新聞などに寄稿した原稿の再録です。




2002年3月8日・金曜日「交通新聞」の文化欄に寄稿したものです。

オジさんのデジタルカメラ奮闘記
南 正時・鉄道写真家
 ある日の午後、渋谷から乗った山手線内回り電車の車内でのことである。私の両隣は50代半ばを過ぎ白髪の混じるサラリーマン二人。私も50代半ばだから三人の「団塊」の世代が並んだことになる。
 右隣の私よりは少し上の男性は、老眼鏡をかけて身を乗り出すようにパソコンの本を熟読していた。ちょっと失礼して本を覗いてみると「Eメール・ネチケット」とか「ネットサーフィン」などという、パソコン独特の横文字が列挙され、パソコン歴4年の私でも判読に難儀するほどである。左隣の初老の男性は、これも身を乗り出して小型モバイルを取り出し、ペン先でメールの文字入力をしている。ともに老眼鏡を当てたり外したりと揺れる車内での難儀しながらの「ニューメディア」への挑戦であつた。
 思えば私がパソコンを初めて手にしたのは、今から4年前のことである。CD-ROMが新しい媒体になるのでは?」と私の仕事にも深くかかわりあうことになり、やむなくパソコンを導入して、ワープロに惜別を告げたのである。幸いワープロでキーボードの操作は馴れていたので、パソコン入門編の第一段階はやり過ごすことができたが、説明書を見てパソコン用語の横文字の数々はまったく理解できず、さまざまな接続機器に難儀したものだ。
 今でも難解なパソコン用語にはついてゆけないものがあるがこれは私の年代の人たちだけのものであろうか? 今までニューメディアとは縁のなかった世代にとっては、これからそれに挑戦することははなはだ苦痛であるように思える。だが、ニューメディアについて行けなければ、定年を前にしてリストラが待っているばかりであるというから、オジさんたちには必死なのである。
 昨年末、あるカメラ月刊誌からメールが届いた。本の中で「デジタルカメラの先駆者たち」という8ページの連載特集があるとのことで、そこに私が登場してもらえないか?というものであった。聞けば編集部からカメラメーカーに鉄道写真家でデジタルカメラを使っている人を照会したところ、私の名が挙がったというのだ。
 鉄道カメラマンはアマチュア、プロを問わず数多くいる。今や若手のプロカメラマンが第一線で活躍し、私などはすでに業界ではベテランというよりロートル写真家だが、意外だったのは鉄道写真家で未だにデジタルカメラユーザーがいなかったことだ。特に若いカメラマンにデジタル化が進んでいなかったのには意外であった。
 私はパソコンを始めたと同時に4年前に当時35万画素のデジタルカメラを購入した。まだとても仕事に使えるシロモノではなかったが、ホームページを作成するためにはデジタルカメラは必要不可欠だった。その後100万画素のカメラが登場して話題になったが、それでも仕事にはまだまだ使えるものではなかった。以後私のデジタルカメラも150万画素、210万画素と次第に進化していき、今使っているのは400万画素の新製品である。
 このカメラを持って、カメラ雑誌の編集者とカメラマンで一泊二日の大井川鉄道の旅 に出た。生まれてはじめてフィルムを一本も持たずに撮影に出かけたのであつた。大井川鉄道で蒸気機関車やアプト鉄道を撮り、菊川−金谷間でブルートレインを超望遠レンズで撮った。鉄道写真を撮影中の私を取材するカメラマンもすべてデジタルカメラを駆使している。
 取材を終えて、私の撮った作例写真を、沿線の喫茶店で編集者のノートパソコンから私のフィルムにあたるCFカードからCD-Rに瞬時にコピーして、これで入稿は完了である。画像も瞬時にチェックできるのもカメラマンには魅力的だ。すごい時代になったものだ・・と思った。これからもまだまだ現役で仕事を続けるためにはデジタル化は必要だとも思った。
 1月末になって我が家の経理を担当している女房が「今月、現像所からの請求書を忘れているみたいね」という。普段の月なら大体10万円程度の支払いがあるのだが、1月はすべてデジタルカメラで取材したので、現像代が0円だったのである。これも驚きと同時にデジタル写真がもたらした経費節減であった。だが、この急速に進んでいるデジタル化に最も対応が遅れているのは印刷業界であった。デジタル入稿の際には何だかんだ注文というより、難クセをつけてくる。特に大手印刷会社の対応は前時代的なもので、写真家の表現手段を規制、排除するようなものであつた。
「いいから、とにかくやってみろ!」と強い口調で印刷屋に言い、私の担当したJ社の鉄道絵本の表紙をデジタル写真で入稿した。仕上がりは予想どおり満足ゆくもので、デジタル写真には消極的だった初老の編集者もその上がりに驚いたほどだった。この表紙の校正刷りは、社内に回覧されデジタル写真の入稿がより積極的になった。
 これは後に編集者から聞いた話だが、デジタル写真は印刷屋の経費が大幅に削減されるので、消極的なのだという。つまりデジタル写真は「儲からない」ものだということになる。それだけのことで、いろいろデジタル写真にケチをつけてきたのである。
 あるベテラン写真家は「デジタル写真は銀塩の持つ〔味〕がないからねぇ」という。そんなことはない。私はこの絵本の仕事で銀塩、デジタル同時に撮影して製版をしたが、仕上がりはデジタルの方がより味のある写真に仕上がった。
 4年前、私はパソコン導入、デジタルカメラを購入したが、正直なところこの両者ともあまり「信用」はしていなかった。デジタルカメラには先ほどのベテラン写真家と同じ気持ちを持っていた。だが、私はデジタル写真がすべて万歳で、銀塩写真を否定するものではない。
 それはベテラン写真家が言うように銀塩写真は貴重な記録と共に長い歴史を歩んできた過程がある。デジタル写真はまだ始まったばかりで技術は日進月歩、半年単位で変化する今のデジタル写真業界において、現在の記録媒体がこれからも存続する保証はなにもない。その点、銀塩写真はたとえシェアを少なくしようとも歴史がある限り永遠に続く記録媒体であると私は思う。両者をその時代に合わせてたくみに共存しながら使ってゆくのが、私の仕事のスタンスであり「ニューメディアに使われてたまるか・!」という、オジさんの必死の抵抗なのでもある。http://homepage2.nifty.com/masatoki/


2001年7月13日付け「交通新聞・文化」欄に寄稿した記事です。

この夏のSL運転に思う

 南 正時(鉄道写真家)

     
                         増毛駅に到着したC11重連「SLすずらん号」(JR北海道)



 夏休みを控えて、全国各地で蒸気機関車(SL)の復活運転が盛んである。JRを始めとして第三セクター、私鉄などで復活した蒸気機関車の勇姿が蘇り、SLファンをはじめ多くの観光客で賑わっている。 ところで、これらの蒸気機関車を運行している鉄道会社、沿線市町村が年に一度運行路線に集まり「SLサミット」というイベントを開催している。その開催目的は「全国のSL運行に携わる自治体、鉄道会社などが集まり、SLと地域資源や特性を活用した地域おこし、取り組みの情報交換を行い、結果的にSLを中心とした広域観光振興を推進することを目的とする」というコンセプトにより成りたつている。
 今年は6月16.17日の両日、北海道の沼田町で「第4回SLサミット」が開催された。沼田町は平成九年にNHKの朝の連続ドラマ「すずらん」の舞台となった所で、JR留萌線恵比島駅をドラマの舞台となる「明日萌」としてドラマが進行した。このドラマの人気にあやかりJR北海道では、C11を復活させてSL「すずらん号」として運行をはじめ、今年で運行3年目を迎える。 実はこのドラマのロケ地選定にあたっては、私にNHKから事前に「SL運転とロケ地選定」の話しがあり、たまたま前年に取材で訪れた恵比島駅をロケ地として推薦して決定したという経緯があり、それが縁で今回のSLサミットでは私に基調講演の依頼がきて、2日間のSLサミットに参加したものだ。 今回のテーマは「SLと広域観光」で、私の話もテーマに添ったものであった。
 近年、観光活性化のテーマのひとつとして「広域観光」が話題になっている。これまでの観光といえば、その自治体主導によるきわめて「お役所的」な、縄張りを意識した観光案内がまかり通ってきた。旅人にとっては観光の行政の壁はないのだから、より広域的な観光情報の発信が望まれていたところであり、そういう意味では、SL運行による鉄道活性化は、広域観光のお手本のようなものである。鉄道は点から点を線で結ぶもので、沿線の各観光行政、民間観光による広域観光の意識がなければSL運行などできるものではない。SLサミットでは、この広域観光が熱心に討議、論議されこれからのSL運行の励みになった。
■SL保存運転にあたって。
 だが、私にはSL運行にあたって、ここでどうしても言っておきたいことがある。SLが観光活性化につながれば、それが鉄道活性化、観光活性化につながれば喜ばしいことではあるが、その保存運行にあたっては、鉄道の文化的価値を忘れてほしくないのである。蒸気機関車が日本の鉄道の発展、日本の復興に大きく貢献してきた。その存在を忘れて観光要素、イベント列車だけの運行には終らせてほしくないと思っている。具体的には蒸気機関車の復元保存と同時に客車など、蒸気機関車の走っていた当時の環境を出来る限り復元保全することも、SL運行にあたる会社は「責任」の一端として心に止めておいてほしいものである。
 映画のロケ地が観光活性化の一端として話題になり、ロケ誘致が観光活性化につながり観光名所となっている昨今だか、映画のロケに使えるようなSL運行の場所がきわめて少ないのは残念で、着飾ったSL、エアコンの効いた近代的な客車など、とても昔の「汽車旅」を偲ばせるものではない。「トンネルに入るたび窓を閉めた・・弁当に煙の煤が飛び込んできた・・」というかつての苦痛の蒸気機関車の旅まで再現しろとは言わぬが、せめて欧米のSL保存のように、鉄道文化が根付いている環境を心に止めてほしいと願うばかりである。そして、いかにSL列車に乗ってもらえるようにするか?も今後の大きな課題であろう。
 SL愛するSLファンの大半はSL列車に乗らずクルマでやってきて沿線に陣取ってSL撮影をしている。せめて片道だけでも、これらSLファンを乗車誘致の魅力あるアイデアを考えてほしい。具体的にはファン心理をくすぐるようなSL体験、例えば停車中の投炭作業、汽笛を鳴らす体験、SL磨きなど直接的な体験なども取りいれたらどうであろうか?
■レールファンを育てる。
 鉄道会社は、運行に支障をきたすとして「鉄道ファン」にはどちらかと言えば冷やかだが、鉄道に興味を示し鉄道好きになる子供たちこそ、将来の鉄道活性化、存続に通ずるものと信じている。
 最近、新聞で「時刻表が売れなくなった」という記事を見た。時刻表のみならず、現在の本の売上低下は出版メディアの末端にいる者として身につまされるが、その原因に「鉄道ファンの減少」をあげていた。たしかに鉄道に興味を示す子供たちが少なくなっていることは私も実感している。だが子供たちは潜在的に乗り物、鉄道が好きである。そういつた潜在的な心を育てることは、鉄道の将来のため、私も含めて鉄道にたずさわる関係者の務めであると思う。
 この春、新大阪駅で次のような光景に出くわした。500系「のぞみ」がホームに入り、JR東海からJR西日本へ乗務員が交代して、引き継ぎ後に博多に向けて発車するとき、ホームの先端にいた幼児連れの若いお母さんに、JR西日本の若い運転士はニッコリしながら手を振った。お母さんも喜んだが、幼児は目を輝かせながら勢いよく手をふり、500系の姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。その幼児の表情が今でも目に残る。おそらくこの子は一生、この日の光景を忘れることはないだろう。さりげない鉄道と乗客のふれあいこそが鉄道の将来に結びつくものだ。
 これからもSLのみならずトロッコ列車、イベント列車などで、鉄道大好き人間たちを育ててほしいと思っている。「増収・儲け」も結構だが、それだけを念頭に置くだけでなく、鉄道は公共交通という認識のもと、日本のこれまでの鉄道の文化的経緯を語ることも忘れてはならないと思う。(みなみまさとき・鉄道写真家・紀行作家)
http://homepage2.nifty.com/masatoki/

交通新聞(日刊)2000年11月24日・金曜日「文化」欄に寄稿、掲載された記事です。

                      
                     交通新聞2000年11月24日「文化」欄

                  ある機関車の終焉を迎えて
                          南 正時 

 今年の秋も、レールファンたちとヨーロッパ鉄道の旅に出た。日通旅行京都支店が主催する「南正時さんと行くヨーロッパ鉄道写真講座」というツアーで、昨年に引き続いてのツアーである。各旅行会社が主催するヨーロッパの旅行はさまざまな志向に合ったカテゴリーがあるが、レールファンを対象に、それもかなり「マニアック」に行ったということがこのツアーの特徴であった。
 例えば、これまでのツアーだと、鉄道写真はほとんど駅構内で、車両を撮影して有名列車や、スイスの登山鉄道に乗るといったものが定番コースだったが、このツアーでは鉄道写真の楽しさのひとつ「沿線撮影」に重点を置いた。日本の鉄道写真において、ファンの多くは全国各地に走る鉄道を、その風景の中で車両を捉えている。鉄道写真において日本の写真の「質」がいいと評価されているゆえんである。
 かってドイツのICE試運転に招待されたとき、私は沿線撮影を強く望み、運転ダイヤを当局に聞いたことがある。すると当時の広報担当者は「ICEを撮るなら、駅で十分ではないか」ということだった。ドイツをはじめヨーロッパのレールファンは、わざわざ交通不便な沿線にまで繰り出して鉄道写真を撮るということ自体、一部の広報用写真のほかはほとんどない。
 このツアーでは「沿線撮影」をメインにして、TGVやICEが時速300キロで疾走する光景や、スイスの山岳地帯を走る国際特急などを主に撮影した。沿線の撮影地にはチャーターしたバスを利用して、助手席には撮影地へ案内する私が、運転手に「右曲がれ・・とか、あの丘の上まで・・」などと指示しながら、私がかって訪れた撮影地に案内した。参加者からは「普段行けない場所まで行けて良かった」とか「かって鉄道雑誌で見た撮影地を訪れてうれしかった」などという声を頂き、それに満足したリピーターたちが今年もほとんど、このツアーに参加したものである。
 今年のツアーには沿線撮影のほかに、特別にドイツで機関区、車庫の見学ツアーを実施した。それはドイツの名機関車といわれる「103形」電気機関車が今年中に終焉を迎えるということで、ドイツのファンをはじめ日本のファンの間でも話題になっている車両である。
 1965年に登場したスマートな流線形のスタイルは、ドイツの高速列車の草分けとして初めて時速200キロ走行を実現し、名列車「ラインゴルト」号や、TEE、ICの先頭を飾っていた。近年になってICEや次世代の新型機関車の登場によって次第に淘汰され、2000年11月には廃止されるということで、ドイツでは話題になっている。ちようどEF58が廃止されるときのブームに似ている。そういわれれば、EF58と同様103形も急客機としての地位を保ってきた経緯がある。
 訪れたのはハンブルク郊外にあるアイデルシュテット機関区で、ここではICEをはじめとした最新の車両のメンテナンスが行われるほか、その一角で103形の整備もしている。
 蒸気機関車や人気の旧型車両ならずとも終焉を迎えるときにレールファンには、独特の感慨があり寂しさがある。103形もまた、機関区の片隅にナンバープレートを外され、廃車体となって解体を待っている姿を見たときには、寂しい気持ちにさせられた。
 機関区では最後の全般検査を受けている103形がジャッキアップされ「103はいい機関車だったよ。コレを悪く言うヤツはいなかつたね。だが、この機関車はもうここに戻ってくることはないでしょう」と、マイスターが寂しく言った。
 機関区の人たちはわざわざ日本から103の終焉を見届けたいという私たちのために、新旧塗装を並べて撮影の便宜を計ってくれたり、機関車の隅々まで見せてくれた。さらには、隣接するICEの研修庫まで案内され、運転を始めたICE−3の車内までも見せてくれた。「103の最後のチャンスです。もう見ることができませんよ。撮り忘れたところはありませんか」正門のところので帰路を見送ってくれた職員が言葉をかけてくれた。
 思えば103形機関車は私が初めてヨーロッパを訪れたとき以来の、私のお気に入り車両のひとつで、その走りっぷりに魅了され、その姿に憧れて毎年の渡欧を繰り返してきた、といってもいいほど、私はこの機関車に心酔していた。かなり趣味的に今年のツアーを実施したが、熱心なファンも今回のツアーにはひときわ満足したようで、私の名前が付いたツアーだけにホッと胸を撫で下ろしたところである。
               
                      103形が引くTEE「ラインゴルト号」 (1985年)

 ところで今回のツアーで印象的だったのが、
ヨーロッパの鉄道統合、高速列車網のさらなる発達だった。パリ、ケルンといったヨーロッパの主要都市をTGVなどがネツトする。
国際列車といいながら、そこには国境というものはなく、改めてヨーロッパ統合EUの結束を鉄道に見た思いだった。特に高速鉄道網は、航空機との競争力を十分に持ち、着実にシェアを増やしてきた。次世代の高速列車はすでに暫定的ながら営業運転を始めたドイツのICE−3や、次期TGVの最高時速350キロを目指す列車である。
 世界初の高速鉄道「新幹線」の時速200キロから300キロ、そしてヨーロッパの鉄道における時速350キロの車両開発と、鉄道も世紀を超えてさらなる超高速の時代に入ってきた。
 かって鉄道の速度限界説から開発されてきた、浮上式鉄道での最高時速500キロまで、次第にその速度差が縮まってきた。果たして日本の鉄道はどう対応してゆくのか、ヨーロッパの高速列車の創世記から今日まで取材し続けてきた私にとって、これらの事柄は21世紀にかけてひときわ関心のあるところである。(みなみまさとき・鉄道写真家・紀行作家)URL http://homepage2.nifty.com/masatoki/
交通新聞から転載


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