争用のドロップハンドルの自転車などというものは危険なものという潜在意識があった。子供の頃の名古屋では、中学・高学校ではドロップハンドルは危険だからという理由で禁止なのであった。また、当時は前述の「サイクルキャンペーン」を行われたことからもわかるように、特に東京のような道路では自動車優先で、とても東京の町中を自転車で本格的に走ろうと言う気がしなかった。
しかし、よくよく考えてみると、他の人は自転車で町を走っているのだし、ドロップハンドルのスポーツ車でも、作って売っているのだから危険な乗り物ではないであろうと気付いた。そういえば自分は中学校時代は自転車少年だったではないか。何も自己規制する必要はないじゃないか。
そこで、前述のぼろ自転車を捨て、新規に自転車を購入することにした。最初に聞いた自転車屋はオーダーメイドをやっていそうだったが、いかにも無愛想で、小生の錆だらけの自転車を見て「こんな自転車に乗ってられちゃ我々も商売上がったりだ」と、ますます無愛想。近所の自転車屋で聞いて見たら、B社もN社も同じようなオーダーメイドの自転車を売っているではないか。最初はオールラウンダーのハンドルで良いと思っていたが、やはりドロップハンドルの方が性能はよさそうだ。自然に腕を前へ伸ばせば掌は下ではなく内側を向くのだから、オールラウンダーでは肘が張って不自然である。それにドロップハンドルはいろいろな持ち方ができる。
次はフレームの材質である。値段から考えてクロモリで十分。何十万円を余分に投入して2sほど軽量化するよりは、ダイエットした方が良い。脚の「短さ」と胴・腕の長さや肩幅を計測する。カラーは年齢を考慮して(?)落ち着いたグレー梨地、ネームには購入年月日も入れて発注である。当時はまだ7枚ギア・14段変速で、ステップインペダルもまだ普及していなかった。
3週間待って自転車が出来上がった。自転車屋へ行くと、想像していたものとはかなり掛け離れた未来的形状の物体が「真鍋様」という札付きで置いてある。タイヤは異常に細く、こんな華奢なものに乗るのは何だか怖い。家まで恐々乗って帰った。
しかし早速大学まで乗って行くことにした。まだ着るものもそろえていないから、普通の革靴、シャツもズボンも普通の格好であった。最初から「自転車っぽい」格好をするのは何となく気はずかしいじゃありませんか。そう言えばスキーでも下手な人はダサい服装で滑ってますよね。しかしこれが間違いであることに気付くのです。やはりスポーツの格好にはそれぞれに必然性がある。
最初の頃は歩道を走ったが、これでは時間が掛かり過ぎ。しかも歩道にはいろいろな物が落ちているし、人もいるし、いちいち段差も乗り越えなくてはならない。径が1インチほどしかなく7.5s/cm^2の空気の入ったこちこちのタイヤでは、非常に不快である。表通りを自動車と一緒に走る勇気はまだ無かったから裏道を走ったが、これがまた怖い。歩道という緩衝ゾーンが無いため、人や自転車や自動車が急に顔を出すし、車道と歩道の区別が無いか、あっても歩行者は車道を歩くし、自転車は右側を逆走する。路面も凹凸が激しいし、東京には起伏が結構ある。道によっては途中から階段になったりする。歩道橋をかついで渡ったりもさせられる。遠慮して左を走っていると路上駐車や左折車がいる度に止まって出直しになる。
しばしばパンクして、チューブ交換はすぐ巧くなったが、パンク修理セットのパッチは長い間裏返しに貼っていた(これでよく直ったもんだ、僅かな幅の接着部分が効いていたわけだが、その接着性能には驚嘆)。やがて、怪我をしたりしながらだんだん経験を積み、今に至るのだが、怪我のことなどについては次章以降に。
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その6・「ブレーキゴム見る見るすり減るの記」
結婚して子供が出来ると、子供に超小型自転車を買い与え、室内で乗ったりしていた。上の子(娘)がそこそこ乗れるようになった頃、代々木公園で自分で1周してらっしゃいと言ったら、だいぶ経ってから泣きながら帰って来た。途中で転んでだれかに助けてもらったらしい。この頃、娘は一時自転車恐怖になった模様。
息子の方は補助輪を取りたがり、三輪車でジャンプして頭を縫ったり、危ない奴だが、自転車は好きだった。息子といっしょにやや遠くまで乗るようになったが、子供の監視で後方注意ののろのろ運転ばかりでは欲求不満になる。多摩川の土手で安全を確認してから、猛スピードで走ってみた。「お父様、速い〜速い〜」(当時のうちの子供の躾は「お父様・お母様」だったのです、ちょっと気恥ずかしいですねえ)の声に気を良くしたが、愛車は世田谷時代に一時期雨ざらし状態だったため、あちこちひどく錆びている。いざ止まろうとしたら、前のブレーキ(リムブレーキ、角棒状のゴムを半径方向にリムに押し付けるもの)の風化しきって白くなったゴムが、これまた錆でざらざらになったリムで削られて、あっと言う間に摩滅してしまった。後ブレーキ(所謂バンドブレーキ)がよく効かないものだから、多摩川から自宅まで一般道を帰るのはちょっとはらはらものだった。ブレーキだけはちゃんと整備しておきたい。これをきっかけに、自転車を買おうと思って、今のおじさんレーサーの時代を迎えるのである。
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その5・「達磨型自転車購入の記」
1971〜2年頃だったろうか、自動車に押されっぱなしだった自転車の復権ということで、サイクルキャンペーンとかいうのがあった。下宿の近くの自転車屋にも、宣伝用の達磨型自転車(というのだろうか、前輪が大きく後輪が小さく、大きな前輪をダイレクトに漕ぐ、オーディナリー型)が、そのキャンペーンの期間中半年だか1年だか、壁に掛けてあった。話の種に乗ってみたいとは思ったが、買うのも馬鹿馬鹿しい。
キャンペーンが終わってその自転車が壁から消えた翌日、ただちに自転車屋の主人に交渉した。値段を聞いたら17,000円と言う。「不要になったのだろうから安く売って貰えないか」と聞いたら、「幾らなら買うか」と来た。とっさに幾らと言えばよいか分からず、定価の半額が頭に浮かんで「7千円か8千円なら」と言ってしまった。自転車屋は即座に「じゃ8,000円」。もう後の祭、今さらもっと安くせよとは言えない。やむなく8千円で購入することになった。今にして思うと、3千円か4千円ぐらいで交渉開始するのが妥当だった。自転車屋は壁に当たってひん曲がっていたサドルを新品に交換してくれたが、やはりこんなものが売れて儲かったと思ったに違いない。
その所謂「達磨型」自転車は、ちょっと練習したらすぐに乗れた。ダイレクトドライブなので、急ハンドルが可能で狭い場所でぐるぐる回ることもできる。ブレーキは無く、停止する時は後に飛び降りる。荷物台は付かないので、ナップザック(千代田区が区民に配付した「避難袋」)を背負って大学まで通ってみた。途中の森川町商店街のおじさんたちからは大受けで、喚声と拍手で迎えられた。
しかしその後まもなく、やはり飽きてしまった。理科大に就職した後、その達磨型自転車は階段室に放置してあった。たまたま仕事をいっしょにした後輩がこれを見付けて、譲ってほしいと言うから、二つ返事で譲った。しかし只であげるのも何だからワインと交換してほしい言ったところ、ものすごく美味しいワインを何本も貰う結果になってしまった。彼は日仏ハーフで、有名建築家の息子。もらったワインが美味しくて当然かもしれない。彼もけっこう自転車少年で、ドロップハンドルの自転車で町を突っ走っているのを目撃したことがあるが、自転車で衝突して涙腺の手術(マイクロサージャリーと言うんですかねえ、顕微鏡でやる精密手術)を受けたことがあるとのこと。なお彼は、現在では有名な若手建築家になっている。
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その4・「酔っ払い運転時代」
大学時代は下宿生活で、はじめは自転車生活はしていなかった。大学で拾った「ゴールドフィンガーの自転車」で自転車の味をしめたが、なかなか自分の自転車を持つには至らなかった。
大学院時代に、計算センターへカード(当時は電算機の入力はIBMカードですよ、それも段ボールの箱に一杯の)を運ぶために、研究室で自転車を買った。嬉々として研究室の自転車を私物化して乗回したのは言うまでもない。建物の入口の階段に守衛のおじさんが作ったワゴン用のスロープに、二人乗りのまま乗り上げたり、後向けに乗ったり、腕を左右クロスさせると転ぶことを実験したり、無茶なことをしたものだ。
そのうち自分でも自転車が欲しくなって、飯田橋の遺失物販売所とかいう噂の安売り自転車屋で、1万円かそこらの「軽快車」を買ったのは、28年ほど前である。それからはロードレーサー(衝突で壊す前の車)を注文した昭和63(1988)年まで、18年ほど愛用した。当時は「自転車に乗る時は禁酒」とは決めていなかったので、酔っ払って蛇行運転して、翌朝になって、むこう脛が凹んでいたり、ブロック塀で肘を擦りむいたことに気付いたりした。後輩が仕事の打ち合せでミニバイクで下宿へ来る祭に小生は自転車で追いかけたりしたものだ(なおその時は、帰宅したら、彼は白山通の都電のレールでスリップして転倒して、下宿のおばあさんに手当してもらって、あちこち赤チンだらけになっていた)。
文京区の下宿から世田谷のアパートへ引っ越す際、自転車を積み損なって(一人暮らしにしては異常に荷物が多いから、最初に積まないと後からじゃ乗らないと言われた)、後で信濃町の友人宅経由で2日がかりで「陸送」したが、今から考えたら一日でもちょうど良い距離であった。その後はだんだん出かける距離を伸ばし、多摩川の土手をどこまでも行ったり、吉祥寺の友人宅まで行ってさんざん飲んでから深夜に帰ったり(猛スピードで走っていたらパトカーに尋問され、はあはあ言う息が酒臭いので警官は思わず顔をそむけた)、高速で走りながら真後を見てスピード感を楽しんだり(危ない危ない、何て事をしていたんだろう、しかも酒気帯びで)、今では想像も出来ない危険なサイクリングをやっていたものだ。
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その3・「東京自転車ライフの始まり」
大学では美術サークルに入っていた。当時(昭和40/1965年頃)は前衛美術が流行しており、我々もジャスパージョーンズの作品(「drink
more」というコカコーラを持った手の作品)を真似た「イミテーションアート」を提唱したシノハラウシオの作品をさらにイミテーションした作品を学園祭に出して、篠原当人を呼んでシンポジウムをやったものだ。
それで、我々の前衛美術作品の一つとして、当時流行の007映画の、ゴールドフィンガーを文字って、大学の寮に通ずる地下道で拾った自転車を黄金色に塗装し、それにミイラのように包帯ぐるぐる巻きの人形をまたがらせたものを天井から吊って、「作品」として出した。
前置が長かったが、展示の後にその自転車に空気を入れたら、まだちゃんと走ったのである。自転車は下宿に持ち帰り、大学まで何度か乗って行った。当時はまだ東京で自転車通学をするなんて、全く考えていなかった。今から思うと惜しいことをしたものだ。もし下宿(東松原)から大学(駒場)まで自転車通学していれば、世田谷・目黒に詳しくなっただろう。普通の道路が突然階段になるなんて、東京へ来るまで想像もしなかったのである。
この自転車は程なく黄金の塗装も剥げ落ち、錆だらけの惨めな外観となったが、ちゃんと走った。しかし、あまりに惨めなため、引っ越しの際に運送屋さんがトラックに載せなかった。結局もとの下宿に置き去りにされ、後日粗大ごみになった。これが小生の東京に於ける自転車ライフの始まりである。
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その2・「本格化・中学校時代」
自転車乗りが本格化したのは、中学校の自転車通学の時である。引っ越しで学区が変ったが、転居先の中学校が何と丸坊主である。絶対に坊主頭は嫌だったので、越境通学することになった。引っ越し先の自宅から入学時の中学校まで、砂利道を走って、雨の日・風邪の日以外は、自転車通学をした。自転車が使えない日は市営バス(何とボンネット型、日野自動車製)である。
自転車は当時の実用車であり、今のロードレーサーとは全く比較にならない重さである。無論、変速機など無い(よく冗談で「1段変速」と言った)。荷台にロープで鞄を縛りつけて(鞄を忘れた日があったが)、砂利道をふらふらしながら走った。次第に所要時間が短縮されて行くのが面白かったが、太ももが見る見る太くなり、以後40年間その太さのままである。
かなりスピードを上げた頃のある日、砂利道の限界と思われる速度で突っ走っている小生の脇を、何と、抜かして行くおじさんがいるではないか。同じ太いタイヤの、内装3段変速だったか変速機なしの実用車だったか記憶は定かでない。負けるのは悔しかったが、不安定な砂利道であんなにスピードがでるものかと驚き、ますます速くペダルを漕ぐ努力をしたのは言うまでもない。距離を計ったこともないが、最初は片道40分、最終的には18分で走破した。こんど、その町の地図を買って距離を計ってみよう。
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その1・「初体験・小学校時代」
小生の自転車初体験は、小学校3年生の時に初めて買ってもらった子供用の22インチ中古車である。たしか青い自転車であったが、これで近所の空き地でよく練習していた。小生、今でこそ52才にもなって深夜に時速40qで自転車を飛ばし、教え子たちと自転車レースに出て、その他にも山スキーとか飛び込みとかやって、サッカーの試合にも出たりする恐怖の元気熟年だが、実の所運動神経が鈍く、自転車はなかなか覚えなかったのである。あるとき1人で雛壇型宅地造成地の石垣の上の空き地で練習していて、転倒(今では業界用語で「落車」って言うんだろうね)した。小生の体は地面に投出され、石垣(無論手摺なんか無い)の端部から上半身を乗り出した形で止まっており、自転車は数メートル下の石垣の下のどぶに落ちていた。もう少しで自転車もろとも頭から転落するとアろであった。しかも下のどぶはゴミ捨て場になっていて、ガラスなどがいっぱいあったのである(捨ててある切れた電球を石垣に投げつけてポーンという音を楽しんだものだ。当時の電球は真空で、割れると景気の良い音がしたものだ)。もし転落していたら、悪くて頭蓋骨骨折か頚椎損傷、よくても顔面傷!
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だらけガラス片食い込みであっただろう。最近急に思い出して、何だか怖くなった。
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