
このページでは、「マルコの部屋」で毎週掲載された能吉雄牧師(太田聖書バプテスト教会牧師)による2001年の「主の日礼拝」時のメッセージ要約を集めたものです。メッセージを聞きながらメモとしてまとめたものであり、文責はMark齋藤にあります。
メッセージのタイトルは正確ではないものもあります。
●メッセージ 日 / タイトル
■2001年 1月 7日 メッセージ「信仰の成長について」
■2001年 1月14日 メッセージ「イエス様の復活」
■2001年 1月21日 メッセージ「見ないで信じるものは幸いである」
■2001年 1月28日 メッセージ「弟子たちのガリラヤ湖での経験」
■2001年 2月 4日 メッセージ「あなたは私を愛するか・・・」
■2001年 2月11日 メッセージ「よくよくあなたがたに言っておく・・・」
■2001年 2月18日 メッセージ「土の器」
■2001年 2月25日 メッセージ「信徒一人一人がみな、祭司、伝道者」
■2001年 3月 4日 メッセージ「神の同労者として」
■2001年 3月11日 メッセージ「宣教の大命令から」
■2001年 3月18日 メッセージ「聖書のみ言葉を生活の中に翻訳する」
■2001年 3月25日 メッセージ「どこへ行っても通用するクリスチャン」
■2001年 4月 1日 メッセージ「豊かな日本?〜ウガンダ宣教〜」(佐藤宣教師)
■2001年 4月 8日 メッセージ「教会とは・・・」
■2001年 4月15日 メッセージ「復活祭によせて」
■2001年 4月22日 メッセージ「聖書について」
■2001年 4月29日 メッセージ「クリスチャン家庭の成長」
■2001年 5月 6日 メッセージ「聖書とは」
■2001年 5月13日 メッセージ「母の日によせて」
■2001年 5月20日 メッセージ「力強い讃美」
■2001年 5月27日 メッセージ「主を第一とする生活」
■2001年 6月 3日 メッセージ「信仰義認〜それでも私はクリスチャン!」
■2001年 6月10日 メッセージ「信仰義認」
■2001年 6月17日 メッセージ「父の日によせて」
■2001年 6月24日 メッセージ「クリスチャン生活の成長について」
■2001年 7月 1日 メッセージ「ひとりひとりが伝道者として」
■2001年 7月 8日 メッセージ「お互いの信仰を助け合う」
■2001年 7月15日 メッセージ「礼拝について」
■2001年 7月22日 メッセージ「福音を証しする者」
■2001年 7月29日 メッセージ「主への信頼と聖霊の働き」
■2001年 8月 5日 メッセージ「イエス・キリストを着る」(佐藤宣教師)
■2001年 8月12日 メッセージ「わが国の指導者のために祈る」
■2001年 8月19日 メッセージ「迫害の中であっても」
■2001年 8月26日 メッセージ「昔を語るのではなく、新鮮な心で主に仕えて行く」
■2001年 9月 2日 メッセージ「わたしたちの源は神にある」
■2001年 9月 9日 メッセージ「天国はこのようなものの国である」
■2001年 9月16日 メッセージ「神様は人の心を見られる(アメリカ同時多発テロによせて)」
■2001年 9月23日 メッセージ「亡きA姉の納骨によせて」
■2001年 9月30日 メッセージ「放蕩息子のたとえから」
■2001年10月 7日 メッセージ「すべては主の栄光のために」
■2001年10月14日 メッセージ「あなたの目は今、何を見ていますか?」
■2001年10月21日 メッセージ「わたしって だれ!?」(大平聖書浸礼教会
吉本一雄牧師)
■2001年10月28日 メッセージ「主はわたしに何をしてくださいましたか?」
■2001年11月 4日 メッセージ「天に宝を積む生活(召天者記念集会」
■2001年11月11日 メッセージ「キリストに仕えていく様に・・・」
■2001年11月18日 メッセージ「神と1対1になる(祈り)」
■2001年11月25日 メッセージ「神さまへの応答・・それは献身です」
■2001年12月 2日 メッセージ「見えざる神の御計画を知る」
■2001年12月 9日 メッセージ「あなたがたのために救い主がお生まれになった」
■2001年12月16日 メッセージ「イエスさまと出会ったシメオン」
■2001年12月23日 メッセージ「本当のクリスマス」
■2001年12月30日 メッセージ「キリストにある平安」
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●「信仰の成長について」
2001年1月7日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
主題は「信仰の成長について」で、聖書の引用箇所は士師記6章11節です。ここでは旧約聖書の中でもイスラエルの民をまとめるために立てられた指導者(士師)のなかでも有名な人物「ギデオン」が神様によって士師に選ばれるところの記事が書かれています。
一例をあげると、太田教会の姉妹がたの働きは素晴らしいものがあります。特に親睦昼食会やクリスマスを始めいろいろな集会に合わせての料理作りには他の教会もまね出来ないほどの技術に成長してきました。しかし、始めからそうだったわけではありません。始めはお互いにご飯ものばかりになってしまったり、或はデザートばかりになったり・・を繰り返して来て、だんだんお互いに周囲が見えて来るようになって「必要なもの」に気付く知恵をもつようになってきました。そして、それは料理の質の向上へとつながっていきました。
教会自身にも言えることです。さらに力強い、確信に満ちあふれたお互いの交わりが求められます。人々の魂をとらえる経験。個人伝道の経験。世界宣教に加わって行く経験。
聖書の中に見るギデオンの物語は常に私達クリスチャンの心を振るい立たせ、勇気を与えてくれる物語として愛読されているところです。約束のカナンの地を手に入れたイスラエルの民は、カナンの地にいる多くの先住民族との戦いを必要とされていました。すでにモーセやヨシュアのような自分達を霊的に正しく導く指導者が無い中、士師として立てられてゆく者が出ます。民が主の前に霊的に正しい時はその戦いに勝つことが出来ますが、鉄器などの武器を持つ自分達よりも「強い文化」をもつ民族の前に主への信頼と信仰。主を見上げる時間を失ってしまった時、彼らには大敗北としてイスラエルの民に大きなスパンクを与えるのです。しかし、この民を振るい立たせるために、人の前にはなきに等しいギデオンを主は用いようとしておられたのです。
「〜わたしがあなたを遣わすのではありませんか。」…この言葉は、今日の多くの宣教師にその献身を促す主の言葉にもなりました。
主が新しい2001年、また21世紀をどのように導いてくださるのかを期待し、またお祈りしています。
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●「イエス様の復活」
2001年1月14日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
引用聖句はヨハネによる福音書20章19〜23節です。ここは復活の箇所です。イエス様の復活はただ単に蘇生した・・と言うのではなく、永遠に死のない姿としての復活です。復活の主が教会の主です。その主の前に自分を注ぎ出す・・。これが礼拝です。
十字架の刑と復活の知らせ。この一連の出来ごとに恐れ、おののき、また、ユダヤ人達を恐れて一ヶ所(家)に集まって、その戸を固く締めている弟子達の中にイエスは現れた。そして「安かれ」と言われ、手とわきとを彼らにお見せになった。これは、確かに十字架に付けられた(肉体を持っている)証しとしてであった。そして、私達が愛されている事を実感させるものであった。イエスの十字架の死が過去の事だけであったらそれは私達の落胆、絶望にしかならない。しかし、復活は過去にならず「希望」に導くものであった。しかも、イエスは弟子達を叱りつけることはなかった。イエス様と共にいた頃、大言壮語していた弟子達。彼らには本当の罪深さが解らなかった。「裏切り」の代表としてイスカリオテのユダが上げられるが、結果的に12弟子全員がイエスを裏切ったのであった。そんな彼らに彼らの持つ情熱のもろさを気付かせるものだった。「安かれ」「平安汝にあれ」は慰め、励まし、赦しの言葉となった。
イエス様が弟子達に語った「安かれ」の言葉は。現在、教会がこの世に対して「安かれ」と語るべきことを求めておられるのです。使徒行伝3:19、13:26〜39のようにイエスによる罪の救いの福音があなたに宣べ伝えられている。私達は自分自身の幸福のみを求めるのではなく、宣教の大命令にあるように救いの素晴らしさをこの世の人々に伝えていくのである。
「聖霊を受けよ。あなたがたが許す罪は誰の罪でも許され、あなたがたが許されずにおく罪はそのまま残るであろう」
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●「見ないで信じるものは幸いである」
2001年1月21日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
引用箇所はヨハネによる福音書20章24〜31節です。ここは「デドモと呼ばれるトマス」の記事です。12弟子の一人「トマス」はそれ自信聖書の中に数多く登場する人物ではありません。どんな人物であったか・・を知る上で参考になる箇所はヨハネによる福音書11章16節、及び14章4〜5節です。このわずかな記事をもとに彼の性格を割出してみると、マイナス的な発想をしてしまう人物だったようです。暗い方、暗い方へと発想の展開をしてしまうところがうかがえます。トマスの姿は私たちの持つ性格の一面を現しています。トマスはイエス様のなかに新しい祝福に満ちた世界へと踏み出そうとしない部分(性格)を持っていたようです。それはまるであの「タラントのたとえ」に出てくる「1タラントを土の中に隠してしまった悪いしもべ」のようにも見えます。そんなトマスに復活されたイエス様はご自分の姿を通して立ち直らせようとしています。「わたしは、その手に釘のあとを見、わたしの指をそのあとに差し入れ・・そうしなければ決して信じない。」そんなトマスに対して叱責するイエス様の姿はありません。イエス様はそのトマスの弱さを知っておられました。そして、イエス様はトマスの言葉をそのまま用いて気付かせたのでした。さらに、その言葉のベースには「安かれ・・」がありました。「見ないで信じる者は幸いである。」その「幸い」は「神から祝福を得る」の意味だったのです。
「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じてイエスの名によって命を得るためである。」(31節)
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●「弟子たちのガリラヤ湖での経験」
2001年1月28日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
引用聖句はヨハネによる福音書21章です。ここでの舞台は「テベリヤの海」これは「ガリラヤ湖」の別名で、どちらかといえばこのガリラヤ湖の方が数多く使われています。イエス様の十字架と死を経験した彼らは度々復活のイエス様に会いますが、自分たちの弟子としての失敗また、失望や落胆はなかなか消えてはくれませんでした。そんなある日、ペテロはガリラヤ湖を目の前にして、かつて自分が漁師をしていた頃を思い出して、船を出し、漁をしていました。ここはイエス様との思い出がたくさん詰まったところでもありました。ペテロが大漁の経験をしたのも・・・イエス様に従っていったのも・・・弟子となり、5000人の人々を5つのパンと2匹の魚で養ったのも・・・死ぬほどに恐ろしかった嵐をイエス様が叱り、なぎに変えてくださった・・・ことも、すべてここ「テベリヤの海」での経験だったのです。イエス様のおよそ3年間にわたる公生涯のうちの初期伝道活動は、ほとんどがここガリラヤ湖を中心として行なわれたのでした。
ペテロをはじめ7人の弟子たちは船に乗りました。この「船」という名詞には冠詞であるTheがついており、まさにその船・・・を意味する船でした。すなわち、彼らがイエス様と出会うきっかけとなった
あの頃のまさにその船・・・だったのかもしれません。そこへイエス様が再び現れたのでした。しかし、彼らはそれがイエス様であることに気がつきません。「子たちよ。何か食べるものをください。・・・」は、あのサマリヤの女に語ったやさしい言葉に似ています。しかし、いくら彼らお得意の漁をはじめても、何も獲ることのできなかった彼らは「ありません」と答えることしか出来ませんでした。イエス様は「船の右側に網を下ろしてみなさい」と言われました。彼らはその言葉に、あの頃のように反発せずに従いました。するとどうでしょう。とても大漁で、船に引き上げることが出来ないくらいでした。・・・ふと、ある弟子は思い出しました。「こんな経験ははじめでじゃない・・たしか3年前にも・・あっそうだ。あれは主だ。」と、今まで気が付かなかったけれど、そこにおられるのはイエス様であることに気がつきました。
やがてイエス様は彼らとその魚で食事を共にしました。食事はお互いの親しさの象徴でもあります。食事を共にしながら、イエス様は一人一人の弟子たちに「わたしの羊を飼いなさい・・・」のメッセージを優しく説かれるのでした。
私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。(エペソ6章24節)
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●「あなたは私を愛するか・・・」
2001年2月4日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
引用聖句はヨハネによる福音書21章15〜17節です。
先週も少し触れた箇所です。イエス様がペテロに三度「あなたは私を愛するか・・・」の問いかけにペテロは「はい、私があなたを愛することはあなたがご存知です。」と答え、「私の羊を養いなさい。」とイエス様が付け加えます。
ここでは、あなたの主は、あなたを誰よりも良く理解してくださる。知っていてくださる。その愛のゆえに。・・・がテーマです。
私たちは、時には自分自身のことさえも良く分らないことがありますが、主は全てを知っておられるということです。15節には食事をする場面があります。前にも述べたとおり、「食事を共にする」ことは、歓迎し、楽しく交わる(くつろぐ)ことを意味します。そのような和やかな雰囲気の中で「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人達が愛する以上に私を愛するか・・・」とイエス様が切り出します。
主は、自分の信仰に失望し落胆したペテロを立ち上がらせるために全神経を用いておられるのです。「ヨハネの子シモン」はペテロの元々の名前ですが、「ペテロ」という名前はイエス様と出会い、イエス様によって名付けられた名前でした。イエス様は出会う前の名前をあえて呼んだのは、ペテロ自身が救われた頃の記憶を呼び起こすため、あの時の感動を思い出させるためでした。 「あなたは、その頃から私と3年半の歩みをしながら数多くの恵みにあずかって来たではありませんか・・・」そして、ここでのイエス様の三度にわたる言葉「あなたは私を愛するか・・・私の羊を養いなさい。」は、ペテロに次の2つのことを自覚させたのでした。
@イエス様が捕らえられた時、ペテロが三度否んだことに対してなかなか立ち直れないペテロに、その失敗をふみ直させたこと。
A弟子たちの前に、もう一度ペテロの役目を確かなものにすること。失った信頼を取り戻すこと。
あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心をこめてそれをしなさい。(Tペテロ5章2節)
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●「よくよくあなたがたに言っておく・・・」
2001年2月11日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
引用聖句はヨハネによる福音書21章18〜25節です。ヨハネによる福音書の学びは今日で終わりになります。「よくよくあなたがたに言っておく。」とか「まことにまことにあなたがたに言っておく。」などのイエス様の言葉表現は、ヨハネによる福音書に見られる特有の言いまわしになっています。なかなか悟ることの出来ない弟子達に、後に続く言葉の重要性を示しているのです。
今日の引用箇所はペテロの死をイエス様によって示された場面でした。すなわち、他の弟子達にペテロの役割を前回の箇所で示した後、実際にペテロはどのような殉教の死を迎えるのかについてイエス様が語られたところです。それは一般的に知られていることですが、ペテロは大迫害のローマにおいて逆さ十字架の刑で殉教の死をとげたことに繋がります。
天地を造り、万物を造られた主は、取るに足りない小さな「私」という一人の罪人を全て知り尽くされている。そして愛してくださっている。その主のみ心を知ることには、重要な意味があります。・・・それを知る過程において、試みがあります。困難もあります。しかし、尚且つ主を仰ぎ見る時、祝福と平安が与えられるのです。
世の中の人々にとって、「死」とは絶望であるかもしれません。しかし、主を知る者にとって、生きていることが主の栄光を現すならば、死も主の栄光のために用いられます。主は全てをご存知です。全てには主のご計画の「時」があるのです。・・・主が与え主が取られる・・・その中にあっても主を讃美できるようにありたいものです。
主は、ペテロに「私に従ってきなさい・・・。」と言われました。その時、ペテロは、近くにいる弟子のヨハネ(ヨハネによる福音書の著者)を指して、「この人はどうなのですか?」と言ってしまい、再びペテロの欠点である「人と比較してしまう」癖が出てしまいます。私たちはクリスチャンであるけれども、常に古い欠点が出てしまう。これはペテロだけの弱さではありません。今日の暗証聖句の箇所は、「こんなペテロのような殉教の死ではなく、このヨハネが長く生き長らえたにしても、ペテロよ、あなたとは関係のないことでです。他の人は?・・ではなく、あなたが私に従いなさい。・・・これがあなたに定められた主のご計画なのです。」というイエス様の言葉です。
「キリストのうちには、知恵と知識との宝がいっさい隠されている。」(コロサイ書2章3節)
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●「土の器」
2001年2月18日(日) マイク・バーゲット先生のメッセージ要約です。
先週は太田教会にとって一年で最初の世界宣教集会の日でした。この日は、講師として幕張教会からマイク・バーゲット先生をお招きしました。今日の要約はバーゲット先生のメッセージからです。テーマは「わたしはキリストの証人なのです。」
引用聖句はUコリント4章1節〜10節で、メインとなるのはその中でも7節〜9節です。わたしたちに与えられている主からの特権・義務。それはわたしたちの「宝」であり、福音そのものでもあります。罪に沈むわたしたちに、それから逃れる道を備えてくださっています。余命いくばかりもない人にとって、死の宣告はとても悲しいものです。しかし、その人が再検査後に「もう大丈夫!」と言われたならば、その人にとってその言葉はある意味では「福音」となるでしょう。著者パウロは「福音」は「宝」である。と語っています。それは限りなく価値あるものであるということです。先ほどの「もう大丈夫!」と宣言された人でさえ、保証されたとしても10年とか20年という限られた期間でしかありません。永遠を約束するものではないのです。しかし、主の約束は永遠の宝である「福音」をわたしたちに提供してくださるのです。
引用個所にある「土の器」はわたしたちのことであり、主の福音を預かっているのです。それは、その福音を他の人々に分けて与えるためです。大事なことは「わたし」ではなく、宝であることをはっきりさせるため、「土の器に宝」として語られています。大切なのは宝である「福音」、主イエス・キリストです。この「土の器」は弱さの象徴でもあり、本来「宝」は強いものにしまわれるべきものですが、どうして弱く、もろく思われる「土の器」に宝を入れておくのでしょうか。それは、決して自分の力ではなく、神の力で迫害や患難に打ち勝ったのは、まさにその宝物のおかげであることが示されるためです。また、器の質によらず、何よりも大切なのは主との出会いの経験、救いの喜び、聖潔(主が聖く用いてくださる)。であることです。
「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、・・・さらに地のはてまでわたしの証人となるであろう。」(使徒行伝1章8節)
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●「信徒一人一人がみな、祭司、伝道者」
2001年2月25日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
先週は太田教会にとって一年で最初の世界宣教集会の日でした。今週の主の日にはこの集会に参加した兄弟姉妹たちによって証詞の時間を持ちました。
今日は再び能先生のメッセージに戻ります。聖書の引用個所はTペテロ2章9節からです。主題は「信じ、救われた信徒一人一人が皆、祭司であり、伝道者であること」でした。これは、言い換えれば「弟子としてのクリスチャンの歩み」についてです。
「祭司」はかつて旧約聖書に登場するモーセの兄アロンとその子孫たちによって構成されていました。つまり、昔は限られた人々しか神の前に立つことができませんでした。しかし、現在は誰でも神の前に立つことができるのです。礼拝は一人一人が祭司として神の前に立って礼拝を献げるものなのです。
「神はキリストによってわたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務めをわたしたちに授けてくださった。・・・神は、キリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないでわたしたちに和解の福音をゆだねられたのだ。」(Uコリント5章18、19)
わたしたちの生活圏が伝道の場所・宣教の場所です。そのためには意識の改革が必要です。クリスチャンの生活の場が神様によって遣わされた場でもあるのです。
「あなたがわたしを世に遣わされたようにわたしも彼らを世に遣わしました。」(ヨハネ17:18)
そして、与えられた場所における「とりなし」の祈りが必要です。
「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。という一句に尽きるからである。」(ガラテヤ5:14)
「いつまでもかわないものは信仰と希望と愛です。」(Tコリント13章13節)
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●「神の同労者として」
2001年3月4日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
聖書の引用箇所は愛の書と呼ばれるTコリント13章からです。メッセージのメインテーマは「神の同労者として」です。13節には有名な聖句「・・いつまでも存続するものは信仰と希望と愛とこの3つである。このうちで最もおおいなるものは愛である。」があります。
教会の説教や奉仕、聖書に中から「…ねばならない」や「…しなければならない」ばかりに目を向けるならば、ここで言う「愛」を伴う行為にはならなくなってしまいます。13章2節にあるように、その人に「山を動かすほどの信仰」があったとしても、この「愛」が無かったならば(あるいは伴わなかったならば)無に等しいものになってしまいます。
イエス様が語られた「たとえ話」の中に、「良きサマリア人」の話があります。あるユダヤ人の旅人が荒野で盗賊に襲われて瀕死の重傷を負ってしまいます。そこに3人の立場の人が通りました。
最初は「祭司」と呼ばれる人で、神様に礼拝をささげる働きをする人でした。旅人は「ああ、助かった…」と思ったのですが。その祭司はその人のことよりも自分の立場・身分を重んじて、見て見ぬふりをして通りすぎてしまいます。
次にやって来たのはレビ人と呼ばれる人で、やはり、神様に礼拝をささげるために特別に選ばれたイスラエルの国の一部族に属する人でした。今度もその旅人は「ああ、今度こそは助かった…」と思いましたが、このレビ人も「助けてやりたいのはやまやまだが、わたしは忙しいのだ。こんなところで時間をつぶすわけにはいかない。」といろいろ理由をつけて通りすぎてしまいました。
最後にサマリヤ人と呼ばれる人が通りました。しかし、ユダヤ人である旅人は、すでに失望していました。なぜならユダヤ人とサマリヤ人とは犬猿の中にあったからです。しかし、このサマリヤ人は傷ついた旅人を見かけると、直ぐにかけよって応急手当をしてあげたばかりか、近くの町までかついで宿に泊り、看病をしてあげました。それだけではなく、そのサマリヤ人は自分の用事がすむまでその宿屋に治療のための費用を出してあげました。このたとえ話を語ったあと、イエ様は旅人の本当の「隣人」となった人とはこの3人のうち誰だったかを問われました。それは、言うに知れた「サマリヤ人」です。
「隣人を愛する」ことに必要なのは生まれながらに持っている親切心ではない。損得で判断され、用いる愛ではないのです。
私たちは「立派」だからクリスチャンになったのではありません。良いことは自分、悪いことはすべて他人のせいにしてきた「貧しい自分」に、イエス様と出会うことで初めて気付いたのです。それがクリスチャンなのです。ヨハネによる福音書10章11節には「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とあります。
キリストの心を心としていきましょう。
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●「宣教の大命令から」
2001年3月11日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
聖書の引用箇所は宣教の大命令と呼ばれるマタイによる福音書28章19−20節からです。「…それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」
神様のみ言葉は真理です。大いなる祝福を与えてくださいます。それを忠実に行うならば…これが前提であり条件です。そして、そのみ言葉は今のわたしたちの状態で満足していません。「あなたがその状態でいるのには決して満足していない。まだ、次のステップがあるのだ。」とわたしたちに語ってきます。信徒ひとりひとりが、やがて牧会することまで求められているのです。この聖句の中には、@行きなさい。A弟子としなさい。Bバプテスマを施しなさい。C教えなさい。…とそれぞれのステップアップを求められているのです。救われて教会に加わって、各集会に参加する事だけを求めてはおられないのです。次のステップは「聞くだけの者にならないでみ言葉を行う者になりなさい」なのです。ヨハネによる福音書8章31節に「もし、わたしの言葉のうちにとどまっておるならば…あなたがたは、ほんとうの私の弟子なのである。」とあります。…ただ聞くだけであるならば「悪霊」さえも(イエスがどの様なお方であるかぐらいのことは)知っていると聖書に書かれています。
「み言葉を行う」とは、教会を離れて一週間、それぞれの生活に戻ってどの様にみ言葉を活かすか…ということです。一週間のほとんどは教会以外の未信者との生活なのですから。「もし、罪が無いと言うなら、それは自分を欺くことである。」(Tヨハネ1章8節)追い求めて行けば行くほど、欠けたところ、失敗ばかりの自分に気付くこと。「み言葉を行う」とはここから始まります。そして、生活の中に翻訳されたクリスチャン生活が始まるのです。
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●「聖書のみ言葉を生活の中に翻訳する」
2001年3月18日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
今回のメッセージのテーマは「聖書のみ言葉を生活の中に翻訳する」です。また、それをもとに礼拝とは・・・牧師とは・・・信徒とは・・・について語られました。
まず、礼拝についてですが、ヨハネ4:20〜「・・・わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています。・・・あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る。・・・しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する。そうだ、今きている。・・・」
私達の教会では以前、日曜日のことを「聖日」と呼んでいました。確かに「聖別された日」ということで良い呼び方のようですが、クリスチャン生活を続けていく中で、はたしてふさわしい言葉であるかについて考えさせられた時期がありました。日曜日だけを「聖日」としていることはそれ以外の6日間を「聖ではない」「俗日」としていないだろうか・・・。ということです。その様に呼んだことがなくても間接的に表現してしまっているということです。クリスチャンにとって日曜日は教会で礼拝をささげる日です。しかし、それ以外の6日間、クリスチャンであることを忘れて俗なる生活を続けるのかと言えばそうではありません。確かに私達は日曜日以外の日であっても日々祈りますし、み言葉も学んでいます。人と人との関わり
の中でみ言葉が思い出されたりします。ローマ12:1には「あなたのなすべき霊的な礼拝」が語られています。教会で捧げる礼拝だけが礼拝ではなく、日々聖霊に満たされて主への感謝とみ言葉の実践が行われれば、その日その時が礼拝になるのです。テーマ「聖書のみ言葉を生活の中に翻訳する」とはそのことなのです。
次に信徒についてですが、使徒行伝2:42に「・・・そして一同はひたすら、信徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをしていた。」とあるように、「生きた聖書」であるクリスチャンは主を第一とする生活を人々に伝えなくてはいけません。聖と俗と二刀流の生活をしていては人々に伝えることはできません。
最後に牧師についてですが、エペソ4:11〜13に「ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師・・・」とあります。また、イエス様がペテロに語ったように、「わたしの羊を養う責任」を示しています。そして、み言葉を語る際には自分の人生観から語ってはいけません。Uテモテ3:16、17には「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。・・・神の人が・・・完全にととのえられた者になるのである。」とあり、この聖書を正しく伝えなくてはいけないのが牧師の立場です。
「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き入れて、従いなさい。彼らは、神に言い開きをすべき者として、あなたがたの魂のために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。」
へブル13:17
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●「どこへ行っても通用するクリスチャン」
2001年3月25日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
今回のメッセージで語られたのは「どこへ行っても通用するクリスチャン」についてです。み言葉は現状で良し・・・とは語っていません。常に次のステップへ進むことを語っています。それはまたひとりひとりが救霊者でなくてはならないということです。クリスチャンが教会に来ている時は、目に見える教会が防波堤となっていますが、一歩外へ出ると、6日間、未信者の目にさらされるのです。また、ひとびとは自分のことは棚に上げてクリスチャンのことを粗探しするものです。その中でもクリスチャンは主に仕えるように、この世の権威に対しても仕えていきます。世の光として輝くのです。世とは時には家庭であり、近所、地域、職場でもります。その世で愛と信頼を勝ち取って行くのです。
牧師の副牧時代の経験から、伝道は「やるぞー!」と言って出て行くようなとき、きまって自分の力で得ることのできる収穫は少なかったそうです。自分の弱さに気付き、「主よ助けてください」と真剣に祈った後に限って思わぬ収穫を与えてくださいます。また、「ねばならない」「・・・べきだ」は教会生活を苦しくさせてしまいます。私達はもともと必要なときに現実の生活の中で主への祈りと学びを忘れてしまう弱い者です。モーセが用いられたのも、人間としての「力」を用いることのできない80歳になってからその働きを示されました。また、パウロも語っています。「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」Tコリント15章9、10節
「わたしが天から下ってきたのは、自分の心を行うためではなく、私を遣わした方のみこころを行うためです。」(ヨハネ6章38節)
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●「豊かな日本?〜ウガンダ宣教〜」
2001年4月1日 礼拝時の佐藤一彦先生(滝山BBCウガンダ宣教師)のメッセージの要約です。
先日の礼拝では3年ぶりにアフリカのウガンダから帰国した佐藤先生ご家族を礼拝にお招きしての記念礼拝となりました。3月7日に帰国してから一度、太田教会の聖書研究に参加されましたが、礼拝に出席したのは今回が初めてです。佐藤先生のメッセージ内容のほとんどがこの3年間のいろいろなウガンダでの経験について語られ、それとあわせて日本との比較しながら日本の良い点や悪い点、ウガンダの良い点や悪い点。また、私たちがもっているアフリカに対する知識の間違いについても語られました。
不況不況と言われながらも「豊かな日本」と言われて続けています。ウガンダは日本と比べると、交通事情、通信事情、電気事情、水道事情、衛星事情・・・とどこをとっても劣ってしまう国です。舗装された道路はほとんどなく、電話は10回に1度繋がればよいところ、予告停電は頻繁だし、予告無しの停電もあたりまえ、雨が降れば決まって停電となる、水道の水はそのままでは当然飲めない、しかも一般の家々では電気やガス、水道、電話は一切なし。マラリヤ、黄熱病、エボラ出血熱など、死と隣り合わせの病気に対する恐怖。・・・ここまで言ってしまえば誰でもウガンダなんて住みたいと思わないかもしれません。しかし、佐藤先生がそんなウガンダから帰国して、どこにでもあるコンビニストアやデパートなどに並べられた品々を見ながら感じたことは「こんなもの無くてもいいんだよな」だったそうです。そして、せわしく歩く人々、目的も無くただぶらぶら歩いているだけの若者を見る時、ウガンダの人々の生活にある「生きる」姿が浮かんだそうです。
今日、引用された聖句は黙示録3章1〜3節でした。ここで登場するサルデスの都市はとても繁栄を誇った都市でありながら、二度に渡って外部からの侵略にあいます。しかし、再び栄えるのですが、そこで一つの警告を受けるのです。「〜あなたがたは生きているというのは名だけで実は死んでいる。〜」私たち人間は先ほどの日本とウガンダの比較に見たように、ある意味では「教会なし」「神なし」「信仰なし」「祈りなし」・・・でも肉体は生きていけるように思えてしまいますが、それらが霊の食物となればどうでしょうか。週に一度の食物では霊の健康さえも保つことはできません。霊においても肉体においても生きることに真剣でなくてはいけないのではないでしょうか。
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●「教会とは・・・」
2001年4月8日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
聖句の引用はエペソ人への手紙4章16節からです。「教会とは何なのか、教会を構成するクリスチャン(私達)は整えられて、引き上げられなければならない。」は最近のメッセージのなかで共通に掲げられているテーマです。教会が成長していくとき、量(数)的成長もさながら質的成長も求められます。ひとりひとりが実を結んでいくのです。同書の13節には「私たちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致・・・全き人となり・・・」とあります。 キリストの愛が満ちあふれる教会、他の兄弟姉妹達の魂の成長のために生き、慰め、励まし、力づけていくことが必要です。牧師の伝道初期に教会の中でさまざまな裁きや批判、分裂を経験したそうです。本来あるべき姿はTコリント12:25にもあるキリストの体の一致と調和です。その中で、質と量は教会成長にかかせない両輪の輪となるのです。「教会」とは会堂としての意味の他に、「救われた人々の集いの場」を意味しているのです。
使徒行伝6章7節にある「こうして神の言葉はますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が非常に増えていき、祭司たちも多数信仰を受け入れるようになった。」・・・は、まさに量質ともに成長している姿を見ることができます。いままで批判し続けていた祭司たち、イエスを十字架にかけた彼らの中にも救いを見出すこととなったのです。そして、この祭司たちのようにイエスを十字架にかけた私たちは今、教会に仕えているのです。
この日は午後にはとても良い天気となり、近くの公園で共に昼食をとりました。桜がとてもきれいでした。
4月15日はイースター(復活祭)です。
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●「復活祭によせて」
2001年4月15日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
今日はイースター(復活祭)です。私たちクリスチャンにとって、クリスマスと同じく、いやクリスマス以上に大切な記念日です。それは私たちの罪のために十字架にかかって死なれたばかりではなく、死をも征服し「復活」されたのですから。これにより他の宗教にもない「永遠の命」が証明されたのです。
今日の聖書の引用箇所はルカによる福音書24章1〜7節からです。
主は自然を第二の聖書として教えています。神さまの被造物そのものが神さまの存在を証ししているからです。春の息吹きはそれを強く感じさせるものです。このすばらしい季節の中で私たちは更にイエス様の復活を記念する「イースター」の時を今年も迎えることができました。イエス様の復活は永遠の希望、人生の勝利を期待させるものです。また、その思いを抱きつつこの聖句を学ぶとき、新しい感動を与えてくださいます。この2000年という時、人々の繰り返される歴史の中で、人々の目には時の流れはゆっくりでも、主にとってはあっと言う間の出来事です。現在がどうであろうと、「永遠の命」の希望が私たちを前に進ませてくださるのです。イエス様がおられるからこそ。希望は耐える力を与えてくださいます。さらに主は、ゆすり入れさすり入れ私たちを恵んでくださいます。
私たちの主は、いまも生きておられる神です。死を征服したお方でなのです。そして私たちに聖霊の息吹きを与えてくださいます。ヨハネ20章22,23節には「・・・聖霊を受けよ。あなたがたが許す罪は、だれの罪でも許され、あなたがたが許さずにおく罪はそのまま残るであろう。」
今日の引用箇所はイースターの朝の場面です。ここで見る事ができるのは、「強い者は弱くされ、弱い者は強くされた。賢いと思っていた者は、愚かな者とされ、愚かな者は賢い者とされた。喜ぶ者は悲しみ、悲しんでいた者は喜ぶ。」という姿です。それはヨハネ16章20節にあるとおりです。とかく私たちは自分の考えや見た目でいろいろ判断しがちです。しかし、人生は、人物が支配するのではありません。人生は天地を造られた神が支配しておられるのです。ですから日々の生活の中にイエス様を見出していこうではありませんか。日毎に聖書を読むことによっておのずと神様はあなたを導いてくださいます。感謝、悔い改め、讃美、信仰なくしては本当の喜びはないのです。
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●「聖書について」
2001年4月22日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
今回の聖書引用箇所はヘブル人への手紙1:1〜4「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時にいろいろな方法で、先祖たちに語られ・・・」です。今回のテーマは「聖書とは」です。私たちクリスチャンにとって聖書は週に一度開くものではなく、毎日、毎日開いて神様から感謝と祝福の言葉を聞き、学ぶものです。ましてや私たちの教会は「聖書バプテスト」の名がついているくらいですから・・・。牧師の聖書を巡る先週の話題・・エホバの証人・ものみの塔は聖書を誤って解釈し、真光はイエス様が行っていた手を病人にかざしていやす姿を自分も行っているのだ・・・と言っています。書店には首をひねってしまうようなさまざまなキリスト教関連の本が出版されています。それらはみな正しい聖書信仰にない著作・出版会社によるものです。
聖書とは何でしょうか・・・?
1啓示について
(1)一般啓示
○自然界から
ローマ1:20「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と新性とは、天地創造のこのかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁明の余地がない。」
詩篇19:1「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。」
○人間のもつ良心から
ローマ2:15「彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互いにあるいは訴え、あるいは弁明しあうのである。」
(2)特別啓示
○聖書とは・・・
Uテモテ3:16「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」
2聖書自身の証言
(1)旧約聖書の神的起源
(2)新約聖書の神的起源
Uペテロ1:20,21
「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。」
ガラテヤ3:22
「しかし、約束が信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人の下に閉じ込めたのである。」
聖書をとおして、神さまの側から語りかけてくださるのです。聖書は何回読んだから極まる・・というものではない。読むたびに味わいが異なってくるものです。そして、私たちの心の状態に応じて響いてきます。
み言葉にふれる習慣を身につけましょう。
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●「クリスチャン家庭の成長」
2001年4月29日(日) 能牧師のメッセージ要約です。
今回から、第5週のプログラムが変りました。約4ヶ月に一度やってくる第5週。この日の使い方について考えてまいりました。第5週に限らず、主の日における子供達の過ごし方は本来、大人と同じように礼拝を守るべきです。日曜聖書学校(SBS)が終わってしまえば後は遊び・・・ではいけないのです。
このことはまことの「幸せ」についても通じるところです。本当の幸せは「イエス様」を中心にしてこそ実現するのです。また、その幸せはこの世の必要でもあります。ここしばらくは子供達にもわかりやすい内容の聖書のお話をするつもりです。また、こころがけようとしています。つまり、子供達の成長とともに教会も成長するものでありたいのです。
「あなたはいのちの道をわたしに示される。
あなたの前には、満ちあふれる喜びがあり、
あなたの右には、とこしえにもろもろのたのしみがある。」詩篇16:11
「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。」
使徒行伝16:31
どんな人々にも「あの人は不幸だ」と思われる状況の中でも、主への感謝あふれる家庭こそ、幸せな家庭と言えるのです。アダムとエバの罪は「人間」に罪が入ったことを表していますが、ある意味では、「家庭」に罪が入ったことを表しているとも言えるのです。
クリスチャン2世たちは1世達よりももっともっと霊的にも成長していってもらいたいものです。それとともにこの教会も大きく成長するものでありたいのです。
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●「聖書とは」
2001年5月6日(日) 能先生のメッセージの要約です。
今回は引用聖句はテモテへの第二の手紙3章16節です。この箇所は「聖書とは・・」を語る上でとても大切な聖句です。
「聖書は、神の霊感によって書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」
最近、テレビで、「瀬戸大橋」建設についての詳細を伝えたドキュメント番組がありました。海を渡るための強大な橋を支える一番大切な部分とはいったいどこでしょうか?それは橋脚のさらに根元部分にある構造物だそうです。しかもほとんどが海面下で、人の目に見えたとしても、海面からわずか数mのところまでだそうです。「大切な部分は目に見えない部分」・・・・それは人生に通じる部分があります。すばらしい人生には大切な土台、いや、しっかりした土台がなければすばらしい人生はありえないのです。
なぜ、聖書は時を超えて永遠のベストセラーと呼ばれるほど偉大なのでしょうか?それは聖書自身が神様のみ言葉だからです。太田教会の土台をしっかりと支えていくものは、あの「砂の上の家と岩の上の家」の話にたとえられます。たとえそこが砂地だったとしても岩地がでるまでしっかりと掘り続けるべきです。
霊感を受けた聖書は神様が働きかけたことによって生まれた書であり、神様の霊によって生み出された書、神様の息吹とも言えます。
神学的には@機械霊感説(人間の意思や人格に関係なく)A人間のインスピレーション説(人間の気分の盛り上がりによる)B部分霊感説(思想霊感説:神は信じているが、人間理性を重視。最終的には自分の判断)C言語十全霊感(神はあますことなく聖書の中におさめた・・加除すべきものはなにもない)私たちの信仰はCの上に立っているのです。
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●「母の日によせて」
2001年5月13日(日) 能先生のメッセージの要約です。
今回の引用聖句はペテロの第一の手紙2章24節です。
「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
今日は「母の日」にあわせてのメッセージです。最近、テレビでは「明日があるさ・・・」の言葉がたいへん流行っているようです。歌の内容は現在のサラリーマンのやるせない毎日の姿を良く表しているようです。その中でも「明日」への希望を胸に、また元気を取り戻そうとするのはとても理解できます。しかし、この通りにならないものもあります。それが家庭、それが子育てでもあります。「わかっていてもできない。」「時間がない」「子供たちと触れ合う時間がない」・・・・は「明日があるさ」ではすまないところがあるのです。
かつての日本は天皇への忠誠を旗印に戦争への道を歩んでいましたが、敵弾の中へ突き進む戦士たちの叫びは「おかあさん!」でした。「天皇万歳」の声もこれには勝てなかったわけです。「母」の意味は、父とは違う意味を聖書は語っています。子育ての基準は「神」にあります。「母」はただ単に母性本能だけで築くことのできない「与えつづける愛」を現しています。それは、神様の愛に通じるところです。人間はいつの時代でも乾きつづける者です。神様は乾き続ける人間に永遠に乾くことのない泉となるのです。
なぜ、聖書の中から母の日の行事が生まれたのでしょうか。幼児虐待が年間3万件と言われる今日。子供達の命の尊厳、父母への愛、父母の権威・・・はいつの時代でも生活から生活へ、世代から世代へ確実に影響を与えていっています。その中で、完全な父母、完全な子はいないことに先ず気づいて、完全なお方「神様」に従い、完全な神様をとおして父母の権威を教え、子を育てることが大切です。神様を源としてでない限り、人の愛は沸きあがることはないことに気づくのです。・・・自分自身のためにしか生きられない。神なき世界(自分の欲望を絶対視すること、)これが罪なのです。
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●「力強い讃美」
2001年5月20日(日) 能先生のメッセージの要約です。
本日の聖書の引用箇所は歴代誌下29章20〜31節です。牧師がアメリカやフィリピンの教会を訪れた際に感じたことは、「力強い讃美」だったそうです。アメリカの教会ではその聖歌隊のすばらしさとオーケストラに圧倒されたそうです。また、フィリピンの教会では楽器こそ少ないながらも、信徒達の喜びあふれる讃美に感動したそうです。
讃美とは何でしょうか?それは、
@神様自身を誉めたたえるために。
A自分の信仰そのものを表しています。
B祈りです。
C感謝の献げものです。
・・と言われます。
@讃美の主体は神ご自身であることです。
A私達がどのような信じ方をしているのか、クリスチャンになる前の「神」知識と違う讃美の内容そのものです。
B旧約聖書にある詩篇は、私達の心の内、あらゆる心の姿を言い表しています。詩の中に私の讃美があり、悲しみがあり、安らぎがあり、慰めがあります。・・・詩篇は朝ごとに夕ごとにデボーションの時にふさわしい箇所です。まさに祈りと言えるのではないでしょうか。
なぜ、クリスチャンは讃美するのでしょうか? 今日の引用箇所「歴代誌下29章20〜31節は南朝ユダの宗教改革をしたヒゼキヤ王の記事です。このなかで先ず、ヒゼキヤ王が「罪祭」をささげる姿を見ることができます。「罪祭」とは、私達人間が知らず知らずの間に犯してしまう「罪」の赦しのための犠牲です。次に、「燔祭」または「全焼のいけにえ」をささげる姿です。「私の全ての存在は主よ、あなたのものです。」という信仰告白です。それは献身の意を表すものです。最後に「感謝のささげもの」「酬恩祭」をささげる姿です。罪赦された感謝の意です。
「だから、わたしたちはイエスによって、讃美のいけにえ、すなわち彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。」ヘブル13:15
参考にエペソ5:18 とコロサイ3:16のみ言葉も味わってみてください。
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●「主を第一とする生活」
2001年5月27日(日) 能先生のメッセージの要約です。
今日の聖書の引用箇所は申命記11:18-20です。
「それゆえ、これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、これを子供達に教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語り、また家の入り口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。・・・」
教会には小学生、中学生、高校生・・・青年、壮年、老人と様々な立場の人達がいます。特に小学生から高校生まではやがて世に出ていくまでの大切な時期です。
「三つ子のたましい百まで・・・」「子は親の背中を見て育つ」・・・などと言われています。肉体的幼児期、精神的な幼児期はとても大切な時期です。しかし、何よりも大切なのは、その時期に「主を第一とする生活を体で覚えていく」ことです。
また、神様から与えられているものを正しく管理していくことです。時の管理を正しくすることを求められています。讃美の生活、祈りの生活、学びの生活です。また、あわせて「富の管理」も神様の前に正しく用いることを求められています。お金の奴隷とならずに献げることです。1/10献金をささげる必要性は、「毎月、定期におこづかいが与えられた頃からささげ始めるべきです。」 金額の大小に係らず、1/10は神様に属するものであることを自覚させるのです。 9/10に対して自由に使うことを覚えるのです。さらに、その中から愛する者達へ心を使うこと「配慮」を覚えさせるのです。自分の自由と責任・・・知恵。大人になってもかかすことの出来ない原則を身につけるのです。
「…ひとは私たちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。この場合、管理者に要求されているのは忠実であることである。」 Tコリント4:1-2
また、ハガイ書2:8には「わたしのものであって、わたしのものでない・・・」とあります。私自身の健康も、妻も、子も・・・全ての良きものを主から受け取っているのです。
有名な山上の垂訓のなかにある「まず、神の国と神の義とをまず第一に求めなさい」マタイ6:33 や、「あなたがたは神と富とに兼ね仕えることはできない」マタイ6:24はともに私たちクリスチャンのあるべき姿を示しています。クリスチャンは心の王座にイエス様がいる人達のことです。しかし、油断をしていると、いつのまにかその王座に別の主人が座っている時があります。アダムとエバの失敗も目の前の出来事に心を奪われた結果です。自立無き子供達とは第一のものを第一と出来ない子供達のことです。
1/10献金は義務のように見えますが、義務ではなく、律法でもなく、神様の恵みに対する私たちの心からの「愛」の証しです。神様はわたしが活きた神であるか、死んだ神であるか献金をもって試みよとマラキ3章で語っています。
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●「信仰義認〜それでも私はクリスチャン!」
2001年6月3日(日) 能先生のメッセージの要約です。
今日のメッセージの主題は「信仰義認」です。聖書の引用箇所はUコリント12:5〜10です。
私たちクリスチャンの生活の中で「それでもクリスチャンか!」…と他の人に言われたことはありませんか?この言葉は時には自分に対しても使ったりしています。また、ある時は牧師や宣教師に対してもそのように感じたりしたことはないでしょうか?…今日は、その中でも「自分はそれでもクリスチャンなのだろうか?」と思ったときのことについて語っていきたいと思います。
自分がこのような場面に遭遇したとき、「何ていやな自分」とクリスチャンであることが喜びでなく、逆に自分にとって苦痛になったり…そういった経験は多かれ少なかれ誰でも持っているのではないでしょうか?。信じたばかりのあの燃えるような感情は、どこへ行ってしまったのでしょうか。真面目であればあるほど、そのような葛藤はおこります。しかし、クリスチャンであるみなさんはぜひ叫んでもらいたいのです。
「それでも私はクリスチャンなんだ!」「永遠の命の側についているんだ!」その名を信じた者が神の子クリスチャンなのです。周囲の人がそれを決めるのではありません。
失敗の無いクリスチャンはいないのです。牧師も宣教師も。…でも、牧師、宣教師は「私は救われてはいないんじゃないかな…」と思う人はいません。聖書の上に立った理解や献身への霊的経験がその信仰を支えているからです。
5月病と言われるストレス症候群があります。クリスチャン生活でもそのような時期はあります。それにはいろいろな原因があります。
@理想と現実とのギャップに悩んで・・・・ A純粋さから・・・・ B聖書に関する無知のゆえに・・・・
「信仰義認」とは、イエス・キリストを罪からの救い主として信じることによって義とされることです。ですから、決して行いによるものではない。
Tヨハネ3:6〜9の御言葉はクリスチャン生活でしばしつまずいてしまう箇所です。この箇所は「自分は救われていないんじゃないか?」「信じていないのでは?」と思わせてしまうところです。ここで教えているのは「罪のうちを習慣として歩み続けないこと」です。クリスチャンとノンクリスチャンとの違いは、「人間だからあたりまえ」「変わるならおまえが変われ!」という考え方を持つか、罪が自分の中にあることを知って更に御言葉の中に歩もうとするかの違いです。また、クリスチャンは赦されることを知っています。だから、罪の道に歩み続けることはなく、途切れています。(いつも悔い改めていく姿)
そして、クリスチャンであればぜひプライド(誇り)を持ってもらいたいのです。新興宗教(ご利益宗教)は数多くの祝福を売り物にしています。また、ご利益の無い中にその人の「罪」の結果を当てはめたりします。その様な考え方を教会に持ち込まないように気をつけるべきです。大きな教会が良い教会で、小さい教会が悪い教会ですか?私たちの信仰は、人間中心の考え方に立ったものではありません。
パウロは12章の中で、7節〜そこで、高慢にならないように私の肉体にひとつのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、私を打つサタンの使いなのである。〜彼には、目の障害があったと言われています。このためにパウロは何度も祈ったといっています。私たちの十字架・復活は心だけの問題ではなく、歴史的な事実なのです。
ルカ22:31
しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。
Tコリント10:13
あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐え られないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
Uコリント12:10
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行きづまりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
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●「信仰義認」
2001年6月10日(日) 能先生のメッセージの要約を書です。
今日のメッセージの主題は先週に引き続いて「信仰義認」です。聖書の引用箇所はガラテヤ書2:15〜3:7です。今週は「信仰義認」について聖句を手がかりにして調べ、整理していきたいと思います。
大切なことは、「救われる」ための条件・・・それは「信じる」という信仰だけなのです。そこにはクリスチャンらしいか、らしくないかなどの基準はありません。
「信仰義認」はガラテヤ書、ローマ書、ヘブル書の中で多く扱われる問題です。当時、それぞれの教会内ではいつのまにか分裂や分派、不信感がはいってきて、やがて律法主義へと進んでいくことになってしまいます。聖書の中ではこれらの問題を「偽教師」として表現しています。これら、偽教師は「イエスを信じるだけでは足らない・・・」と主張して、数多くの旧約時代の律法を再び持ち出してきてしまったのです。これらの律法は、ある意味では「熱心さ」を表すものでありました。それは、イエス様を信じるだけでは足らない人たちには「安心感」となって、浸透していってしまいました。さらに困ったことに、これらの安心感(〜ねばならない)(〜しなければならない)はやがて、十字架による救いを否定することにつながっていってしまったのです。特に正しい信仰を持っていた人たちはそれらの教会を去っていくという状況の中、このガラテヤ書は書かれたのでした。
いくつかの聖句を見ていきたいと思います。
ガラテヤ書3:1
ああ、物分りの悪いガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、誰があなた方を惑わしたのか。
ガラテヤ書3:2
・・・あなた方が御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。
ガラテヤ書3:14
それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、私たちが信仰によって受けるためである。
ガラテヤ書3:24
このようにして律法は、信仰によって義とされるために、私たちをキリストに連れてゆく養育掛りとなったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛りのもとにはいない。
※信仰の出発点、原点は十字架です。クリスチャンの言う「救い」とは行いによらない、修行 などによるものではないのです。
ガラテヤ書2:16
人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、私たちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。
ローマ書3:20〜22
なぜなら、律法を行うことによっては、全ての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
ローマ書3:28