折口信夫の別荘日記

2001年06月の日記

■2001/06/01 (金) 橋の名は愛染橋

◇再開する。とはいえこのところどうも気が滅入ることばかりあるので、うまく言葉がはずま
ないかも知れないのでそこんとこよろしく。

◇ちょっと前に買った本
*「同時代の歌人たち」玉城徹  1000円

 玉城徹というのは変わったひとだな、というイメージがある。一度だけ昔ひとの出版記念の
会でお見かけしたが、独特のオーラというのがある、という感じではなかった。むしろそうい
うものを打ち消すような淡々とした雰囲気があった。これは玉城の昭和52年、1977年刊
行の時評等を収録した評論集。とはいえ古い収録文は1963年のものが納められているので、
ほぼ15年、時期的には「前衛短歌運動」が後退戦をしていた時代、ということになるが、ど
うも時代の空気というのはそういう言葉で伝えられるほど単純でもないと思える。
 完読はまだだが、たとえば「悪魔の不参加−『現代短歌’66』管見」という一編だけでも
私は充分におもしろかった。『現代短歌’66』という、前衛短歌運動の後期のものに属する
アンソロジーの書評である。篠弘は荒正人の「前衛短歌が知識人の知的遊戯に過ぎない」とい
う説に講義しているが、篠はこれで「知的遊戯」というものに対するいわれない軽蔑を結局は
告白してる、と玉城はいう。そして「知的遊戯」の復権を求めるのが、むしろ前衛なのでは、
と書く。
 現在のある「遊戯」としか見えない短歌作品にも充分つなげることが出来る(無理にしなく
てもよいが)論だとは思う。
 玉城自身は自分を完全に「非前衛」としていたわけで、その点からの塚本邦雄批判もおもし
ろい。「ハムレット」に関して、「われわれ日本人のなめらかな、清潔な、おとなしい生活か
らはそう簡単に邪悪など期待できない」ので、「邪悪ごのみ」があるだけにすぎない、とかい
ている。是非はともかく論の立て方と言葉の選択になるほど、と思う。
 またそれなりに前衛系の批評史ではあまり読めない引用歌も少なくない。
 下記のもそんなのね。

 「 月 」   昭和十五年作   小関茂

   正月から仕事の余暇に反射望遠鏡をつくる。毎夜鏡面を磨き、九月完成す。
   上海事変起る。

錆びついた望遠鏡の蓋とれば鱗粉のように光つている泉

悪辱の日は終り、途方もなくしんかんとした月の出であつた

あれはやはりこんな夜であつた。激しい息をしながら見た月であった。

私はその新しい機械にしがみつき、わななきながら己れの月を見たのであつた。

(中略)

いつの日か、私はロケットに乗り、そうだあの「雨の海」へ降りようか

 全体の作品は15首の連作で、ある古くささのなかにある妙な意識の高揚がある。

◇昨日届いた雑誌
*「Es郡蝶」 同人形式短歌誌とでも呼ぶ。 創刊号 82頁

 あー。
 ・・・・・・。
 また、あー。
 ・・・・・・。
 さて何が上記の四行を産むかというと、私ってこんなに「同人文芸誌」というものに愛を
失っていたのかねえ、という感触ですね。これを頂いた人はみなどう思ったでしょうか。
 とりあえず新創刊同人誌(とはいっても雑誌としては、結社誌でも同人誌でもないものを
作りたいということで、雑誌のタイトルも「Es」のとこだけ残して一号ごとに誌名を変え
るらしい。うーん。それは評価したほうがいいのかは私はよくわからない)で、装丁は高麗
隆彦(はあ。プロですね。)さんの緑できれいな本です。
 創刊者は、加藤英彦さんという方で、ひょっとしてこの間マラソンリーディングの二次会
とかでお見かけした背の高い方かな?
 同人は、天草季紅・江田浩司・加藤英彦・北久保まりこ・小玉隆・崔龍源(なつかしー)
・遠海よしお・村松直子・山田消児で、今号寄稿が、野村喜和夫(詩作品)・生野毅(俳句
作品)で、ヴォリュームは充分。

◇楽天的なマニフェストなど誰も読まないわけで、創刊にあたっての発行者加藤英彦さんの
一文は、「それでも私たちは、これを出す」という追いつめられた感覚と、しかし悲壮は嫌
うという、落ち着いた宣言ではある。
 しかしなんでだろうなあ。
 どこかに「古い同人誌」の匂いというか光彩というかを感じちゃうんだよねー。
 なんでだろうなあ。
 あ、なんか「路上」読んでるような気もする。
 では何が新しいのかというと確かにわからないんだけどね。
 短歌作品では村松直子さんのものがよかった。

◇村松直子作品

あれはねえ鼠じゃなくて囓られた山鳩でした落ち葉の下で

その次の鳥は「まだまだ風風」と泣いて飛び去るようにも見える

境内に不在の時は本堂の裏で穴掘りなどしています

 でも「山脈に鷹が狂いていしことを告げなんとする胸はずませて/中村恵一」みたいな、
失敗した前衛継走の余韻のようなものを感じてるからおもしろいのでは、とも思うんだけ
どね。うーん。なやむなー。

■2001/06/02 (土) 虹のさらなるコメディ

◇実は今日は現代俳句協会青年部の名古屋シンポだったらしい。
 いきたかったような気もするし、まあいいような気もするし。

◇もうちょっといつ買ったか忘れた本
*「ナディン・ゴーディマは語る アフリカは誰のものか」岩波ブックレット 50円
*「井上ひさしのコメ講座」岩波ブックレット 50円
*「栄光なき天才たち」1巻 100円
*「魂に季語をまとった日本人」秋山巳之流 2600円
*「仁義なき映画論」ビートたけし 文春文庫 150円
*「虹のヲルゴォル」橋本治 講談社文庫 100円
*「月二十詠諷」 著 治達好三 (と表紙に書いてある) 250円
*「ニューロマンサー」W・ギブスン 100円
*「とうに涅槃をすぎて」橋本治 150円
*「みつえちゃんがいく」青木光恵 100円
*メンズマガジン20冊で 1000円
*「聖書を旅する2」犬養道子 250円
*「創元推理21」 500円

◇「ものを書くということは、混乱の中に秩序と条理を見出し、
 人生の信じ難い浪費の本質を把握することである」
                 ナディン・ゴーディマ

 浪費!

◇「諷詠十二月」は昭和十七年刊行の詩歌俳句のアンソロジー。
 当たり前だが戦前なので戦後詩はなし。一月ごとに詩歌を引用して評釈するんだ
 けどこの「十二月」の項目が、すごい。飯田蛇笏の「雲母」連載の俳句評釈をも
 とに、といって30頁ほどをはじめるのだが、その蛇笏の評釈の文をほとんど全
 部使っていてびびる。ほとんど自分で書いてないのである。
 個人的には、俳諧の作品引用にこころひかれる。ほとんど小池正博さんの世界で
 ある。蕪村の菜の花の句など。

菜の花や月は東に日は西に

菜の花や鯨も寄らず海暮れぬ

菜の花にみな出しまひぬ矢橋船

菜の花や晝(ひる)一しきり海の音

菜の花や遠山鳥の尾上まで

 あと短いさいばらと入れても催馬楽と出ず西原と出るけれど理恵子ではなく。

  無力蝦

 力無い蝦(かへる)
 骨無い蚯蚓

 これだけのやつとかね。「短いもの」の妙な楽しさは不思議である。

◇藤原龍一郎さんの日記で、歌集『東京式』を寺山修司賞への意を持って出したと知
 って、あ、と思う。自分はほんとに新人賞も十年以上応募したこともないし、歌集
 も出したことがないから、そういうものを問うように出して、その結果を受け取る
 という気持ちをしばらく味わったことがない。というかそれはこちらの想像力不足
 だし、人の意識へのカンの鈍さであるだろう。何もかも悟る必要はないが、ひとが
 ものや作品にこめた想いに鈍感ではいたくないと思う。

■2001/06/05 (火) 監督ジョニー・トゥの名はおぼえて損はない、らしい。

◇買いたいけど買ってない本
*「荒川洋治全詩集」 荒川洋治

◇今日届いた本
*「遊子」8号 特集 山田消児歌集『アンドロイドK』批評

◇某歌人にこれはいいと思った、とメールすると「お、これはいいね。破調に
 しなくていいのにね」という返事が返って来た、「Es群蝶」の引用歌。

あかげらが樹幹をうがつ音ひびく森できれいな少女がうんこをしてゐた 松平修文

◇「関ヶ原掲示板」に書いてあった詩人の長澤忍さんの新しくつくるらしいHPの
 内容。

 HP「SNアーカイヴ」の第一次コンテンツは、
 詩「U]]T」など
 書評「逆式魚類図鑑」
 映画評「EUREKA」
 詩論「田村隆一への手紙」
 エッセイ「レントゲン通信」

 第二次コンテンツは、
 詩論「2222年の詩学」序章
 詩論「守中高明論」

◇AV雑誌「ビデオボーイ」2000/8月号映画「EUREKA」評

 その期間を、3時間37分という長尺で、しかもけっして多いとは言えない
 台詞で、しかもモノクロで綴る本作は、間違っても「面白い」作品じゃない。
 いわゆるサービス精神旺盛な娯楽性は希薄だから。カンヌはこういう、批評
 家が小難しいことを論じやすい映画が好きだねえ。ちなみに筆写は20分ぐら
 い爆睡。起きたときに目に飛び込んできた九州の風景が、ごっつう気持ちよ
 かったですたい。               (筆写サイン・スタカ)

◇江里昭彦第一句集『ラディカルマザーコンプレックス』(1983年12月20日初版)
 のあとがきより。

 私たちがこの時期、いかに豊かな富を手にしたか、その証左となりはずです。
 「1900年」「暗殺のオペラ」「旅芸人の記録」「アレクサンダー大王」「
 木靴の樹」「エボリ」「女の叫び」「メキシコ万歳」「ストーカー」「モスク
 ワは涙を信じない」「愛の奴隷」「機会仕掛けのピアノのための未完成の戯曲」
 「ある結婚の風景」「秋のソナタ」「ゲームの規則」「ミッシング」「約束の
 土地」「ハンガリア狂詩曲」「メフィスト」「ヘカテ」「マリアブラウンの結
 婚」「自由の代償」「ブリキの太鼓」「六十七番の子供たち」「フィッツカラ
 ルド」・・・・(「モリエール」は関西ではまだ公開されていません)

◇「ガニメデ」ってどれくらいのひとが読んでるのかしら。

■2001/06/16 (土) こんばんわ、腑抜けです

◇どうも魂が抜けたようになってる。
 腑抜け、というやつですね。

◇頂いた本
*「きさらぎ連句会通信」 特集 乾裕幸 56号
*「パピエシアン」 2001年6月号
*「遊子」 第八号
 
 小池正博さんのきさらぎ連句会通信は本当におもしろい。
 腑抜けなのでなんにも書く気にならないのだけど、それでもこういうものが届くと
ははあ、と感心してこれは書かねばと思ってしまう。
 この通信は何度も書いたけど、小池正博さんという方が一人で編集発行しておられ
る連句研究の小冊子。しかしそのなかの文章の「おもしろさ」のクオリティの高さは
並ではない。
 それは結局わたしが見慣れている「短歌の引力圏の言葉」と「連句に関わる言葉」
の違いのように私には思える。
 「パピエシアン」の、大辻隆宏の連載だっておもしろいのである。「未来月報」か
ら読みとれる、混乱期ともいえる結社誌「未来」の草創期をめぐるエピソードの追跡
は、充分おもしろいのである。しかし小池さんの文章とは「明るさ」が根本的に違う
気がする。それは大辻一人ではなく、多くの歌人の文章が抱え持つ「暗さ」との差で
はないかと思う。
 それは短歌というジャンル自体に染みついた妙な高邁が持つ暗さのようにも思える。
 「連句」、そして現在の連句が常にその祖型として持つ「俳諧」は、世俗的普及と
学究的深化及び堆積が見事な融合を遂げているジャンルのように私には見える。
 大岡信をはじめとする現代詩の詩人達の「連詩」や「連句」がいつもやわらかい明
るさをたたえているように見えるのは、もちろんこうした形式が「個」に執着する極
度な難解や苦悩へ潜り込むようなモチーフにはあわないからだが、「連句」と「俳諧」
とのつながりの中にある、「時間をさかのぼりきらない詩情」というもののなかに、
その遠因はあるのではないか。
 もちろん江戸俳諧について無知に等しくても、捌き手の導きさえあれば連句に関わ
るのは可能だろうが、「連句」そのものの現存在というのは、膨大な量の残存資料を
持つ江戸期の文筆との関連のなかにあるように私には思える。

◇現在の歌人に妙な「暗さ」があるとしたら、ガチガチの個人個人の作家性を通って
しか、こちらはこちらでがんとしてある「短歌」の歴史的現存在へたどりつけないか
らではあるまいか。
 あ。
 昔小池光が「雁」で書いていた「不思議な文章」のようになってきたぞ。

◇「前後左右」現代短歌・雁 32号 1995/2月刊より

同人誌『餮』に酒井次男という人が書いている「現代短歌の視点」という連載評論は
まことに不思議な文章で、本がとどくたび茫然と眺めるわけである。近号の一節を紹
介させて戴く。「<成立以前の文章>が<現在の幻の幻の私的現実の情況の文脈>で
あって、<成立時の文脈>が<作品の内部の幻の幻の私的現実の情況に対する現在の
幻の幻の私的現実のわれの幻の幻の私的観念の情況の文脈>であって、成立の形が<
作品の内部の幻の幻の私的現実の情況を『幻の長歌』として現在の幻の幻の私的現実
のわれが幻の幻の私的情況を歌う『反歌』>となる短歌つまり<公的現実の情況の短
歌>つまり<『成立以前の発語主体』を『現在の公的現実の彼または彼女』とする『
現実描写』または『直喩』による『三人称の文体』の『現実の世界の文学』>として
の短歌」。
 かれは短歌の種類を七つに分類するがそのひとつの定義が右である。
                     (以下略。文末のサインは(光)名義)

◇まあそういうのはさておいて。
 今号は昨年亡くなった乾裕幸の「研究者」そして「連句人」としての両方にどこか
開放された「人格−作家性」を見ようとした、とても質の高い好特集だと思う
 興味を持った方で未見の方は私までメールをいただければ小池氏に転送させていた
だくから、本当に一度目を通してもらいたいと思う。



■2001/06/18 (月) 俳句文学館

◇創価学会の用事で集団上京。みんなでバス借りて奈良からでて、またバスで奈良まで
 戻ります。いきがけは宴会旅行のような雰囲気になってわたしはそういうのは苦手な
 ので引きましたが、なぜかそういう雰囲気にまじると穂村弘の顔をなつかしく思い出
 してました。「e短歌サロン」で、荻原裕幸が穂村弘の歌は時間がたつとなじむ、 と
 いうような言い方を小高賢はしていたが、それは時間ではない、といっていてそれは
 それでとても説得力があったのだけど、それでも人間としての穂村弘の受け入れ方や
 「恃み」の「綱」的な感覚はなによりも「時間」がもたらしたものではないかととか
 ふと思って「穂村弘」と「時間」という書き込み短文を頭の中で考えたりする。

◇時間があったので俳句文学館にいってみました。前から気になっていた自分が「琴座」
 に昔書いた文章をコピーしたかったのと、短歌結社誌のバックナンバーがいまもある
 のか確かめたかったので。えーと、場所はJRの大久保の北口を出て備え付けの地図み
 るとすぐわかりますね。五分も歩けばすぐ。大宮にあったと思ったんだけど実は大久
 保でした。田中啓子さんがメールで教えてくれなかったらいけなかったと思うので、
 感謝。短歌結社誌は、昔誰かはここで短歌人のバックナンバー見たとかいってた気も
 したんですがとりあえず「短歌人」も「かばん」もなかったです。俳句はほとんどあ
 るみたい。今井豊の「流星」も西川徹郎の「銀河系つうしん」も山村裕さんのもある
 よ。「騎」もあります。整理の仕方が確かにきちんとされていていいですね。新聞の
 俳壇関係記事スクラップも開架式で並べられてて、利用料100円の価値はあるような。
 句会等で使用出来る会議室もあるみたいで本日は「かりん東京歌会」をやってました。

◇おばさんが対馬康子の句集を読んでいておじさんが平畑静塔とかの「京大俳句」の合
 本を見ててとかで、資料室は狭いけどほんとに必要な人が来る場所という感じでいい
 ですね。「琴座」の文章は全部コピーとって来たので、全部アップします。8年ぶり
 で読み返してみると(なぜか「琴座」はあるとき思い立って全部処分してしまった)
 高校生が一生懸命新聞投稿欄に投稿してるような感じの文章で、いま考えてることと
 全く変わってないとこもあったりで、自分で泣けて来ます。コピー代は一枚50円と高
 いですが(でも昔って結構コピーって高かったよね。B4で20円とかしなかった?)合
 本にしたやつではなくて、予備の同じ雑誌からきれいにとってくれたりとかきちんと
 ホッチキスで止めて鉛筆で何年何号とか書いてくれてたりとかしてくれて、封筒にも
 入れてくれるのでなかなかよいのでは。とはいうものの自分ではなく人数の少ない高
 齢の女性職員の方がやるので、時間かかっちゃってそれは大変。

◇コピーが出来上がるまでの閲覧雑誌からのメモ。

 磯巾着に恋人の影がさす     波多野爽波

 桜しべ潜る着物の奥へ奥へ    波多野爽波

 この明るさは百一歳の春の松   中尾寿美子

 生水をのみて大きな青葉かな   中尾寿美子

 ふぐりあるゆえ甚平を着せらるる 藤田湘子

◇帰りのバスの中では映画「シュリ」のビデオを見ました。実は初見。最初の訓練シー
 ンがすごいですね。話はなんとなく昔の「キイハンター」のような感じがしますが、
 「銃」と「血」の扱いの即物性がアジアっぽいような感じ。というようなとこで。

■2001/06/19 (火) 胸の葡萄が走るのよ

◇届いた本
*「恒信風」vol13

 13ヶ月ぶりの恒信風である。俳句同人誌である。メンバーはアサヒネットの文芸のところ
や、アサヒネット内の句会かららしいが北野勇作・長島肩甲など現役作家もいるのが特徴か。
 俳句というのはつくづく難しい文芸だと思うのは、みな新鮮な作品は求めてはいるものの、
どこかに新鮮さを求めるこころと同じくらいに懐かしさを求めてるということで、これは限
りなくオリジナルっぽい複製品を作る作業にどこか似ている。
 そういうなかで文芸論的切磋琢磨や、人生論的成長などをおりこみながら、俳人として立
っていこうとするものはやってかなきゃならないわけだけど、これはこれでものすごく読者
を選んでいくんだよね。エンターテインメント性が、かなりスキルを必要とするから。アニ
メやミステリーみたいに消費者としての読者というのでは成り立たないのである。
 とはいうものの、そうした中で、エンターテイメント性を切り離すように俳句を作るとい
う方法もあるわけで、「恒信風」がやってるのはそこに近いですね。

・スカートを履いたら夏の終わりだった  長島肩甲

・オレンジとノートを持って海へ行く   北野勇作

 こういうのは瞬間的な詩情の575形式への定着ですね。松本隆みたい。

・竹とんぼ北京の秋を惜しみけり     植松大雄

・月よりの使者がくるくる盂蘭盆絵    優璃

 これらは伝統俳句でいう「句柄」が形式にソフトランディングされてる例ですね。ちょっ
とした甘さやひとりよがりっぽさがあらわれるのはそのせいですな多分。

・こほおろぎやうしろ海鳴る能舞台    佐怒賀正美

・松過ぎて倉庫の壁はトタンかな     寺澤一雄

 このあたりは作者の「出自」の見えるひとたちですね。

・青い青い青い布団をわたされる     亀山鯖男

 わかる−わからないの境界線上の句ですね。

・金色のペン立てや避暑いちにちめ    丁田杵子

・そらいろのかみせっけんやさみだるる  丁田杵子

 自分が句を書くと言うことをすごく大事にしてるんだな、というのが丁田さんの作品か
らは感じられますね。それはひらがなの字面で、視覚的な音韻へこだわろうと無意識にし
てるからじゃないですかね。音韻へのこだわりには虚無感がある、と誰かが書いていまし
たが虚無を含む自分の生やこころのありかたが、資質的なかわいらしさの向こうに必死さ
をかいまみせてるような気がします。ただこうした「我」の出てる作品は俳句の「稽古性」
をメインとする感覚からは「自己主張」になっちゃうわけで、そこはこれからどうしたほ
うがいいのかは、考える必要があるのかも知れませんね。
 飯田龍太が「雲母」の句会でなぜ金田咲子の句をいつも落としたのか、みたいな話です
けどね。

 エンターテイメント性を切り離すというのは短歌でいえば「かばん」なんかもそうです
ね。逆に超学際性というか、形而上学性を切り離すというのが「未定」かなあとかも思い
ます。そういう意味でこの三誌の構成員がちょっとかさなったり親しかったりするのは、
当然なのかもね。

◇「未定」の新体制が整いました。新編集部は清水愛一さんだそうです。あと、来年度に
 おいて富澤赤黄男の特集号を、高原耕治さん編集でつくるとか。結局「未定」の方向性
 からは坪内稔典特集とか夏石番矢特集とかいう方向は出てこないんですね。それはなん
 かそれでいいんじゃないかと思いますが、どう俳句総合誌の文化圏を内的にくりこんで
 いくのかというのは難しいですかねえ。

◇詩同人誌「はちょう」の新しい号が出て、17日が批評会だったとか。小林弘明さんが
 いらしてて、あんなに文章書くと難解なのに、口頭での批評はすごくあたりがよくてわ
 かりやすいらしい。それはそれは。奥村晃作さんと小林弘明さんの対談とか企画してみ
 てはどうでしょうね。

◇いくつかの掲示板の変容がおもしろいですね。
 ひとつは関ヶ原掲示板。↓

http://www.exist.net/sekigahara/bbs.cgi

 長澤忍さんの日録的書き込みから発展して、現代詩のひとつの小サークルのコミュニテ
 ィになってますね。掲示板というのはどんなにオープンに作っても所詮クロージングし
 ていくとこがあるんで、そこになんかその掲示板独特のフィーリングが出てくるような。
 ここ二三日は佐佐木誠さんという、詩人の方が五月に自死されて、いくつかの沈痛な書
 き込みがあります。詩人の自死の意味というのは、なんというか近代百年でなにも変わ
 っていないのかもとかも少し思いますね。

 笑わなければならぬと思いこんだ男はいつも泣いていた
 泣かなければならぬと信じこんだ女はいつも笑っていた
 泣き笑いの売り買いで一日の生活は剰り
 算術のような年月の浮き沈みは狂いもなく
 足しても引いてもあと一日がのこった
 その男がおれでなかったならば
 数百の意味を半値で売りはらい
 ようやく二三の新語を買い
 にこやかに家へかえればいいのだ    (『神聖家族』菅谷規矩雄より)

 ちなみに一度書きましたが、長澤さんは顔が「散種」してますね。
 このあたりの人は、ヤリタミサコさんとかもそうですが自分たちの営為が歌人俳人
 とかそういう人たちとほとんど関係性を持たないということに限りなく無頓着です
 がそのあたりはどうなるのかな。

◇もうひとつはマラソンリーディング掲示板。↓

http://bbsi3.otd.co.jp/335047/bbs_plain

 石井辰彦さんがこれもオペラクラシックコンサート系の鑑賞や情報の日録的書き込み
 をされてて、私にはちんぷんかんぷん(ちょい死語)なんですが、松井茂くん大井学
 さんという読み手とともに、かなりくわしい東京シティオペラタウン化してますね。
 歌壇とは切り離された場所でずっとその営為を続けられていた石井さんの持ってる情
 報や経験の質と量がウエブ上で解放されはじめてるという感があって興味深いですね。
 短歌の問題はつまり「教養」の問題であるというのは、知らんぷりをしようとしても
 なかなかそうはいかないんじゃないかと思いますね。若手の歌人の中で黒瀬珂瀾がち
 ょっと抜け出てるとしたら少なくともこの点に置いては一線の歌人達と共有してるも
 のがあるからじゃないですかね。

◇あと川柳雑誌「MANO」の掲示板。↓

http://www60.tcup.com/6011/akuru.html

 ここも、石部明さんの日録的書き込みが、川柳の現在の一局面を確かに描きだしてい
 ると同時に川柳作家がいかに忙しく日本中を移動してるかというのもよくわかるよう
 になっていると思う。日記書けばいいのにね石部さんとか思うけど、書き慣れない人
 が日記に費やす時間の量を思うとまあこういう感じのほうがいいかもとか思う。

◇松岡正剛の書評のページがあるのをご存じでした?↓

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html

 詩集歌集では俵万智の『サラダ記念日』『平田俊子詩集』なんかの感想があります。

■2001/06/20 (水) ユニバーサルスタジオエキゾチックジャパン

◇届いた本
*「塔」6月号

 三月書房からの代送で、水須ゆき子さん−ぽっぽさんより「塔」六月号を送ってい
ただきました。ありがとうございました。送っていただいたのはこれに水須さんが、
『四月の魚』の歌集評を書いてくださってるから。ウエブ上の文章より固い文になっ
てる感じがしますね。あと、小さい便箋が同封してあって、「PS:『四月の魚』うち
の店でもこの頃よく売れてます」と追い書きが。てめえ身ぐるみぬいでおいていけ。
それは追い剥ぎ。

 三月書房にいけばいつもバックナンバーが置いてあるんですが、買ったことがなか
ったので、改めてじっくりみて感慨深いです。私がよく知ってるのは1980年代前半く
らいの「塔」で、確か中とじだったんでは。高安国世さんがまだ存命で、河野裕子さ
んもいなくて、印字はタイプ印刷風で、短歌作品にルビは触れなくて( )内に入れ
るとかいうものでしたね。現代歌人文庫にも入ってる清原日出夫の『流氷の季』の、
高安国世の序が結構初期からこの当時もかすかに残っていた「関西アララギ」→「塔」
の空気をきちんと書いてるので未読の人にはおすすめ。
 えっと今一応複数選者制なんですね、「塔」って。同人欄が、自選歌欄で、あとが
永田和宏の一首選・河野裕子の選・池本一郎・花山多佳子・田中栄・栗木京子のそれ
ぞれの選となってるんですね。
 誌面全体の台割として、一頁二段組で短歌がだーと並んでると見るのがきつくて、
ある程度別のレイアウトの記事的なものをはさんでる方が見やすいですね。結社誌と
してどうこうはともかく、そういう見やすさ、よく出来てるような。
 その十数年前に「塔」の歌会におじゃましていたときの人の名前があるのは、はは
あ、とかやはり思いますね。

 読み物としては、なんというか「やはり」トリビアルなものの方がおもしろいです
ね。
 たとえば河野裕子さんが選歌の下に「ちょっと」という単語の旧仮名の場合の表記
をめぐって国文学資料研究所とかに食い下がるようにして「正しい表記」を求めると
いう話とかですね。
 あと吉川宏司さんの編集後記も、校正をしたが、仮名遣いの誤りが多い、と書いて
いて多いのが、

×「さはぐ」→○「さわぐ」
×「かはく」→○「かわく」
×「ことはる」→○「ことわる」

だと書いていてこれは間違えるよね、とか思ったりする。

◇なぜ間違えるかというと、基本的にその人にとり旧仮名が不自然だからだとぼくは
思うがどうだろうか。

 やはり、というのはあの、短歌ってやはり韻文だから、韻文というのは散文との対
比で成り立つんであって、それは川と陸地というかそういうものだと思うんですね。
 だから川の流れが生活排水で汚れてるとかしたらそれは流域の開発の問題であると
かですね。
 岩波『短歌と日本人』があんまり反響らしい反響を呼ばなかった(かに見える)の
はそういうトリビアルさへ向かう歌人のこころをうまく吸収出来なかったからといえ
るのかな。
 ちなみに私はこの岩波のシリーズが終わったあとに富岡多恵子が松浦寿輝との対談
で「短歌の人っていうのはそりゃあ自身満々なのよ」といってたのが印象的ですね。
 それがどういう意味かは深くはいってなかったですが、なんとなくいいたいことは
わかるような気はしますです。

 加藤治郎さんの日記を読むと「未来」の先日の記念大会には永田和宏さんの講演が
あったそうで、読者は選者だ、というような論を展開していたとか。なるほどね。近
年の結社論なども含めた評論集が読みたいところですね。価格が高くならないように
ブックレットみたいな形とか、リキエスタの会が出してるオンデマンド本みたいな形
ででませんかね。

 さっきから作品を一首もひいてないんだけど、妙に引くのに抵抗を感じて(笑)。
 うーん。なんか「普通の歌」と感じる歌が多いので引けないんですね。
 でも「普通の歌」ってなによ。

 あとこれは「未来」とかもそうだったと思うんですが新入会の方の住所も電話番号
もしっかりのせてて、ははあ、とか思いますね。もちろんこの方が整理とかでも便利
なんでしょうが、ああやっぱり内輪の本なんだなあこれ、とか思いますね。
 「かばん」も内輪といえば内輪のような気もするけれどどうかなあ。うーん。

 まだトリビアルなことをいうと、8月の終わりに宮崎で塔の大会をするんだそうで
すが、「託児所」をもうけてるんだそうで、これはちょっとびっくり。でもあったほ
うがいいですよね。90年代は俳人の集まりに出ることが多くてほとんどが孫のいる
年齢の人だったからそんなこと考えたこともなかったですね。

■2001/06/21 (木) サザビーのバッグに鳩の死骸をつめぬ

◇定例チャット参加

正岡
ただしんいち
松木秀
田中槐
きちく
子犬さん(にしきみ)
岡田幸生
きねこ
きわみ
なかはられいこ
ぽっぽ

こころにのこったことば

田中鯛(リクエストあり)

◇メロンって夏の季語って知ってた?
 まあ瓜だからねえメロンも。「胡瓜」も「糸瓜の花」も夏の季語ね。

 籐椅子にペルシャ猫をるメロンかな  富安風生

 金を以ってメロンの皿の瑕をうづむ  後藤夜半

 母とゐてこころ足る夜のメロンかな  白雨

 青メロン運ばるるより香に立ちぬ   日野草城

■2001/06/22 (金) 思いがけず風の蝶

◇買った本
*「ミッドナイトプレス」12号      1000円プラス税
*『現代美術コテンパン』 トム・ウルフ 250円

田中庸介さんのところの掲示板に松本圭二さんという方が
書き込んでらしゃいますね。

http://www62.tcup.com/6200/yosuketanaka.html

えーと、こっちに書かないほうがいいかな?
田中さんもしみててやめてほしかったら削除しますね。
発端はミッドナイトプレスの「ミスター・フリーダム」という松本さんの論で、
私は全編読まずに「中也賞の選評が」「モテモテってどっから出て来るん
だろう」とか書いたんですが、今日全編読んでこれは表裏一体というだ奴なと思いました。
そいで帰って田中庸介さんの掲示板をみたら、松本さんの書き込みがありました。
ちなみに「モテモテ」というのは「ガチガチの現代詩」のたぶん反対語ですね。
この2頁の論、前半は現代詩の一部のきわめて高度な達成が松本圭二さんにとっていか
にかけがえない高度なものとしてあるかということが書かれてあります。

「ただこれが、ひとたび現代詩を読むという体験に転じると、私は時に信じ難いような
『大いなる自由』を感じることがあります。それはほとんど奇跡のようだとさえ思う。
というのもそこで体験した自由ほど力強く、大きく、切なく、勇敢で、新しく、懐かし
く、超繊細で、破天荒で、つまり調和の幻想に具体的に勝利しているものを、他のどの
ようなジャンルにも見出せないだろうと思うから。冗談ではなく本気でそう思います。」

繊細だけど粗暴な感じでさらにこういう「現代詩の最高さ」を語った文は続くんで、
これはぜひ本屋の店頭とかで読める人は読んでみてください。
この松本さんの論って、かなり全編に気がくばられていて、こうした感動を与えるもの
を「20世紀後半」の「日本の現代詩」の一部、5冊くらいはそういうものがある、
と区切ってます。そこは「詩」といっちゃうといろんなものがはいっちゃうから、よけ
いなものはどうでもいいんでしょうね。

◇というとこまで昨日書いたんだけどなんかどうでもよくなってきた(^_^;)

詩なんて読者のエリア区切っちゃうとその内部でどんどん高度化してゆくと思う
んだよね。それはそれで当たり前だと思う。

あとは田中庸介さんが「自分は孤独だ」といわないといけない、というのも
つらいところのような気もする。見ればわかるのにね。

掲載の詩では、長谷部奈美江さんのが、ちょっと古い気はするけど落ち着いた
質感の日常−非日常の溶解する場所を言語化してるような感じ。
須永紀子さん、このあいだ朗読聞いたから、小さな姿が浮かびますね。
新宿西口のバス放火事件のフラッシュバックの詩で、最近あのあたりに
妙にくわしくなった(3日も4日もうろうろしてりゃくわしくなるよ)
ので納得して読んだ。
藤原龍一郎さんと柴田千晶さんの短歌と詩の共同作品は、なんか段々
笙野頼子みたいになっていくような。二時間ドラマっぽさは「方法」
であるから、それ自体にこちらが引くような感持っちゃいけないんだ
ろうけど、やはり持ってしまいますね。
田中庸介さんはリアルというキーワードで現代詩の現在を語っていて、
これは私よりも荻原裕幸のほうが親和性高い論なんですね。

> 90年代の現代芸術の戦線は、この「ディスコミュニケーションとの
> 戦い」に収支した。

と田中さんは書くわけですが、なんだか「そうかなあ」とかぼくは思って
しまいますね。

谷川俊太郎・正津勉の連続対談は手話の専門家の米内山明宏という方が
ゲスト。「もうひとつの言語」としての手話をきちんと語ってますね。
夏石番矢は「世界俳句」という俳句の拡大解釈へ向かったけどこうした
「手話」での俳句に向かっても良かったし、境界領域の俳句に向かって
もよかったんですね。今の夏石さんにそういう中から自分が「世界俳句」
を「選択」したのだという意識がないところが、「立場」だけが突出して
ゆく感の出るところですね。

◇俳句誌「鵞」 第35號 1994/3月刊(端渓社)より

  瘋癲日乘記

            八田木枯

みちのくの大臣(おとど)おもふに夜長かな

鬼房を句敵にして菊を食ぶ

鬼房は沖から來たり海桐の實

鹿狩りのむれのひとりに鬼房が

子規の倍生きて忌日を尊びぬ

菊吸蟲(きくすひ)や年とつてこそ見ゆるもの

老人がゐて萩むらの紅からむ

老人にして老人を見守る日

たかむらや雁金こゑ濡らし過ぐ

人老いて菊にかがめば菊のいろ

年よりの肩のあたりが十三夜

老境にとり入れておく龍の玉

◇うーん。私は八田木枯さんの句はあんまりぴんと来ないなあ。

◇あとなんばジュンク堂ではKAWADE夢ムックのフェア。
 まど・みちおとかそういうのしか目につかなかったが、
 並べて見るとこれはこれで別ラインで組んだ「ETV2001」みたい。

◇「国文学」俳句の争点ノートを立ち読み。
 大西泰世さんが、俳句と川柳の差についてものをいう立場に
 辟易すると書いてるのにそりゃそうだろうなあとか思う。
 俳句と川柳の差がわからない人は結局川柳がわかってないだけ
 だと私は思うんだけどね。

◇「トリッパー」が東浩紀と大塚英志の対談。
 まだ未見だった東浩紀の対談集も立ち読み。
 村上隆との対談で、岡崎堅二郎について二人で意気投合してる。
 「文脈読み」という言葉に、うーんと思う。

■2001/06/23 (土) 私だって愛しているっ!

◇実はこの六月の十日で、この日記は一周年になっていて、しばらく書かなかったし、
 もう止めようかと思っていた。そうこうしてるうちに錦見さんが日記を削除してし
 まった。こういう日記というのは、「書く」ことはイコール「書かない」ことをは
 じき出していくことで、この文はほとんど読書や詩歌に関する話ばかりだから、対
 人関係とかはほとんどそういうはじき出されるほうになる。再開して今思うのは、
 それってそれでいいんじゃないかと思うことね。もちろん近親に病気や死去とかが
 あったりしてまで書かずにいることもないが、これはこれで、私という個人の生の
 「部分」でいいのではないかと思っている。

◇止めようかと思ったのは、ウエブ上の日録というのを藤原さん荻原さん加藤さんが
 書き始め書き続けたことによって、作品を発表するという形以外の歌人のウエブと
 の関係のありかたがひとつ何か進んだのではないかとか思ったこともある。とはい
 うもののそれも含めて気にしすぎることもないな、とも思ったりする。

 90年代はもう終わったのだ。

 現代詩・短歌とかいうそれぞれの詩の形式や流通の制度はその内部から大きく変化
 することはないように思う。変化するとしたら外側から、「小説」や「記事」とい
 ったものが繰り出してくる言葉の消耗感に、ひとがあきて、ちょっとそっぽを向き
 出すときではあるまいか。

 詩が文学を変えるのではなく文学が詩を変えるのではあるまいか。

 と思いつきでまた書いてみたりなんかして。

◇『現代短歌全集』筑摩書房 増補巻の収録歌集一覧。

第十六巻 解説 佐佐木幸網
     昭和四十六年〜五十四年

   輝く時は        松坂 弘
   森のやうに獣のやうに  河野裕子
   直立せよー行の詩   佐佐木幸網
   やきしき志士達の世界へ 三枝昂之
   右左口         山崎方代
   青き菊の主題      塚本邦雄
   瞑鳥記         伊藤一彦
   天唇          村木道彦
   望郷篇         浜田康敬
   湧井         上田三四二
   鵞卵亭         岡井 隆
   メビウスの地平     永田和宏
   汽水の光        高野公彦
   牧歌         石川不二子
   わが心の帆       太島史洋
   月           来嶋靖生
   桜花伝承       馬場あき子
   縄文紀         前登志夫
   なよたけ袷遺      永井陽子
   バルサの翼       小池 光
   花綵列島        築地正子
   わがからんどりえ    小中英之
   帆を張る父のやうに   松平盟子

第十七巻 解説 大岡信
     昭和五十五年〜六十三年

   紫木蓮まで・風舌    阿木津英
   無援の抒情      道浦母都子
   とこしへの川      竹山 広
   楓の傘         稲葉京子
   花群          今野寿美
   北方論         時田則雄
   秋照          武川忠一
   柘榴の宿       富小路禎子
   渚の日日        島田修二
   中也断唱        福島泰樹
   昨日の絵        篠  弘
   耳の伝説        小高 賢
   水惑星         栗木京子
   父、信濃        田井安曇
   青葦          春日井建
   ラビュリントスの日々  坂井修一
   サラダ記念日      俵 万智
   サニー・サイド・アップ 加藤治郎
   天の鶴群        岡野弘彦
   水陽炎        小島ゆかり
   夏空の櫂       米川千嘉子
   森の向こう       冬道麻子

◇こうなってくると角川の「現代俳句大系」も十五巻以降の
 増補が欲しいとこですが、うーん望んでも無理かな。
 冬道麻子って誰?

◇ちなみにうちのOCRは、

×「無援の拝借」→○「無縁の抒情」
×「中也師唱」 →○「中也断唱」
×「猪の日日」 →○「渚の日日」
×「膜鳥記」  →○「瞑鳥記」

 と読みました。まあこんなもんかな。

■2001/06/24 (日) イベント案内

◇イベント案内

◎7月1日 東京

「7・1朗読バトル 辰巳泰子VS藤原龍一郎」

日時:2001年7月1日(日)午後7時から9時まで
場所:三鷹市芸術文化センター星のホール
交通:JR三鷹駅南口からバス5番6番7番、徒歩なら15分
料金:入場料2000円

◎7月22日 奈良

「第三回短詩型文学を語る会」

日時:2001年7月22日(日)午後一時より五時まで終了後軽食パーティ
場所:奈良「ろくさろん」(新薬師寺横)
会費:五千円
第一部 講演 竹中宏
第二部 座談会 堀本吟(司会)岩城久治 小池正博
第三部 会場と共に
第四部 パーティー同所より

◎8月17日 京都

「学生短歌2001」

■日時 8月19日(日)〜21日(火)

■場所 聖護院御殿荘
〒606−8324 京都市左京区聖護院中町15
JR京都駅前バス停D2乗り場より、市バス206で約30分。
「熊野神社前」下車、徒歩5分。
電話 075−771−4151

■プログラム
第1日(8月19日)  一般公開のイベント
12:00 受付開始
13:00 開会
13:10 公開歌会
パネリスト  学生5名
15:00 シンポジウム「相聞の現在」
パネリスト  学生4名
 + ゲスト 正岡豊氏・小林久美子氏

ウエブ↓
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/5774/gakutanhome.htm

◎8月26日 東京

千葉聡歌集『微熱体』・植松大雄歌集『鳥のない鳥籠』勉強会

◎9月2日 名古屋

玲はる名歌集『たった今おぼえたものを』批評会

■2001/06/24 (日) イベント追加

◇イベント追加

◎6月30日(土) 大阪

■吉増剛造講演&パフォーマンス+A・ソクーロフ監督『ドルチェ』上映

 6月30日 PM:2:50の上映会のみ、『ドルチェ』(63分)に
 吉増剛造のステージをプラス。

 大阪九条駅下車 シネ・ヌーヴォ(ホームページあり)

 前売り一回券1300円

 吉増っていつも知らない内に大阪に来てるという気がするなあ。

◇草思社のPR誌「草思」7月号に高橋秀実という人が「妻の殺意」という一文を
 書いていて、これが激オモシロ。内容は、去年横浜で起きた、妻が夫をフライパ
 ンで殴り殺したというような話を発端に、みそ汁の味が薄いといったら、包丁を
 投げつけられてかわしたけれども結局スリッパの上から足の甲をさされた夫の話
 とかが書いてある。大きな本屋ならただでこの本くれるから読むといいのだが、
 あとアメリカでも「妻に暴力を振るわれた夫」というのが激増してるとか。途中
 『「ふぬけな男」の使命』という見出しなんかも出てきて思わず雑誌に顔をうず
 めかけてしまう。最後の所の女性と男性のすれ違いの感覚は身につまされる(笑)。
 これはある意味で「逆『黄昏は逢魔が時』」である。ちなみに巻頭エッセイは新
 連載、アーサービナードさんである。

◇きょうはかばんの関西歌会。
 あとなんというか時候としての半夏生のころって、蛸を食べる(土用に鰻を食べ
 るみたいなもんか)というのがあるらしい。だからというわけでもないが、終わ
 ってから明石焼きを食べに行く。

◇終わってから奈良国際県男子部幹部会。
 本日の東京都議選は、公明党候補全員当確が10:30分ごろ出た。

◇ちょっと前に読んだ本
*『四千万歩の男』蝦夷編 井上やすし

 ぼーっとしていたころに読んだ。伊能忠敬の話なんだけど、実は「伊能忠敬」と
 いう映画がもうすぐ公開されるんだそうで、おい! という感じ。いいのかねえ、
 そんな映画。講談社の日本歴史文学館というののシリーズで、文庫も出てるんだ
 けどね。江戸っておもしろいよね、というのと、江戸期の対アイヌのひとびとの
 描写が悲惨ですね、という感じ。

◇今日もらった本
*『ぼくの小鳥ちゃん』 江國香織 あかね書房

■2001/06/25 (月) ところであなたは何をしている方ですか?

◇今日届いた本
*「はちょう」合号 

 田中啓子さんより「はちょう」を送っていただきました。せんきゅー。
 えーと、結構松本圭二さんの田中庸介さんの掲示板への書き込みの文章が頭に
 こびりつきますね。

 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おまえら一人勝ちしたいだけとちゃうんか。
 おれはしたいよ。ガチガチの現代詩でな。

 という奴ですね。でも一人の詩人なり歌人なりとして名前をはってやっていくという
 のはどっちにせよそんなもんですわな。で「はちょう」ですが。現代詩の中では現代
 詩であることは自明であるわけだから、あとはその中でのなんていうのか偏差値とし
 ての評価と個人の嗜好による評価の混ざり合いですね、同人誌現代詩というのは。小
 林弘昭さんの詩では後半になんかよくわからない興奮があるんですが、やはりここで
 「アルトー」はないんではないかとか思いますね。松原牧子さんの歯痛の詩もああ、
 という感じ。詩手帖の五月号の田中宏輔さんの詩も歯痛で終わってたような。小笠原
 さんのは申し訳ないけど私は飽きました。

◇佐多さんのは親しくなることの恐怖がテー
 マで、これはもうテーマ選択の部分で半分ぐらい詩が済んでるみたいですね。伊藤真
 一さんって朗読会のときに辻斬りがくるのを待とうか、みたいな詩を読んだひとだっ
 たかな? 小演劇的な構成感があるような今号の詩も。それでも短歌同人誌の短歌よ
 り退屈しないで読んでしまうのは、私の内的なかっこつけたがりのせいか? どうか?
 どうかなあ。

◇読んだ本
*『ぼくの小鳥ちゃん』 江國香織 あかね書房

 「あたしはあなたの小鳥ちゃんよね?」

なつぞらを翼のはえた漆黒のピアノが飛んでゆく夢を見た

帰るのね むかし星間戦争に負けた記憶は閉じこめたまま

なつのひの小鳥はクロワッサンなんて食べないわ りんごヨーグルトをね

きのうまでひとりで明日からもなおひとりね 夏のパラグライダー

  夜
  るりびたき
  きゅうり
  リコーダー
  ダイナマイト
  トマト
  とんび
  ビルディング
  ぐず
  ずる
  ルンバ
  バス
  すずめ
  めがねざる

うつくしいまはだかの その なつのひの 西瓜を包む網のひしがた

ストッキングとその下のラスト一枚を同時に脱いでいた キクノハナ

ぼくたちの間はヨットがアメリカンカップをひらけるほどの液体

大事なものはもっとたくさんあったのに一箇所ばかりさわりあってた

さいこうにうつくしいドレスを明日買ってと夏の滝壺のなか

(えーと、『ぼくの小鳥ちゃん』という本は別にエッチでもなくて、いわゆる
 アップタウンラブストーリーというか感性が生活実感を食い破ってるような
 おはなしですね。生活実感!)

◇今日買った本
*角川「俳句」7月号

 幻の俳句ライター、青嶋ひろのさんがこの夏も「例句総入れ替え!」の「季寄せ」
 を作ってくれました。本誌には金子兜太・夏石番矢・長谷川櫂の名前だけみたら、
 もっと面白くなるはずの鼎談があるんだけど、ちょっと読んだところでは、うーん
 なんか、長谷川櫂の顔写真がやたら記憶に残るだけのような感じですね。
 季寄せは、これでトータルで4回目、夏と秋では二回目かな。高屋窓秋とか、永田
 耕衣のセレクトが新鮮ですね

・やっと死ぬ父よ晩夏の梅林  飯島晴子(晩夏)

・晩涼の闇にこころの魚はなつ  上村占魚(晩涼)

・スリッパの父眠り籐椅子を出るヘリコプター  島津 亮(籐椅子)(無理だ(笑))

・千年の父牧神の昼寝せり  高屋窓秋(昼寝)

・新しき蛾を溺れしむ水の愛  永田耕衣(蛾)

・人生かがやく空瓶に蠅すみつきて  島津 亮(蠅)

・すばらしい乳房だ蚊が居る  尾崎放哉(蚊)

・蜘蛛に生まれ網をかけねばならぬかな  高浜虚子(蜘蛛)

・先生が瓜盗人でおはせしか  高浜虚子(瓜)

 ほかに、秋・冬もあり。ぜひ一部お買い求めを。

■2001/06/26 (火) 34.5度

◇あついー。
 夏だー。

 夏なのにひとりのきみが探してるアクアラングをみつけてあげる 豊

◇届いた本
*俳句同人誌「quqtre」No.12

 キャトルと読むそうです。フランス語で第四? か何か? 半疑問型? 女子高生?

女子高生 お願い
彼を取らないで
ぴちぴちの 素肌に
お姉さん 負けそう
 (飯島愛のCDより。曲名忘れた。)

 はじめて戴きました。「未定」の住所録からかな。大阪拠点の俳句誌みたい。4人
 でやってるような。若い人かな? 

春の蚊を連れて夜汽車に乗り込みぬ  中田美子

東京は春です父の誕生日  杉浦圭祐

ビー玉の中の青空桜桃忌 金山桜子

こいのぼり背筋の風やユーラシア 上森敦代

 なんで俳句や現代詩だと好意的に読んで、短歌の同人誌だと妙な反感を感じるのか。
 つまり私は短歌に対しては傲慢なので、鏡のようにその傲慢がはねかえってくるから
 だろう。いやなやつだ。まあそれはそれとして、有名なお菓子のいわれでも書いた冊
 子みたいに品が良くて右から左へ流してしまいそうな同人誌だけど、それなりに品の
 よさで見てしまいますね。杉浦さんという人の、自分の父との関係を書いたちょっと
 した文は、このごろの文芸誌によくある、名前を覚えきれない新人賞作家の小説みた
 いで、おもしろかったです。風景の流れ方がそんな感じなんですね。でもモチーフや
 誰に読んでもらいたいと思ってるのかはいまいちわかんないですね。作品は、ちょっ
 と「船団」の句のような明るさを感じますが。川柳の「MANO」みたいな切迫感は
 感じないですね。

◇読んだ本
*『グレン・グールド 孤独のアリア』 ミシェル・シュネデール

 やっと読んだけど、グールドのピアノって聞いたことないんだよね(爆)。
 それは意味なかったような。シェーンベルクとかいうカタカナを見るとそれがどうし
 たんだよ!、といいたくなるようなこのごろである。

*俳句7月号の「季寄せ」の「秋と冬」も読む。うーん。
 前の1月のよりもなんとなく、選がちょっと散らばってるような印象を受ける。
 選ってほんと微妙だなあ。たとえば

行水のひざのまはりのなにもなし  森賀まり

 という句があって、これはもう付け加えるものもはずすものも何もない俳句だと思う
 んだよね。

◇でこういう句から見ると多くの句は、「自己主張」の強い句に見えちゃう
 のね。今回の選はちょっとそんな風になってるような。これはでも、回数と微妙な生
 活や年齢の変化があるよねえ。本誌に作品載せてる人間より、この歳時記つくってる
 青嶋さんのほうが遙かにわかいのにね。

・ぬれ髪のまま寝てゆめの通草かな  赤尾兜子

 あとは草田男というのが、こうして並べるとなんか変な感じになりますね。

*本誌の金子・長谷川・夏石の三者鼎談。
 長谷川櫂は話をほんとに芭蕉に限ってるとこがあって、これはなんというか一種の居
 直り的な立場ですね。「遠山に日の当たりたる枯野かな 虚子」の句を、多くの人に
 読ませて、どこに日が当たってるかと聞くと、遠山と応える人と、枯野と応える人が
 半々になってしまう、だからこれはある雰囲気の上の句なのだ、というような内容を
 展開してて、ははあとは思いますね。長谷川さんは人生人生とくり返し言っていて、
 ひとつの文芸の形式としての虚子を中抜きして芭蕉に接続しようとすれば、いったん
 近代の生活意識を払拭して、スピリチュアルとソウルの未分化な日本的男性性の「生」
 の正体にモチベーションもっていかなきゃしょうがないでしょうね。
 夏石さんは、論としてはあんまり振るわかなかったような感じで、ばからしかったの
 かな、この対談。「世界俳句」というのがわかってもらっていない、という感じがあ
 るのか、どうか。ですかね。

◇松岡正剛「千夜千冊」第289夜 『春日井健歌集』より

 ぼくがそのとき26歳くらい、春日井建はもう32歳になっていた。けれども、のちに中井
英夫さんが思い出めいて語ってくれた言葉によれば、「あれは歌壇に緑色の稲妻みたいな
衝撃が走ったんだよね」という歌集『未青年』は、春日井が20歳のとき、1960年に上梓し
たものだった。

 和歌や短歌というものは、俳句以上に、読者がこれをいつどのように読むかによって、
変わって見えてくる。その変わりぐあいは、日本がつくりあげた短詩型のなかで随一であ
る。
 ぼくも歌集を読むには、その日をみはからう。今日は歌集を読めるかな、そういう感覚
のおとづれが必要なのだ。これが読む側の権利というか、横着というか、つまりは勝手な
醍醐味というもので、それをまちがうと、一冊の歌集など、すぐ死んでしまう。

■2001/06/27 (水) ボス、しけてるぜ!

◇このごろの自作短歌でホームページにのせてないのをまとめてみる。

★京都駅ルゲンシウス

 霧であることよりもなお肌寒く帰郷してゆく自衛隊員

 外事二課 カルシウム不足のきみが越境をしたぼくの国土よ

 「あなたの悲しい熱帯でこごえるよりはまだベルマーク集めがましよ」

 「今夜出る人民列車が最後なの、ねえどうしてわたしといかないの」

 <語りえぬものの語りはいかにして可能か> くろぐろと列車の影

                  「ラエティティア」5号 2000年10月

★秋の色に似ている

 おおぞらをひとかたまりの紅葉と紅葉が打ちあいて滲むも

 紅葉はきみに似ていていささかの羞恥とともにゆくみずのうえ

 一瞬ののちに失われるものがわたしとあなたの間にあった

 緑のくにと紅蓮の国の境界でほんとうは別れるべきだった

 ほんとうのことほんとうにあらぬこと 秋燦々と皆既日食

 その奥の言葉は緋色 湾内を人間魚雷はすすんでいった

 ぼくがいま秋のバベルの塔ならば鉄橋の下のあなたはなんだ

 みずときみきみと紅葉の記憶だけ欠落させてゆけ秋の汽車

                 かばん連作歌会 2000年11月

★歌会用

        題「唇」
 ジョバンニをいじめたザネリの唇は魚の鰭よりあたたかだった

 半月がいやがりながら中天にのぼっていったのを忘れまい

                 東京KAJIN倶楽部歌会 2001年1月

★光のホテル

 ふゆかぜがいなくてはならないひとをいられなくした時代があった

 人工の犬をあの家から盗みかわりにふくらし粉を置いてこい

 脇役になるとかならないとかじゃなくぎゅっと生レモンを絞りたい

 ラストダンスは兎とそれも着飾った、暗くて、陽気で、傷だらけのと

 映理子さん『紅天女』をやりたがる北島マヤはときに雲雀だ

 ゆさゆさと雪の積もった綾杉をゆすれば空を落ちてくる雪

 ウクレレを弾くほどのちからでぼくへひきずりこめたあなたであった

 いつまでも変わらないこころはないの、ないのよ、かみなりうおの雌雄よ

 チャイコフスキーのCDが鳴り響かない街の写真を撮り続けてた

 ロシア語はいつでも少ししめってておいしい紅茶の匂いがしたわ

 海鳴りになるまで鳴らし続けようねずみ色したきみの携帯

 罪と蜜、ムラサキウニと警笛とぼくのからだとそとの冬霧

 きのうまで才能のある若手だと思っていたよ吉川宏志

 「ひかり」から降りてあかるい産道のような真冬の東京駅を

 こわれないでもたもてないたましいの人体はいま光のホテル

                  「WE ARE!」 2001年1月

★月 卿

 鯨の尾消えたる海が眼前の桜の隙間に見えてさびしき

 なでしこがひとを吸い込むみちはたにうわくちびるのごとき揚羽よ

 注射器の針の穴よりあらわれしスウェーデン人に麺麭をもらいぬ

 春星とたけのこと漆職人の旅終わりみな物真似師へと

 山火事に「清一郎」と名を付けて鉄塔を焼くまでを見ており

 母の手がいくつもの陶片に割れ海うつくしき夏はじまりぬ

                  かばん6月号 2001年4月
★歌会

    志賀直哉旧居
 サンルーム 何を失うならねどもひかりの下に座すはかなしき

 奈良というちいさな惑星の上であなたに水を注いでいたい 

 樹の間よりもれるひかりに雄鹿の角を男は切り落とすかな

                 かばん奈良吟行歌会 2001年5月

★木霊演劇団

 昼の野に曲げた背中をのばすとき静かに咲いている夏の花

「あなったってほんとにいつもさみしそう あれは? 馬? 人? 機械の子供?」

 抱き合うときは終わったけれど球場を土星から来た電波が叩く

「犬なのね あなたは夏の 突然に 石の舗道で昏倒をする」

 もしもいま火事にあったらチェロ奏者よりはやく逃げ出すチェロなのか

                  「パピエ・シアン」  2001年6月

★歌会

 あけがたの夏のひかりはさみどりのメロンのようでくるおしかった

 似顔絵屋さっきから瞳をとじていやなのさ、ペリカンを描くのが

         (ペリカンの歌は旧作)かばん関西歌会 2001年6月

◇穂村弘の『短歌という爆弾』の後半を再読している。というか、どうもうまく読めてる
 という気がしないので、ずっと置いてあるんだよね。で思ったんだが、寺山修司に関し
 て「作為性」というのを指摘してるのは大事なのではあるまいか。岡井隆さんが、「短
 歌」の座談会で、「マッチ擦る束の間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」の歌で、
 どうも作者がどこに立っているかわからない、といっていたのが印象的なのだけれど、
 これは昨日の長谷川櫂の「遠山に日の当たりたる枯野かな」への批判と似てるとこもあ
 るような。寺山の歌に「嘘」−「作為」を見るところから、穂村自身の作品や、水原紫
 苑や井辻朱美の短歌のアッパーな「浮遊生活感」にひたされてるような歌の「リアリテ
 ィ」−「感覚的衝撃性」は取り出されてくるんではあるまいか。

 ・髷(まげ)きよき力士となりし夢の中秋のみずうみ投ぐるにあらずや 水原紫苑

 水原さんの歌というのは演奏型と作曲型でいえば演奏型で、実は水原さんの歌というの
 は韻律全部を使って「私はおんなよ!」といってるだけなんではないかとこのごろ思え
 て来た。歌の内容がわからなくても作者が力点をおいてるジェンダー宣言を理解するこ
 とでひとは彼女の歌のファンになってるんではないんだろうか。水原さんの歌の特徴は
 「分裂」というひともあるけど「いやがること」なんではないかな。e短歌サロンの、
 荻原さんの発言がおもしろかったですけどね。この歌では「投げにけらずや」ではなく
 「投ぐるにあらずや」というところでいやがってる、というか抗ってますね。ひとはそ
 こに「おんな」のジェンダーを見るのでは。

■2001/06/28 (木) 7月7日は忙しい

◇読み返したというか買ったけど全部読んでなかって全部読んだというかな本
*吉岡実『サフラン摘み』
*藤井貞和『乱暴な大洪水』

◇短歌研究の1994年8月号では、「場所」に託すこころ、というので、浴室や
 厠の歌というのがあげられている。厠・雪隠・東司・後架・樋殿、みんな
 トイレのことだとか。

ローズマリーを後架の扉(ドア)にわがねおく夏や夏われも無官の大夫(たいふ) 塚本邦雄

紅花挿して後架の出窓明るめり鼻血もはるかなるおもひでぞ  同

モネの偽「睡蓮」のうしろがぼくんちの後架ですそこをのいてください 同

明かあかと雪隠(せついん)の屋根に南瓜(かぼちゃ)咲き中に子どもの唄のこゑおこる 島木赤彦

朝ゆふに鍵を鳴らして我が閉(と)づるおもき倉戸(くらど)もひき慣れにつつ 中村憲吉

一匹の猫を閉じこめてきしゆえに眠れど曇る公衆便所 寺山修司

セザンヌをトイレに飾るゼザンヌはトイレに描きしものならなくに 岩田正

 なんか引用してるとばからしい気もしてくるような。
 塚本の一首目のわがねおく、の「わが」は「糸官」という漢字。うまく出せなかったので多謝。

◇イベント追加。
 なんと7/7は、東京ポエケットもあったのである。
 あと未定の東京句会も大久保であります。
 村井さんいくー?
 東京の7月7日は忙しいですね。

■2001/06/29 (金) あしたの太陽、バン、ボン、ボ、ボン

◇チャット参加者

小鳥さん
きねこさん
ママさん
小鯛さん
松木さん
まさおか

えーと?

印象にのこった言葉

一分吟

◇きょう届いた本
*「ハッピーマウンテン」2号

 ハピマウも順調に号をかさねまして、ゼロ号からかぞえると三冊目。今回はきちんと冊子化し
 てまして、塗り絵調。パターンテープで蓋みたいに切り抜いたと思われる紙がはってあって、
 それをめくってところどころ読むというフェティッシュ効果の効いた作り。いい感じ。

 でも作品はちょっとあきたかなあ・・・。ううん、悪く言うつもりもないんだけど、やっぱり
 短歌形式に屈託がないというのは、誰でもいいから聞いてほしい話を、相手に向かってしてる
 ようなとこはあるんだよねえ。まあでもそこは本人たちが、よくわかってるだろうから、その
 マンネリズムをまた遊ぶようにしていくかもしれないね。

 作品では、

・いちじくとくるみのパンをかじってた一人ぼんやりヒーターの前  まつねえ

・どうやって生きたいかなどわからないただすさまじく生きたいだけさ  曽我たまき

・こごえた血から引き剥がされる薄切りにされたぼくのマリネが  いなもりようこ

・TOEIC980点なのにビデオジョッキと覚えていたの?  大畑創

  このナチュラルさとわざとらしさの同居する半疑問型はよくてわるくてわるくていいですね。

・円周を表す数がなくたっていいでしょ今も表せないのに てるやすたかゆき

  文学的にいうと作者の教養の高さへ歌が復讐してるような歌ですね。

・組み立てた男はついに寝なかった わたしの部屋の無印ベッド  佐藤真由美

  うーん・・・ちょっと作為があるような気がするような。ほんとはほんとのことでもねえ。

・じゅんちんは仕事をなくし職安へ行くふりをしてアオムシを見る  たかちゃん&じゅんちん

・偉大なる人もサンタもねこバスもみんな桜の下で笑った ただしんいち

  「桜」の下の句を上の句がまったく予期してないんだよね。そこがいい。でもそういう読み
   は特殊な読みかもしれない。

 あきつよう子さんと、加藤千恵ちゃんはちょっと取れないのが残念・・・。
 あと、「青春への愛憎」が新しい人にかいま見えるのはいいことなのか悪いことなのか。

 まつねえさんは、筆名起こして書き始めてもいいんじゃないんでしょうかね。

◇7月7日イベント追加

■Ama Voice 七夕・星々の響き

コンサートで、渡邊満喜子さんとAma Voice による、グレゴリオ聖歌やミサ曲。
田口ランディさんもゲストでちょっとだけ歌うらしいです。

日時 2001年7月7日(土)17時30分開演
会場 すみだトリフォニーホール 小ホール
主催 渡邊満喜子ヴォイスヒーリングセミナー
・前売り2500円 当日3000円
・問い合わせ チケットぴあ tel03-5237-9990
http://village.infoweb.ne.jp/~fwnn4775/voiceintro.html

 あとこんなのも。
■トークdeナイト
「田口ランディ・聴くことの時代」
Vol・3 『ボランティアから未来が見える』 
2001年 8月13日(月) 18:30開場 19:00開演
文京シビックホール
スペシャルゲスト 山田和尚  (神戸元気村代表) 
聴き手 田口ランディ(作家)
道先案内人 鎌田東二(宗教哲学者)

主催 オフィスTEN
*手話通訳つき
*車椅子席あり(席に限りがありますので、事前にお申し出ください)
チケット料金 3000円(全席自由)
お求めはオフィスTENのHP http://www.office-ten.net/ 

■2001/06/30 (土) 紫陽花の詩

◇読んだ本
*岡井隆『今はじめる人のための短歌入門』 角川選書

 深い意味はないけれど。
 うーん。
 これわりといい本ですよね。
 ひとつには「初句と結句」の話のとこ。初句と結句というのはわりとつながってる、という
 趣旨ね。ためしに、『四月の魚』の巻頭から、初句・結句を抜いてみましょう。

夢のすべてが冬の翼よ

ぼくの求めたレスに拍手を

身体に岬へ向かう

誰だいまけてゆきたるは

みずいろのとはおもわずに

海は救命転手の帽子に

宇宙の野戦いつかなるのだ

 なるぺそ。

 あと「初心の人」へのあいたい仕方とでもいうもの。これは歌会のところでも、現実の歌会
 というものの、様相みたいなのを結構きちんと書いていて、私はかばんのミーティングでの
 いくつかの事後の感想とかさねあわせて、ははあ、とかすごく感心しました。「理想的な<
 結社>などどこにもありません」とかいうのは、まあ1987年時点の本の話ですが、ほんとそ
 うですね。自分がはじめて出た結社の歌会は母郷のようなもので「冷たく言えばそこには二
 度と帰れないものです。」とかもそうですね。あと、社会詠のところでも、講談社現代新書
 の『現代思想辞典』(この古い本については岡井さんは別なとこでも言及してますね)から
 加藤秀武の文を引きながら、世界と生活実感の距離と非−距離に言及してて、ここは、日本
 の「詩」のフィールドの問題に深く関わってますね。えーと今月の現代詩手帖で北川透か荒
 川洋治かが、「詩の同人誌とか見ても、若い書き手が当然、話題になっていいような場所に
 ある詩集についてあまり書かない」とか言ってましたが、わりとそことも関わってるような。
 ウエブというのは今、短歌においては膨大な「初心の人」を抱えていて、そこは否定とか肯
 定とかいう立場の問題ではなくて、ただ、自らのこれからの詩的営為にそれを繰り込むか繰
 り込まないかだけの問題ですね。お前はどうかと言われれば作者としては繰り込みつつ出来
 た自分の作品は結局無視へかたむいてるような感じがします。

◇藤原さんの掲示板でも石井さんが書かれてますが「帷子耀」(かたびらあき)という詩人に
 関するレポートを、四方田犬彦さんが今月の現代詩手帖に書かれていて、あっ、とか思いま
 すね。オールド短歌ファンには、塚本邦雄のたぶん『花隠論』だったかに入っていた、巻頭
 の論文だったかに言及があって、当時のこの早熟の天才への熱気を感じたものですね。詩と
 革命というのはよくわからない特集でしたが、この四方田の一文だけで個人的にはOK。

◇松木くんの日記にデイリーのカウントをはるかに抜かれました(笑)↓

http://www2.diary.ne.jp/user/86872/

◇松原未知子さんの日記が、創作日記のカテゴリーにあります。40ヒット以上ですね。↓

http://www2.diary.ne.jp/user/84985/


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