TOP > 教えA > 天恩郷と明智光秀公

  


本稿は、大正9年8月1日号の『神霊界』〔当時の大本教団機関誌〕に掲載されたものを、“まさとんちゅ”なりに、現代語にアレンジしたものです。お話しの主旨は全く変えてません。とても格調高い聖師さまのご講演ですが、チト分かり難い表現、あるいは漢字等がありましたので、今日通常使用している当用漢字等に変換し、読みやすいようにしたものです。ご了承の上ご覧下さいませ。
なお、題名の『天恩郷と明智光秀』も、今回あらためて付けさせて頂いたものです。原文では、『皇道大意』と付されており、さらに講演は続くのですが、この度は、「天恩郷」や「明智光秀公」にかかわる部分のみを紹介させて頂きました。


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『この度、「亀岡大道場」において「皇道大講演会」を開く事になりました。
しかし、「皇道大本」は、“敬神尊皇報国の大義”を唱導する一大教団であるのにもかかわらず、よりによって、逆賊無道・主殺しの、不倫不徳の明智光秀の城址を選ぶとは、物好きにも程がある。

かつまた、「皇道」の主義に対しても、何だかつり合いの取れないやり方ではないか、あいなるべくは、“至聖至浄の地の高天原”と称する、綾部の霊地において開始されては如何ですと、知人より種々と忠告を受けたような次第であります。

この度の受講の皆さまもまた、これとご同感の方々も、おありであろうと思われますが、私は「明智光秀」という人は、決して世間に言われて来たように、悪逆武道の武士では無かったろうと感じましたから、世評の如何にかかわらず、「皇道大本」の“大道場”を開設し、その上、当城址において講習会を開いたのであります。

私は「光秀」のために、いささか「光秀」の心中の高潔であった事、“智仁勇の明将”であった事をこれから申し上げたいと思います。

「光秀」が、「日向の守〔ひゅうがのかみ〕」と称し、姓を「惟任〔これとう〕」と改められたのは、織田信長公に仕えてから、後の事であります。

「光秀」の祖先を調べてみますと、清和源氏の末裔〔まつえい〕なる、六孫王経基〔ろくそんのうつねとも〕の子――多田満仲の嫡子、源の頼光七世の孫でありまして、伊賀守光基〔いがのかみみつもと〕と言う人がありました。

その子の光衝〔みつひら〕が文治年中、源頼朝から“美濃の地”を賜わり、土岐美濃守〔ときみののかみ〕と称したのであります。

その光衝〔みつひら〕の五世の孫、伯耆守頼清〔ほうきのかみよりきよ〕、その二人の子どもに、頼兼〔よりかね〕と言う人がありましたが、その頼兼の七世の孫こそ、十兵衛〔光秀公〕の尉〔じょう〕光継〔みつつぐ〕で、「光秀」の祖父にあたり、「光秀」は光綱〔みつつな〕の一子でございます。

この光綱と言うのは、美濃国可児郡〔みののくにかにぐん〕明智の城主で、明智下野守〔あけちしもうさのかみ〕と称えましたが、早くお亡くなりになりましたので、「光秀」がまだ幼弱でもあり、光綱の弟・兵庫助光康〔ひょうごのすけみつやす〕を準養子として、明智を相続させられたのであります。

光康は後に、宗宿入道〔そうしゅくにゅうどう〕と称した人で、有名な明智左馬之助〔あけちさまのすけ〕光春は、この人の子であります。
故に「光秀」は、その叔父にあたる、光康のもとで成人したもので、光康は実父にも優る恩人でありました。

「光秀」の母・徳明院〔とくみょういん〕は、光綱の死後、間もなくこの世を去り〔濃州明智・蓮明寺に葬る〕、遺児として可憐なる「光秀」は、用意周到なる光康の訓養によって、“幼にして聡明 一を聞きて十を知る”の明があったといいます。

承久の昔、後鳥羽院〔ごとばいん〕より、関東の軍に向かって院宣〔いんせん〕を下されました当時において、関東19万の大軍中、この院宣を拝読し得る者は、相模の国の住人・本間孫四郎〔ほんままごしろう〕ただ一人より無かったと言います。

応仁以降、海内〔かいだい〕麻の如く乱れ、文教の事はわずかに僧侶の輩〔やから〕によって、支えられていた程でありました。

そんな中で、元亀天正〔げんき・てんしょう〕の戦国時代に、将軍義照が亡び、世に武門を主宰すべき人物、皆無の時にあたって、文学に志し、君臣父子の大義名分に通ずるの武士、幾人あったでありましょうか。
「明智光秀」のごときは、武将の精華として、稀に見る人傑でありました。

「光秀」は、その叔父の光康と共に、明智の城中において討ち死にしようとしましたが、光康の懇願によって涙をのんで、光康の息子・光春および、甥の光忠等と共に諸国を遊歴し、千辛万苦の末朝倉氏に仕え、また後に織田氏に仕官する事となり、幾多の戦場に軍功をあらわし、左右に策を献じ、信長をして天下に覇たらしめ、自分はまた、江洲・丹波両国54万石の大諸侯に列し、君臣の間漆の如く密にして、一にも明智、二にも光秀と信長から可愛がられ、信長の甥の信澄〔のぶずみ〕に、「光秀」の4女を嫁がせた程でありました。

しかし、武田勝頼を亡ぼした頃から、信長の心意また行動が、共にやや驕慢〔おごりたがぶる〕ようになり、しかも、僅少微細の事といえども立腹したり、あるいは「光秀」を打擲〔だちゃく〕したり、家康の饗応にも、再びこれを罵倒し、侮辱を与え、ついには信長の近習・森蘭丸〔もりらんまる〕をもって、鉄扇にてその面を破らしめたり、近江・丹波54万石の領地を召し上げて、「毛利と戦え、さすれば出雲や石見を下付する」など無理難題を申し付けたのであります。

そんな信長のあり様を、忍びに忍び耐へに耐へた「光秀」でありますが、ついに堪忍袋の緒が切れて、「光秀」にとっては不本意極まる“本能寺の変”が起こると言う、止むを得ざる境地に立たされたもので、非常に深い、言うにいわれぬ理由があるのであります。

後世こぞって、「光秀」を“逆賊”と呼び“大悪無道”と罵ってますが、果たして是を、肯定すべきでありましょうか。

長岡兵部太輔〔ながおかひょうぶたゆう〕藤孝〔ふじたか〕は、「光秀」の女婿の父でありますが、『叢蘭欲茂秋風破之、王者欲明臣誹臣之闇之』と嘆き悲しまれ、「光秀」もまた『心なき人は何とも云わば云へ 身をも惜しまじ名をも惜しまじ』と、大義名分をよくあきらめながら、敢えて主君を殺すると言う暴挙に出でた。
実に惜しむべき事であります。

しかしながら、元亀天正のその頃は、恐れおおくも、至尊萬乗の御身をもって、武門の徒に圧せられ賜い、天下はこれを統ぶるに強者、これ弱者を凌ぐものの権に属し、いわゆる強食弱肉の世の中の実情でありました。

九州に島津、四国に長曽我部〔ちょうそがべ〕、毛利は山陰山陽両道に蛮居し、北陸に上杉あり、信越に武田あり、奥州に伊達あり、東国には北条等の豪雄があって、各自にその領地を固め、織田・徳川相合し相和して、近畿並びに中国を圧していたのであります。

群雄割拠して、権謀術数至らざるはなく、“陶の晴賢〔すえのはるかた〕”は、その主なる大内氏を亡ぼし、上杉影勝はその骨肉を殺し、斉藤龍興〔さいとうたつおき〕は父の義龍〔よしたつ〕を討ち、その他これに類する非行大逆行は、数うるにいとまなき時代でありました。

ひとり「光秀」のみがかくも非難され、かつ又、かしましく騒がれるのは何故かと申しますと、54万石の大名が“右大臣三公”の職を有する、主人を殺したと言う事と、戦場が王城の地にして、その軍容も華々しく、またその噂も速やかに流れた上に、世は徳川の天下に移り、世襲制度に変っていった事から、どうしても「光秀」の行為を、そのままにしておく事は、政策上もっとも不利益であった事、また第二第三の「光秀」が出現しては、徳川の天下は根底より転覆する事にもなりかねない状況から、偏狭なる儒者たちが、“史と劇”などを通じて、「光秀」を攻撃したものが先入主となり、今日に至るまで「光秀」に対して、著しき汚点を残したと言うものであります。

         神嶋鎮祠雅興催   篇舟棹処上瑤壹
         蓬瀛休向外尋去   萬里雲遥浪作堆

これは、「光秀」が雄嶋に参詣された時の詩作であります。戦国の時代に、このような学識を有する、武将「光秀」のごときは外に誰かありましょうか。

臣下を教えるに当っては、常に大義を説き、主君が築城の地を問うたのに対し答えるに、“地の利あらずして其の心にあり”と言うがごとき、至聖至直の「光秀」でありますから、“本能寺”暴挙のありしは、深き深きまぬがれべからざる事情のありました事は勿論ですが、しかしながら“主殺しの悪評”が、世に拡がりました事は、「光秀」のためには、返す返すも残念な事であります。我々は、大いにその内容を研鑽せずして、みだりに世評のみに傾むくべきものではないと思います。

ひとり「光秀」の行動の是非を沙汰するばかりでなく、また時代観の相違を知る必要があろうと思うのです。
惟任将軍〔これとうしょうぐん〕光秀卿が、果たして唾棄〔だき〕すべき人物かいなか、はたまた頌〔しょう〕すべき人士でありましょうか。

また「光秀」の家庭でありますが、実に円満であり、他家においては、骨肉相食〔は〕むごとき惨状でありましたのに、一門残らず賢婦勇将であり、のみならず古今の学識に富み、彼の左馬助〔さまのすけ〕光春が、雲竜〔うんりゅう〕の陣羽織を日枝山〔ひえやま〕颪〔おろし〕にひるがえし、雄姿颯爽〔ゆうしさっそう〕として湖水を渡り、愛馬に涙の暇乞〔いとまご〕いをなせし美談のみか、臣下の斎藤内蔵介〔さいとうくらのすけ〕の妹は、常に「光秀」に師事して学ぶところ多く、後に、徳川家の柱石と仰がれた、烈婦〔れっぷ〕春日局〔かすがのつぼね〕であったごとく、実に立派な人物ばかりであったのでありました。

また「光秀」の家系は前述の如く、立派な祖先を有しており、家庭もまたかくの如き美はしく、かつ家系は宗家〔そうけ〕の控えとして、美濃全国に君臨し、近江の佐々木美濃〔ささきみの〕の土岐〔とき〕として、足利歴々の名家でありました。

古歌に、「曳く人も 曳かるる人も水泡〔みなかた〕の 浮世なりけり宇治の川舟」とありますように、時世時節なれば止むを得ざるとは言え、実に織田家の臣下としては、勿体なき程の名家であったのであります。

「明智光秀」が、波多野秀治〔はたのひではる〕を丹波に攻めたのも、信長の命によるものでありました。
波多野兄弟らは、抵抗する事も出来ず、ついに「光秀」軍に降りました。信長はこれを許して、安土に召したのであります。しかし兄弟等は、よく信長の性格を知っていましたので、安土行きを拒んだのであります。そこで「光秀」は、信長のいる安土と往復しながら、質を入れて波多野兄弟と約束をしたのであります。

兄弟は「光秀」の心を諒として、安土に至りましたが、信長はその遅参をなじって、慈恩寺において兄弟を切腹せしめた。これ、信長が秀治兄弟を欺くのみならず、実に光秀をも欺いたのであります。

太閤記には、以下のように記されています。

『秀治、信長の表裏反復常なきを怒ると言えども、今さら為すべき様なし、敷皮に直り、光秀に向かい厳然として曰く、この頃のご懇切は草陰にても忘れ申さず、但し飛鳥〔ひちょう〕尽きて、良弓蔵〔りょうきゅうおさ〕めらるると言えば、御辺も身の用心をなし玉へ、信長は終に非業の死をなし給ふべし』云々と…。

秀治の臣下は怒って、「光秀」の質を殺す事になるのですが、秀治のこの言を聞けば、決して「光秀」が母を殺したのでない。これは疑う事なき事実であります。

然るに中井積善〔なかいせきぜん〕のごときは
『「光秀」母を餌〔え〕にして、以って功〔こう〕を迎ふ、犬○〔けんてい〕もその余りを食はず』とか。

また儒者の、山形禎〔やまがたてい〕なども、『「光秀」凶逆〔きょうぎゃく〕母を殺し君を殺す。他日竹槍〔ちくそう〕の誅天〔ちゅうてん〕の手を土民に借りて』云々と激評するがごときは、ことごとく見解を誤れるものであります。

吾人をして、当時の有様より評せしめたならば、“信長無残にして、「光秀」をしてその母を殺さしむるの悲境に立たしむ。無道も極まれり」と言いたくなるのであります。
「光秀」が質を殺したと言うのは、秀治の臣下にあらず。また「光秀」に非ずして、実にこれ信長なりと言いたいのであります。

田口文之〔たぐちふみゆき〕は、信長を評して曰く、『行詭計於其妻以斃其父右府所以不終』と…。

新井白石〔あらいはくせき〕は、信長を評して曰く、
「信長と言う人は、父子兄弟の倫理絶えたるの人なり」と…。

平井中務〔ひらいなかつかさ〕大輔〔たいゆう〕が、孝道の備はらざるを諫〔いさ〕めて、死するも宣ならずや。

その他、猜疑〔さいぎ〕の下に、林佐渡守〔はやしさどのかみ〕、伊賀伊賀守〔いがいがのかみ〕、佐久間右衛門尉〔さくまうえもんじょう〕の如き、忠良なる臣下の死し、斎藤内蔵介〔さいとうくらのすけ〕等の如きも、信長の仕えるべき主にあらざるを見て身を退き、秀吉のごときも、一日光秀に耳語〔じご〕して言うに、『主君は惨〔むご〕き人なり。我々は苦戦して大国を攻め取るも、何時までもかくてあるべきぞ。やがて讒者〔ざんしゃ〕のために、一身危ふからん。能〔よ〕く能く注意せられよ』云々と…。

菅谷秋水〔すがたにしゅうすい〕は、信長・光秀両者を評して曰く、『信長は三菱角〔さんりょうかく〕の水晶の如く、光秀は円々たる瑪瑙〔めのう〕の玉に似たり』と。

また、名将言行録は「光秀」を評して、『其の敵を料〔はか〕り勝を制し、士を養い民を撫〔ぶ〕す、雄姿大略当時にありて、多くその倫〔りん〕を見ず』云々と。これも余り、過賞〔かしょう〕の言ではあるまいかと思うのであります。

以上の所論は、信長対「光秀」の経緯について略叙したのみならず、「光秀」の黙し難き事情のありし事も、幾分か伺い知る事が出来るであろうと思うのです。
信長は「光秀」の反逆がなくとも、いずれ誰かの手によって、亡ぼさるべき運命をもっておったのであります。

また「光秀」が、その実母を質となせしように論ぜられますが、「光秀」の母はその幼児にすでに世を去り、遺児として叔父の光康に養われたものである事は、前述の通りであり、秀治に質としたのは、叔父の妻で、即ち光春の母でありました。

故に、質を殺すの原因もまた、前述の如く信長より出でたるものであり、「光秀」にとりては、実に気の毒千万の冤罪でありました。
どうか、史上根底より“光秀母を殺す”の点は、抹殺したいものであります。

時は今 天か下さはぐ五月蝿かな

世界各国、今や暗黒界と変じ、神代の巻における“天の岩戸隠れ”の惨状であります。われわれ日本人は、一日も早く皇道を振起し、世界20億の生霊〔せいれい〕を救わねばならぬ時機にさしせまったのでありますから、世評位に関わって、躊躇している場合ではありません。

私に言わしむれば、「光秀」の城址“亀岡万寿苑”は、実に言霊学上、かえって適当の地であろうと思います。

“鶴は千年 亀は万年”に長生きすると伝わるように、その亀の名を負ひし地点は、実に“万世一系”の皇室のご由来を諒解し奉り、万代不易の神教を伝うるに、“万寿苑”の名、また言霊学上何となく気分の悪くない地名であります。

また「明智光秀」の字義を略解すれば、“明らかに智〔さと〕り光り秀〔ひい〕づる”と言う事になります。
講習会受講の諸士は、皇道の大本を明らかに智られ、御国の光り秀妻〔ほつま〕の国の稜威〔りょうい〕を、地上に輝かさんとするには、実に奇妙〔きみょう〕であると思います。

それ故に私は、少しも「光秀」の城址だからと言って、別にいやな心持ちもしないのであります。

〔出口王仁三郎筆『神霊界』誌 大正9年8月1日〕

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