トップページ>松江城>松江城の紹介 English Version 全国に現存する12天守の一つで山陰では唯一の天守閣です 天守閣の大きさ(平面面積)では、2番目、高さ約30mでは3番目、古さでは6番目です 慶長16年(1611)初代城主:堀尾吉晴が5年の歳月をかけて完成したもの 城主は、堀尾吉晴、京極忠高(いずれも嫡子無くお家取り潰し)の後 徳川家康の孫に当たる松平直政公が信州松本から移封され 以来明治維新まで、松平氏10代234年間に渡り、18万6千石を領しました 明治8年、城内の建物は全部取り壊されたましたが 天守閣だけは有志により保存されました(180円:当時の米100俵) 昭和25年から30年の解体修理を経て、現在に至っています 解体修理で石垣に使われた大量の石材は 嵩山の裾野から切り出される「大海崎石(おおみさき)」で 堀尾家の家紋はじめ各種家紋を刻み込んだ石が見られます 天守閣は、望楼様式を加えた複合天守閣で、外観5層、内部は6階です 壁の大部分は、黒く塗った雨覆板(下見板張り)でおおわれ 実戦本意で安定感ある無骨な体裁に、桃山風の壮重雄大な手法が見られます 石垣はごぼう積みあるいは野面積(のずら)みと呼ばれる工法で作られています 400年経ても寸分の揺るぎも見つかりません |
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松江周辺(出雲地方)の観光地の美しいパソコン用壁紙集はこちら(大人気・500枚以上) ![]() ■松江城の城主■ [堀尾氏]:@吉晴 A:忠氏(ただうじ) B:忠晴 [京極氏]:@:忠高 [松平氏]:@:直政 A:綱隆(つなたか) B:綱近(つなちか) C:吉透(よしとう) D:宣維(のぶずみ) E:宗衍(むねゆき) F:治郷(はるさと=不昧公) G:斉恒(なりつね) H:斉貴(なりたけ) I:定安(さだやす) |
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| 関ヶ原の合戦で敗れた西軍の主力毛利氏は、防長2国に削減されて萩に退転しました 出雲を領した吉川広家も岩国へ移る 代って遠州浜松の城主堀尾忠氏が出雲・隠岐24万石の大名となって 父、吉晴とともに富田城に入部してきたのは、慶長5年(1600)11月のことです |
| 吉晴父子がまず感じたのは、出雲を領するために、富田城では不十分だということでした。城地が狭く、交通の便も悪く、出雲東部に偏りすぎていました。近世城郭の要件は、水と道と城地です。中世の堅城富田城も、その意味では過去のものになっていました。 吉晴父子は新しい城地を求め、宍道湖と中海を結ぶ大橋川の周辺を候補地に選びました。当時は松江という地名はなく、川の北側は末次郷、南側は白瀉郷と呼ばれる寒村でしたが、水運の便がよく、山陰道も近くを通っていました。そして40年前、末次郷に洗合城を築いた毛利元就が、ここを前線基地として、大敵尼子氏を滅ぼしたという事実が、生なましく語り伝えられていて、戦略的にもすぐれた土地、というイメージを、2人とも抱いていました。 慶長9年のある日、吉晴父子は城地を検分するため、白瀉の南方元山(後の床几山)に登って、末次郷のあたりを眺めわたしました。 吉晴は元就の築城した洗合山を適地だとしました。それに対し忠氏は、「洗合山は山勢が大きすぎ、とても24万石の我らでは維持できませぬ」といって、洗合山の東方にある亀田山という低い丘陵を適地としました。「前方には宍道湖・大橋川、西に黒田の深田(泥湿地)、東に中海湖畔の沼沢があり、三方ともに天然の防禦の形をしています。されば北方、白鹿山あたりに物見の櫓を設ければ、備えは十分でしょう」 2人はその場ではいずれとも決めずに富田城に帰ったのですが、程なく忠氏は病にかかり、28歳で急死しました。悲しみに沈む吉晴の後見人として、再び政務をみなければならなくなりました。 吉晴は築城を急ぎました。亀田山に築城すれば、なき忠氏でのせめてもの供養になる・・。普請は慶長12年(1607)から始まり、突貫工事で進められました。普請上手の名をはせた吉晴は、さらに軍学者小瀬甫庵に縄張りを命じ、土木工事の名手稲葉覚之丞を普請奉行に任じました。 第1年次 は、カラカラ橋(松江大橋)を架け直し、末次と白瀉を結ぶ幹線道路を整備し、掘り割りも造って重量資材の運搬にあてました。さらに、亀田山と赤山をつなぐ鞍部宇賀山を切り崩し、内濠の一部と塩見縄手の屋敷地を造成し、その土で田町や中原の沼沢を埋めました。当時としては、気の遠くなるような大工事でした。 第2年次は城山の削平と石垣の築造。第3年次以後は、いよいよ本丸の天守閣をはじめ、各種の施設が建てられることになりました。天守は5層6階、最上階に遠見櫓をもつ望楼式天守。外壁は黒塗板張りの質素なものですが、各所に袋狭間(銃眼)が不気味にのぞく実践的な城で、桃山期の特徴をよく残しているとして、国の重文に指定されています。 慶長16年冬、5年の短期間で城と城下町が完成しました。松江城とか千鳥城と呼ばれ、山陰道では現存する唯一の城郭建築です。しかし、完成の直前、吉晴は69歳の生涯を終えました。築城に生命を燃やし尽くしたのです。 松江という地名の初見は慶長十三年(1608)です。命名者は堀尾吉晴自身ともいわれるし、帰依僧の春龍和尚や小瀬甫庵の名もあがっています。だが、春龍和尚が中国の淞江の風光を思い出しながら、それによく似た宍道湖の景色にちなんでつけたというのが、もっとも理解しやすいものでしょう。 堀尾氏は三代忠晴をもって断絶。ついで若狭小浜から入部した京極忠高も、一代限りで断絶しました。いずれも嗣子がなかったからです。 続いて、松江藩18万6千石の城主となったのは、信州松本城の松平直政です。彼は徳川家康の孫。以後、明治維新まで、松平氏の治世が続きます。 直政は剛直な性格で、大坂の陣では少年ながらあっぱれな活躍をし、敵将真田幸村も軍扇を投げてその勇気を誉めたという。藩主となってからは、世話好きでよくしゃべるところから、「油口の出羽」と評判されました。 松平氏10代のなかで、特筆すべきは7代治郷でしょう。彼は破綻に瀕した藩財政を、倹約と重税で切り抜け、後には多額の余剰金を出すまでになります。その金で高価な茶道具を買いあさりました。 治郷は不昧と号し、若くして禅を学び、茶道に精進しました。特に茶人大名としては当代一流で、後世不昧流の一派が成立したほどです。初めは利休の侘び茶を慕い、 (月照寺にある不昧公の廟) ![]() 釜一つもてば茶の湯はなるものを よろずの道具好むはかなさ と詠んだ利休の歌を、己が茶の湯の心としたが、晩年には道具茶にはしり、油屋肩衝・喜左衛門井戸などの大名物を集め、雲州御蔵帳を飾るのです。民衆を犠牲にした殿様のお遊び、との批判は当然ですが、彼のお陰で、天下の名物が今日に伝えられたもの事実です。 明治4年(1871)1月、松江藩は松江城を無用の長物として、その取り壊しを政府に願い出ました。その結果、明治8年城の建物は入札にかけられ、天守閣は180円で落札しました。入札価格の目やすは、釘・かすがいの古鉄値段でした。しかし、松江城の消え去ることを惜しんだ旧藩士高城権八、坂田村(斐川町)の豪農勝部本右衛門らは八方奔走し、遂に落札と同額の献納金を国に納め、解体をくいとめたのです。 今日、緑の城山にくっきりとそびえる天守閣の姿を見ることができるのは、彼らの努力のたまものにほかならないのです。 |
| 堀尾吉晴公(1543-1611) 松江城を築城した堀尾吉晴公は、愛知県丹羽郡の土豪の家に生まれ、岩倉城の戦いに16歳で初陣、奮戦しています。岩倉落城によって浪人になったのですが、その後、猟師暮らしをしていて、美濃の山中で木下藤吉郎(豊臣秀吉)と出会ってその家来となりました。武将時代の「茂助」、晩年の官命「帯刀先生」の名でも知られています。 「仏の茂助」と呼ばれる温厚な人柄でしたが、二十歳台から五十歳まで、戦いに明け暮れ、豪勇の士として多くのエピソードを残しています。 馬に乗りただ一人貝殻塚(貝塚市)頂上に立ち、鉄砲の総攻撃をすけながら受けながら守り通したことは、後世までの語り草となっています。越前一揆軍との戦いで、殿を務めながら一揆勢を討ち取り、秀吉から「鬼の茂助」と賞賛されたこともあり、その手柄の数々は信長が「茂助は毎度のこと」と讃えたほどです。 数回にわたる城受け取り役や敗れた城主の切腹の検死役は、吉晴公の人格と彼に対する秀吉の評価と信頼が高かった事をあらわしています。 秀吉没後、三中老の一人として、徳川と前田、五奉行と徳川とのいざこざの解決に貢献し、家康から本領遠州浜松12万石とは別に、越前府中5万石を贈られています。 |
| 松平直政公(1601〜1666) 徳川家の第二子である結城秀康(越前松平家の祖)の3男として、慶長6年(1601)に生まれました。若干14歳で大阪冬の陣に加わり、力戦奮闘し、敵将である真田幸村も軍扇を投じて賞賛したと言われます。次年の大阪夏の陣にても武功を上げたため、越前大野郡木の本1万石を分与され、やがて出羽守に任官。寛永元年(1642)に越前大野5万石、寛永10年信州松本7万石に転じました。そして寛永15年(1638)に京極氏のあとを襲って、出雲国18万6千石(隠岐国1万8千石も預かる)の藩主に移封されました。 寛文6年(1666)2月3日、66歳で江戸藩邸にて没しました。 |
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| 松平不昧公(治郷はるさと) 宝暦元年(1751)江戸で生まれました。幼名を鶴太郎といい、のち治郷と改めました。号は不昧、俳名は雪羽と言う。 明和4年(1767)、17歳で松江藩7代藩主に襲封した。当時の藩財政は窮乏を極めており、銀礼の廃止、公費節約、租税の引き上げ、人材の積極的活用、佐陀川開削など治水工事、朝鮮人参の生産、紙の製造など産業の興業を積極的に行ないまた。「御立派」と呼ばれるこの改革はかなり強引であったものの、藩財政を大きく立て直しました。 一方、有名な茶の湯の関しては、はじめ三斎流を、そして石州流を修め、諸流を包容した大名茶を大成、不昧流を起こしました。また、回復した藩財政の余裕資金を利用して、天下の名器を収集するなど、茶道の巨匠でした。 |
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