Mt.Rainier,4392m,はSeattleやTacoma辺りから良く見える綺麗な山だ。頂上は万年雪で、丼を逆さにした様な,どっしりと落ち着いた佇まいを持っている。富士山の様に独立単独峰の様に見えるが、カナダからカリフォルニアにかけて太平洋沿岸200キロ辺りに連なるCascade山系の一峰である。山系の他の山はそれ程高くないので、この山は郡を抜き、立派に見える。アメリカは大きく、山と聞けばロッキー山脈を思い出すが、ロッキーの東にはCascadeやBlue Mountains、更にBitterrootといった3本の山脈が広がっているのだ。これらの南にはSierra Nevadaの山並みが広がる。Rockyを中心とした山岳地帯は我々の想像を超えるほど広大なのだ。
然し、意外な事に連続する49州の最高峰はRockyには無い。Sierra Neva―daのMt.Whitney(4421m)で、登ろうとしているMt.Rainierは2番目に高い山で29メートル程低いだけだ。Mt.Whitneyは緯度的にはズット南で雪は少ないが、山容は険しく、登頂には別の難しさがあろうが、素人でも登れる山のようである。
山は眺めるだけで上らない人の方が多いであろう。登るきっかけは色々あろう。綺麗な山だから行って見たい。知り合いが登ったので俺も行きたい。只此れだけでは今まで登ったことの無い程高い外国の山に登るのは冒険に過ぎる。モット現実的な手立てが必要なのだ。
幸いにも僕の場合、昨年5月Tenzing−Hillary Everest Marathonに参加した時、格好の手立てが見つかった。
Seattle近郊からは2人の参加者があった。GaryはMarathonは走らず、終始歩き写真を撮っていた男であり、Jeffは走った。2週間に及ぶTrekkingやレースの内には色々な情報交換が出来るものである。Garyは根っからの山屋でMt.Rainierには1960年から61回登っているという。彼はSweden系の2世で、この7月に一族3世代でMt.Rainierに上る計画を話してくれた。総勢18名、既に6回登っているJeffも参加するという。GaryとJeffはTacomaの名門高校の同窓生で、Garyはもう退職しているが、Boeingで747等の構造設計をした男で、Jeffはまだ現役の歯科医だ。この機会を逃すのは大馬鹿であろう。同行の依頼をすると、大歓迎だと色々事前の情報を流して呉れた。日本から持っていく最低の装備、現地で共用させて貰える物、天候、ザイルやピッケルの使い方等の情報である。
登山は大きく天候の影響を受ける。Tacomaには17日に着き、Johnの家に泊まっていたが、登山決行日が20日と決まり、昼頃Jeffが迎えに来る。Garyの家に立ち寄り、最後の装備点検を済ませ、Jeff,Garyの弟のGrenとその息子のMichaelの4人で登山口に向かう。後の15人は1日遅れて出発するが、山頂には我々と同じ23日に達する計画なのだ。僕の高度順化の為1日余分な日程を組んでくれた事に感謝する。
Mt.Rainierは巨大な山で上り口は幾つかある。途中何回か車を止め、数年前の大水害の爪跡も見る。我々が着いた登山口は山頂の真南のParadiseと言い、最も一般的なルートなのであろう。高度は約1650mだ。Mt.Rainierは海辺に近く正味の登りは大きい。登山口から頂上までは3000mに近い登りとなる。
此処が樹林帯の限界で、可也大きな針葉樹が生えている。小さな木は雪の重みで、異常な曲がりが起っており、それでも天を目指そうとしている。
円形の大きな建物がある。Henry.M.Jackson Memorial Visi―tor Centerである。立派な近代建築であるが、古くなり維持が困難となったため、現在新たなVisitor Centerを建設中である。
Paradise Innと言う立派な木造4階建ての宿に泊まる。受付で給水系統が故障で水は何時出るが分からないが、それでも言いかと念を押される。野宿も出来るが、泊まる気で来て居るのでその意向を伝え部屋に納まる。入り口左手にある食堂は大きく立派で、テーブルクロスやナップキンも上等だが、食事は調理した物は全く出せないと言われる。おまけとして、出来合いのサンドイッチであれば只でいいと言う。腹に溜まる物では無かったがよしとする他無い。
水が出なくて困るのは食事だけではない。モット困る事があるのだ。体の中に既に入っている物は一定時間内に必ず出てくる。入れることは随意に出来るが、出す方となるとそうは行かない。100人余り泊まっている宿では奇妙な行動が起こる。人々が、手に手に部屋にあるプラスチック製のゴミ箱を持って、雪解け水の収拾に彼方此方動きまわっているのだ。
集めた水で水洗便所を使おうと言うわけだ。此れとて貯められる水は限りがあり、間に合わない場合は宿の外の茂みで用を足すしかない。幸い夜中を過ぎた頃、水は出るようになった。
4時に起きて、6時には出発である。陽が上ると、雪面上の気温は照り返しで、想像以上に暑くなるから、早めに出かけるのが良いのだ。部屋の中で、お湯を沸かし、そこそこの朝飯を済ませ、用便も無事済ませ登りだす。僕の背負っている物は、寝袋、マット、衣類、食料、水1リットル、2人用テントなどである。液体燃料、調理器具、ザイルなどは他のメンバーが分担している。アイゼンやピッケルなどは未だ各自が背負っている。
今年は雪が深く、宿の周りは雪が沢山あり、登山道に入っても圧雪状態が続く。所々、雪の消えている所があり、幅2メートル弱の古い凸凹の舗装道であることが分かる。再凍結した雪を踏みしめながら、ユックリと上っていく。雪の解けている岩肌にしがみ付くように、小さな高山植物の生えているのが分かる。小さな花を付けているものもあるが、大半はまだ蕾だ。登りだして30分も歩くと、Nisqually氷河の上を歩いている筈だ。Mt.Rainierはアラスカを除くアメリカの山の中では最大の氷河面積を有する山だ。勿論氷河その物の上を歩いている訳ではない。その上に積った雪とその上に吹き飛ばされた極薄い土の層の上を歩いていることなる。薄青の神秘的な色をした氷河はその何メートルか下にある訳だ。
陽は既に昇っており、前方右手のから巨大な雪の斜面が照らしている。壮大で荘厳な景色だ。左前方には白一色の斜面に判別し難いが、白い流れがある。可也大きな滝の様だ。天気はほぼ快晴で、振り向くと登山口の建物郡も見え、その向こうには綺麗な山並みが見える。
雪面は完全に真っ白では無いが、それでも照り返しは相当の物で、半袖半ズボンで登っていても、沢山の汗をかく。高度2000メートルの雪原でこの様な暑さを経験するのは初めてだ。話しには聞いていたが、雪の上は寒い物だという固定観念は中々消えない。この払拭には実体験しかないように思う。Jeff,小生、Michael,Grenの順の縦隊で登っているが、時折皆で立ち止まり、水を飲む。Michaelは異常な紫外線恐怖症で、露出部にはタップリと紫外線除けを塗った上、鼻や頬にはサングラスにテープで取り付けた紙で更に用心を期している。
登って行くと大の気配が出てきた。出物腫れ物、所構ずだ。皆に訳を話し、雪の窪みで用を足す。昨夜の登山口にはこの為の袋が用意されていた。一式持ってきており、それを使う。袋は2枚あり、若干剛性のあるプラスチック袋を片手で持ちその中に落とし込むよう使う様だ。柔らかい袋であれば、両手が必要であり、何かと不便であるからであろう。旨い事落とし込んで、透明であるので、内容物を確認して、用意された紐で括り、もう一つの青色の袋に入れ、リュックのポケットに入れる。自分の排泄物を持ち運ぶのは生まれて初めてだが、これも環境維持の為とあれば致し方ないであろう。
急いで後を追い、このルート最初にして最後の水場に辿り着く。出発してから2時間半程経っている。陽の当たる南斜面のガレ場を小さな流れが複数あり、場所を選んで渡る。情景に相応しいPebble Creekである。仲間や何人かの人が此処で休んでいる。美味しい自然水を十分飲み、水の補充をする。水は此の先無い。必要な水は雪を溶かして造る事になる。
其処から更に2時間主として雪面を歩き、時には剥き出しの岩肌やガレ場を通ってMuirのCamp地に向かう。大量の汗をかきながら、黙々と登る。右手に折れ、氷河を離れMuir雪原に出る。右手全方に建物が見えてくるが、中々近付か無い。傾斜はきつくないが、シャーベト状になった雪面は歩き難い。然し11時前には漸く建物の立つ岩肌に辿り着き、その裏側の雪面にテントを張る事ができた。
Camp場はCowlitz氷河上にあり、西側はCowlitz Cleaverと呼ばれる岩石の尾根である。南側は小屋郡が立っている5メートルほど屏風状の岩である。東側は氷河の向こうに更に別の尾根、Cathedoral Rocksが1キロほど先に見え、山頂方向に延びている。尾根には殆ど雪は無く岩肌がむき出しになっている。Camp場は風を避けるのに適した場所のようだ。
今日の行程は7キロ余り、正味の登りは1500メートル弱、3105メートル地点に達した。それでも若干の頭痛がする。
雪を溶かして食事を作る。Gren親子は菜食主義者で、穀類、ナッツ、果物等を沢山持って来ており、分けて呉れる。ナッツや生の果物は大歓迎だ。僕の持っていた物は全て乾物、ビーフジャーキーもTacomaで買って持って行った。Jeffも色々必要以上に持って来ており、美味しいお食事と言うわけには行かないが、餌と飯の中間位の物は山行中ありつける事になる。
日が暮れるまでは周りをウロウロし写真を撮ったりする。周りには100程のテントがあるようだ。台所を兼ねた石造りの小屋が2棟あり、此処にも宿泊が可能だ。合計40名位は泊まれるようだ。皆目刺し状になって上下2段の床に寝るわけだ。台所を兼ねた建物で、その騒音もあり、テントを用意できればそれに越した事はなかろう。便所も4ー5箇所あり、簡易処理をして居る。水は無いが、手は滅菌ジェリーで消毒する事が出来る。傍には小さな蓋の付いたドラム缶が置いてあり、青色袋投入と書いてある。僕の袋の使い方は正しかったようである。
Camp場では色々な活動がある。テントを張る人、撤収する人、上から降りてくる人、登りだす人、ガイドに従がいザイルに連なって雪面での靴底の着雪除去の練習する人、食事をする人、寝ている人、各々のパーテーの予定に沿った異なる行動をしている。皆会うと気さくに声を掛けてくれ、ルート上の注意点などを話してくれる。皆山の仲間なのだ。
Jeffと僕のテントは雪面に張ってあるが、Gren親子はテントを雪面から移動し、小屋の裏側のガレ場に張り替える。雪面よりは幾らか暖かいだろうと言う考えからだ。雪面よりは5メートルほど高い岩場の上からは、前面の山々が良く見える。何回も登っているのであろうか、Grenが山の名前を教えてくれる。左手斜め前方の富士山に似た山はMt.Adams(3742m).ほぼ中央にはMt.Hood(3427m,Oregon州)その右に見えるのはSt.Hellens(2550m)だという。St.Hellensは火口を此方に向けて立っている。1980年に大爆発をした山で、その時頂部が400メートルほど吹き飛び、火口の底は更に800メートル下になる。頂部と火口の岩石、更に噴出した火山灰等は夥しい量であったことが想像できる。後で調べて分かった事だが、爆発の前、この山はアメリカの富士と呼ばれていた美しい形の山であったのだ。
右手の複雑な岩石層を見て、ユックリと時の流れを楽しむ。やがて太陽は尾根の影に隠れる。周りにはまだまだ陽の当たっている所が沢山あるが、窪地のCamp上の日暮れは早い。寒くなり風も出てくる。やる事も無いので、明るい内に寝袋に入り込む。星は夜中に起きて見る事にする。
テントのバタバタする音で、目を覚ます。厚手のダウンパーカーを着て外にでる。空は晴れており、満天の星が見える。天には多少近い位置におり、何時もより星は大きく、また多い様に思える。流れ星も幾つか見える。雪の上に寝転んで天を仰ぐのもいいものだ。寒さを忘れて、暫し見とれる。起き上がって下方を見ると町の明かりも良く見える。
風はその後ますます強くなり、テントと一体となっているグランドシートを持ち上げる程になった。枕の下から突き上げられ、何回も目が覚める。明日は楽な行程なので別に気にする事は無い。
7月22日:朝方には風も治まり、上空には真っ青な空が広がる。上々の登山日和だ。只下方には雲海が漂い、高い山の頂しか見えない。
今日の行程は約2キロ先のIngraham氷河にあるIngraham Flatまでだ。正面に見える尾根の直ぐ裏側だそうだ。高度も200メートル程しか登らない。高度順化には僅かでも登って高度に慣れて置くと良いと言う。山頂で最高の気分が味わえるよう、ゆとりのある日程にして頂いた事に感謝にする。昨日経験した若干の頭痛も朝にはすっかり消えており、気分は爽快と成っている。
ゆとりある高度順化の日なので、10時ごろにテントを撤収し、アイゼンを付け、ザイルに連なり、ピッケルを持って登りだす。この先は氷河のクレバスがあり、ここに落ちた場合の安全対策として万全の方法を取る必要がある。命は粗末にする訳には行かないのだ。 岩石の落下対策として皆ヘルメットを着用している。僕は自分の自転車用のヘルメットを着用した。此れでも無いよりは増しであろう。
谷側の手にザイル、山側の手にピッケルを持って、小さなピンクの標識に沿った細い雪道を登ってゆく。道は非常に狭く、幅方向にも相当な傾斜があり、雪の硬さも一様では無いので、歩き難い。半袖半ズボンの格好で汗をかきながら、皆のペースに合わせながら本当にユックリと登ってゆく。
途中2−3のクレバスを横切る。どれも飛び越えられる幅であった。ただルート上からは沢山の大きなクレバスが見られ、写真を撮る。クレバスの形状は一様では無い。氷河の厚さ、その斜度、亀裂が起こった時点などの要素により、その幅深さ等が異なるのであろう。 狭いクレバスは前年の雪に覆われ見えないものもある。狭く圧雪の強度が十分あれば、落ち込む事は無いが、雪の解け方によっては落ち込む危険性はある。登山道は出来る限り、危険の少ない所を選んであるようだが、横方向にも十分気を付け、クレバスが走っていないかを確認することは必要だ。道の2−3メートル横には可也のクレバスが口を開けているが、道は雪で覆われ、何の心配も無く通過出来る所もある。然し、雪が更に解けると、飛び越えたり、更に迂回したりしなければならない。行き逢う山仲間達はルート上の即近の情報を交換し合いすれ違うことが多い。
Camp地の手前には傾斜のキツイガレ場があり用心しながら登る。出発から途中は立ち止まって2−3度水を飲み、写真を撮っただけで、昼過ぎにはCamp地に着いた。
此処は何にも無い雪原である。20張りほどのテントが既にある。Camp地からは左に山頂と正対して鋭い岩石の三角峰が間近に見える。Little Tahoma Peak(3395m)である。この3点を結ぶ線は東西にほぼ一直線だ。山頂は岩石の尾根に挟まれた真ん中に白いドームの様に見えている。
三角峰の左手の氷河上に立つ巨大は雪の立方体の群れある。重力の影響で降り積もった雪は時の経つにつれ、割れて巨大な建物状となっている。此れらの群れが下方に異なった傾斜で立っているのを見たのは始めてである。いつかは巨大な崩落が起こるに違いない。又沢山のクレバスが走っている。氷の重みと重力との兼ね合いで出来た裂け目がクレバスだ。深いものでは何十メートルもあるようだ。その薄青の割れ目は神秘的で不気味だ。
テントはピッケルで雪を均せば何処にでも張れる。昨日の強風に懲り、時間を掛け、支持杭をしっかり打ち込み、より丁寧にテントを張る。水は周りの雪を堀り、大きな黒いゴミ袋に広げ、太陽熱で液化してから沸騰させて使う。
雪の表面は風化砂礫で汚れているが、一皮剥くと純白な雪が出てくる。ただこの雪水は衛生上問題ではなかろうかとの疑問は残る。広い雪面テントは何処でも張れるが、人間何故か同じ所に集まりたがり、テントの設営地は極限られた範囲となっている。便所は無いので、小などはテントの極傍で済ますことが多い。大も皆無ではなかろう。沸騰雪水は本当に安全なのであろうか?3000メートルを超えた地点の水の沸点は90度を下回る。滅菌は万全とは言えない。只他に方法が無いので、心配してもしょうがない。障害が出たらその時対処することにする。
降りて来た人によると、登りは強い逆風が終始吹いて困難を極めたと言う。Muirの
Camp地でも酷い風であったので、登攀は大変であったことが想像できる。
今日の日程は消化しているので、勝手に歩き回り写真を撮る。今朝からの穏やかな天気は続いて居り、写真を撮るには好条件だ。最近人から何処の空が一番青かったと聴かれて、戸惑った事を思い出す。此処の空も屈指の青さだからだ。
夕食を済ませ早く寝ようと思うが、寝付けない。明日は零時半起床、2時出発だ。早く起きなければとか、後何時間しか眠れないとか考えると、尚更寝つきは悪くなるようだ。何回も外に出て、空を仰ぐ。とうとう殆ど寝ないで、起き上がる事になる。この様なことは初めてではない。最近のゴビのレースでの最長区間の前夜もそうであった。人間は機械では無いのだ。
23日;
登頂し、Paradiseに戻り、Tacomaまで引き返す日だ。最も行動時間が長く、運動量も多い日だ。Garyの率いる本体15名も、昨日午前中Paradiseを立ち、Muirに着き、一睡の後今頃はMuirから山頂への行動を開始している筈だ。山頂までは約2キロ、高低差は1000メートル強だ。朝日の出る頃には着ける筈だ。
眠り付いて居ないのだから、寝過ごす事は無い。真夜中に朝食をソソクサと済ませ、2時には出発の準備が出来る。テントや寝袋などはここに残し、登頂に必要な水、食料、衣類などを持っていくだけなので、荷物は随分軽い。実際リュックを背負っているのはJeffとMicha―elだけだ。僕の30LのリュックはMichaelが背負っており、その中には僕の分としては水1Lが入っているだけだ。衣類は寒いので全部着込んで出発し、暑くなれば、Micha―elと交代でリュックを背負う予定だ。
身に着けているのは長タイツ、軽いダウンズボン、その上に防風防水ズボン、上は長袖のT−shirt,軽ダウンジャケット、と防風防水着だ。予備の食料はパウチに入れ、水は半リッターのボトルを上着のポケットに入れてある。
ロープに身を繋いでJeffの後に付いてユックリと歩き出す。途中腰を降ろして休む事無しに登るので、ユックリと登るのだという。只何かの理由で止まることが必要な場合は声を掛け合い、全員で止まる事にしている。お互いのロープの間隔を常時均等に保ち、余りたるませる事が無いように、全員等速で登る取り決めである。全員の速度は先頭のJeffが通常決めるが、最終的には一番弱い者の速度に成らざるを得ない。Jeffはリュックを背負い、良いペースで登っていく。殿はGrenであるが、彼は荷物を持っていない。
上弦の半月が真上にあり暗くはないが、Headlampを付け、再凍結した雪を踏みしめながら、登っていく。風は殆ど無く、条件は最高だ。足元を確かめながら登るが、余裕のある時は周りの岩肌や山頂に連なる白い広がりも見ることが出来る。先に出発した2−3のパーテーの明かりの列も見ることが出来る。その上は満天の星空だ。暗くて写真を撮るわけには行かない。下る時は明るくなって居り、撮る機会は十分ある筈だ。
可也厚着をしているが、汗をかく事も無い。相当寒いようだ。足は厚手の化繊と毛の混紡靴下の上に厚手の毛糸の靴下を履いているが、爪先の感覚が無くなるほど冷たい。手は毛糸の手袋の上に、防寒防水手袋をはめているが、矢張り冷たい。髭に結氷が付いてきた事も分かる。後で分かった事であるが、鼻の穴を別けている中間壁の外部先端は軽い凍傷に掛かっていた。顔面を覆う必要があったのだ。
時としてヤット飛び越える事の出来るクレバスを通過す。登り傾斜がキツイ大きなクレバスでは先行の者が、ピッケルを雪面に出来るだけ深く刺し、ザイルを巻いて、後から続く者の安全に努める。山行中現実に事故の危険性は感じなかったが、万全を期したに越した事は無い。Mt.Rainierは傾斜も緩やかで、技術的に難しい山ではないが、途中には岩にロープや金具が用意されて場所もあり、登山者はこれ等も利用して上り下りする。
傾斜のキツイ雪面はジズザグに登って行く。向こうではこれをSwitchbackと言っている。行きつ戻りつと言う意味だ。ザイルの張力を一定に保つ事の難しい場所だ。巻き取ったり緩めたりを繰り返しながら進む。こうして徐々に高度を上げていく。大半は雪面の移動で、難所と言えばクレバスであろう。
夜も白みだす頃、急なガレ場に差し掛かる。落石に注意しながら、又お互いの間隔を保ちながら、慎重に登る。ガレ場は可也続き、息が上がる。ガレ場を過ぎ再び雪原に出る頃、雲海の彼方から陽が登りだす。太陽が下に見える、珍しい光景だ。立ち止まって写真を撮る。
もう頂上は近い。雪面を下って、又登れば頂上だ。雪面は先ほど登ったガレ場の陰になっているが、その向こうの山頂には朝日が射している。荘厳にして雄大な景観だ。
陰になっている雪面を通り過ぎる。左前方に自分の長い影を見ながら、山頂を目指す。山頂は直径500メートル程のクレーターとなって居り、そのほぼ真西の淵が最高点、Columbia Crest(4392m)である。
山頂に辿り着き、皆で喜び合い、写真を撮り合う。一息入れてポケットの水を飲もうとするが、ボトルの蓋は開かない。水は完全に氷になっている。途中の気温は余ほど寒かったようだ。 Michaelに預かって貰っている、水タンクの水を飲んで事無きを得る。
頂上よりは360度のパノラマが広がる。GrenやJeffが見える山の名前を教えてくれる。ほぼ真北に見えるのはMt.Baker(3285m)でCanadaとの国境に近い山だと言う。南には左側にMt.Adams右にSt.Hellensが朝日を浴びて立っている。そのほぼ中間真南の方に一直線に山頂が連なる。Mt.Hoodを初めとするThree Sisters等の山で何れも3000メートル超えるものだ。それ以外の峰は雲海の下にあり、全く見えない。暫く回りの山々を見た後、下山を開始する。寒くて長居は出来ない。
暫く下り、ガレ場に指し掛かると、来る時は分からなかったが、地べたから湯気が立ち上っている所が何箇所かある。地熱の高い所で、若干の水蒸気が立ち上り、結露状態になったものが見える訳だ。 傾斜はキツイが、その傍に行って暖を取りながら暫し休憩する。朝日を眺めながら、持って来たスナック類を食べ、水を飲む。丁度朝飯の時間となっている。
ガレ場を慎重に降りて行く。下りの方が怪我の確立は高い。明るくなっているのは何よりだ。雪面を下りだし、補助具の付いたクレバスに着く。下りであり、良く見えるので、来た時より、恐怖心は大きい。皆で助け合い、時間を掛けて、無事通過する。
先に山頂に達し、ユックリと下山しているパーテーを追い抜いたり、後から来るパーテーとすれ違いながら、降りて行く。Gary達の本体が登って来るのにも出会う。暫し休み、写真を撮ったりする。
下りは特にザイルの張りに気を着ける必要がある。後ろの人が早く降りすぎると、ザイルは雪面を滑り居り、前の人がアイゼンで踏みつけ、ザイルを傷つけるからである。急ぐ事は無いので、めぼしい所では立ち止まり、写真も撮る。
用心をしながら降り、今朝の出発点Ingraham Flatには9時頃到着する。お湯を沸かし、暖かい物を食べて、テントを撤収する。荷物を分担して、再び、下山開始である。
此れより下は危険な箇所は余り無いので、ザイルやアイゼンも荷物に入れる。後は各自のペースで下山するように決める。僕より6歳若いJeffは元気で、サッサと行ってしまう。 Gren親子も先に立って行った。危険が無ければ、自分のペースで歩くの方が、お互いに疲れは少ない。
僕も彼らの後を追う。雪は溶け出しおる、シャーベット状で滑りやすい。用心しながら、 Muirに着く。先に出ていた3人が休んで居たが、僕の休んで居る間に、又先に行ってしまった。
Muirからはなだらかで広大な雪原が広がる。登山ルートは小さな旗で印がついているが、方向さえ間違えなければ、何処でも歩ける。雪面には何条かの滑って下りるルートもある。其方の方に行ってみる。Garyが勧めて呉れた融雪用の黒いゴミ袋は橇の代わりになると言うのだ。試して滑ってみると、粒粒の雪で袋は直ぐに穴が空いてしまい使い物にならない。正規の登山ルートからは相当離れた所に来てしまって居り、戻るのに一苦労する。
雪面は解け方が一様でなく、不規則に凸凹しており、歩き難い。何回も尻餅を付きながら,やっと戻る事が出来た。然し、ここも雪は解けており、足を取られる。ユックリと転ばないように降りていくしかない。
水場のPebble Creekに着くと、Gren親子を始め上り下りの多くの人たちが休んで居た。Jeffの姿が見かけなかった。水を呑んで、暫く休む。2日間の間にこの辺りの雪は大分解け、露出している地面の面積も随分増えた。此処までは良く手入れされた、登山道が整備されている事も確認できた。雪の下であればどうなっているか分からない道だ。
此処からも雪道は多いが、来た時と比べると遥かに地面が多くなっている。暫く降りて行くとお花畑も広がるようになる。短い間に随分と様相は変わるものだ。幾種類もの小さな花が咲いており、非常に綺麗だ。臭いも何とも言え無い程良い。
樹林帯の針葉樹も見られ、もう登山口までは遠くない。何と無く山を離れ難い思いに駆られる。全てのものには終わりがあり、それでいいのだと思う。
Paradise Innからの散策に来ている家族の姿も多く行き交うように成る。散策コースがあるのだ。そうこうしている内に大きな建物が見え、駐車場に辿り着く。
Jeffの車を探すと、先に着いた連中がシャワーに行く所であった。僕もシャワーに行こうと思って、用意していると、不注意にも車のドアーを閉めてしまった。シャワーに行く用意は不完全で、皆が帰るまで待つ他無い状態になってしまった。結局僕だけシャワーを浴びずにTa―coma向かう。
Gren親子をGaryの家で降ろし、今晩止まる事になっているJohnの家に送ってもらう。JeffはTacomaを通ってSeattleの東にある島の町の自宅に帰って行った。
多くの人たちのお陰で長年の念願がかない大満足であり、各位に心より感謝したい。
山行余録
何時ものことであるが、僕は旅の前に旅先に関し充分調べる事は先ず無い。命に拘わる最低の安全情報を調べて出かけるのが関の山だ。しょっちゅう出かけていると、前の旅の整理に時間が掛かり、次の旅の情報収集には時間が避けない。順序を逆にすれば、事前に多くの情報を集める事は可能となるが、僕は後追い型を好む。先ず行って見る。旅先で色々見て居る内に、多くの疑問が湧いてくる。これらを後で調べる方が、僕の性にあっている。博物館に行く前に展示物に関し、あれこれ調べるより、先ず行って見た後、自分の興味がある事柄に関し、更に調べるのが僕の流儀だ。全貌を見た後、興味のある特定個別の事柄を調べるのだ。
今回も帰国後、InternetでMt.Rainierの情報や、Rocky以東の山に関して調べて見た。アメリカには4つの時間帯があり、その一つがMaintain Timeである。隣接する東の時間帯、Pacific Time Zoneの中にもCascadeやSierra Nevadaの様に大きな山脈がある。これらを併せた山岳地帯は少ない所でも東西に1000キロ、所によっては1500キロを超える。南北方向に更に長く、日本列島が幾つも入る地域が、繋がった山岳地帯なのだ。
個々の山を登るのもいいが、長い時間を掛けて、連続で歩き廻るのもいいものだ。特に歳を取り、時間がある者にとっては此方の方があって居るかもしれない。暢気に毎日歩くのである。 Pacific Crest Trailと言うのがある。全長は4250キロを超える。Me―xico国境からCanadaまで、Sierra NevadaやCascade山脈を歩くのだ。例年300人ほど此れを試み180人程度が踏破している。所要期間は約3ヶ月で毎日山道を30キロ以上歩く計算になる。体力のある内にやって見たいとは思うが、他にも行きたい所、遣りたい事は沢山あるので、実現の見通しは立っていない。
Garyからは時折、メールが入ってくる。先日もMt.Rainierへの登頂最速記録更新の報せがあった。我々が登った少し前に、我々と同じコースの登り降りを、4時間50分を切った男が居るとの話しが出ていた。今回はそれを3分以上縮める記録を、この山のガイドが出したと言う。往復の距離は24キロ、高低差は+−3000メートルでの記録だ。標準的には丸2日を掛けて上り下りする山を僅か5時間足らずで遣ってしまう事が出来たのだ。勿論体力の他、この山を良く知っていること、その時に最も相応しい格好で登る事も重要な要素となろう。日本でも数年前から、快速登山は始まっている。事故の無いよう楽しく上り下りしたいものだ。
鮭釣り/その他
今回の旅の目的は3つあった。最大の目的はMt.Rainierに登る事である。また一生に一度鮭を釣ることであった。元より僕には釣り氏の素養はない。只一匹ぐらいは何とか釣ってみたいとは前から思っていた。鱈はノルウェー北部のフィヨルドで大漁に釣ったことがあり、釣る際の引き具合などは体験している。鮭はどの位強い引きがあるのか、実感して見たいのだ。もう一つは多くの知人、友人と出会い、彼の地での生の生活に触れる事であった。彼らがどの様な暮らしぶりをし、どの様な生活感覚を持っているのかは知っていて悪いことではない。
登山の日程は天候優先で決める事になって居り、Garyが然るべき日を決める事になっていた。出来れば登山の前に釣りは終えて置きたいので、この件はJohnに御願いして予め19日に決めて置いた。
Seattleに着いたのは17日の朝で、Garyが空港まで迎えに来てくれて、Johnの家まで送ってくれた。何故たった一度しかあったことの無い人が、これほど親切にしてくれるのかは僕には分からないが、僕の人生の中ではあまり珍しい事では無い。幸運な男しか言いようが無い。空港からはシャットル便を予約してあるので何回か断ったが、俺の町に来るのだから送ってやるというので、断り切れずに、お世話に成ることにした。空港に付くとGaryが待っていた。忘れないようにと、山の入山許可証を渡してくれる。名前が入ったカードで、一年有効だ。 料金の30ドルを払う。40分ほどの道中、GaryはTacoma育ちである事や、Johnの住んでいる辺りも知っていること話してくれる。 途中の歴史博物館に来ると、ここの鉄道展示室にはボランテアとして月何日か来ているとも言う。又山岳協会の建物に来ると、時々此処にも来るとも言う。根っからTacomaの住人なのだ。Johnの家にもスンナリと着き、 Johnと少し話しをして帰って行った。
Johnの家では夏休みを利用し家の改装中であった。大学生のMartyや奥さんのSa―raも手伝い夫々の仕事をしている。壁や床を剥がし、洗面器の入れ替えなど可也大掛かりな工事も職人を使わずに自分達で遣ってしまう。此れが欧米の主流となっている。
夕方にはSaraは末息子のEricのサッカーのトーナメントの為、娘のJessicaと3人で、Sport用品大手のNikeの本拠地のあるOregon州Beabertonに車で出かける予定だ。4日ほど滞在するそうだ。アメリカの親の教育熱も相当な物だ。Saraは山に登ったら又来てねといって出かけていった。
大きな家は男所帯となる。食べ物は余り調理をしない、簡単な物になりがちだ。日に一度は近所のレストランに食べにいく。
アラスカ航路の船会社に勤めているJohnは僕の為に2日休暇を取っていた。次の日はホンダのスクーターで町を案内して呉れた。同じスクーターが2台あり、乗って後に続けていう。僕には免許が無いというが、大丈夫だから乗って後を付けろという。町は車が少ないので、危険は無いが、慣れていないので、最初は怖い。40キロは簡単に出てしまう。
Johnに付いて、港や海岸線をくまなく走る。Studiamと言う海の見える高台の高校に着く。レンガ造りの優雅な建物が建っている。100年以上も前にホテルとして建てられ、今は改装して高校となっている。Johnの3人の息子は皆此処に通い、Jessicaも来年は此処の生徒に成る筈だ。GaryとJeffもこの学校の出身だ。建物の改装には地震地帯でもあるので、建物より、基礎の強度補強に莫大な費用が必要だったが、地元や同窓生などの協力を得て、外見もほぼ元通りに改装補強に漕ぎ着けたという。
Point Defianceの公園にも行ってみる。北に突き出した半島で、広大な自然公園だ。中には車の走れる道路の他、自転車や歩行者用の小道が沢山走っている。起伏も多く、巨木の木陰で覆われているので、夏場の走りの練習場には持って来いの場所で、僕は何回もこの森は走っている。木立の間からは海が見え、釣り船も沢山浮いている。明日は自分達もあの辺りで釣る事になると話してくれた。
次の日、19日、は鮭釣りの日だ。朝早く、John,Martyと共に、Johnの友達のJohnの家に歩いて行き、彼の息子のMichaelの5人で、Charter船の出る港に行く。Americaのガソリン価格はリッター・円換算すると約100円であるが、それでも随分と値上がりしたそうである。燃料価格の急激な高騰は、ここでも市民生活に影響を与えている。良い事だ。以前なら別々の車で行ったであろうが、今は相乗りを厭わなくなったそうだ。又以前は何か足りない物があると、多少遠くても単価の安いスーパーに行っていたが、今では緊急に必要な物は多少高くても、最寄のコンビになどで買うようになったという。
釣り船を利用する場合は事前の予約が必要で、Johnが全てを手配していた。乗り合いの釣り船もあるが、今回は我々5人の貸切である。Johnが僕からの依頼を受け、色々考えた末、近所のJohnを誘い、5人であれば費用効率もまあまあと考えたようだ。僕は元々只で釣りをする積もりは無かったので、幾らだと聴くと、金の事は心配するなと話はそこで終わりとなる。Johnも船を持ち、5キロほど先の島に別荘を持って居るが、鮭釣りは初めてなので、自分達の楽しみの為に船を借りたのだという。鮭釣りなどは何時でも出来ると思っているので、実際には未だやった事は無いのだそうだ。人の生活はこの様なものだ。いつでも行けると思っている自分の町の博物館等に行かず仕舞の人が多いのと同じだ。
10人ぐらいは乗れそうな船で、船長はBillといい、海の無いIndiana州出身だという。アメリカにも漁業権はあり、その権利を買い取って自営しているそうだ。
船は高速で漁場に向かう。舳先が上げ、白く大きな航跡を後に70キロほどで飛ばす。あっという間に多くの船の居る漁場に着く。速度を落とし、行き逢う船と情報交換する。釣りの用意は全部船長がする。釣り竿に疑似餌を付け、舷側に固定する。錘は直径10センチ程の鉛で、7キロだ。疑似餌は幅5センチ、長さ10センチほどのプラスチックの薄板で長手方向に反りが付いている。水の抵抗の為だ。表面には極彩色の模様が入っている。弱い光でも蛍光色を出す工夫もなされているという。これにWD−40という、化学液をスプレーして海に落とす。仕掛けは此れだけある。鮭も随分変なものが好きな様だ。船は3本の釣竿にこの仕掛けを付け、時速4−7キロ程で漁場を上下する。速度の違いは海流の流れの相異による。船は潮流に拘わらず一定速度走ることは可能である。潮流が逆の場合、魚の泳ぎはその分遅くなるので、疑似餌の動きも相当分遅くした方が釣れる可能性は高くなる。潮流に乗って、一定出力〈速さは変動〉で動かす事は理に適っている。船には超音波魚探知機が付いており、魚の群れや底の状態が分かる。鮭は群れでは泳いでなく、探知機では捕らえられない。烏賊や鰊の群れは良く見える。鮭が泳いでいるとされる、100−150メートルの海域を流して行く。
鮭が食いつくと竿は大きく曲がる。直ぐに船長がこれに気が付き、釣竿を舷側から素早く外し、強く引き上げる。獲物が掛かっていることを確認した上で、竿を我々に渡して呉れる。竿を3本としているのは、我々全員が素人と見ているからだ。船長一人ではそれ以上の管理は無理なのであろう。最初の竿は僕に渡して呉れた。可也の引きがある。急いでリールを巻く。中々魚の姿は現れないが、手ごたえはある。 やがて獲物が見えるようになる。銀鮭だという。手繰り寄せると、船長がタモで掬ってくれる。40センチほどの魚で、銀色に輝く綺麗な魚だ。引き上げて直ぐに、後頭部を叩き即死させ、鰓にナイフを入れて、血を出し、紐に通して、海に投げ入れる。血が良く抜けて美味しく食べられるそうだ。これらの作業は船長が全部遣ってくれる。
その後暫く漁を続けるが、鮭は掛からず、20センチほどの鰈や他の小魚が掛かる。これらは皆外して逃がしてやる。鰈などは十分食べられる大きさだが、食べないようだ。かかるのを待つ間、スナック類を食べたり、コーヒーを飲んだりする。朝は雲ってやや寒かったが、すっかり晴れ暑くなった。海から陸や島の景観を眺めるのもいい物だ。船長はあの別荘は1億だとか2億だとか、誰が何年住んでいるとか色々な話をしてくれ、飽きない。
続けて二度鮭らしい手応えの引きがあったようだが、逃げられてしまう。4時間ほど船長を含め6人がかりの釣果は銀鮭2匹であった。もう一匹はMichaelが釣り上げ、大変満足したようだった。 一匹も釣れない船もあり、上々の結果と言えよう。少なくとも僕は40センチの鮭の引きがどの様なものかの体験が出来た。昼頃港に戻る。船長は桟橋で鮭を3枚に下ろし、袋に入れて渡して呉れた。赤みを帯びた橙色で、美味しそうだ。内臓はカモメの餌となり、頭や背骨は蟹の餌様に船長が持って帰った。
家に帰るとJohnが船にJacketを忘れて来たと言う。船が午後の漁から帰る頃に港に行くことにする。Johnの家には小型トラックが2台、乗用車が2台あるが、古いトラックで港に向かう。60年前の物だそうだが、よく整備されており、塗装も綺麗だ。時折乗るという。順調に走り港に着き止ると、エンジンが掛からなくなる。ボンネットを開けてみる。過熱状態だ。60年前の車の構造は簡単だ。直列6気筒のエンジンの他は何も無い感じで、ボンネットの中はガラガラで、地面も見える。構成は機械要素とチューブと配線類で、維持管理が今の車よりは容易なのであろう。冷めるまで待つ事なる。船は未だ帰ってきていないので、丁度良い。木陰で、船の帰りを待つ。
船長が蟹が取れたから言って、甲羅幅15センチ程の蟹を4匹呉れた。先ほどの鮭の頭と引き換えとしては大きい。Jacketも貰い、エンジンを掛けて、坂を100メートル程昇ると、又エンジン停止である。惰性でヤット路肩に寄せて止める。バスなどはヤット通り抜けられる道幅の所だ。困ったJohnな携帯でMartyに援助を求める。牽引用のロープを積んで別の車で来るようにと、色々と遣り取りをする。家からは3キロ程の所だ。Martyを待っている間に、単車に乗った大きな警官が2名通りかかり、事情を聞いて車を押して近くの駐車場に入れてくれる。アメリカの警官も粋な所があるのだ。暫くして、起動を試みると、又掛かったので、携帯でMartyとどの道を通って家に向かっているかを連絡する。上りに差し掛かると又止まる。待っている間、犬を連れた男が近付いて来て、車を摩り、機会を作って是非乗せてくれてと頼み込んでくる。Martyが間もなく遣って来て、牽引して走り、坂の上まで登っていく。 家までは後は下りだけになった所で、再びエンジンを掛け帰り着いた。
その夜は友達のJohnの家で鮭のバーベキューを楽しんだ。少し早めに行き、サラダなどを作る手伝いもする。MartyもMichaelも慣れない手つきで手伝っている。皆で作って皆で食べる事は良い事だ。蟹も大きな鍋に入れて茹でる。
庭のテーブルでワインを飲みながら先ほど取った鮭を食べる。鮭は本当に美味しかった。自分が釣ったからだけでは無いようだ。蟹は時間を掛けユックリと味わう。十分食べて飲んだ後、奥さんのMerleneが作ったBlueberry Pieが出てくる。今が旬であり、此れもおいしい。
今日は久し振りにお食事ありつけて、有り難い気持ちになる。
山から帰った23日は再びJohnの家に戻る。Sara達も戻って居た。末娘のJessicaも来年は高校生になる。体が柔らかく体操が得意な子であったが、今はサッカーに夢中だという。
夕食後、南極や砂漠のレースの写真を皆で見た。Johnは僕が彼方此方に行っているのが、羨ましいのだそうだ。旅の予定はモット前広に教えろ、そうした俺も合わせて行くからとも何回が言って来ていた。中々丁度しないので、此方から行くと遣って来たのが、今回の旅であった。
彼も50を過ぎ、そろそろ定年後のことも考える年齢となっているが、長男を除き、まだまだ教育に金の掛かる子供が3人居り、退職後僕の様な生活は出来る見通しが立って居ないという。Saraは先生をしており、共稼ぎの所帯でも4人の子供の教育は容易では無いようだ。
翌日はJohnに送ってもらい、Bettyの家に移る。彼女は今年82歳、55歳以上の人の住む住宅団地に住んでいる。Johnの家までは歩いて40分ほどの所だ。元看護婦だった彼女は3人の息子と一人の娘が独り立ちする頃、御主人に先立たれたが、今も矍鑠としており、年に何回も海外旅行するほどだ。日本にも来た事があり、ギリシャで落ち合った事も会った。行く所も半端な所ではない。昨年はボルネオやヒマラヤのトレッキングにも行っている。庭も綺麗に管理して、沢山の小鳥の餌場を作り、実に多様な鳥を集めて楽しんでいる。日本では見ることの出来ないハチドリも毎日来る。Charlieはこの辺の小鳥は全部Bettyの飼って居るものだいって笑う。家の周りには彼の作った巣箱が20個近く取り付けてある。その中の一つからは雛の鳴き声が日ごとに大きくなっていた。料理も何時もちゃんとした物を作り、立派にセットされたテーブルで食べている。家は十分広く、気兼ねなく泊まる事が出来る。
24翌朝BettyがPoint Defianceに歩きに行こうと車で出かける。傍にある老人ホームの健康プログラムで、定期的に行っているのだそうだ。老人ホームに立ち寄り、立派なスポーツ器具を見せて貰ってから、出かける。若いガイドが案内する歩きの会で、参加者女性ばかり7名、男は僕一人だ。皆年配で気さくに話しかけて来る。仲間には40年日本に住んでいた牧師の未亡人が居るので会って行けと勧めてくれる人いる。20分も歩くと、音を挙げる人も居る。体力はまちまちなのだ。案内の女性が、なだめながら歩を進める様に勤める。中々大変のようだ。途中Tacomaの地名の由来を尋ねて見たが、誰も分かる人は居なかった。Indianの言葉であることは想像できるが、意味は全く不明という。何とか予定のコースを周り、半時間ほどで、施設に戻る。
家に戻って程なく、Charlieがやって来る。週の中ごろBoy
Friend のCharlieはここに来て、月曜日にはBettyの作った料理を持って帰っていく。Charlieは70を過ぎたばかりで、家具などを作るのが趣味で、Seattleの自分の家では作業に熱中していると言う。何年も前からこうした生活が続いて居り、お互いにお互いの生活を尊重しあっているようだ。2人の趣味は旅で、何時も一緒に出かける。生活の主導権はBettyが持っており、その日やる事も殆どBettyが決め、Charlieはそれに付き合い運転手となる。
次の日の午前中Bettyは近くの老人ホームの体育施設で体操をする事になって居り、Charlieの車で一緒に行く。Bettyの運動中、われわれは傍のバラ園で暇を潰す。バラの他にも色々珍しい直物があった。ギザギザの大きな葉っぱ持つ蕗に似た植物は3メートルほどに達して居る。属名Dinosaur Foodと呼ぶChili原産の植物だ。
午後は歴史博物館一人行くと言うと、Charlieが送るという。Bettyは此れで入れと入場券を渡して呉れる。夕方は友達の家のパ−テー一緒に行くので、4時に博物館の前で待つことになった。歳は取っているが、Bettyの毎日の生活は結構活動的で変化に富んだものなのだ。僕の家族は彼女の事を“飛んでるオバサン”と呼んでいる。
館内に入るとこの辺りの歴史を分かり易く展示してある。SeattleもTacomaも僅か100万年前は海面下にあり、その後内陸よりの流下堆積物で陸地となった事が分かる。その後Indianの時代、鉄道の敷設により白人の時代の変遷を見ることが出来た。又戦中の女性が飛行機の組み立て作業をしているポスターも印象に残る。5階のモデル鉄道の展示場には、その開設に協力した人々の名前が書いてあったが、Garyもその中の一人であった。
夕方はBettyの友達の家でのパーテーである。此れにも僕まで連れて行って呉れる。アメリカではホームレスの身なりでもパーテーの仲間に成れるようだ。僕の身なりはどう見てもホームレス以下だ。生まれてこの方自分の風采は気にした事が無い。最近では男も化粧をする様であるが、僕は石鹸以外の物を体に塗ることは先ず無い。此れで結構我が肌も髪も人並みには綺麗だと思い込んでいる。他人から貰った香水などが何本も手付かずのママ残っている。退職以後は床屋にも行った事がない。誰が見てもアメリカ映画の社交界の紳士淑女の姿からは程遠いのだ。
然し、僕の友人は皆風采を余り気にする様子も見せずに、必要以上に親切にしてくれるのは何故だろうか? 外見を気にする人は最初から僕とは接触せず、友達とは成っていないからでは無かろうかと思う。モット見てくれを良くすれば、多くの友達が出来たかもしれない。只、僕は多くの友を求めない。長年付き合って来た今までの友達で十分満足である。新たな友を求めようとは思わないが、色々な所で出会う人々の中から、又新たな友は少しずつ増えていく。砂漠や山のレースで1週間も共通の経験をすれば、可也多くの人との交信先の交換を行う。僕は必ず時を経ずして相手には挨拶を送る。此れが礼儀だと思うからだ。返事が返って来れば、交流は続く。一ヶ月経っても帰ってこない場合、もう一度出して見る。此方の読み違いで送付先が間違っている可能性があるからだ。此れで返事が返ってこなければ、相手がドンナに魅力的な人物であっても、社会的に著名な人であっても、縁が無く友達でもないのだ。友達とはキャッチボールの相手だ。投げたボールを必ず返して来るのが友達だ。友達との間にはたった一つの玉しか無いと思えばいい。
Bettyのナビゲーターは余り当てなら無いなどと言いながらCharlieは運転しているが、間違う事も無く、30分ほどで車は大きな家の前で止まる。Hostessは大柄な未亡人であり、既に先客が来ていた。我々3人の後から更に一組が着き、男3人、女4人のパーテーが始まる。老人のパーテーであり、僕が一番若いようだ。先に着いていた女性が一番年長で83歳、肺癌を患って居るとBettyが後で話して呉れた。最後に着いた夫妻の、女性の方はBettyの看護婦仲間で、その連れRuddyは心臓を患い11種類の薬を飲んでおり、妻を非常に頼りにしていると言っていた。
飲食をしながらの会話の内容が面白い。日常の関心事がその大半だ。ガソリンは何処が安いとか、どの品物は何処のスーパーが安いとか、料理のレシピーの情報交換とか、生活に密着した話題が多い。パーテーは詰まる所、旧交を温めたり、情報交換したりする場なのだ。又孫や子供の自慢話をする場でもあり、病状を公開して慰めて貰う場でもある。お互いに招きあって、適当な間隔で、この様な場を持つ事は大切な事なのだ。歓談が終わると、食器の後片付けの手伝いをするのは常識なのであろう。Bettyはここでもよく動き、応分以上の働きをしている。
次の日は土曜日だ。Johnも休みなのでSeattleに買い物に連れて行ってもらうことにする。砂漠のレース用の靴を買いたいが、Tacomaでは良い物が無かった。Sizeが合わないのだ。Seattleには砂漠の走り仲間が居るが、電話連絡が取れずにJohnと行く事になった。
Seattleまでは約1時間掛かる。靴を購入し後、Johnを食事に誘う。物が出てくるまで約1時間掛かりカリカリする。金は要らないと言われたが、所定の料金とチップ40ドルを払って、車に乗り込む。2時からはTacomaの隣町で、Ericサッカーの交流試合があり、Johnは彼らの為に車に冷却した水を積んで来ている。急いで駆けつけたのは、丁度はハーフタイムの時で、辛うじて水は間に合った。SaraとJessicaも応援に来ていた。Ericのチームは1−0で負けていたが、後半3点入れて逆転勝ちし、総合2位になった。メダルを付けたチーム全体の写真も撮る。一家総出で子供の応援をするのは珍しい事では無いようで、多くの家族が来ていた。
帰り道Bettyの家の傍で降ろしてもらい、別れる。
午後は浜に歩きに行く事になる。車で浜まで行き、整備された遊歩道を1時間ほど歩く。
彼方此方の突堤では多くの人が釣りをしている。小さな烏賊をバケツ一杯釣っている人もおり、又全く獲物の無い人もいる。小魚を釣っている人、小さな蛸を釣り上げ、売ってやるといっている人もいる。蛸はこの辺では買う人はいるのだろうか。その気になって釣れば、食うには充分釣れる様だ。多くの人は蟹を釣っていた。直径50cmほどの袋状の網の底に、餌となる魚や鶏肉を取り付け、海に投げ入れ、暫くして引き上げると蟹が入っている事もある。蟹は何種類かいる様であるが、この海域で好まれるのはDungeness Crabである。先日の船長が呉れたのもこの種類で、有名なサンフランシスコのFishermen‘s Wharfの蟹もこれである。多くの人が何匹か釣っている。あるサイズ以下のものは再放流し、捕獲したものは通告義務がある様だが、どの程度守られているかは定かでは無い。
TacomaにはKitakyushu St.という通りがあるが、その理由が、この浜辺に来て分かる。同じ港町である北九州市とTacomaは姉妹都市関係にあり、その碑が浜辺にあった。
今夜は又パーテーだ。Bettyの次男Tomが50歳となる日だ。Bettyはパーテーの一品として、朝からポテトサラダを作っている。4時に出て、5時前にはSeattleの Tomの家に着く。一度この家には来た事がある。次女のLoriの17歳の誕生日だったが何年前かは覚えていない。3月頃の日の短い時期であり、ベランダからは湖越しにWashington大学の巨大なスタジアムに夕日が当たっていたのを思い出す。
今日は未だ明るいので、見え方が違う。湖にはヨットやボート見える。時間もあるので、湖まで歩いて行く。沢山のボートが係留されており、岸辺の家も皆立派だ。緑の多い、高級住宅街だ。Tomの家の庭も広く、ブルーベリーの木が何本もある。野生の物と違い、人の背丈ほどあり、順次稔りつつあった。
2階のベランダでナッツをつまみに白ワインを呑みながら、皆の集まるのを待つ。20人を超える人が集まってくる。長兄を除く兄弟とその連れ、甥や姪、友人などであり、既に会っている人が大半だが、名前を思い出したり、新たに覚えたりするのは大変だ。Tomの誕生日なのだが、Tomは汗をかきながらバーベキューを焼いている。Hostとしてあちらでは当たり前なのかもしれない。
Loriも帰ってきたので、この前あったのは何時だったかと聴いて見ると、5年はたっているという。僕はモット此方の事だと思っていた。後でBettyの家で写真を見ていると、6年以上たっていることが分かった。時の立つのは早い物だ。
食事が済むとHappy Birthdayの歌を歌い、ケーキを食べる。その後皆夫々の家に帰っていく。今日も良い日であった。僕は幸運な男なのだ。
27日は日曜日。Bettyはこの日もやる事を決めており、其れに従う。朝コーヒーを飲んだだけで、Tacomaの東にある町Puyallupに行き、其処のFarmers’ Marketで朝飯を取ることだった。その前にその町に住むBettyの友達の家に立ち寄る。YMCAの職員でトテモ良い夫婦だという。亭主は黒人で有名大学のアメリカンフットボールの選手だったという。奥さんは日本人と黒人の混血で、片言の日本語を話す。彼らと一緒に百姓市場に行く。色々朝食になりそうな物を売っているが、僕は特大ホットドッグを選ぶ。珈琲付きで5ドルだった。食事をしながらLindaと話す。教員の免許を取得し、ヤット就職できホッとしているという。困った事は年老いた母が痴呆症になり、英語を殆ど忘れ、日本語しか話さなくなった事だという。自分も妹も日本語は殆ど出来ないので先が思いやられるという。世の中には色々解決困難な事が起こるものだ。何とか助けて遣りたいが、良い方法は思い浮かばない。
食事の後場内を見て歩く。野菜や果物、その他の農産物が売られている。有機栽培がここでも人気の主流で、決して物は安くはない。Bettyは新鮮なものが何よりと、トウモロコシなどを買う。
ここはWashington州の農業祭、State Fairが行われ、農業の盛んな所である。又独自の税制を取っており、自動車の販売台数は州一番の町だという。沿道には何キロにも渡り、世界各国の殆どのメーカーのデーラーが軒を連ね、夥しい数の車が並んでおり、実に壮観だ。
午後は浜辺やPoint Defianceの公園を歩き、夕方Johnの家に立ち寄り、別れの挨拶をする。
28日サンフランシスコに飛ぶ日だ。 幸運にも月曜日でCharlieがSeattleに戻る日と重なっており、空港に立ち寄ってもらう。空港はCharlieの家に行く手前にあり、大きな回り道とならない事が幸いだ。
San Francisco空港より、BART(Bay Area Rapid Transit)に乗り、市内に向かう。40分ほどで目的地のMongtomery St.に着く。そこで市営のバスに乗り換える。料金は1.5ドルだが、シニアは0.5ドルと安い。電車と合わせ、6ドル弱だ。空港からHostelへの相乗り小型バスの半分以下だ。バスを降り、案内板に従って400メートルほど歩き、Fort Mason Youth Hostelに着く。
部屋に荷物を置き、辺りを90分ほど歩くことにする。7時半にはEverestで会った Shuanと会うことになっているので、其れまでには帰って来なくてはなら無い。
Hostelは19世紀半ばに建てられた要塞の建物の一部を利用している。サンフランシスコ湾南岸丘の上にある。一体は緑豊かな公園となっている。Shuanが紹介してくれた所だ。自分は其処から100メートル程の所に住んでいるともいっていた。立地は良い。左手にGolden Gate Bridgeが見え、右に歩いて行けばFishermen’s Wharfが近い。ほぼ正面には昔刑務所として有名なAlcatraz島が見える。
Hostelの裏手にある、海を睨む大砲を見た後、海岸寄りの坂を右手に降りていくと下から手を振って男が上がってくる。僕の名前を呼んでいるので、なお驚く。Shuanだ。全くの偶然だ。ラフな格好で小さなバッグを背負っている。仕事の帰りなので、シャワーを浴びて、予定通りの時間に会おうといって分かれる。
偶然に僕に会えてビックリしたのはShuanの方であろう。Shuanは僕がSFに今日来ている事は分かっていたが、前回の偶然は全くの偶然だ。昨年暮のメールには次の記載があった。“本当にビックリした。Williamに偶然会った。俺が走っていると、後ろから怒鳴る奴が居るんだ。自転車に乗った男で、手を振っている。サングラスをかけて居て見慣れない顔だが、近付いて見ると見覚えはあるが、名前は思いだせない。お互いに名乗りあって、ヤット、ヒマラヤの仲間であることが分かった。最初に気づいたのはWilliamの方だ。流石に軍人だね!飯を食いながら、再会を楽しんだ。彼はスイス陸軍の大佐で国連の軍事援助関係の仕事の途中SFに来ていたのだ。”
EverestでShuanの次に僕が名前を覚えたのはWilliamであった。向こうから名乗って握手を求めてきた。小柄で軍人とは思えない。声が女の様で、しょっちゅうフランス語で家族と交信していたのを思い出す。
海よりの道をFishermen‘s Wharfに向かって歩く。その手前の入り江では男女のグループが遠泳の練習をしている。気温は20度ぐらいしかなく、上下長い物を着ていても風が吹くと寒い。だが女性の大半はWetsuite無しの格好で泳いで居る。水温は15度程度で日本人が泳ぎたいと思う状況ではない。
何年か前、家内や雲峰さん達と,ここに来たのは主として食事の為で、その目でしか見ていない。食べ物屋は勿論多いが、この辺りにも文化的意味で見るものもあるのだ。明日時間があれば、ユックリ見よう。
定刻にShuanと会う。Fishermen‘s Wharfで食事をする前に、Shuan所に立ち寄る。同じ要塞の敷地内であるが、塀と扉で仕切られて居る。住人は自由に行き来できるようになっている。扉を明けて進むと、可也大きな木造家屋が何棟かある。元は要塞の高官など住宅であり、どれもSFでは10指に入る古い木造建築だという。緑に囲まれた大きな家で、海の眺望は素晴らしい。周りには野生のBlackberryが沢山実を付け、順次稔りだしている。未だ充分に明るいので、写真を撮る。
建物は市の管理で、競で一番高額を払える人に貸し出しているという。Shuan達はグループで借りており、契約料金を支払って居れば、期限無く住み続けることが出来る。中にも入ってみる。大きなゆったりした部屋が幾つもあり、住み心地は良さそうだ。
目的のイタリヤン レストランに行く。生演奏が聞こえ、大きな店内は満席だ。諦めて、何軒か先の店に入る。白ワインを呑み、無難なFish and Chipsを食べる。僕は目下尿酸値過多の為、貝類、甲殻類、所謂旨い物や珍味は皆避けるようにして居る。
彼の勤めている会社は港湾物流家屋の開発会社で、土地の買い付け、建物の建築を行っており、日本にも拠点があるという。彼の仕事は土地取得で、トテモ面白いという。社風は極めて自由で、労働時間も自由だ。スポーツを推奨して居り、何人かでNYC Marathonを申し込んだが、当たったのは俺だけだと喜んでいた。国連のPKOでアフリカに行くことを考えているという。2年程度の休職は何とでもなるのだという。Everestのレースの話しもする。 Base Campに近づくに従がい、食欲が落ち殆ど何も受けつけなくって仕舞ったという。僕も若干の頭痛や食欲減退はあった。高度の影響は殆どの人が受けるようだ。
名残は尽きないが、又どこかで会うことし、Hostelの前で別れる。
29日、丸一日歩き回ることにする。前回来た時は主として市の西側を見ているので、今回は東半分を重点的に見て回ろう。旅は自分の足で歩いた所が何時までも印象が残る。観光は歩きに限る。
Hostelでパンケーキ、ベーグルを食べ、ジュースとコーヒーを飲んで出かける。
Fishermen‘s Wharfの手前の方にあるSan Francisco National Maritime Historical Park(SF国立海洋歴史公園)と長たらしい名前の場所がある。Cable Carで有名なHyde St.が湾に付き当たった所だ。
入り江に突堤を築き直径2キロほどの円形の広大な海には沢山の歴史的な船が浮かぶ。名に相応しい公園だ。大きな3本マストの帆船、タグボート、外輪船、漁船、水上住宅、第二次世界大戦中の潜水艦や輸送船(Liberty Ship)などが係留されており、外から眺めるのは無料であるが、艦内の見学は夫々有料である。時間とそれ程の興味も無いので、中には入らない。魚雷、Depth Charge、や対戦中大学生が作った小型潜水艦などもあった。
Liberty Shipの案内板の横には船の製作に参加した作業着姿でガッツポーズをした若い女性のポスターがあり、“We Can Do It!”と書かれている。戦争は軍隊だけの戦いでは無いのだ。僕らの年齢ではLiberty Shipの名前を覚えている人も多いと思う。後で調べた事も含めると凡そ次のようになる。
対戦中ドイツのU−Boatに補給路を脅かされた英米は、英国設計をベースとした武装貨物船を1941年から1945年にアメリカが大量に造り、英国に貸与した。此れがLiberty Shipだ。排水トン:14、245トン、速度は約20キロ/時。 標準化を極端に取り入れ、当時としては驚異的工期2ヶ月で完成させ、総計2,700隻余りを18の造船所で造った。撃沈数を上回る早さで船を完成させ、補給を確保する必要が生み出した船だ。同じ型でこれ程多く造った船は今でも無いそうだ。現在残っているのは2隻で、その内の一つがここにある。
Cable Carの当初よりのTurnaboutを見る。Cable Carが下って終点に着くと、丸いテーブルの上に乗る。運転手が前か後ろの電車の側面を押して、回転テーブルを回し、向きを変える。辺りは公園の一部で、沢山の人が見ており、乗客も列を成して待っている。
Cable Carには前に来た時に乗っている。どちらかと言うと、観光用の乗り物で、バスなどと比べるとベラボウに高い。上り下りするCable Carを見ながらHyde通りを歩いて登る。
SFは大雑把に言うと、東は太平洋、北と西はSF湾と3面海に囲まれた北に突き出した半島で、観光地を含む中心部の大きさは東西15キロ、南北10キロと言えよう。南東側の一部を除き、ほぼ南北と東西に碁盤目の道が走っている。市の南に北東方向に走る変則的な大通りがあり、此れがMarket通りだ。其処を境して、市の南東部はは南東と北東の交差する碁盤目状の町になって居る。South MarketとかSouth Beachと呼ばれる所だ。
今日歩く予定は南に10キロ歩き、Market通りに出て、そこを北東方向に6−7キロに進み、Ferryの発着所まで行き、其処から北西の方に向かいChina Townを通ってホステルに戻る20キロぐらいだ。此れで前回殆ど見て廻った市の西側とGolden Gate Bridgeのある北西部を含めると、市の全域を見られる事になる。
SFは坂の町であり、岡の町だ。50余りの岡がある。最も高い岡でも300メートル以下であるが、100メートルの上り下りは中々大変である。
登って行くと途中右手にRussian Hillと表示あり、左手にはNob Hillの表示がある。振り向くと海がきれいに見える。
道の両側に綺麗な建物や花があれば、写真を撮りながら登っていく。変わった建物があれば、左右の通りに入って行き写真に収める。僕の好きな建物は、単なる箱ではなく、出入りのある古い建物や、木造建築だ。
岡の最高点を過ぎると通りはほぼ水平になる。真っ直ぐ南に歩いている積りであったが、いつの間にか真西に歩いている事が、Hydeと平行しているVan Ness通りに突き当たり、分かる。Van Nessで左に折れ、又南に向かう。暫く歩いて行くと、石造りの立派な建物郡が見えてくる。退役軍人館、オペラハウス、Synophony Hall,市庁舎、美術館などのある町の中心地だ。市庁舎の入り口では移民政策改善を要求する団体がデモを行っていた。金の出た頃に建てた市庁舎は豪華で美しい。その前の広場は広く沢山の花が咲いている。左に進み、Market通りにでる。
地下鉄やBARTが地下を走っている賑やかな通りで、両側の建物は高層だ。高い建物の間に挟まれている教会や古い建物の写真を撮りながら、北東に進む。昼時であるので、歩きながら食べている人もいる。暑さ凌ぎの為、右側の歩道を歩く。歩道の幅は10メートルほどもある。暫く歩くと公園らしい所があり、右に折れ行ってみる。Yarb Buena Gardenという市民の憩いの場だ。木陰に腰掛休んだり、食べたりしている人が多い。Market通りに戻ると、Mongtmeryの駅の傍に来ている。この辺りは金融街で多くの金融機関の立派なビルが聳えている。正面には大きな時計の付いたタワーが見えてくる。Ferry Termi―nalであろう。Market通りはタワーの手前の緑地帯で終わる。
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