鳥取旅行記

 2004年3月28日(日)から30日(火)まで、中国地方方面へ旅行に行きました。
 「鳥取砂丘に行きたい」と、前から思っていました。春休みに、どうにか時間ができそうだったので、鳥取に行く計画を立てました。しかし、鳥取には砂丘以外、特に観光地も少なく、社会科の教材探しにもならなそうだったので、行くまでの間に、どこかを見に行こうと思いました。そこで考えたのは、授業で扱った日根荘(大阪府泉佐野市)、福岡の市(岡山県長船町)を見に行くことでした。
 この旅行記では、日根荘、福岡の市、鳥取砂丘を中心としたまっけんの鳥取旅行を、書いていきます。
 最後になりましたが、旅行準備や旅行中などでお世話になった方に、お礼を申し上げます。

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3月28日(日) 国分寺St0740(中央特快)0816東京St0826(のぞみ107号)1102新大阪St1112(大阪市営御堂筋線)1133天王寺St1140(阪和線快速)1215日根野St1220(徒歩)1245【歴史館いずみさの】(徒歩)俵屋BS1326(バス)1346中大木BS【大木地区見学】 火走神社(滝宮神社)毘沙門堂蓮華寺西光寺薬師堂禅徳寺長福寺跡円満寺下大木BS1532(バス)1540東上BS【日根野地区見学】 慈眼院日根神社総福寺天満宮無辺光院推定地井川十二谷池日根野St1707(阪和線関空紀州路快速)1756大阪St1800(東海道本線新快速)1804新大阪St1829(のぞみ25号)1913岡山St(路面バス)田町St(徒歩)岡山パークホテル
3月29日(月) 岡山パークホテル(徒歩)岡山St0826(赤穂線)0856長船St(徒歩15分)【福岡地区見学】備前福岡郷土館、福岡の市跡、教意山妙興寺(徒歩)長船St1027(赤穂線)1054岡山St(徒歩)【後楽園】(徒歩)岡山パークホテル(徒歩)田町St(路面バス)岡山St1421(特急スーパーいなば5号)1604鳥取St1616(バス)1640砂丘会館BS【鳥取砂丘見学】砂丘会館1710(バス)1740鳥取St
3月30日(火) 【鳥取砂丘見学】鳥取St1129(スーパーはくと6号)1258姫路St1358(のぞみ16号)1706東京St

3月28日(日)

のぞみ107号

 自由席だったけど、東京駅発なので、座って行けました。

 新大阪につくと、周りは、当然のように関西弁。地下鉄に乗り、天王寺で阪和線に乗り換えるけど、電車は、メチャメチャ混んでいて、座れませんでした。それもそのはず、阪和線は日根野駅で乗り換えると、関西空港まで行ける電車です。なので、大きなバッグを持った海外旅行者が結構乗っていたんですね。

日根野駅

 往事の日根野村の真只中の駅。駅には、300円のロッカーがあり、荷物をおいて散策するのに、便利です。

 バス通りは、室町時代に開かれたとされる不動道。北に行くと「歴史館いずみさの」がある市総合文化センターを経て南海本線泉佐野駅へ。南に行くと、慈眼院、土丸、大木を経て犬鳴温泉に行きます。

歴史館いずみさの(泉佐野市市場東1丁目295−1)観覧料200円
ホームページへのリンク掲載許可をいただきました)

 JR日根野駅から北に25分歩き(駅から、バスでも行けますが、ちょっとわかりづらいですね。駅前に歴史館の看板があったら、便利なのに…)、泉佐野市の総合文化センターにある中世荘園を中心テーマにした展示を行なっている歴史館いずみさのに着きます。日根荘を勉強、これから歩く予習をするのに、便利です。また、日根荘をテーマにした特別展も行なっているので、図録などさまざまな出版物を発行しています。通信販売も行なっているので、参考にしてみて下さいね。私も、事前にメールで書籍についての問い合わせをしましたが、結局、直接行って購入しました(笑)。

 中世の荘園の生活について、復元模型や荘園のジオラマなどを使用して、分かりやすく紹介されています。

 日根荘散策の下調べをほとんどしていなかった私は、受付のお兄さんに「日根荘を歩きたいんですけど…」と質問して、バス経路図などをもらい、周り方を教えてもらいました。博物館で発行している史跡ガイドマップ(各100円)の「1.大木・土丸編」「2.日根野編」や常設展の「展示解説シートNo.4日根荘日根野村案内地図・日根荘入山田村(土丸・大木地区)案内地図」も、役に立ちました。

歴史館いずみさので買った本
『歴史館いずみさの 常設展示案内』
『特別展 絵図は語る−荘園と村の景観−』 1998年
『特別展 「政基公旅引付」とその時代』 2001年
『新修泉佐野市史』第5巻 資料編中世U
『史跡ガイドマップ』1.大木・土丸篇、2.日根野篇、3.熊野街道篇、
            4.上之郷・長滝篇、5.孝子越街道篇

着替えもほとんど持っていかない軽量化した荷物だったはずが、本がこれだけ入ったために、メチャメチャ重くなってしまって、この後の旅行は、かなり辛かったです。

 

★大木地区見学

 歴史館のそばの俵屋バス停からバスに乗り、火走神社(滝宮)の前の中大木バス停で下車。火走神社を見学し、鳥居の前の石段で天王寺駅で買った昼食(お稲荷さん)を食べる。

火走神社(滝宮神社)
毘沙門堂
蓮華寺
西光寺薬師堂
禅徳寺
長福寺跡
円満寺

大木地区を流れる樫井川
ここで、蕨を浸して澱粉に処理したのかなぁ?
火走神社(滝宮)

 入山田村の総社で、中世・近世には「瀧宮」などと呼ばれていました。
 現在の本殿は、一間社春日造。建立は江戸時代前期の元和8(1622)年。彫刻・絵画・彩色に泉南地方の特色をよく発揮している社殿である。
 滝宮では、請雨の儀が行なわれ、その様子は、『旅引付』甲巻 文亀元(1501)年7月20日条に具体的に記されている。滝宮で請雨が行なわれ、もし三日の間に雨が降らなければ、七宝滝で行ない、ついで七宝滝寺不動明王堂で雨乞いを行ない、それでも降らない場合は、七宝滝寺の滝壷に動物の死骸などの不浄の物を投げ入れ龍神を怒らせて雨を降らせるとしている。

 また、私が授業で使った文亀4(1504)年2月16日条にも、滝宮が出てきます。

16日雨。大木村と船淵村の番頭が来た。「昨年の干ばつのため御百姓が多く餓死しています。そのため、蕨を採ってかろうじて命をつないでいましたが、これを盗む者がいて、食物が無くなってしまうと死んでしまうので、見張り番をおくことにしました。昨夜盗む者があったので、追いかけたところ、瀧宮神社の巫女の家に逃げ込みました。中に入ってみましたら、巫女の2人の息子が犯人でしたので、かばう母親と息子2人を殺害しました。」ご報告します。証人を一人も生かさず、母まで殺害することは、乱暴なことであるが、地下沙汰だから仕方がない。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。

 この事件では、村の検断(警察)行為は、領主である政基の関与しないところで実施され、村内の問題は村人自身が処理する自検断が行なわれた。政基は番頭から報告されるのみで、地下の沙汰だから仕方がないと感想を言うのみであった。

毘沙門堂

 このあたりは、五所谷と呼ばれ、南北朝時代には南朝の後村上天皇が滞在したという伝説が残っている。この堂には、楠氏守護神の毘沙門天が祀ってあり、菊水の紋が描かれていた。

蓮華寺

 中世船淵村の寺で、現在は上大木の集会所となっている。
 ガイドマップや地図を見ても、具体的な位置がわからなかったために、迷子になる。そのため、農作業をしていたおじさんや道を歩いていたおばさんに道を尋ねながら、たどり着く。現在は、地蔵が数体あるだけで、集会所になっているため、前を通っても気がつかないので、要注意。

西光寺薬師堂

 中世菖蒲村の寺で、現在も中大木村の人たちによって守られていている。

禅徳寺

 曹洞宗永平寺派の寺院。小高い山上にあり、境内からは、中大木・下大木が見渡せます。

長福寺跡

 九条政基が滞在した長福寺の跡。
 ここも、わかりにくかったために、農作業をしていたおじさんに「長福寺の跡ってどこですか?」聞いたら、教えてくれてから、「誰が来たか知ってるか?」と聞かれた。「九条政基です」って答えたら、褒められたけど、誰が来たか知らないでここまで来る人っているのかなぁ?
 写真はそれらしいものを撮ってみましたが、おじさんの説明だけでは、どこがそうなのか確定できませんでした…。

円満寺

 中世において一向宗の道場であり(異説として、中世は密教系寺院で、後に一向宗の道場になったという説もあり(『新修泉佐野市史』第5巻、補注52))、農民結集の場になったところであり、現在も下大木の集会所として使われている。

史料に見る円満寺の鐘の音

文亀元(1501)年8月28日条
 早朝、円満寺と菖蒲村等の早鐘が激しく打ち鳴らされた。人びとが来て言った。「日根野村東方へ、上守護(細川元常)の被官人の日根野光盛が討ち入り、乱暴していった。【後略】

文亀3(1503)年10月29日条
 早朝に槌丸(土丸)の百姓が、走ってきて言った。「国方(守護軍)が日根野村東方に乱入し、百姓を一両人召し捕る間、村民が集結して合戦をした。急いで、援軍がほしい」【中略】急いで用意してむかい、円満寺の鐘を打ち鳴らし、四ヵ村(入山田四ヵ村…船淵・菖蒲・大木・土丸)の軍勢を動員し、敵を追い落として、召し捕られた一両人を取り返した。【後略】

<解説>
円満寺の鐘は、史料から分かるように、入山田村に守護方からの攻撃があると、打ち鳴らされ、入山田村4か村の軍兵を動員して、敵方勢力と対戦している(『新修泉佐野市史』第5巻、補注88)。このように、入山田村の人びとにとって、中心的な役割を果たしていた寺だったことが分かる。

 

★日根野地区見学

 大木地区を見学し、下大木のバス停から、東上のバス停まで。バス停の目の前に、慈眼院がありました。

慈眼院
日根神社
総福寺天満宮
無辺光院推定地
井川
十二谷池

 
慈眼院(泉佐野市日根野626)拝観料100円、パンフレット100円

 東上バス停を降りると、すぐ慈眼院である。本堂の隣の建物の呼び鈴を押すと、中からおばさんが出てきて、拝観料とパンフレット代を払い、本堂裏の金堂と多宝塔に案内してくれた。事前調査不足が露呈してしまうが、慈眼院の多宝塔が国宝で、金堂が重要文化財だったのを知らなかったので、ちょっとびっくりした。

 慈眼院は、日根神社の神宮寺だった寺院で、大井堰御坊ともよばれる。真言宗仁和寺(御室派)の末寺である。多宝塔と金堂は鎌倉時代の様式を伝えるものである。
 673(天武2)年、天武天皇の勅願寺として創建されたと伝えられる。815(弘仁6)年から2年間、弘法大師来住により、多宝塔、金堂をはじめめ堂宇を建立。1353(文和2)年南北朝の戦火で炎上した後、後村上天皇、後亀山天皇の勅命により再興された。しかし、1585(天正13)年、豊臣秀吉の紀州鎮撫の際、金堂、多宝塔を除く一山が炎上した。その後、1602(慶長7)年、豊臣秀頼が一山を再興した。
 境内の姥桜は太閤手植といわれ、府の天然記念物の指定されている。

慈眼院多宝塔(国宝)
 3間2層、全高10メートル余。通説によると1271(文永8)年の再建とされる。我が国最小の塔として知られ、その優美、典雅の趣は他に比類がない。石山寺、高野山金剛三味院のものとともに、日本3名塔と称されている。
慈眼院金堂(重要文化財)
 多宝塔と同じく、1271(文永8)年に再建されたとされる。高さ3.8m。平面方3間、屋根・単層寄棟造本瓦葺き。小堂ながら鎌倉期の端正さをよく現している。毘沙門堂、一願薬師堂ともいう。
日根神社

 中世よりは大井関大明神(おおいぜきだいみょうじん)ともよばれ、日根荘全体の鎮守だった。日根神社の創建は明らかではないが、元正天皇の霊亀2(716)年に制定された和泉五社のうちに数えられ、また延喜式内社日根郡十座のうちに列している。現在の本殿は社伝によれば、天正年間に兵火に焼失したものを豊臣秀頼が再建したものといわれる。境内を井川(ゆかわ)という用水路が通っており、用水の神でもある。

日根神社境内にある神社
比売神社(ひめじんじゃ)
 もと溝口大明神とよばれ、独立した神社でした。
野々宮本殿
総福寺天満宮(重要文化財)

 曹洞宗総福寺の鎮守でした。小規模ながら桃山時代の優れた建築です。

無辺光院推定地

 日根荘の政所がおかれた寺院跡と考えられている。日根神社に近く、日根野全体を見下ろせる位置にあります。ガイドマップや地図を見ても、具体的な位置がわからなかった。

井川(ゆかわ)

 日根野村は、扇状地であるため、水の便が悪く、昔から水に関する争いが絶えなかったし、そのため、開発も進みにくかった。
 井川は、土丸に設けられた取入口から樫井川の水をひき、日根神社・慈眼院の境内を通り、八王寺跡・野々宮跡の近くを流れ、日根野の水田をうるおし、十二谷池に流れ込む幹線水路である。その開削は中世にさかのぼる。


慈眼院境内を流れる井川

 現在も、日根野における水利は重要な問題で、土地改良区(水利組合)によって、井川は管理され、毎日、朝と夕方の2回、役員が集まって水門の開閉や流す水量を相談するそうである。
十二谷池

 日根野には、丘陵部に谷間をせき止めたいくつものため池が並んでいます。そのなかの一つです。

日根荘概略

 古代まで荒野だったこの地は、鎌倉時代の1234(天福2)年、九条道家の荘園・日根荘になった。これ以後、荘内の荒野の開発を、九条家の指揮によって実行した「開発一円の所領」として本格的な水田開発が行なわれ、農民達の村落がつくられていく。日根荘は、立荘当初は日根野・入山田・井原・鶴原の4ヵ村から成り立っていた。
 南北朝の内乱から室町時代にかけて、日根野氏を初めとする近隣在地領主、国方と称される守護勢力、隣国紀州の根来衆徒などが力をつけ、また、村民達も自治を強めていった。15世紀初頭頃、半済などにより井原・鶴原の2ヵ村は守護方の支配下に組み込まれ、日根野・入山田の2ヵ村のみが荘園領主の九条家の手元に残った。これに対し、荘園の領主の九条政基は、戦国時代の1501(文亀元)年、自ら日根荘に住み、直接支配を行なった。しかし、土豪、農民と結びついた根来寺の力が増し、政基は1504(永正元)年、日根荘を離れ、3年8か月に及んだ日根荘の滞在と支配は終わった。
 1533(天文2)年に、日根野村番頭の北庄司らは段銭を九条家(政基の孫、稙通の代)に納入した以降、九条家が日根荘から年貢等を徴収した記録はなく、九条家の日根荘支配は終焉を迎えた。

 

 夕飯は、ホテルのフロントに、「岡山っぽいものを食べさせてくれるお店を教えてほしい」とリクエスト。教えてもらった「夜寿司」で、適当に握ってもらい、ままかり、あなご、しゃこ、たこ、さわらを出してもらい、あなごを追加して、満足することができました。

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★参考資料

・歴史館いずみさの発行の資料
『歴史館いずみさの 常設展示案内』
『特別展 絵図は語る−荘園と村の景観−』 1998年
『特別展 「政基公旅引付」とその時代』 2001年
『史跡ガイドマップ』1.大木・土丸篇、2.日根野篇

・史料
中世公家日記研究会『政基公旅引付』本文篇・研究抄録篇・索引篇(和泉書院、1996年)
泉佐野市史編さん委員会『新修泉佐野市史』第5巻 資料編中世U(泉佐野市、2002年)

・文献・論文
田沼睦「都市貴族下向直務と中世村落−和泉国日根荘」(稲垣泰彦『荘園の世界』東京大学出版会、1973年)
東京学芸大学日本中世史ゼミ『和泉国日根荘現地調査報告』(東京学芸大学日本中世史ゼミ、1986年)


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