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3月に入ったばかりの旭川はまだ一面の雪原が広がるが、幹線道路や繁華街からは雪は消えている。日差しの暖かさが春近しと告げていた。
ナオミの話では実家は旭川郊外のたまねぎ農家で、以前は米を作っていたが変更したらしい。
旭川から2つ目の駅で降り駅員に名前を言ってみたが知らなかった。農協を尋ねるとこの近くだというので地図を書いてもらった。
しかし、歩けど歩けど、目印が現れない、さては車で来ていると思ったのだろう、かなり歩くことになりそうだ。
夕暮れ近くになってようやくたどり着いたが、顔を出したナオミを見て安心したのか疲れと空腹のせいか、その場に倒れてしまった。昨日からなにも食べていなかった。
男手に支えられて部屋に運び込まれたが意識はすぐに戻った。事情を話すと親父さんらしい人がキョトンとした様子で「バカじゃないか」と笑いながら言った。
約30キロ歩いた計算になるらしい。3月とはいっても一日外にいるのは耐え難く身体は冷たくなっていた。ジュンイチも力なく笑い返した。
少し落ち着くと、まず風呂を勧められ、それからナオミの家族と従業員の夫婦2組の9人と一緒に夕食となった。
「一杯飲めや」とビールをご馳走になる。ジュンイチは空腹と疲れが一段落したのでおいとましようとすると、「また歩いて帰る気か」とみんなに笑われてしまった。またまた「飲めや」とすすめられるまま日本酒を飲んだ。
すっかり酔いが回り赤い顔でいると「部屋いっぱいあるから泊まってけ」というので、ありがたく泊めてもらうことにした。
すでに一人で帰る元気は残っていなかった。
ナオミに案内され部屋へ着くと、子供のことは話したのかと聞いた。母親にだけは話したと言って寂しい顔をした。ナオミは少し痩せたようだが血色はよさそうだ。
「大変だったね」
「来てくれてありがとう。電話してくれればよかったのに」
「だって、番号わからないし、駅から近いと思ったから」
ナオミは照れながらも笑った。ジュンイチもこれで安心したのだろう。
「店の方は辞めたんだ、ナオミがいないとつまらなくて」
ナオミはジュンイチの頭を小突いた。
「どうするの、バイトするんでしょう」
ジュンイチは自分の傷も癒えてないのに他人の心配なんかと思いホロリとしたが、嬉しい反面こんなんだから騙されるんだぞと言いたかった。
「ナオミ・・・、ぼくと一緒に暮らさないか」
「えっ」
翌朝、昨夜の話はごめんなさいと頭を下げにきた。
ジュンイチは心から好きになっていたし、ナオミと一緒ならどんな苦労をしてもいい、二人で力をあわせて幸せを築きたい、と話した。今のジュンイチにはこういう言い方しかできないが、気持ちはよくわかった。
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昨年の11月以来、ジュンイチの気持ちはすでに決まっていて、公務員になるのは親の考えで、これといってやりたいものが見つからず従ってきたのだが、それは寿司職人である。
生まれてはじめて一生の目標ができた。
真心込めて握った寿司をお客さんに食べてもらいたい。満足する顔を見たい。その気持ちが心の底から突き上げてきて喜びとなり、ジュンイチを興奮させた。
バイト先の厨房で彼ら調理人の仕事に触れ、精一杯努力する事のすがすがしさ、裏方に徹する事の潔さと料理に対する心意気がジュンイチの気持ちと共鳴したに違いない。
ナオミには断られたが「時間がかかっていいなら考えてみる」と言ってくれた。これってまだ可能性が残っていることだから。
以前であれば自暴自棄になるのだが今はしっかりと前を見据えている。
ジュンイチは自分の足で歩き始めたのである。
調理長に住み込みの寿司屋を紹介して欲しいと頼みに行った。調理長はとても喜んでくれ、一肌脱ぐと言ってくれた。他の料理さんからも「食べに行くから安くしろよ」「何かあったら相談に来い」「休みはバイトに来いよ」「たまに飲むべ」「遊びに行くぞ」と励ましてくれた。長い付き合いになりそうだ。
今のジュンイチにとって飾らない言葉が胸に響いてくる。これが人との和なのだと感じ嬉しかった。
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寿司屋での修行は早くも1年が過ぎ、今は住み込みからアパート暮らしになっていた。出前持ちから始まって、いまだ包丁を握らせてもらえないが、休みの日には以前のバイト先の居酒屋で仕込みの手伝いなどで腕を磨かせてもらい、ちゃっかり食事までご馳走になるといった按配である。
ナオミには毎月状況報告をしてきたが、あまり返事は返ってこなかった。
そろそろあきらめようかと考えていたら、ナオミから電話があり札幌に出るので会いたいと言ってきた。
ゴールデンウイークで花見やジンギスカンの時季だが、このところ肌寒い日が続き桜も3部咲きの状態で止まっている。
待ち合わせの日は久しぶりに朝から暖かくウキウキするような陽気で、大通4丁目の噴水のそばで会うのは好都合だった。
待ち合わせの時間より早く着くと噴水のそばにナオミが立っている。彼女は淡い鶯色のスプリングコート姿で髪が揺れていた。懐かしくて心が踊り近づこうとしたらナオミがそばの男と話している様子だ、フィアンセに見えた。
言葉では納得してもらえないと考えたのか、それとも2人の用事で札幌に出たついでにジュンイチとの仲をはっきりさせようというのか。
一瞬会わずに帰ろうと足を止めたが、おめでとうを言うつもりで近づくとナオミがジュンイチに気づき小走りに近づいてきた。話しかけようとするとナオミは唇に指を押し当て首を振った。
「ジュンイチ、長い間待たせてごめんなさい。怒られても仕方が無いけど、ショックから立ち直るのに時間が必要だったの。こんなバカな女だから。
私ね、母に相談したの、母は
『人間生きている限り傷つくもんよ、恐れてはダメ
傷ついても自分に素直になって、幸せをつかむのよ
父さんも母さんも寿司好きよ』
って言ってくれたの。
私もジュンイチがいないとつまらない、会いたかった」
言い終わらぬうちにナオミはジュンイチの首に抱きついてきた。ジュンイチは驚いた、彼はフィアンセでなかったのか。
「いいのか」
「もちろんよ、離さないで」
あまりにも大胆な振舞に周りの人々がロケと勘違いして、カメラを探しながら通り過ぎる。
「ナオミ」と男の声がしてナオミと一緒にいた男がそばに立っている。ナオミが目頭を押さえながら言った。
「ビックリしたでしょう、東京の兄なの、会ってほしくて」
これで札幌の桜も満開になるに違いない。
-- おわり --