「夢工房21」 11月6日発行   母の死

★ 県家庭科教育研究大会を翌々日に控えた日。1時間目終了直後、とうとう携帯電話
 が鳴った。「母が危篤」と兄からである。授業中に連絡があるのはこの場合のみなのだ。
  「すぐに行くから」と連絡をとる。しかし、1日の授業の前時は終えなければいけない。
 算数の授業をしながら、混乱する頭の中で今後のことを判断する。5時間目の予定だ
 った家庭科を、急遽3時間目に行う。子供たちにも事情を話し、2時間目のうちに大会
 までの連絡を済ます。

★ 3時間目の家庭科の授業を終えて、すぐに母のもとに行きたかったが、大会当日の
 準備物を済ませなければいけない。他校に行っての授業なのだ。仕方がない。子供
 たちにも大いに手伝ってもらう。「先生、残りはやりますよ」とM。子供心に担任の窮状
 を気にかけてくれているのだ。心の中で涙である。
  その準備の最中だった。11時40分ごろ。兄から2度目の電話。「亡くなった」と。

★ その夜、埼玉の母のもとについたのは11時近くであった。傍らには父。すっかり憔
 悴しきっていた。私を見ると、深々と礼をして、母親の耳元で「母さん、正寿がきたよ」
 と涙声で叫ぶ。むろん答えるはずもない。「お嫁さんに来た顔のまんまだ」とも言った。
 46年という生活。常に一緒だっただけに痛いほど父の気持ちがわかった。
  その夜はろうそくと線香の火を消さずに見守る。県家庭科研究大会で睡眠不足の自
 分のことも頭をよぎるがそんなこと、言っていられない。

★ 翌日は通夜、告別式、火葬等、もろもろのことの打ち合わせを兄、父と共に行う。や
 や早めだったが、3時半ごろ失礼させてもらい、一路宮古へ。新幹線で少しは授業の
 準備をしようと思ったが、とてもそんな気になれなかった。
  宮古についたのは11時ごろ。これから、前時の反省、そして本時の細案を練り直す。
 布団についたのは1時ごろ。翌朝、いくらか早く起きて再度検討である。

★ 睡眠不足の中、大会の授業を行う。でも気力は充実していた。母親がきっと後押し
 してくれたのだろう。「何かがのりうつった」というのが本当にあるんだと感じた。

★ 大会終了後、すぐに埼玉へ。11時ごろ通夜終了後の中へ。
  母の兄弟6人がいた。母は7人兄弟の3番目。ただ一人の娘だ。その7人の中で一番
 早く逝ってしまった。兄弟も無念であろう。
  通夜会場にそのままいて朝を迎える。

★ 告別式。厳粛にそして淡々と式は進む。
  父も自分の思いをぐっと胸にしまっている。
  しかし、最後のお礼の挨拶で、その思いが一気に出る。「妻は、『人生はドラマだ』と
  常々言っていました。でも、こんなことになってしまった。人生ははかない・・・」 最後
 は声が詰まってしまった。周囲も思わずもらい泣きをする。父の思い、何よりも深かった
 たのだ。

★ 告別式のあと火葬。小さな骨になってしまった母。そして、お墓への埋葬。
  ずっと雨だった。
  帰ってからの精進落ち。参列した全ての人の感謝しつつ、自分も痛飲。母は黄泉の地
 に旅立ったのだ。形としての肉体がなくなったしまうと、改めてそう思う。

★ 翌日は、残務整理。そしてその翌日は、父母の住んでいた家に行き、遺品の整理であ
 る。数多くの遺品。とっておけるものはすべてとっておくという母の生活ぶりが伺える。
  中には、自分が父母あてにあてた手紙、孫にあたる我が家の娘達の小さい頃の絵もあ
 った。この家で、この絵をみながら、父母で孫の成長を話していたに違いない。しかし、そ
 のような生活はもう戻ってこないのである。寂寥感に襲われる。
  
★ 翌日帰宅。志をいただいた方々へのお礼等、すべきことはまだまだある。
  しかし自分にとって長い長い3ヶ月はひとまず終焉を迎えた。
  ここに書いたのは今回の母の死に関わる事実のみである。母に対する自分の思い、そ
 んなことはもちろん書くことはできない。


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