戦国、ああ尼子!

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〜山陰山陽十一カ国に号令した戦国の覇者・尼子とその居城月山富田城〜


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太鼓壇にある山中鹿之助の像

応永二年(1395)江州京極高詮の守護代として富田城に入り
出雲・隠岐両国を治めようと決意したのが尼子持久でした
その後持久の子・清定が家督を相続し、京極氏からの独立を図りますが、失敗に終わりました

その2年後、清定の嫡子・経久は富田城を攻め、富田城乗っ取りに成功しました
さらに近隣諸国を次々と下し経久の体制は磐石となったかのように見えましたが
その中で、永正元年(1518)経久の嫡男・政久は、阿用にて戦死してしまいました

大永元年(1521)尼子の勢いはとどまる事を知らず、安芸・備後・備中・備前・美作・播磨・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐・・・
山陰山陽十一カ国をその手に握り、まさに全盛期を迎えました


■広瀬町富田にそびえる月山富田城は、幾重にも連なる尾根ごとに砦が築かれ
ふもとを外堀のごとく飯梨川が流れ、あたかも山そのものが要害となっている
この地に戦国時代尼子氏は約180年間の栄華を誇りました


月山ふもとの飯梨川に咲く桜 千畳平にある尼子神社

尼子氏は、経久が隠居して(1537年)すぐ長男が戦死していたため、孫の晴久が後を継ぎました
しばらくして、反旗を翻した毛利氏に対して、晴久は3万以上の兵で、毛利の居城「吉田郡山城」を包囲しますが
大内氏が相手の援軍になったため苦戦しまた長い補給路のため食料補給にも苦労し
結局大きな犠牲を払ったまま撤退しました

これが、毛利に近い石見地区の(現在の大田、浜田、益田辺り)諸豪族の離反を招いて、結果大内軍に月山富田城まで迫られました

■戦国時代の諸大名はいわば地方の豪族の長程度のものであり
主従関係と言うより、契約関係・・・つまり、組した大名に自国の領土を守ってもらう保証の見返りとして出兵していただけでした
よって力の均衡が崩れると、利己的な「裏切り」がつき物でした
実際この時も月山を包囲していた大内氏も、多くの豪族の裏切りに遭って敗退しています


太鼓壇公園の桜 千畳平から見た広瀬の街並み

毛利元就は、天文23年、尼子氏の中で最強の軍団・新宮党に目をつけ、策謀をめぐらせ
晴久と新宮党の国久・誠久親子とを仲たがいをさせ、ついには国久・誠久親子を殺害してしまいました

こうして、尼子氏の力を大幅にそがれた上に、永禄五年(1562)晴久頓死により
嫡男・義久が後を継いだものの、新宮党亡き後戦力の激減した尼子氏は
山中鹿之助を中心とする尼子十勇士の活躍も及ばず、永禄9年(1566)ついに毛利の軍門に下り、富田城は落城しました

●尼子氏再起戦

永禄9年11月21日、尼子氏は毛利に降り、蘢城していた将兵は思い思いに四散しました
主家没落後、京都に上っていた山中鹿之助らは、東福寺に居た新宮党の遺子を還俗させ
尼子孫四郎勝久と名乗らせて主将に迎え、永禄12年(1569)6月、島根半島千酌湾に入り、上陸し、忠山に陣をすえました

そうしているうちに、勝久出陣の報を聞いて、旧家臣が集まってきました
そして尼子軍は新山城に本陣を移動し、故城の富田城を攻撃したがついに奪還出来ないまま
明く元亀元年(1570)2月毛利軍2万5千と対峙し、わずか700人と言う少数で
近くの布部山に迎え撃ちました
しかし、その戦力差はいかんともしがたく敗退せざるをえませんでした

元亀2年6月14日、毛利元就が居城郡山城で75歳で没したのを機に、鹿之助らは反撃したが成功せず
尼子主従は京都に入り再起第一戦は期待はずれに終わりました

●尼子氏と上月城と秀吉上月城

鹿之助らは織田信長の援助を得て、因幡国に進出し、再起第2戦をもくろみました
しかしこの第2戦も失敗に終わり、主従は京都に再度身を引きました

第三戦の舞台は、山陰から山陽に移り、播州上月城が主戦場となりました
織田信長の中国征伐の総帥羽柴秀吉と毛利輝元との戦いの中に引きずり込まれることになったのです

毛利方の赤松氏が秀吉軍によって落とされ、代わって尼子勝久・山中鹿之助主従が羽柴軍の最前線である
上月城に入りました
しかし、上月城は毛利の大群に囲まれ、織田の援軍の羽柴秀吉も手が出せずに居たところ
播州三木城の別所氏が織田勢から離反、あくまでも上月城を救援を願う秀吉に対して
信長は
「上月城を見捨てて三木城を包囲せよ」と命令したのです

この瞬間、尼子主従の命運は決まりました。


尼子勝久は自害し、鹿之助は毛利領国に護送される途中、備中高梁川渡しで惨殺されました
天正6年7月17日、34歳であったといわれます


こうして、尼子氏再興の夢は絶たれ
尼子氏繁栄180年の幕を閉じ歴史から姿を消しました。
千畳平にある椎の木

この椎の木は樹齢400年以上と言われ
尼子・毛利攻防時代から有ると言われています
尼子氏は永禄年間ろう城7年を戦い抜き
ついに兵糧攻めによって毛利に降参しました

当時の山城には多くの椎の木を植え
その実は食料の足しにしたと言われています

この椎の木も当時の名残りをとどめる唯一の古木で
昭和のはじめ頃までは、毛利の射た矢が残っていたと伝えられています

ここ、千畳敷(尼子の勢揃い場)はこの木が残っているために
「椎の木平」とも言われ、長い歴史を無言で語ってくれます
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