Top >Novel

Copyright(c)2001-2007 by MAR-YAN. Allrights reserved.

出会いと別れ

[1]

 ススキノは約130年前の明治4年に政府の許可を得た妓楼(女郎屋)としてスタートする。この「薄野遊郭」は大正に入って菊水へ移転し、そのあと料亭へと様変わりした。その後も一大歓楽街の道をひたすら走り続け、男と女、出会いと別れが立体交差する現在を迎える。その一角で浪人生ジュンイチの新たな歯車が回り始めた。 

 ジュンイチはバイト先の居酒屋を飯のお代わり自由というだけで決めてしまった。宴会客が多いこの店は鍋やバットなどの調理器具が家庭のものより倍以上大きく、鍋に頭を入れながら洗わなければならない。また、忙しくなると洗い物は整理台からもあふれ出し、それこそ足の踏み場も無くなる。

 6月は木々の葉も若く頼り無げな霞に見えていたのが、濃いしっかりした緑色に変り始める頃、すでにバイトも2ヶ月を過ぎた。葉ずれもかすかにめぐる風のごとく、新しいホール係りとしてナオミがやって来た。

 そもそもジュンイチがバイトを始めたのは下宿代を払うためだ。来春から妹の短大が東京に決まりそうで、札幌と東京のダブル出費になるが、二浪目で肩身の狭いジュンイチには親父から下宿代くらい自分で稼げと言われても逆らえなかった。もし来年もダメなら実家の盛岡に戻れとも言ってきたらしいが、親父の顔も見たくないし、押し付けがましい態度には辟易していたから、素直に従えないに違いない。

[2]

 ジュンイチが受験に失敗したのは当然の結果であり他に転嫁する必要などない。

 高校3年生の1学期までは学年3番以内の成績で希望校の北海道大学工学部は担任の先生も太鼓判を押していた。それが高校最後の夏休みにクラスは違うが同級生の女生徒に恋をしてしまった。ジュンイチは姉と妹に挟まれて育ったせいか女性とは口うるさく煩わしい存在で、かかわりあわず勉強している方がましだと考えていた。
 映画館で偶然隣の席になったその女生徒はジュンイチをひとりの男として見てくれた。その新鮮な驚きとさわやかな笑みの魅力に引き込まれたのだろう。ジュンイチは他の同級生に比べると奥手であったが目覚めてからのめり込むのは早かった。

 はじめは学校が終わってから待ち合わせをしていたが、すぐに学校へも行かず二人で遊びまわるようになった。好きだから何でも許されるはずと怖れを知らなかったが、両方の親たちが介入し2ヶ月足らずで幕を下ろした。
 親父には受験生の分際で女にうつつを抜かしおってとしこたま殴られ、それでは済まずに、彼女の家で顔を畳に押し付けられて二度と会わない約束をさせられた。
 くやしかった。自分の気持ちを無視されたことに怒りを感じ、はじめて泣いた。
 それからは勉強にも身が入らず、だらだらと投げやりな態度をとるようになり受験には落ちた。

 しばらく静かにしていたが家にいると息が詰まりそうで、勉学に集中するため大学の側に下宿したいと親に申し出た。これには妹が高校2年の時で悪い影響があってはと思い、やっかい払いするにはタイミングがよかったのだろう、あっさりと認められた。

 受験生が恋をして、それが受験失敗の原因だと言ってしまえばそれまでだ。だが恋愛自体悪くはなく、ジュンイチの成長には喜ばしいことで、自分で考え行動したのは褒めてもいいと思うのだが。

[3]

 新しく入ったナオミが挨拶に来た。
 「私のこと、ナオミと呼んでね。」
 「どうも」ジュンイチには儀礼的な挨拶と思ってそっけない返事になった。
 「名前は何というの?」聞かれてジュンイチはムッとした。
 「ジュンイチ」なんで人の名前聞くんだよ。
 「ありがとう、ジュンイチ」呼び捨てにして行ってしまった。

 ナオミはそれからも「ジュンイチ」と呼び捨てにし、返事をしないでいると片付け物の食器を持ったままそばに来て、腰でお尻を突っつくのだ。つい「なんだよぉ」とにやけ顔になるジュンイチは人なつっこいナオミがたまらなく可愛いと思った。
 それから1ヵ月後、気が付いた時には手遅れですっかりナオミを好きになっていたのである。昔のジュンイチなら一気にのぼせ上がり、前後の見境もなく行動しただろうが今は事情が少し違っていた。自分で稼いだバイト代から下宿代の他に好きな本や食べ物等を買うと、二人で気楽に遊び回るわけにはいかない。惨めだとは思わないが行動パターンを大きく制限していた。

 ジュンイチにとっては悩み多き年頃なのだが季節はすでに夏を迎えている。とはいっても、空を見上げても熱い太陽は見えず札幌の7月は肌寒い日が続くせいで店では鍋物の注文が多かった。野菜も豊富に入って栄養のバランスがいいし、おなかもいっぱいになり、それに温まる。鍋につくポン酢は北海道ではなじみが薄いらしく苦手な人が多いみたいだ。
 宴会客に混じってひとり客も多く座敷とは別にカウンター席もにぎわっていた。普段は何気なく見ていた独酌風景なのだが、他人に煩わされずに気楽でいいと思っていたが、話し相手も無くただ飲み食いするのがわびしく感じた。
 もしかして親父も一人で飲んだりするのかと考えてみたが、同情に値しないぞと振り払った。

[4]

 バイトが終わっての帰り道、ナオミが前を歩いていたので声を掛ける。
 「あらジュンイチ、どこ行くの、変なところへいくんでしょう」
 「ん、本屋へ行くところ」
 「ちょっとお茶でも飲んでいかない?」
一瞬考えるふりをして「いいけど」
内心はとても嬉しかった。店以外で会うのははじめてである。交差点に近い1階の喫茶店に入りコーヒーを注文した。窓からは終電が近いというのにまだ沢山の男女が歩いている。
 ナオミはジュンイチより2歳年上だった。以前働いていた会社でいやな事あり辞めたらしい。生まれが旭川であることも聞いた。当然ジュンイチの方も浪人生であり盛岡から出てきたと話したが、恋愛事件の事は話せなかった。気が付くと1時を過ぎている。
 「こんな時間にススキノに居てしらふなのははじめて」
無い袖は振れなかった。
 「今度一緒に飲まないか」
 「ごちそうさま」
 「割り勘でお願いします」ジュンイチが頭を下げたので二人して笑った。
 ナオミとはそれ以来親しさを増したがそれでも店では厨房とホールに別れているので、話す機会は少なかった。

 小遣いが貯まらず約束を果たせずに月日は過ぎたが、閉店時間が近づいた頃店長とナオミが何か話していた。またドジをふんだのかと思ったが、バツ悪そうな照れ笑いの顔をしてナオミは通り過ぎて行った。
 「男と女はわからないからね」
後ろにいたのを知らずにちょっと驚いたが食器洗いのトメばあちゃんだった。
 「ナオミと店長の事かい?」
 「知らないのかい、あの店長は手が早いからね。何人も泣いているよ。あのこは器量もいいから騙されたんじゃないのかい」
付き合うのはナオミの勝手だが店長は妻子もちだし遊ばれているのではと思うとしゃくにさわった。
 ジュンイチの心配をよそに普段と変わりなく振舞うナオミには店長との関係は聞きにくかった。

[5]

 7月は蝦夷梅雨(えぞつゆ)とかで夏日が少なく、ぐずついた天気が多かったが8月に入って回復してきた。
 お盆を過ぎると秋の気配がする。風冷たく、日没が早まり、少し前の暑さが嘘のようだ。

 ジュンイチは暖かさが感じられる日にナオミを飲みに誘った。本屋で待ち合わせて居酒屋へ行く。市内に数店チェーン店のある安い店だが、間仕切りがあり、掘りごたつの造りで落ち着いた雰囲気だった。店のことや身の上をアルコールと共に面白おかしく話しているうちに閉店の3時を回っていた。
 勘定はナオミが払ってしまったのでジュンイチは送ることにした。ナオミのアパートはタクシーで10分ほどの住宅地にあり静かな所である。一緒にタクシーから降りてジュンイチがおやすみを言いかけるとナオミがさえぎった。
 「コーヒー飲んでいく?」
 「オーケー」
 ナオミはジュンイチの手を握り2階へと案内した。部屋が2つありジュンイチの六畳一間に比べると立派に見える。
 「広くていいね」と言うと一人なら十分だと言いお湯を沸かしに流しへ立った。女性の部屋は始めてだが、姉や妹の部屋から見れば質素でこじんまりとしていた。
 堅くなっているのか正座したままスイッチの入らないテレビを見ている。
 「ねぇ、泊まってもいい?」
コーヒーカップを両手で包むように持ちながらナオミの目を見ていった。ナオミは悪戯っぽく見返してきたが、なにも言わない。
 「ごちそうさま、もう遅いから」
 「私、奥で寝るからここでもいい?」
 「えっ」
 「変なことしないでね」
ジュンイチが迷っていると毛布を持って奥の部屋から戻ってきた。
 「これしかないけど」
 「いいよ、起きているから」
とは言ったが昨夜も明け方まで勉強し寝不足が続いていたから頭を床に付けたとたん眠ってしまった。

 物音がして目がさめると「おはよう」と声がした。あっと思って起き上がったが、この不思議に心落ち着くのはなんだろうと思った。一緒に暮らしている夢を見ているのも知らずナオミが話しかける。
 「ジュンイチ、疲れてるのね」
 「このごろ寝不足なんだ」
 「眠れないの」
 「勉強が面白くなってきたもんでさ、あっゴメーン、期待してたんだ」
 「バカね、ジュンイチとはそういう仲でないでしょう」
やんわりとかわされてしまった。
 ジュンイチの心に張りができたのもナオミのおかげである。今は勉強に集中する事がナオミを好きになるための条件だと考えたのである。

[6]

 11月に入るとチラチラと雪の舞う日が多くなり、ついに冬将軍の到来である。
 年末年始にかけて宴会が増え、金曜、土曜は予約でいっぱいになった。
 この繁忙期だけジュンイチは昼から店に入り調理器具の洗い物をし、手が空けば仕込を手伝い、開店すると料理の盛り付けも行う。数十人単位の宴会だが始まるのが同じような時間になるので各宴会の進み具合を確認しながら食器を並べるのも任された。

 このシフト変更は11月から翌年1月までの期間で、昼の12時から夜は23時までになる。受験を考えれば一番大切な時期だがジュンイチ一存で受験を取りやめた。親にはもちろんナオミにも話してなかった。
 勉強したくないとか、時間が取れないというのではなく、自分の将来をより鮮明に描き出したに違いない。

 ラストオーダーの22時になると厨房は一段落し食事の準備をするが、食器の洗い場は山のように重ねられ、ほとんどは翌朝まで水に浸けたままにされる。

 働いた後の遅い夕食だが、これが一番の楽しみだ。22時過ぎから23時までの間で食べるが、ホール係りの学生バイトも加わってスタッフは20名以上になり、まさに宴会そのものの騒がしさだ。
まかない料理は簡単なものが多いがこれに残り物が加わる。使い切れなかったもの(刺身などの生ものが多い)、キャンセルやオーダーミスで作りすぎたもの、それにお客が手をつけなかったもの等も並べられる。
調理長が料理の味が濃いとか、これはこうすれとか言う事があり、はじめは他人の作ったものに文句を言うなんてうるさい奴だと思ったが、この食事が料理の評価と味の確認の場であることを知らなかった。

 料理さんたちは自分の作ったまかない料理の評価が気になるらしい。まかないは持ち回りで作るが、他人に食べてもらえるのが嬉しいという。ジュンイチはそうとも知らずに毎日美味しくたべていた。
 料理人とは家に帰っても味や技を磨くのは当然だが、食べ歩きも必要で味を盗むのだという。それで料理人は遊び人とも言われるらしいが実際にも多いらしい。

 正月は受験取りやめの報告に帰省しようと考えたが、3日間しか無く、実家には帰らないと電話した。親も仕送りを減らした手前、暖かくなったら区切りをつけて帰れとのことだった。

 本当はナオミも帰らないと言っていたので、同じ札幌にいたいというのが本音らしい。

[7]

 寒さの厳しい1月末から2月に入ると、札幌は雪祭りでにぎやかになる。大通公園や真駒内会場の大雪像とススキノでは氷像が作られ、海外から沢山の観光客が訪れる。夜間照明に照らし出された大雪像群は迫力満点で幻想的な世界に踏み込んだようだ。ススキノの氷像はホテルの調理人の腕によるものだそうで、料理のみならず氷を削るノミまで熟練しているらしい。
祭の期間は店も忙しいと思っていたが、普段と変わりなく過ぎた。

 2月も末になりナオミが実家に帰るからと1週間ほど休みを取った。だが予定の1週間を過ぎてもナオミが店に出てこないので、トメばあちゃんに聞いたが知らないという。2週間ほど経った給料日にナオミは店に来て、給料を受け取ると帰りかけた。

青白い顔のナオミはジュンイチから視線をそらした。
 「ごめんなさい、改めて話すから」
 「どうしたの、顔色よくないよ」
 「・・・」
 「あす、アパートへ行くから」
不自然に思い、何度も繰り返し、うなずくのを確認して別れた。

 実家でなにかあったのだろうかと不安を抱えたまま、ナオミのアパートへ向かった。
見覚えのある階段を上がり部屋の前に立つと、表札が無い。呼び鈴を鳴らすが返事も無かった。
 『居なかったら大家さんに言っておくから』と言っていたのを思い出し、大家さんを訪ねた。

名前を告げると、うんうんとうなずいて手紙を取り出してきた。なぜ手紙なのかわからず、アパートの門で開いた。
ジュンイチにはビックリする内容だった。

 『店長とは家の方角が同じで車で送ってもらっていたが、たまにお酒を飲むようになり男女の関係になった。
そして子供が出来たと打明けると、店をやめろと言い、子供を下ろしたいと言うと、お前の勝手にしろ、餞別をやると言って20万円渡された。子供は札幌の病院で処置した。
とりあえず実家に戻りゆっくりしたい。』

 まだアパートに居るのだろうか。   
 大家さんのおばさんからは、入居時より親しくしていたので、ナオミから病院へ付き添ってほしいと頼まれ、事情を聞いてビックリしたこと、2、3日してから、店長が尋ねて来て子供を下ろしたことを知るとまたよりを戻そうとしたらしく、言い争っている所を踏み込んで店長を投げ飛ばしたこと、店長がまた来ると困るからナオミをかくまったが、体調を崩して床に就き、泣いてばかりいたこと、すでにきのう旭川へ帰ったことなどを教えてくれた。

 ナオミはジュンイチに嘘をついてこのアパートにいたことになる。実家へは帰っていなかった。

[8]

 ジュンイチは店長への怒りとナオミの悩みに気づいてやれなかったことが悔しく、情けなかった。

 どこをどうやって店に着いたのか、店長はレジで電話をしていたが終わると同時に店長のむなぐらをグイッとつかみ震える声で怒鳴った。
 「ばかやろう、よくもナオミさんをあんな目にあわせやがって、このやろう・・・」
あとは何を言ったのか覚えていない。むちゃくちゃに引きずり回し足でどついていた。店長は何か言っていたが耳に入らず、ジュンイチの左ストレートが顔面に炸裂し畳の上に倒れこんだ。
厨房の連中が騒ぎを聞いて飛び出し、ジュンイチを取り囲んだがそれは店長の反撃に備えるためだった。
鼻血を押さえながら起き上がった店長にきっぱりと告げた。
 「店を辞めさせてもらいます」

 調理長はススキノでバイトするなら紹介すると言ってくれたが、しばらくナオミのことを考えたいので、改めて来る事を約束した。

 それからはジュンイチにとって反省の日々となった。
知らぬ間に口をついて出てくる。
 「ナオミ、どうしたらいいのか言ってくれないか」
無言のナオミはジュンイチを見つめているだけ、それはもっと地に足のついた生活をせよと言っているようでもあり、私の苦しみはジュンイチにはわからないと拒絶しているようでもある。
ナオミの辛い現実を前にして、いったい自分は何をしているのか。ナオミの力になろうと思うが実際どうしたいのか。

 札幌に来て長い月日が経過したように感じたが下宿住まいは2年しか経っていなかった。来た当時は時間も余ったせいか北大の構内を春夏秋冬、毎日散歩がてら歩き回っていたものだ。
いま、約1年ぶりの北大は雪が積もって歩きにくいが、北13条門から入り工学部の前で立ち止まる。
ここが目標とした学部であったことも、ナオミにいい格好したくて勉強に励んでいたことも、そしてバカな店長に殴りかかったこともすべてはるか遠い事のように思われ、しばらく佇んでいた。

 大学をあきらめたことに後悔はしていない。それより自分の将来を考えるきっかけを与えてくれたのはナオミなのだ。ジュンイチは旭川へ行く決心をした。

[9]

 3月に入ったばかりの旭川はまだ一面の雪原が広がるが、幹線道路や繁華街からは雪は消えている。日差しの暖かさが春近しと告げていた。

 ナオミの話では実家は旭川郊外のたまねぎ農家で、以前は米を作っていたが変更したらしい。
旭川から2つ目の駅で降り駅員に名前を言ってみたが知らなかった。農協を尋ねるとこの近くだというので地図を書いてもらった。
しかし、歩けど歩けど、目印が現れない、さては車で来ていると思ったのだろう、かなり歩くことになりそうだ。
夕暮れ近くになってようやくたどり着いたが、顔を出したナオミを見て安心したのか疲れと空腹のせいか、その場に倒れてしまった。昨日からなにも食べていなかった。

 男手に支えられて部屋に運び込まれたが意識はすぐに戻った。事情を話すと親父さんらしい人がキョトンとした様子で「バカじゃないか」と笑いながら言った。
約30キロ歩いた計算になるらしい。3月とはいっても一日外にいるのは耐え難く身体は冷たくなっていた。ジュンイチも力なく笑い返した。
少し落ち着くと、まず風呂を勧められ、それからナオミの家族と従業員の夫婦2組の9人と一緒に夕食となった。
「一杯飲めや」とビールをご馳走になる。ジュンイチは空腹と疲れが一段落したのでおいとましようとすると、「また歩いて帰る気か」とみんなに笑われてしまった。またまた「飲めや」とすすめられるまま日本酒を飲んだ。
すっかり酔いが回り赤い顔でいると「部屋いっぱいあるから泊まってけ」というので、ありがたく泊めてもらうことにした。
 すでに一人で帰る元気は残っていなかった。

 ナオミに案内され部屋へ着くと、子供のことは話したのかと聞いた。母親にだけは話したと言って寂しい顔をした。ナオミは少し痩せたようだが血色はよさそうだ。
 「大変だったね」
 「来てくれてありがとう。電話してくれればよかったのに」
 「だって、番号わからないし、駅から近いと思ったから」
ナオミは照れながらも笑った。ジュンイチもこれで安心したのだろう。
 「店の方は辞めたんだ、ナオミがいないとつまらなくて」
ナオミはジュンイチの頭を小突いた。
 「どうするの、バイトするんでしょう」
ジュンイチは自分の傷も癒えてないのに他人の心配なんかと思いホロリとしたが、嬉しい反面こんなんだから騙されるんだぞと言いたかった。
 「ナオミ・・・、ぼくと一緒に暮らさないか」
 「えっ」

 翌朝、昨夜の話はごめんなさいと頭を下げにきた。
ジュンイチは心から好きになっていたし、ナオミと一緒ならどんな苦労をしてもいい、二人で力をあわせて幸せを築きたい、と話した。今のジュンイチにはこういう言い方しかできないが、気持ちはよくわかった。

[10]

 昨年の11月以来、ジュンイチの気持ちはすでに決まっていて、公務員になるのは親の考えで、これといってやりたいものが見つからず従ってきたのだが、それは寿司職人である。
生まれてはじめて一生の目標ができた。

 真心込めて握った寿司をお客さんに食べてもらいたい。満足する顔を見たい。その気持ちが心の底から突き上げてきて喜びとなり、ジュンイチを興奮させた。
 バイト先の厨房で彼ら調理人の仕事に触れ、精一杯努力する事のすがすがしさ、裏方に徹する事の潔さと料理に対する心意気がジュンイチの気持ちと共鳴したに違いない。

 ナオミには断られたが「時間がかかっていいなら考えてみる」と言ってくれた。これってまだ可能性が残っていることだから。
以前であれば自暴自棄になるのだが今はしっかりと前を見据えている。
ジュンイチは自分の足で歩き始めたのである。

 調理長に住み込みの寿司屋を紹介して欲しいと頼みに行った。調理長はとても喜んでくれ、一肌脱ぐと言ってくれた。他の料理さんからも「食べに行くから安くしろよ」「何かあったら相談に来い」「休みはバイトに来いよ」「たまに飲むべ」「遊びに行くぞ」と励ましてくれた。長い付き合いになりそうだ。

 今のジュンイチにとって飾らない言葉が胸に響いてくる。これが人との和なのだと感じ嬉しかった。

[11]

 寿司屋での修行は早くも1年が過ぎ、今は住み込みからアパート暮らしになっていた。出前持ちから始まって、いまだ包丁を握らせてもらえないが、休みの日には以前のバイト先の居酒屋で仕込みの手伝いなどで腕を磨かせてもらい、ちゃっかり食事までご馳走になるといった按配である。

 ナオミには毎月状況報告をしてきたが、あまり返事は返ってこなかった。
そろそろあきらめようかと考えていたら、ナオミから電話があり札幌に出るので会いたいと言ってきた。

 ゴールデンウイークで花見やジンギスカンの時季だが、このところ肌寒い日が続き桜も3部咲きの状態で止まっている。

 待ち合わせの日は久しぶりに朝から暖かくウキウキするような陽気で、大通4丁目の噴水のそばで会うのは好都合だった。
 待ち合わせの時間より早く着くと噴水のそばにナオミが立っている。彼女は淡い鶯色のスプリングコート姿で髪が揺れていた。懐かしくて心が踊り近づこうとしたらナオミがそばの男と話している様子だ、フィアンセに見えた。
言葉では納得してもらえないと考えたのか、それとも2人の用事で札幌に出たついでにジュンイチとの仲をはっきりさせようというのか。
一瞬会わずに帰ろうと足を止めたが、おめでとうを言うつもりで近づくとナオミがジュンイチに気づき小走りに近づいてきた。話しかけようとするとナオミは唇に指を押し当て首を振った。

 「ジュンイチ、長い間待たせてごめんなさい。怒られても仕方が無いけど、ショックから立ち直るのに時間が必要だったの。こんなバカな女だから。
私ね、母に相談したの、母は
 
『人間生きている限り傷つくもんよ、恐れてはダメ
  傷ついても自分に素直になって、幸せをつかむのよ
  父さんも母さんも寿司好きよ』
って言ってくれたの。
私もジュンイチがいないとつまらない、会いたかった」

 言い終わらぬうちにナオミはジュンイチの首に抱きついてきた。ジュンイチは驚いた、彼はフィアンセでなかったのか。
 「いいのか」
 「もちろんよ、離さないで」

 あまりにも大胆な振舞に周りの人々がロケと勘違いして、カメラを探しながら通り過ぎる。
 
「ナオミ」と男の声がしてナオミと一緒にいた男がそばに立っている。ナオミが目頭を押さえながら言った。
 「ビックリしたでしょう、東京の兄なの、会ってほしくて」

 これで札幌の桜も満開になるに違いない。

-- おわり --