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トップページ>松江城>千鳥城を巡るお話 |
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病に絶望し命を自ら断った小那姫(kona_princess) 千鳥城とも呼ばれる松江城の優美な姿の裏には 傷つきながらも全力で松江城築城に精魂傾けた堀尾一族の、悲しみの涙が込められています 天守には堀尾吉晴公の妻である・大方殿(おおかたどの)(津田氏)が 築城の時に現場で侍女達を指揮している絵が掛けられています 鉢巻をし、なぎなたを持って男集のけんかを取り締まったり また茶の接待をしたり、もちを作って提供したりもした また人夫たちには焼きおにぎりを配ったとも言われます・・ この大方殿の献身の裏には度重なる家族の不幸が影響していました 豊臣三老中の一人だった吉晴は、太閤秀吉の死後徳川家康(tokugawa_ieyasu)に味方しました 関が原の功績で、吉晴(yoshiharu)・忠氏(tadauji)親子は出雲23万5千石を拝領しました 吉晴公(yoshiharu_kou)は戦国の覇者尼子氏の居城「富田城」に入ったのですが 山城で不便な上、城域が余りにも狭い。そこで松江に目をつけたのです・・ 平地も多くて水運も良く、風水にもかなっていました 幕府は慶長8年(1603)3月、松江城の築城を許可しました しかし良い事ばかりではない・・ 忠氏(tada_uiji)の7つ下の妹・小那姫(kona_princess)は絶望の淵に居たのです 彼女は婦人病の腰気(koshike)に苦しみ、症状は日々悪化してゆきました 名医や薬も上方から呼び寄せ、取り寄せたものの効果もありませんでした 月の無い夜、乳母と二人で城を抜け出した姫は、2KMほど離れた池に身を投げました 乳母は、そこに庵を組んで姫の霊を弔い続けたと言う・・ 乳母が立てた庵は、今は廿原堤(hatachikara)神社となって小那姫(koya_princess)を祀っています 娘の死に、吉晴(yoshiharu)夫婦は呆然となったのです・・ 忠氏(tadauji)の急死 この時期、父と子でどこに松江城を立てるかで対立していました 吉晴(yoshiharu)は毛利が尼子攻めで使っていた洗合山(あらわい)を選びました これに対し、忠氏(tadauji)は、山が大きすぎて維持できないと反対し 適度の大きさの極楽寺山(亀田山)を主張したのです 忠氏は極楽寺に城を構えようと思い、実地調査を行ないました 帰路、神魂神社に立ち寄った際、「神官があの奥にある池に近寄ると必ず異変がございます」と引き止めました しかし、忠氏(tadauji)は振り切ってマムシ谷に入りマムシにかまれてしまう・・ 忠氏(tadauji)は何とか富田城までたどり着くがそのまま急逝してしまいました 娘夫婦の野心・お家騒動に発展 大方殿は突然の凶事に驚き錯乱しました・・ その時を狙って家督相続を狙うものが居た・・ それは、娘の勝山、つまり身を投げた小那姫の姉でした 死んだ忠氏には正室である前田玄以の娘との間に三之助という嫡子をもうけていました 年齢的にはまだ6歳と若いのですが、吉晴が後見すると言う事で幕府は堀尾氏の存続を認めたばかりだったのです 大方殿がこの事を夫に持ちかけると、当然の事ながら 「幕府の決めた後継ぎを変えることは出来ない!」と一蹴にされてしまいました。 しかし、それでおさまらず、三之助が9歳の時に遂に謀反が起きたのです 吉晴と大方殿は松江城築城のため大部分の家臣とともに築城現場に住み込んでいた・・ この手薄な時を狙い、勝山夫妻は三之助を乳母とともに座敷牢に閉じ込め 毒殺、刺客と色々手を打ったものの、三之助に同情する者多く失敗・・ ついには座敷牢から脱出に成功・・、事件は吉晴の知るところとなり 夫は隠岐に流され死罪・・、息子(掃部)は京に逃げたが翌年死亡・・ 勝山は夫と息子を亡くし、悲しみの中に10年後寂しくこの世を去ったのです |
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| 松江城に残る怖いお話 やりの刺さった頭蓋骨と天守に出る亡霊 堀尾吉晴公が築城に着手した翌年の慶長13年 本丸の石垣と天守の土台石垣が突然崩れ落ちると言う事件が起きました 4月の事と言われます・・、約一ヶ月かけて修復してみたものの、やはり基礎から崩れてしまう・・ 吉晴は原因の徹底究明のため、有名な築城家の武井四郎兵衛に原因調査を命じました 武井が崩壊個所を数メートル掘り下げると、さびた槍の貫通した頭蓋骨が出てきました これが原因ではないかと、祠を建て丁重に祀りました 堀尾吉晴公は築城工事を慶長16年(1611)まで5年の歳月をかけて行なわれたのですが 最後は財源が尽き、中断されました。堀尾氏3代の後を継いだ京極氏もわずか3年、一代でお家断絶・・ 代わって、松平直政公が松江城に入りました 直政公入城当時、天守はかなり荒廃していました その上に、最上階の「天狗の間」に若い女の亡霊がしばしば出て直政らを困らせました なんと、この若い女は崩壊した石垣のところに『人柱』として埋められていたのです。 直政公がある日「天狗の間」に座っている若い女に 「そのほうは何者か?」と問い掛けると「私はこの城の主です」と答えます 女が「この城」に執着を見せる事から宍道湖で獲れる「コノシロ」を供えた所、亡霊は出なくなった 人柱にされた女は、盆踊りの輪の中からいきなりさらわれて、石垣に埋められたのだと言う・・ 女が埋められた後、松江城では娘の盆踊りは中止された・・、娘が踊ると松江城全体が大きく揺れるからと言う・・・ 小泉八雲「人柱された娘」はこちら |
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