王朝国家体制
\\\\\\\
\\\\\\\―――――――> 高校生のための日本史講座 ) ) ) ) )
NO.101 延喜の荘園整理令
( ( ( ( ( 2000.8.1 <―――――――///////
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
|||||||||||||||||||||||||||||||||||
1.今号のテーマ
日本の古代律令制(701年、大宝律令)は、公地公民制・班田収授法
・戸籍計帳にもとづいて、国家が人民一人ひとりを掌握するという個別人
身支配が大原則でした。
具体的にいえば、「どの戸(人民)がどこにいるか。」ということを国
家が把握するシステムです。
この大原則は、一定の条件のもとで土地の私有化を認めた墾田永年私財
法(743年)以後も変更されるものではありませんでした。
それが、
奈良時代から、租税をのがれるため、公民の浮浪・逃亡、私度僧(勝手
に僧になって租税負担から逃れること)、偽籍(男を女と偽って戸籍に記
載すること)があいついでいましたが、平安時代にはいってから、浮浪・
逃亡など戸籍記載地から離れた公民を使役して、空閑地・荒廃地を開墾し
占有する富裕な農民(富豪層)、院宮王臣家(有力な貴族・大寺院・皇族
出身の実力者。権門勢家)の行動が目立つようになりました。
「開墾し占有」といっても、一定の税が課せられる輸租田{ゆそでん}で
すから、まだまだ完全な私有地ではありません。
(不輸・不入の権を獲得した完全な私有地=荘園が多くみられはじめるの
は、12世紀のことです。)
しかし、課せられた租税以外の生産物は自らのふところにはいってくる
ので、彼ら富豪層・権門勢家はきそって空閑地・荒廃地の開墾にのりだ
します。
1.延喜の荘園整理令(902年)
こうした動きに対して、政府は「延喜の荘園整理令」を発します。
●史料
「太政官符す
まさに勅旨開田ならびに諸院諸宮及び五位以上の、百姓の田地舎宅を買
い取り、閑地荒田を占請するを停止すべきの事
右、案内を検ずるに、このごろ勅旨開田遍く諸国にあり。空閑荒廃の地
を占むるといえども、これ黎元の産業の便を奪うなり。しかのみならず新
たに庄家を立て、多く苛法を施す。課責もっとも繁く、威脅耐え難し。か
つ諸国の奸濫の百姓、課役を遁れんがために、ややもすれば京師に赴きて
好みて豪家に属し、あるいは田地をもって詐りて寄進と称し、あるいは舎
宅をもって巧みに売与と号し、遂に使に請ひて牒を取り封を加えボウ(片
へんに旁)を立つ。・・・宜しく当代以後、勅旨開田は皆ことごとく停止
して民をして負作せしめ、その寺社百姓の田地は各公験に任せて本主に還
し与うべし。かつ夫れ百姓、田地舎宅をもって権貴に売り寄するは、蔭贖
を論ぜず、土浪を弁ぜず、杖六十に決せよ。もし符の旨に乖違して嘱を受
けて買い取り、ならびに閑地荒田を請占するの家あらば、国須らく具に耕
主ならびに署牒の人、使者の名を録して早速に言上すべし。・・・但し元
来相伝して庄家たること券契分明にして、国務に妨げ無き者はこの限りに
あらず。よりて須らく官符到る後百日の内に弁行し、状をつぶさにして言
上すべし。 延喜二年三月十三日」
(出典:類聚三代格)
時の政権担当者は、菅原道真を失脚させて実権を握ったばかりの藤原時
平です。
内容を大雑把にみると、天皇の内廷費にあてるために設定された勅旨田
{ちょくしでん}が農民の耕作を妨げているので、これを廃止する。また、
富豪層(奸濫の百姓)が租税負担の軽減をねらって院宮王臣家(豪家)に
田地を「寄進」する行為や「売与」といった行為も禁止する。当代以後
(醍醐天皇の即位以来)の勅旨開田はすべて停止する。ただし、正式の手
続きをとったもの、国務に妨げのないものはこの限りではない。
ということです。
藤原氏も権門勢家(院宮王臣家)のひとつです。
この法のねらいは何なのか?
これについては、まだまだ藤原氏には律令制を維持する政治家としての
自覚があったからだともいわれています。たしかに、藤原氏は律令官僚制
のうえに君臨しているわけですから、その藤原氏が律令制を無視すること
はみずからの権威の喪失をまねくことにもなりかねません。
しかし、私は、たしかに藤原氏は律令制維持の姿勢をとったにしても、
権門勢家相互の既得権益を保護・確認しあった側面があったと思います。
末尾の「但し」以下の文章が「抜け道」だったのではないかと思います。
また、すでに正式の手続きで田地を「寄進」された権門勢家以外の新規
参入型の田地社宅の買取・占有を抑止する効果もあったと思います。
アジア各地の激動つまり王朝交代の危機を肌で感じ取っていたわが国の
律令貴族たちは、土地占有の競争によって国家が無秩序になることや新勢
力の台頭を恐れたのだと思います。
902年は、班田制が実施された最後の年でもありました。
2.三善清行意見封事十二箇条(914年)
延喜の荘園整理令によって、藤原氏をはじめとする権門勢家が既得権益
を保護・確認しあうなか、こうした現状を嘆いて本格的な政治改革の断行
を主張した高官がいます。
三善清行(きよゆき)です。
従四位上・式部大輔の地位にあり、このとき67歳。
彼は、14箇条からなる意見を醍醐天皇に上奏します。
ときの藤原氏の氏長者は、すでに時平が905年に死去していたので、
その弟・忠平(ただひら)です。このとき34歳。
●史料(抄出)
「臣、寛平五年に備中介に任ず。かの国の下道郡に、迩磨{にま}郷あり。
ここにかの国の風土記を見るに、皇極天皇の六年に、大唐の将軍蘇定方、
新羅の軍を率い百済をうつ。百済使を遣わして救わんことを乞う。天皇筑
紫に行幸したまいて、まさに救兵を出さんとす。・・・路{みち}に下道
郡に宿す。一郷を見るに戸邑{こゆう}はなはだ盛んなり。天皇詔を下し、
試みにこの郷の軍士を徴す。すなわち勝兵二万人を得たり。天皇大いに悦
び、この邑を名づけて二万{にま}郷という。後に改めて迩磨郷という。
天平神護年中に、右大臣吉備朝臣、大臣と本郡の大領を兼ね、試みにこの
郷の戸口をかぞうるに、わずかに課丁千九百余人あり。貞観の初めに、故
民部卿藤原保則朝臣、かの国の介たりし時に、大帳をかぞうるのついでに、
その課丁を閲{けみ}するに、七十余人ありしのみ。清行任に到りて、ま
たこの郷の戸口を閲せしに、老丁二人・正丁四人・中男三人ありしのみ。
延喜十一年に、かの国の介藤原公利、任満ちて都に帰る。清行問う、「迩
磨郷の戸口当今幾何{いくばく}ぞ」と。公利答えていわく、「一人もあ
ることなし」と。謹みて年紀をかぞうるに、皇極天皇六年庚申より、延喜
十一年辛未に至るまで、二百五十二年、衰弊の速かなること、またすでに
かくのごとし。一郷をもてこれを推すに、天下の虚耗、掌を指して知るべ
し。」
(出典:三善清行意見封事十二箇条)
こうした課口の減少は、偽籍によるものです。戸籍は国司が編成するわ
けですが、その国司をつとめた清行・公利ですら、それを取り締まること
ができないのです。戸籍作成にあたっては、郡司が大きく関わっています
が、その郡司がきちんと人民を把握していないのか、人民の不正に荷担し
ているのです。
しかし、清行の願いはむなしく、時代の流れは、権門勢家による王朝国
家体制へと移行していったのです。
【 参考図書 】
・永原慶二『荘園』吉川弘文館
日本史教育研究会にも所属する永原氏は、1978年に同名の書を、同
研究会集の < 若い世代と語る日本の歴史シリーズ > として評論社
から出されています。
永原氏の整理によれば、荘園の歴史は次のとおりです。
成立期(8世紀後半〜12世紀末頃)
展開期(12世紀末頃〜14世紀中頃)
動揺・解体期(14世紀後半〜15世紀末頃)
消滅(16世紀末の太閤検地)
−−−−−−−−−−− 練習問題 −−−−−−−−−−−−−−−−
今号の内容に的を絞った過去問題は少ないので、オリジナル問題でどう
ぞ。
「臣、寛平五年に備中介に任ず。かの国の下道郡に、迩磨郷あり・・・任
に到りて、またこの郷の戸口を閲せしに、老丁二人・正丁四人・中男三人
ありしのみ。延喜十一年に、かの国の介藤原公利、任満ちて都に帰る。
( )問う、「迩磨郷の戸口当今幾何ぞ」と。公利答へて云く、
「一人もあることなし」と。謹みて年紀をかぞうるに、皇極天皇六年庚申
より、延喜十一年辛未に至るまで、二百五十二年、衰弊の速かなること、
またすでにかくのごとし。一郷をもてこれを推すに、天下の虚耗、掌を指
して知るべし。」
1.空欄には、「臣」の名が入る。この人物は誰か。氏名を答えなさい。
2.この史料を何というか。また、西暦何年に上奏されたか。
3.貴族や寺社による山林・原野の占有と開墾、大土地所有が進行するも
ととなった743年の法令は何か。
4.貴族や寺社が浮浪人や奴婢などを使役して、自力で開墾した私有地を
何というか。次から選びなさい。
ア.名田 イ.田荘 ウ.寄進地系荘園 エ.自墾地系荘園
5.公地公民制の崩壊につれて班田制の実施は困難となったが、記録の上
で班田実施の最後は何年のことか。
また、同年に発せられた法令名を答えなさい。
6. 平安時代、公地公民制の崩壊により財源に苦しんだ政府は、直接に土
地を経営するようになるが、皇室の財源として設定したものを何という
か。
7.9世紀に大宰府管内の良田を選び、班田農民に耕作させたものを何と
いうか。
8.中央政府の財源にあてるため、畿内に設定された直営の田を何という
か。
――――解答――――――――――――――――――――――――――
1.三善清行 2.意見封事十二箇条、914年 3.墾田永年私財法
4.エ 5.902年、延喜の荘園整理令 6.勅旨田 7.公営田
8.官田
――――――――――――――――――――――――――――――――
高校生のための日本史講座
発行:mazzn
購読者数 1601
\\\\\\\
\\\\\\\―――――――> 高校生のための日本史講座 ) ) ) ) )
NO.102 大名田堵
( ( ( ( ( 2000.8.2 <―――――――///////
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
|||||||||||||||||||||||||||||||||||
1.名田体制と田堵
公地公民制がしだいにくずれ、権門勢家の私領獲得がすすむ10世紀頃か
ら、地方の公地は名{みょう}という単位にわけられて、国府(国衙)管理
のもとで、田堵{たと}とよばれる有力農民が耕作を請け負うことになりま
す。
田堵には、2〜3町歩程度を耕作する小名田堵もいれば、数十町歩に及ぶ
規模を経営して「富豪の輩{ふごうのともがら}」とよばれた大名田堵もい
ました。「大名」、「名字」などの語の由来です。大田名を担当する犬丸だ
から大田犬丸というように、それまでの姓{かばね}のような役割を帯びた
のですね。
11世紀に藤原明衡{あきひら}があらわした『新猿楽記』(しんさるが
くき)には、田中豊益{たなかのとよます}という架空の大名田堵が登場し
ます。まずは、その様子についてみていきましょう。
●史料
「三の君の夫は、出羽権介田中豊益{たなかのとよます}なり。ひとえに耕
農を業となし、さらに他の計{はかりごと}なし。数町の戸主、大名の田堵
なり。かねて水旱{すいかん}の年を想いて鋤・鍬を調え、ひそかに腴{こ}
え迫{や}せたる地をはかりて馬杷{うまくわ}・犁{からすき}を繕う。
あついは堰塞{いせき}・堤防・溝渠{ほりけみぞ}・畔畷{あぜなわて}
の忙{いそぎ}において、田夫農人を育み、あるい種蒔・苗代・耕作・播殖
の営において、五月男女{さおとめ}を労{いたわ}るの上手なり。作ると
ころの稙{わせ}おくて・粳糯{うるちもちいね}、苅穎{かりえい}、他
人にすぐれ、舂法{しょうほう}年ごとに増す。
しかのみならず、園畠に蒔くところは麦・大豆{まめ}・大角豆{ささげ}
・小豆{あずき}・粟・黍{きび}・稗{ひえ}・蕎麦{そば}・胡麻{ご
ま}、員{かず}を尽して登{みのり}熟す。春は一粒をもて地面に散すと
いへども、秋は万倍をもて蔵の内に納む。」
(出典:新猿楽記)
まさに、辺境の長者ですね。この文章の中には興味深いことがたくさんあ
りますが、次のことを指摘することができます。
まず、自然災害(水害やひでり)にそなえて、農具はもちろん、灌漑・排
水設備を整えておくこと。そして、人員や彼ら彼女らに与える報酬を確保す
ることが、理想的な大名田堵として描かれていることです。これを可能にし
た大名田堵は、おそらく古くからその地に影響力をもった郡司などの豪族ク
ラス、あるいはその保護をうけて成長した農民だったと思われます。
大名田堵は、やがて名田のみならず、管轄権限外の土地や水利などをわが
ものの私領にしようとします。さらにまた、人民を自らの私有民であるかの
ように支配していきます。これを開発領主といいます。
こうした開発領主と国司とは基本的に対立するものですが、国司も彼らと
妥協したり、懐柔・圧迫などをしつつ、しだいに私腹をこやすようになりま
す。
少し時代がワープしますが、
鎌倉幕府の御家人、つまり、将軍と主従関係をとり結んだ武士の資格が何
か知ってますか?
14世紀に鎌倉幕府が訴訟の手引書として編纂した『沙汰未練書』には、
次の一文があります。
「御家人とは、往昔以来、開発領主として、武家の御下文を賜わる人の事な
り。開発領主とは根本私領なり。又本領ともいう。」
今号は、練習問題の分量も多いので、本文はここで終えます。
練習問題の出典である『日本霊異記』は、大名田堵があらわれるよりも1
00年以上も前の8世紀末から9世紀前半にかけて成立したものです。しか
し、ここに登場する郡司の妻は、大名田堵の前身とでもいうべき姿を描いて
いるように私は思います。
そこで、思い切って、この練習問題を今号にあわせて掲載します。
−−−−−−−−−−− 練習問題 −−−−−−−−−−−−−−−−
〔1〕94年・センター本試験
田中広虫女は、讃岐国美貴郡の(a)大領小屋宮手が妻なりき。富貴にし
て宝多し。馬牛・(b)奴婢(注1)・稲銭・田畠あり。うまれながらに道心な
く、貪欲{どんよく}にして給与(注2)することなし。出挙の時は小さき
斤{はかり}(注3)を用い、大きなる斤(注4)にてはたり(注5)収む。利息
を強いてはたること、いとはなはだし。三宝の物を多く用いて報いずあり。
(出典:『日本霊異記』)
(注1) この奴婢は、個人の所有する私奴婢。
(注2) 給与は、人に物を与えること。
(柱3) 小さき斤は、物を重く見せる秤。
(注4) 大きなる斤は、物を軽く見せる秤。
(注5) 「はたる」は、責めて取り立てる。
問1 下線部(a)の大領は郡司の長官であるが、奈良時代の郡司に関連して
述べた文として正しいものを、次から1つ選べ。
1.郡司は、国司を率いて地方政治を行った。
2.郡司には、かつて国造であった地方豪族は任じられなかった。
3.郡司は、県主と同時期に各地を支配した。
4.郡司の子弟は、地方の国学で教育をうけることができた。
−−−解答−−−
4
−−−−−−−−
問2 史料の郡司の妻について述べた文として誤っているものを、次から1
つ選べ。
1.結婚してからも、もとの氏を名乗った。
2.夫とは別に、動産と不動産からなる財産をもっていた。
3.周辺の農民に過酷な出挙を行った。
4.仏教に帰依し、寺の財産を大切にした。
−−−解答−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
4(「道心なく」は仏教を敬う心が無いことです。)
この問題は少々古典的な知識が必要ですが、既存の宗教をも信じようとし
ないところにたくましさがあるのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
問3 下線部(b)の奴婢について述べた文として誤っているものを、次から
1つ選べ。
1.奴婢には、良民と同じ面積の口分田が与えられた。
2.奴婢は、馬牛・稲銭と等しく、財産とみなされた。
3.奴婢には、調庸は賦課されなかった。
4.奴婢は、陵戸・官戸・家人と同じく五色の賎の一つである。
−−−解答−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1(奴婢に班給された口分田は、男女それぞれ良民の3分の1です。)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「高校生のための日本史講座」
発行:mazzn
購読者数 1611
\\\\\\\
\\\\\\\―――――――> 高校生のための日本史講座 ) ) ) ) )
NO.103 国司制度の変質(受領と遙任)
( ( ( ( ( 2000.8.2 <―――――――///////
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
|||||||||||||||||||||||||||||||||||
1.はじめに
前号では、大名田堵を中心に公地公民制度の変質についてみましたが、今
は、こうしたなかで力をつける国司や国司制度そのものが主なテーマです。
まず、律令制下の国司について、復習(と付記)をしてみたいと思います。
国司は、尾張・美濃など約60の国単位におかれる地方官です。中央の貴
族がこれに任命されます。四等官は守{かみ}・介{すけ}・掾{じょう}・
目{さかん}ですね。つまり、今の県知事にあたるのが守です。
国にも大・上・中・下のランクがあって、たとえば陸奥・下総・越前・伊
勢・大和などは大国です。官位相当では大国の守が従五位上、下国の目が少
初位上ですから、全体的には中・下級貴族だったわけです。
国司の任期は、原則4年です。任期が終われば京で中央官職につくか、あ
るいは別の国の国司、大宰府などの地方官職につくことになります。
こうした国司が、10世紀から12世紀にかけて、わが世の春とばかりに
富裕を謳歌するようになります。
当時流行した俚謡(りよう。民衆がくちずさんだ歌)には、
黄金の中山に 鶴と亀はものがたり 仙人童{せんにんわらわ}の密{み
そ}かに立ち聞けば 殿は受領になり給う
というものもあります。受領は、あとでも述べますが、現地に赴任した国
司です。当時は、娘を持つ親が嫁ぎ先に願ったのも受領だったそうです。
2.国司と公領
国司がなぜ、富裕を謳歌するのか?
それは、公地公民制が変容する中で、以前にもまして公領の管理や徴税権
を国家から委託されたことが大きな契機でした。公領を名単位にわけてそれ
を富豪層(田堵、大名田堵)に割り当てる権限をもっていたので、その便宜
をはかるなかで財を蓄えたのです。
こうなると、国司の職も非常においしいものになってくるので、国司にな
るため、あるいは再び国司に任命されるため、藤原氏などの有力貴族にとり
いるものがあらわれます。朝廷の行事を負担したり、藤原氏などの寺社・邸
宅を無償で造営したりして、国司になる成功{じょうごう}、再任される重
任{ちょうにん}といった売官・売位の風潮がみられるようになります。
そのため、現地には代官(目代)を派遣して自分は都の宮廷世界のなかに
生きる国司もあらわれました。これを遙任国司といいます。
実際に現地にいったものが受領{ずりょう}国司です。
この受領にも、『今昔物語集』の「倒れるところに土つかめ」で有名な信
濃守・藤原陳忠{のぶただ}、「尾張国郡司百姓等解文」で郡司・百姓等に
よって政府に訴えられた藤原元命{もとなが}など、強欲の代名詞のような
ものもいました。
●史料「尾張国郡司百姓{ひゃくせい}等解文」(988年)
「尾張国郡司百姓等解し申し、官裁を請うの事
裁断せられんことを請う、当国の守藤原朝臣元命、三箇年の内に責め取る
非法の官物、ならびに濫行横法三十一箇条の愁状
一、裁断せられんことを請う、例挙のほかに三箇年の収納せる、加徴の正税
四十三万千二百四十八束が息利十二万九千三百七十四束四把一分の事・・。
一、裁断せられんことを請う、交易と号して誣{し}い取る絹、手作の布、
信濃の布、麻布・漆・油・苧・茜・綿等の事・・・。
一、裁定せられんことを請う、守元命朝臣、庁の務無きにより、郡司百姓の
愁を通じ難き事・・・。
一、裁断せられんことを請う、元命朝臣が子弟郎等、郡司百姓の手より雑物
等を乞ひ取るの事・・・。
一、裁断せられんことを請う、守元命朝臣、京より下向する度毎に、有官・
散位の従類、同じき不善の輩を引率するの事・・・
一、裁糺せられんことを請う、去る寛和三年某月某をもって諸国に下し給わ
るる九ケ条の官符の内に、三ケ条を放知せしめ、今六ケ条を下知せしめざ
るの事・・・。
以前の条の事、憲法の貴きを知らむが為に言上すること件の如し。・・・
望み請うらくは件の元命朝臣を停止して良吏を改任せられ、もってまさに他
国の牧宰をして治国優民の褒賞を知らしめむ。・・・よってつぶさに三十一
箇条の事状を勒{ろく}し、謹みて解す。
永延二年十一月八日 郡司百姓等」
この史料は、国司(尾張守)の藤原元命(北家傍流。生没年不明)の不法
行為を地方豪族の郡司や農民らが政府にうったえて、その解任を要求したも
のです。下の役所から上の役所に提出した公文書を解文{げぶみ}といいま
す。
この史料から、元命がかなり広範囲にわたって交易活動を行なっているこ
とがわかります。元命は翌年に尾張守を解任されますが、10年後の吉田祭
の行事をつとめ、自身も子の頼方も他の国守に任ぜられているので、藤原摂
関家などからしてみれば、彼らは有能な国司(良吏)だったのでしょう。
なお、この尾張国の例が一番有名ですが、当時、地方豪族や農民らが国司
の過酷な支配に対して、政府にうったえたり国府(国衙)を襲撃した事例は
現在40件が確認されています。
3.源頼光の場合
清和源氏の源頼光{よりみつ}は、摂津を本拠地として、藤原氏につかえ
る武者として有名で、後世の説話では郎等の渡辺綱・坂田公時をしたがえて
大江山の酒呑童子を退治したことでも知られています。この頼光は、大火で
焼亡した藤原道長の邸を再建するために「成功」を競い合った貴族のなかで
もひときわ派手に私財や家具調度類を投入しました。1018年のことです。
頼光は、上総・下総の介、尾張など9か国の守を歴任したので、その財に
ははかりしれないものがありました。彼もまた、藤原氏に忠節を尽くして国
司再任に身を砕いた受領の典型例だともいえるでしょう。
頼光の弟が、義家や頼朝の先祖でもある頼信です。彼もまた常陸の介、上
野など7か国の守を歴任しています。
このことは桓武平氏も同様で、平将門を討ったその従兄弟の貞盛(清盛ら
の祖とされる)は、陸奥守です。
武士団というと、律令制度がくずれるなか、農村からおこってきたかのイ
メージがありますが、桓武平氏や清和源氏などの大武士団は国司制度や国府
の軍制を利用・吸収しながら、ときには荘園を没収するための軍事力として
成長してきたのです。
ですから、源氏にしろ平氏にしろ、もともと朝廷や律令国家の権威で成長
したので、清盛の平氏政権も鎌倉幕府もこうした旧体制を破壊・否定するこ
とはなかったのです。
今号で扱ったようなところは、過去のセンター試験でもよく出題されてい
ます。
−−−−−−−−−−− 練習問題 −−−−−−−−−−−−−−−−
〔1〕87年・センター追試験
10世紀後半の国衙領に関する説明として正しいものを選べ。
1.畿内近国の一部では、6年に一度の班田収授が継続され、租税徴収の基
礎となっていた。
2.租税納入を請け負った有力農民は田堵とよばれ、その所有権は名または
名田とよばれて、代々の耕作が格や式によって認められた。
3.畿内近国では、早稲・中稲・晩稲など稲の品種改良がすすみ、有力農民
が経営を安定させる大きな要因となった。
4.国司は、国内支配を委任され、政府に対しては一定額の租税徴収の義務
を負うのみであったため、苛酷な徴発を行うことが多く、郡司・百姓らの
訴えが起こされた。
−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−
4(3の品種改良が本格化するのは近世です)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
〔2〕90年・センター追試験
摂関時代の地方政治の様相について述べた文として正しいものを選べ。
1.国衙では、国司に代わって、その地方の豪族から選ばれた本家・領家と
いう役人が行政の実務にあたった。
2.尾張国では、国司藤原秀衡がその暴政によって郡司・百姓から訴えられ、
停職させられた。
3.地方政治に果たす郡司の役割が大きくなり、有力な郡司の中には知行国
主となる者が現れた。
4.任国に赴任せず、代わりに目代を派遣して政務にあたらせる遥任の国司
が多くなった。
−−−− 解答 −−−
4
−−−−−−−−−−−
〔3〕92年・センター本試験
平安時代の国司に関する説明として適当でないものを選べ。
1.朝廷の行事や造営の費用を負担して国司の地位を得る成功が行われた。
2.国司は、配下の者を郡司や里長に任命し、国内の政治を進めた。
3.国司は、とくに中下級の貴族たちが就任を望む官職であった。
4.国司には、遥任が増え、目代や在庁官人が力をふるった。
−−−− 解答 −−−
2
−−−−−−−−−−−
〔4〕92年・センター本試験
受領の横暴に対して有力農民らが朝廷へ直接の訴えを起こすような事態に
関連して述べた文として最も適当なものを選べ。
1.当時の国守を受領と呼ぶが、この語は国内の領主という意味である。
2.このころの国衙領や荘園を経営していた有力農民を、本百姓と称した。
3.訴えが朝廷に取り上げられ、国司が処分されることもあった。
4.郡司や百姓の訴えを国守が朝廷に報告した尾張国郡司百姓等解文がある。
−−−− 解答 −−−
3
−−−−−−−−−−−
〔5〕89年・共通一次本試験
9世紀前半から10世紀前半にかけての約1世紀の間の歴史的事実として
誤っているものを選べ。
1.最初の荘園整理令が出された。
2.『令義解』が編さんされた。
3.はじめて関白が置かれた。
4.「尾張国郡司百姓等解文」が出された。
−−−− 解答 −−−
4
−−−−−−−−−−−
〔6〕94年・新潟大学
尾張国郡司百姓等解文の背景として誤っているものを選べ。
1.10世紀初頭ころに、中央政府は律令制的地方支配のあり方に変更を加
え、各国の国司に一定額の税を請け負わせて、それぞれの国の統治を任せ
る方針をとった。
2.この段階の国司は徴税請負人的性格を強め、また課税率を自由に変え、
巨利をあげることができるようになった。
3.国司は国内支配を強化するため、郡衙の再編強化をはかった。そのため、
それまで地方支配にもっとも重要な位置を占めていた国衙は衰えた。
4.国司の地位が利権視されたことから、天皇家や摂関家の寺社の造営をた
すけ、その代償として国司などの官職をえる成功がさかんになった。法成
寺の建立にも、このような成功による資金が使われた。
−−−− 解答 −−−
3
−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
高校生のための日本史講座
発行:mazzn
購読者数 1611
\\\\\\\
\\\\\\\―――――――> 高校生のための日本史講座 ) ) ) ) )
NO.104 藤原氏の栄華
( ( ( ( ( 2000.8.3 <―――――――///////
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
||||||||||||||||||||||||||||||||||
0.藤原氏北家系図
| |は、実の親子。 | |がないのは実の兄弟。
★印は、氏長者
★ 冬 嗣 810蔵人頭。
| |
★ 良 房 842承和の変、858摂政、866応天門の変。
長 良 昇進は弟・良房より遅れたが、高潔で人から慕われた。
| |
★ 基 経(良房の養子)866応天門の変、884関白。
| |
★ 時 平 901菅原道真左遷、902延喜の荘園整理令。
★ 忠 平 醍醐・朱雀・村上朝で摂政・関白。
| |
★ 実 頼 冷泉・円融朝で摂政・関白。
師 輔 右大臣。冷泉・円融の外祖父。
| |
★ 伊 尹 969安和の変。摂政。
★ 兼 通 969安和の変、関白。
★ 兼 家 969安和の変、摂政・関白。
| |
★ 道 隆 関白・摂政。
道 綱 右近衛大将(右大将)、大納言。母は『蜻蛉日記』作者
★ 道 兼 関白(七日関白)。
★ 道 長 内覧・摂政・太政大臣。
| |
★ 頼 通 摂政・関白・太政大臣。
1.安和の変(969年)
藤原氏北家が権力の座を磐石にしたのが、安和の変です。これは、醍醐
天皇の皇子であり、村上天皇の皇子為平(ためひら)親王妃の父でもあっ
た右大臣源高明(みなもとのたかあき)を、藤原氏が得意技の陰謀によっ
て大宰権帥{だざいごんのそち}に左遷した事件です。
ただ、それまでの陰謀事件と少し異なり、清和源氏の源満仲(経基の子。
前号の頼光の父)がこの事件に関わり、昇進しています。そして、以後、
藤原摂関家と密接に結びつき、政界進出のステップをふみます。対照的に、
平将門を討った藤原秀郷の子・千晴は謀反人として流罪になります。
ですから、安和の変は、初期の武士団の歴史でも大きな意義をもつ事件
でもありました。
安和の変以後、太政大臣・摂政・関白などの最高職は藤原氏北家が独占
することになります。
2.藤原氏内部の争い
その後、藤原氏北家では、一族内部の争いが目立つようになります。
兼通VS兼家、道長VS伊周・隆家兄弟(道隆の子)といった争いが有
名です。こうした末に、11世紀前半から後半にかけて栄華をわがものに
したのが、藤原道長・頼通父子です。
藤原氏北家発展をささえたものを大きくあげるとすれば、
・天皇(あるいは皇太子)の外戚としての地位
・荘園
・摂政や関白、太政大臣などの官職を独占
・他の一族を排斥
この4点ですね。実頼の場合は摂政・関白になるものの、外戚になるこ
とができなかったので、弟・師輔(もろすけ)の子孫に繁栄の座を譲らざ
るをえませんでした。
−−−−−−−−−−− 練習問題 −−−−−−−−−−−−−−−−
〔1〕オリジナル、過去問題混合
(寛仁二〔1018〕年十月)十六日乙巳、今日、女御藤原威子をもって
皇后に立つるの日なり。前太政大臣の第三の娘なり、一家三后を立つるこ
と、いまだかつてあらず。・・・太閤、下官を招き呼びていう、「和歌を
読まんと欲す。必ず和すべし」といえり。答えていわく、「何ぞ和し奉ら
ざらんや」。又いうふ、「誇りたる歌になんある。但し宿構にあらず」と
いえり。「この世をばわが世とぞ思う望月の かけたることも無しと思え
ば」。余申して云く、「御歌優美なり。酬答に方無し、満座只此の御歌を
誦すべし。・・・」と。諸卿、余の言に響応して数度吟詠す。太閤和解し
て殊に和を責めず。
(出典:小右記)
1.この史料の作者は誰か。
2.文中の「太閤」、「前太政大臣」の説明として正しいものを選べ。
(95年・センター本試験)
1.安和の変により、左大臣源高明を失脚させた。
2.約50年間にわたって摂政・関白の地位を独占した。
3.娘をつぎつぎに皇妃や皇太子妃とし、3代の天皇の外祖父となった。
4.伴・紀氏などを排斥し、皇族以外ではじめて摂政となった。
3.文中の「太閤」に関する記述として誤っているものを選べ。
(85年・共通一次追試験)
1.安和の変によって藤原北家の政治的地位は確立したが、摂政または
関白が常置されるようになったのは「太閤」以後のことである。
2.「太閤」が天皇の外戚として権勢を振るったのは、母方の縁が重視
された当時の貴族社会の慣習と深い関係がある。
3.「太閤」の子が頼通である。頼通の娘に皇子が生まれず、摂関家を
外戚としない後三条天皇が即位すると、天皇は摂関家を抑え、政治の
刷新をはかった。
4.『栄華物語』・『大鏡』は、かなを用いた和文体で記され、藤原氏
の全盛を回顧して描いている。
−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1→藤原実資 2→3 3→1
(3については、安和の変前後を比較すると、以後の方が摂政または関白
が常置に近いので、ふつう「安和の変以後、常置になった」としています。
ただ、道長が氏長者になってから約20年間は摂政・関白にならず「内覧」
だったため、厳密にいうと、「安和の変以後、常置になった」と断定する
ことはできません。いずれにせよ、摂関常置が「道長以後のこと」とする
ことは誤りです。)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
〔2〕摂関政治に関する総合復習問題です。(79年・共通一次)
「延喜・天暦の治」とは醍醐・村上両天皇の治世であり、天皇親政の理想
の時代としてたたえられた。しかし「延喜」と「天暦」との間には摂政・
関白が置かれた20年ほどの時期がある。この間の時期に起こった出来事
として正しいものを選べ。
1.女真族(刀伊)が対馬・壱岐・九州北部を襲った。
2.承平・天慶の乱とよばれる反乱が起こった。
3.安和の変が起こって醍醐天皇の皇子である左大臣源高明が失脚した。
4.右大臣の菅原道真が大宰権帥に左遷された。
5.尾張国の郡司・百姓らが国守藤原元命の悪政を訴えた。
−−− 解答 −−−
2
−−−−−−−−−−
3.道長の死
「この世をばわが世とぞ思う」と詠んだ道長。その翌年の1019年、道長
は出家して法成寺の建立を決意します。造営事業は急ピッチで進みます。
道長自身も寝食を忘れて造営に熱中します。皇族領や貴族の荘園からも毎
日1000人もの人夫が集められ、ついに1022年7月、盛大な落慶供養
が行なわれました。寺院の広さは方4町、堂塔がたちならび、阿弥陀堂には
名工・定朝{じょうちょう}の手になる丈六の阿弥陀如来像が9体安置され
て、それは黄金の輝きをもつまばゆいものでした。法会には150人の僧侶
が集められ、あまりの美しさに集まった人々は「これはこの世の極楽だ」と
涙を流すほどでした。
道長が病に倒れたのは1027年の秋のことです。死期を察した道長は、
床を法成寺の阿弥陀堂にうつします。かねてから念仏にはげんできた道長は
死にのぞみ、立てまわした屏風の西側をあけて、9体の阿弥陀仏に面し、北
枕に臥します。そして道長は、手に阿弥陀仏から引いた糸をとり、南無阿弥
陀仏をひたすら唱えました。堂の外では、多くの僧による読経が絶えません
でした。
床を法成寺にうつしてから約20日後の12月4日早朝、道長は62歳の
生涯を閉じました。彼の遺体は、夜半になっても冷えなかったそうです。
権勢のトップに座し、あらゆる富と財を得た道長が最後に手にしたものが、
たった1本の糸だったのです。
法成寺は、1058年2月に火災にあって全焼し、今は何も残っていませ
ん。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
高校生のための日本史講座
発行:mazzn
購読者数 1620
\\\\\\\
\\\\\\\―――――――> 高校生のための日本史講座 ) ) ) ) )
NO.105 荘園公領制
( ( ( ( ( 2000.8.3 <―――――――///////
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
||||||||||||||||||||||||||||||||||
1.荘園
開発領主が国司による収奪から逃れるために、自ら開発した私領を有力
貴族に寄進することによって成立した荘園を、寄進地系荘園といいます。
寄進をうけたものを領家、さらに領家が上級の地位にあるものに寄進し
た場合、それを本家といいます。領家・本家いずれも荘園領主です。この
うち、荘園経営に深く関わっている方を本所といいます。
開発領主は、預所{あずかりどころ}、下司{げし}、公文{くもん}、
中司{ちゅうす}など荘園管理者としての地位になります。
「地のほとり」に由来する地頭{じとう}もありました。
地頭の名称は、平氏政権や鎌倉幕府と主従関係を結んだ開発領主の名称
として一般化していきます。
開発領主(大名田堵や地方豪族)は、田堵などに土地(名単位)を割り
当てます。こうして土地を割り当てられたものが名主{みょうしゅ}です。
寄進地系荘園もはじめは輸租田だったわけですが、やがて不輸の権を獲
得し、さらには国司が派遣する検田使の立ち入りを拒む不入の権を獲得し
ます。
荘園には、寄進地系荘園のほか、雑役免系荘園もあります。これは、律
令制の庸や雑徭が変容した雑役{ぞうやく}を免除するかたちで成立した
荘園です。
開発領主が荘園領主におさめるものは、米などの正税である年貢、特産
物などをおさめる公事{くじ}、労働課役である夫役{ぶやく}が中心で
す。
●史料 寄進地系荘園・山城国上桂荘{かみかつらのしょう}
「寄進し奉る 所領の事
合わせて一所は山城国上桂にあり
四至(東西南北の境界)
東は桂河東堤の樹の東を限る。南は他領の堺(入り交わる)を限る。
西は五本松の下路を限る。北は■河の北、梅津堺の大榎を限る。
右当初は、桂の津守{つもり。桂川の船着場の管理者}建立の地なり。
津守津公{つぎみ}・兼枝・則光{のりみつ}と次第知行相違なし。こ
こに御威勢を募り奉らんがために、当荘をもって永代を限り、院{いん。
円融天皇の女御藤原詮子。道長の姉}の女房{にょうぼう。皇居などで
部屋を賜って住む高官の女性}大納言殿御局{つぼね。宮中の女官の敬
称}に寄進し奉るところなり。中司職にいたりては、則光の子々孫々相
伝すべきなり。後日のため寄進の状、件の如し。
長徳三(997)年九月十日
玉手{たまて}則光 判
玉手 則安 判 」
(出典:東寺百合文書)
この史料では、桂川の船着場の管理者だった玉手一族が「御威勢を募」
るため、つまり有力者の保護をうけるため、四至を明記した所領を藤原詮
子の女官に寄進した確認文書です。玉手一族は、おそらく桂川水系を中心
とする交易活動を行なうことによって財産をたくわえ、そうした財産で耕
作民を募って上桂荘となる所領を経営していたものと思われます。
耕作民を集めるときに振舞うのが、お酒です。さいきん、「ものがたり
日本列島に生きた人たち」(岩波書店)のなかで、こうしたお酒づくりを
になったのが、「家刀自」などとよばれた女性だったと義江明子さんは述
べられています。
また、藤原氏発展をささえたものが、姉の詮子{せんし?}のように、
近親の女性によるものだということがここでも確認できます。
次の史料とくらべて知名度が低いので、センター対策としても要チェッ
クの史料ですね。
●史料 寄進地系荘園・肥後国鹿子木荘{かのこぎのしょう}
「鹿子木の事
一、当寺の相承は、開発領主沙弥{しゃみ。在俗の僧}寿妙{じゅみょ
う}嫡々相伝の次第なり。
一、寿妙の末流高方(中原高方。寿妙の孫)の時、権威を借らんがため
に、実政卿(大宰大弐藤原実政)をもって領家と号し、年貢四百石を
もって割き分ち、高方は庄家領掌進退の預所職{あずかりどころしき}
となる。
一、実政の末流願西{がんさい。実政の曾孫}微力の間、国衙の乱妨
(国司の圧力)を防がず(防ぎきれなくなった)。このゆえに願西、領
家の得分二百石をもって、高陽院内親王{かやのいんないしんのう。
鳥羽天皇の娘}に寄進す。件の宮薨去{こうきょ。亡くなること}の
後、御菩提の為め・・・勝功徳院{しょうくどくいん}を立てられ、
かの二百石を寄せらる。その後、美福門院{びふくもんいん。内親王
の母、得子}の御計{おんはからい}として御室{おむろ。仁和寺}
に進付せらる。これ則ち本家の始めなり。・・・」
(出典:東寺百合文書)
この史料は、訴訟のため13世紀末に作成されたものです。
現在の熊本市北方にある鹿子荘は、この史料とともに絵図も教科書に記
載されていますし、センター試験でも出題されています。ですから、寄進
地系荘園としても有名な荘園です。鹿子荘の成立は、開発領主沙弥の孫中
原高方が1086年に大宰大弐藤原実政に所領を寄進して成立します。
藤原実政は領家、中原高方は預所になります。しかし、実政の曾孫願西
のときになって、国司の圧力を排除するため、さらに高陽院内親王に寄進
されます。そして、内親王の死後、本家職は仁和寺にうつります。
これを年次をおってみると、次のようになります。
沙弥寿妙の所領承認(1029年)
寿妙の孫・中原高方〔預所職〕→藤原実政〔領家職〕に寄進(1086年)
年貢400石
藤原実政の孫・願西〔領家職〕→高陽院内親王〔本家職〕(1139年)
年貢200石
高陽院内親王〔本家職〕死去→仁和寺へ進付(1150年ころ)
★「東寺百合文書」とは?
これは、京都の東寺(教王護国寺)にのこされた膨大な文書を整理する
ために17世紀に加賀藩主前田綱紀が桐の100箱を献上したから名づけ
られたものです。古代から中世にかけての東寺関係の行事、荘園(東寺領)
を調べるうえで貴重な文書ばかりです。
2.公領
諸国で荘園の成立があいつぐなか、国衙領(公領)も国司の指導下で名
主に土地をわりあてられるようになります。そして、荘園と同様にその収
益が国司の得分となっていくのです。院政時代の12世紀にさかんとなる
知行国制度は、こうした得分を上皇が近臣の貴族に与えるものです。
こうして12世紀頃に成立したわが国の土地制度を荘園公領制といいま
す。もちろん、大宝律令や後世の太閤検地などのように国家共通の法はな
かったわけです。にもかかわらず、全国的にひろがっていくのです。
なお、荘園公領制という名称については、荘園も単なる貴族・寺社の私
有地ではなくて、国家的・公的性格がみとめられることに由来します。
つまり、律令制では、官職・位階に応じて職田{しきでん}・位田{い
でん}などが与えられていましたが、荘園がそれに代わる新しいシステム
として国家によって認められたという側面です。
太政官や民部省といった中央政府が認めた荘園を官省符荘、国司が認め
た荘園を国免荘{こくめんのしょう}といいます。
3.王朝国家体制
公地公民制にもとづく律令国家体制が変容して、荘園公領制にもとづく
国家体制が11世紀から12世紀にかけて成立します。これを王朝国家体
制といいます。
私なりのことばでいえば、公的な土地・官職が、「職」{しき}とよば
れるなかば利権化・私権化するのですね。世襲できるもの・売買できるも
のと置き換えてもいいでしょう。国政をになう摂政・関白などはいうにお
よばず、法曹を担当する明法{みょうほう}の坂上・中原両氏、天文・占
巫{せんぜい}の安倍・加茂氏といった官職の世襲化がはじまるのもこの
頃です。
荘園の領家職・本家職、下司職も譲与の対象になります。
権力や財産をもつものたちが寄り合って国家を運営する。それが王朝国
家体制だといえるでしょう。
−−−−−−−−−−− 練習問題 −−−−−−−−−−−−−−−−
〔1〕79年・共通一次追試験
11世紀ごろから、地方豪族や有力農民が一定の負担を負うかわりに土
地に対する実質的な支配権を確保しようとした寄進地系荘園に関して正し
いものを選べ。
1.その耕作する口分田を中央の有力貴族や寺社に寄進して、みずから
は田堵となった。
2.その私有地が国司や他の豪族によって侵害されるのを防ぐため、こ
れを中央の有力貴族や寺社に寄進した。
3.不輸の権、不入の権を獲得するため、その私有地を太政官や民部省
に寄進した。
4.その開発した墾田が荘園整理令によって収公されることをまぬがれ
るため、これを国司や中央の貴族・寺社に寄進した。
−−− 解答 −−−
2
−−−−−−−−−−
〔2〕87年・共通一次追試験
12世紀後半の国衙領と荘園に関する説明として正しいものを選べ。
1.特定の貴族などに国の支配権と国衙領からの収益を与える知行国制
がひろがり、院政の基盤の一つとなった。
2.国衙領では、開発領主らが公営田の管理をも請け負い、郡や郷に対
する支配をしだいに広げていった。
3.開発領主の中には、中央の貴族に荘園の寄進をするものが多く、寄
進をうけた貴族を本家とよび、さらに上級の貴族に重ねて寄進が行わ
れた場合、これを領家とよんだ。
4.寄進地系荘園の多くでは、不輸不入の特権が確立していたが、荘園
に対する国衙の検田のみは依然として継続されていた。
−−− 解答 −−−
1
−−−−−−−−−−
〔3〕94年・センター追試験
荘園の年貢・公事について述べた文として正しいものを選べ。
1.年貢は、下人の家を基準に賦課され、下人がその納入の責任を負っ
た。
2.年貢は、名田を基準に賦課され、名主がその納入の責任を負った。
3.公事は、下人の家を基準に賦課され、当初は主に畠作物が納められ
た。
4.公事は、名田を基準に賦課され、当初は主に米が納められた。
−−− 解答 −−−
2
−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
高校生のための日本史講座
発行:mazzn
購読者数 1620
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
\\\\\\\
\\\\\\\―――――――> 高校生のための日本史講座 ) ) )
NO.106 清和源氏と奥州藤原氏
( ( ( ( ( 2000.8.4 <―――――――///////
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
|||||||||||||||||||||||||||||||||
0.はじめに
今号は、平忠常の乱(1028〜31)から前九年(1051〜62)
・後三年(1083〜87)の役、源義親の乱(1108)などの事件を、
清和源氏の東国進出といった観点からみて、さらにははじめの武家政権で
ある奥州藤原氏について述べます。
清和源氏は、その名のとおり清和天皇の血をひく一族で、清和天皇の皇
子貞純{さだずみ}親王の子経基{つねもと}のときに源姓を名乗ります。
ただ、経基を陽成天皇の孫とする説もあります。いずれにせよ、天皇家の
血筋であることにかわりはありません。
経基のニックネームは六孫王{りくそんのう}で、さいしょの名は経基
王。源姓を賜ったのは961年です。彼が武蔵国の国司(第2等級の介)
のとき、その地の豪族と争ったことが導火線となり、平将門の乱が国家に
対する反乱へと展開します。
将門追討の征東副将軍に任じられたものの、けっきょくは平貞盛・藤原
秀郷が鎮圧してしまいます。このあと、転じて西の藤原純友を討って警固
使・大宰権少弐となり、正四位上に昇進、内昇殿を許される身分となりま
す。
このように、彼は天皇の孫でありながら、東奔西走、まるで武士団の棟
梁であるかのように行動しています。しかし、『将門記』も彼のことを
「いまだ兵の道に練れず」と記しているので、時代の要請に応じて朝廷軍
を率いて転戦した貴族の一人だったのでしょう。当時にあって「王」は多
く、しかも当時は清和・陽成天皇の系統とは異なる醍醐・朱雀・村上天皇
の世です。とうてい宮廷での栄達は期待できません。政府としても使いや
すく、また経基じしんもすすんで「冷や飯」に甘んじたのでしょう。
いずれにせよ、清和源氏のはじまりです。
1.清和源氏と摂津・河内
源経基の嫡男が、満仲{みつなか、912−997}です。彼のときに
摂津国の多田を拠点にします。越前、武蔵、摂津、常陸の国司(守)を歴
任したほか、安和の変(969年)で藤原秀郷の子・千晴を失脚させてい
ます。
満仲の子には、頼光{よりみつ、948−1021}、頼信{よりのぶ、
968−1048}がいます。嫡男は頼光です。2人とも若い頃から天皇
や摂関家に出仕するなど、宮廷世界と密接に関わります。頼信の場合、
「道長の近習」とまでいわれます(『小右記』)。2人とも中央官職に任
じられるとともに、頼光は備前、但馬、美濃(2度)の国司(守)、頼信
は甲斐の国司(守)、忠常の乱ののちは美濃、石見、伊勢、常陸、河内の
国司(守)、陸奥国の反乱鎮圧の長官である鎮守府将軍を歴任します。
頼信は河内を拠点にします。
頼光と頼信はともに中央政界や国司として栄職を得ますが、頼信の名を
いちだんと高めたのが、1028年におきた平忠常の乱です。桓武平氏の
平忠常が下総・上総・安房一帯を3年間にわたって占拠します。これを鎮
圧したのが、頼信です。甲斐守の頼信が追討使に任ぜられると、忠常はそ
の武名を畏怖して戦わずして降伏します。(護送中に美濃で病死)
この反乱の意義として、清和源氏が東国、つまり当時の関東地方の武士
と結びつく第一歩となったこと。そして、桓武平氏が東国から離れていく
ことがあげられます。実は、忠常も桓武平氏の傍流で、本流ともいうべき
平貞盛の子孫がどのような過程で伊勢方面へ進出したのか、その詳細は不
明です。
さて、忠常を畏怖させた頼信の「武名」とはいったい何だったのでしょ
うか。『今昔物語集』には彼の武勇を伝えるいくつかの説話がありますが、
いずれも後世の「武家の棟梁」が投影されているので、そのまま信じるわ
けにはいきません。まだまだ家来を数百人もかかえる武士団の棟梁だった
とは考えられません。ただ、国司(守)や律令・王朝国家の官職にもとづ
く軍事指揮権を行使して兵を率いる中級の軍事貴族として、器量・資質に
すぐれた人物だった可能性はあると思います。
それが、東国進出を契機にその地の開発領主たちと主従関係を結ぶこと
によって、「武家の棟梁」の第一歩をふみだしたのだと思います。もちろ
ん、国司など「おいしい」官職を得ることは、私財を蓄えるうえでも欠か
せないことでした。
●ーーー○ーーー●ーーー○ーーー●ーーー○ーーー●ーーー○ーーー●
購読者の方から
「メルマガ「高校生のための日本史講座」を愛読していますが、解説の量
をもっと増やしてください。間違えた所を調べるというのも勉強になるか
もしれませんが、幅広いレベルの人々が購読していると思うので、問題に
対する詳しい解説を付けてください。」
mazzn
「ありがとうございます。今後は、できる限り解説をくわえていきたいと
思います。」
●ーーー○ーーー●ーーー○ーーー●ーーー○ーーー●ーーー○ーーー●
−−−−−−−−−−− 練習問題 −−−−−−−−−−−−−−−−
〔1〕92年・センター追試験
武士が台頭してくる時期の、武士(武家)の棟梁について述べた文とし
て誤っているものを選べ。
1.国衙の支配を廃止して、地方の小武士団を統合していった。
2.院や摂関家の軍事力として登用されることで勢力を伸ばした。
3.天皇や貴族の血筋を引いていることが重要であった。
4.平忠盛や源頼義は、その代表的な人物である。
−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1( 当講座でも何度も強調して述べている事項ですが、意外とこれ、死
角ですね。正しい文の2も同様に死角ですね。武士団は、律令・王朝国
家に対する反乱など、突発的な事件を鎮めながら勢力を張り、ついには
律令国家・王朝国家を否定・破壊することはなかったのです。)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
〔2〕93年・早稲田大
武士の成長や源氏の台頭について誤っているものを選べ。
1.武士団は、東国以外でも発生した。
2.武士団を統率するものを、武士の棟梁といった。
3.追捕使や押領使は、もともとは戦乱の時などに任命される臨時の職
であった。
4.源満仲は、安和の変で活躍し、藤原氏との関係を強めた。
5.源頼信は、平忠常が武蔵国で反乱をおこした時、戦わずして降服さ
せたので、東国で勢力をのばすことになった。
−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
5( 武蔵国ではなくて、下総・上総・安房3国で、一般にいう房総半島
一帯です。)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
2.前九年・後三年の役
頼信の子が、頼義{よりよし、988−1075}です。射芸の達人と
うたわれ、忠常の乱平定でも活躍します。彼も父と同じく朝廷に出仕して
相模、武蔵、下野の国司(守)を歴任します。
いずれも東国ですね。源氏と東国の武士のつながりは一層強まったこと
でしょう。
そして1051年、「東夷の酋長」といわれて陸奥の六郡を支配してい
た安倍頼良(のち頼時)が反乱を起こすと、頼義は陸奥守に任じられます。
子の義家{よしいえ、1039−1106}とともに東国武士を率いて、
安倍貞任{さだとう}、藤原経清{つねきよ}らを討って都に凱旋します。
(奥州藤原氏の祖となる清衡の父が経清で、彼は鈍刀で三日三晩苦しめら
れながら斬首されます)
頼義の子が、義家です。歴史学者の安田元久氏(故人)によれば、義家
こそ、はじめから「武者{むさ}」たるべきことを運命づけられて成長し
た人物です。父祖と同様に、中央官職や河内、相模、武蔵、信濃、出羽、
下野、伊予、陸奥の国司(守)を歴任します。そして、前九年の役での華
々しい活躍により、世に「天下第一武勇の士」、「武威天下に満つ、誠に
これ大将軍にたる者なり」とうたわれた人物です。
前九年の役が終わった年(1061年)から20余後、出羽国で清原一
族の内紛がおこります。後三年の役です。これに義家は介入し、清原清衡
{きよひら}をたすけて清衡の異母弟・家衡{いえひら}らを滅ぼします。
しかし、この鎮圧を政府は「私闘」とみなします。義家は、このとき、
私財をなげうって恩賞を東国武士に与えたのでしょう。彼と東国武士との
絆はますます深まり、のちの鎌倉幕府の下地になるのです。
なお、まる12年間つづいたのに前「九」年というのは、諸説もありま
すが、鎌倉時代の人がカウントし間違えたというのが通説です。
後三年の役からしばらくして、義家は弟の義綱と争います。このとき
政府は、義家の入京や、諸国の百姓が義家に所領を寄進することを禁止し
ます。次の史料は、当時の義家が、諸国の百姓(開発領主=武士)から所
領の寄進をうけるほど人気を得ていたことを示すものです。
●史料
「(寛治五〔1091〕年)六月十二日、宣旨を五畿七道に給い、前陸奥
守義家、兵をしたがえて京に入ること、あわせて諸国の百姓、田畠の公験
をもって好みて義家朝臣に寄する事を停止す。件の由緒は、藤原実清と清
原則清と河内国の領所を相論するの間、義家朝臣と舎弟義綱と権を互にし、
両方威を争うの間、攻伐を企てむと欲すなり。天下の騒動、これより大な
るはなし。」
(出典:百錬抄)
義家の晩年は暗いです。嫡男で対馬守の義親{よしちか}は大宰府と争
って隠岐へ配流になります。義家は1106年に死去しますが、義親の反
乱はその後もつづき、ついに出雲で平正盛によって討たれます。長刀につ
きさされた義親の首が都大路をまわり、京童{きょうわらわ}の目にさら
されたのです。
1108年のことでした。
このとき、義親の嫡男が為義12歳。清和源氏はこの幼君に期待をつな
ぐことになりました。しかしその後も源氏は内紛つづきで、為義が源氏の
棟梁となる日はまだまだ先のことでした。
なお、義親は、源氏の代数にはカウントされていません。謀反人として
無惨に討たれたからです。義家−義親−為義−義朝−頼朝となるところ、
頼朝は義家のことを曽祖父といっています(本当は玄祖父)。
3.黄金の100年 < 北方の王者 >
こうした清和源氏の一時衰退と対照的に100年の栄華を誇ったのが奥
州藤原氏です。日本でさいしょの地域的な武家政権です。
清原清衡{1056−1128}は、父の姓にもどって藤原清衡となり
ます。そして、源氏の勢力が陸奥・出羽から退いたあと、平泉を拠点にし
て奥州藤原氏100年の礎を築きます。津軽土佐湊{とさみなと}もこの
頃から港として機能し、宋、遼、金などの大陸諸国、そしてオホーツク諸
族との交易をおこなったものと思われます。1153年、左大臣・藤原頼
長と奥州の藤原基衡{もとひら。清衡の子}との間で行なわれた年貢増徴
の交渉では、鷲の羽根、水豹{あざらし}の皮、漆{うるし}などがあわ
られ、これはこの頃から形成されはじめたアイヌ文化と密接に関わるもの
です。中国産の磁器も近年の発掘によって出土しています。
平泉を中心とする奥州藤原氏の世界は、東アジアにおける交易ルートの
主要な地域だったのです。こうした交易で欠かせないものが、陸奥の金で
す。
13世紀から14世紀を生きたヴェネツィアの商人マルコ=ポーロは、
ジパングのことを「黄金の国」と紹介します。これは、その100年前ま
でに実在した「奥州藤原王国」以外にはありえません。
奥州藤原氏の文化として有名なものに、清衡が建立した平泉の中尊寺金
色堂。それをうわまわる規模で40余の堂塔、禅房500余をもった毛越
寺{もうつじ}は、基衡が再建したものです。金色に輝く浄土の世界が、
辺境とよばれたこの地に花咲き、100年の栄華を謳歌したのです。
奥州藤原氏は、清衡−基衡−秀衡−泰衡です。
−−−−−−−−−−− 練習問題 −−−−−−−−−−−−−−−−
〔3〕86年・共通一次追試験
次の文を古いものから年代順に正しく配列した組み合わせとして正し
いものを選べ。
1.a→c→b 2.b→a→c 3.b→c→a
4.c→a→b 5.c→b→a
a 陸奥国の豪族安倍氏は、前後12か年にわたる反乱を展開したが、
出羽国の豪族の来援をうけた源頼義によって滅ぼされた。
b 藤原清衡は、一族の内紛に際して源義家の支援をうけ、5か年にわ
たる合戦の末、清原家衡・武衡らを滅ぼした。
c 桓武平氏の一族平忠常は、房総地方一帯を基盤として、3か年にわ
たる反乱を展開したが、源頼信によって追討された。
−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
4 ( aは前九年の役〔1051−1062〕、bは後三年の役〔1083
−87〕、cは平忠常の乱〔1028−31〕です)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
-------------------------- \(^o^;)/ ------------------------
(・o・) ご意見・ご感想を、ぜひお聞かせください (^o^)
--------------------------------------------------------------
★読者層についてできるかぎり把握したいと思っております。よろしけ
れば、一般、学生の別をお教えください。中・高校生の方は学年や志
望大学(国公・私立の別など)もお教えください。もちろん強制では
ありません。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
高校生のための日本史講座
発行:mazzn
購読者数 1620
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−