370 尼将軍と北条一族   371 承久の乱   372 御成敗式目

 

373 「得宗」時頼   374 惣領制   375 地頭と中世の農民 

 

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執権政治〔1〕「尼将軍と北条一族」−−−−−−−−−−


1199年 頼朝死去。2代将軍頼家が継承。
      有力御家人13人による合議制
1200年 梶原景時追放(駿河で討たれる)
1203年 比企氏を滅ぼす。頼家追放(翌年謀殺)。
      3代将軍実朝が継承。
      北条時政が政所長官に就任(執権のはじまり)
1205年 平賀朝政の乱。時政追放。
      政所長官を北条義時が継承。
1213年 和田合戦。和田義盛一族滅亡。
      義時、侍所長官の地位を兼任。  
1219年 公暁、3代将軍実朝を暗殺。
1221年 承久の乱

                     
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1.闘争のはじまり


 頼朝の死後、鎌倉幕府を率いることになった2代将軍は、頼朝と政子の
長男、頼家18歳です。すでに1児の父で、妻は乳母(めのと)比企局
(ひきのつぼね)とその夫・比企能員(よしかず)の娘若狭局(わかさの
つぼね)です。

 当時、身分の高い武士は、乳母の一族で育てられ、その一族は自分の子
以上に大切に育てる風習だったので、頼家はほとんど比企一族に属してい
たようなものです。頼朝自身も比企局の母が乳母でした。

 若くして将軍に就任した頼家は独断専行が多く(御家人の所領争いを即
座に筆で線を引くという逸話があります)、御家人たちは不満をつのらせ
ます。そこで、前将軍の妻である政子は、有力御家人13人からなる合議
制を設けて、事実上、頼家の独断に歯止めをかけます。
 
 しかし、この合議制も、有力御家人の梶原景時が御家人らの連名による
弾劾をうけて失脚し(京で挙兵しようとはかって討たれます)、間もなく
破綻します。

 1203年。頼家は病に倒れて危篤に陥ります。このとき北条時政は、
比企局が生んだ一幡(いちまん)に将軍職がうつることを防ぐため、能員
とその一族を滅ぼします。そして奇跡的に命をとりとめた頼家は出家のう
え追放、伊豆・修禅寺に幽閉されます。
(翌1204年、母や祖父の命をうけた刺客によって惨殺され22歳の短
い生涯をおえます。)

 頼家追放後に3代将軍となった実朝は頼朝と政子の2男で、このとき
11歳。乳母は政子の妹・阿波局で、その夫は阿野全成(あののぜんじょ
う、頼朝の異母弟。義経の同母兄で幼名「今若」)です。

 実朝を補佐するかたちで、外祖父の北条時政65歳が政所の長官(別当)
に就任します。これが「執権」のはじまりです。

 この時政も娘婿で清和源氏の平賀朝雅(ともまさ)を将軍にたてようと
したため、政子・義時(時政の子)にその地位を奪われ、伊豆に隠居しま
す。
 政所長官をついだ義時は1213年「和田合戦」で和田義盛を滅ぼし、
義盛の侍所長官の地位をあわせもつことになりました。



2.実朝暗殺

 
 1219年、実朝27歳が頼家の子・公暁(政子の孫)18歳により鶴
岡八幡宮で暗殺されます。実朝暗殺の黒幕については、執権北条義時(政
子の弟。実朝の叔父)とする説、三浦義村とする説、両者共謀説など様々
あり、今も多くの謎につつまれています。

 公暁もこの直後、三浦氏によって討たれ(三浦氏は、実朝暗殺と同時に
行なう筈だった北条義時暗殺に失敗したため、公暁殺害に転じたともいわ
れています)、ここに源氏の嫡流は断絶します。一夜にして次男と孫を政
争によって失った政子はこのとき63才。

 しかし、政子が歴史の表舞台に登場するのはこの時からです。実朝暗殺
後、頼朝の遠縁(姉の曾孫)にあたる藤原(九条)頼経2歳が京都から4
代将軍としてむかえられ、政子はその後見人として政務をとり、「尼将軍」
とよばれます。



========== 練習問題1(同志社・2000)======= 

 源頼朝の正妻であった彼女は、頼朝没後出家したが、2代将軍となった
頼家の下での比企氏の台頭を嫌い、将軍の訴訟親裁を停止して「有力な御
家人らの合議」によるものとし、頼家の専制政治化を防いだ。父と協力し
て擁立した3代将軍実朝が暗殺されると、頼朝の遠縁にあたる「京都の九
条家」から後継者を迎え、みずから後見として、実質的な政務を担当した。

問1.この文章は誰に関する説明文か。

問2.文中の「有力な御家人らの合議」について、この合議には、幕府の
 主要機関とされた侍所・公文所・問注所の別当・執事など、13人が加
 わった。次の1〜4は、いずれも合議に連なっていた人物である。これ
 らのうち、侍所の初代別当だった人物名を1つ選び、その番号を記せ。

 1.和田義盛 2.三善康信 3.梶原景時 4.大江広元

問3.文中の「九条家」は、藤原良房の摂政就任以来摂政・関白職を独占
 した家系に属していた。次の1〜4の家系のうち、この藤原房前を祖と
 する家系を1つ選び、その番号を記せ。

 1.京家 2.南家 3.式家 4.北家



−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−



問1.北条政子
問2.〔1〕
問3.〔4〕


======== 練習問題2(センター追試験・94)======= 

 鎌倉に幕府が開設され、京都と鎌倉を結ぶ東海道の交通が盛んになると、
軍事的観点からもこの幹線道路を重視した幕府により、宿駅の整備が図ら
れた。

 海道に新宿を建立すべきこと、度々沙汰〔さた〕あるといえども、いま
だ遵行(注)せしめざるの由、その聞こえあるによって、今日重ねて
( a )・( b )等に仰せらる。

(『吾妻鏡』建暦元年〔1211年〕6月26日条)
(注)遵行〔じゅんぎょう〕は執行の意。

問1.上の空欄a・bに入れる語句の組合せとして適当なものを次から選
 べ。
 
 1.a守護 b地頭  2.a守護 b国人 3.a地頭 b国人
 4.a国司 b御家人 5.a国司 b国人

問2.次の文ア〜エは、平安時代末から鎌倉時代にかけての東海道の往来
 を述べたものである。これらを古いものから年代順に正しく配列したも
 のを、下から1つ選べ。

ア.北条泰時らが軍勢を率いて上洛し、後鳥羽上皇方を破った。
イ.後嵯峨上皇の皇子宗尊親王が鎌倉に下り、最初の皇族将軍となった。
ウ.源義経追捕をめざした関東の武士が大挙して上洛し、朝廷を圧倒した。
エ.全国の軍事支配を成し遂げた源頼朝が、挙兵後初めて上洛した。

 1.ウ―エ―ア―イ  2.ウ―エ―イ―ア
 3.エ―ウ―ア―イ  4.エ―ウ―イ―ア



−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−



問1〔1〕 問2〔1〕


====== 練習問題3(センター追試験・93)=========

 源頼朝の血筋が断絶した際の事態を説明した文として正しいものを、次
から選べ。
 
 1.後鳥羽天皇が幕府の依頼をうけ、次の将軍を選任した。
 2.同じ清和源氏出身の貴族のうちから、次の将軍を選任した。
 3.後鳥羽天皇の子息を新しい将軍として鎌倉にむかえた。
 4.摂関家の出身者を新しい将軍として鎌倉にむかえた。



−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−



問1〔4〕3について、幕府の依頼をうけた後鳥羽上皇は拒否しています。


========= 練習問題4(東洋・94)===========

 鎌倉幕府成立にいたるまでの過程を述べた文で誤っているものを選べ。

1.平氏政権への反発が強まる中で1180(治承4)年源頼政が以仁王
 を擁して平氏打倒の兵を挙げた。これに呼応した源頼朝は関東の武士勢
 力を組織して鎌倉に拠点を築き、また源義仲は京都に攻め込んだため、
 平氏は西国に落ちた。

2.源義仲と対立した後白河法皇は、源頼朝と交渉して東国の支配権を与
 え、上洛を要請したため、頼朝は範頼・義経を上京させて京都を制圧さ
 せ、さらに平氏追討のために西国に攻め下らせ、壇の浦で平氏一族を滅
 亡させた。

3.平氏滅亡後、後白河法皇は義経に頼朝追討を命じたが失敗した。この
 機会に頼朝は軍を京都に送り、法皇に迫って諸国の荘園ごとに守護・地
 頭を任命する権利と一反あたり5升の兵粮米を徴収する権利を獲得した。

4.さらに1189(文治5)年、頼朝は義経をかくまったとして奥州藤
 原氏を攻め、泰衡を滅ぼして対抗する勢力を鎮定し、後白河法皇の死後
 には征夷大将軍に任命された。こうして鎌倉幕府は名実共に成立した。



−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−



〔3〕「守護」(国地頭・惣追捕使)は国ごとに設置。


========= 練習問題5(関西学院・90)=========

 鎌倉時代の武家の女性に関して述べた文のうち誤っているものを選べ。

1.鎌倉時代、武家社会の中で女性の占める地位は決して低くはなく、
  女性は財産の分割相続にあずかるのも普通であった。
2.女子が地頭に任じられる場合も珍しくはなかった。
3.鎌倉時代の武家の女性を見るとき、夫の源頼朝を助け、その死後には
  幕府の中心にあって尼将軍と呼ばれた北条政子の活躍は例外的なもの
  ではなかった。
4.藤原為家の妻の阿仏尼が実子と継子との所領争いの解決のため鎌倉か
  ら京都に赴いたことは、財産相続の問題に関し、女性の立場の強さを
  示すものであった。



−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−



〔4〕「鎌倉から京都」ではなくて、「京都から鎌倉」です。この問題は
 やや「ひっかけ」問題の部類に属しますが、他の正しい文章はよく理解
 しておいてください。(センター試験などの正誤問題でも必須事項です)


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 昨年度は、「源頼朝と北条政子」、「義経、静、大姫」などの特別編
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執権政治〔2〕「承久の乱」−−−−−−−−−−



1.後鳥羽上皇


 位を譲った上皇が院庁(いんのちょう)において、実質的に国政を主導
した政治形態のことを「院政」といいます。

 したがって、崇徳(すとく)上皇のように、「上皇」であっても院政を
行なっていないケースがあります。

「院政」は、白河上皇(法皇)にはじまり(1086年)、そののち断続
的に行なわれ、光格上皇の死去(1840年)をもって終わりますが、は
じめの約130余年がその最盛期という、きわめて特異な政治形態でもあ
ります。

 白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の4上皇の時代がこの最盛期にあたります
が、すでに後白河のときに平氏政権や鎌倉幕府(草創期)が出現します。

 後白河は、さいごまで頼朝が関東に「武者(むさ)の府」−−後世、
「鎌倉幕府」とよばれる武士の政権−−を開くことを拒否しましたが、こ
うした気概を受け継いだのが、その孫の後鳥羽上皇(高倉天皇の子。安徳
天皇の異母弟)だったのです。

 後鳥羽上皇は、以仁王が平氏打倒の兵を挙げた直後の1180(治承4)
年7月に生まれ、安徳天皇が平氏とともに都落ちした1183年に即位し
て(同時に後白河院政が再開)、1198年に子の土御門天皇(2歳)に
譲位して院政を開いたのが17歳のときでした。

 17歳の上皇。しかも、まだ源頼朝は健在です。この前年に後鳥羽天皇
の中宮に入内(じゅだい)させるために頼朝が奔走した大姫が亡くなって
いますが、おそらく後鳥羽の若き胸には、幕府をしたがえる「治天の君
(ちてんのきみ)」になるという、野望の炎がともっていたと思われます。 

「治天の君」とは、天皇家の家父長をさす語であり、日本66か国の国土
に君臨する国王を意味する語でもありました。

 後鳥羽は、祖父の後白河(『梁塵秘抄』を撰集)の血をうけたせいもあ
って『新古今若集』の撰集とともに、「西面の武士」をおいて軍事力の養
成にも力を注ぎます。ちなみに、後鳥羽は、現天皇家の直系尊属です。 

 鎌倉幕府で3代将軍実朝が暗殺されたとき(1219年)、40歳にな
ろうとしていた後鳥羽上皇は、ついに「倒幕」を決意します。



2.承久の乱 1221年
 

 後鳥羽上皇は、諸国の武士に向けて、次の院宣を発します。

●北条義時追討の院宣

 近ごろ、関東の成敗と称し、天下の政務を乱る。わずかに将軍の名を帯
ぶといえども、なおもって幼稚の齢(将軍・藤原〈九条〉頼経は4歳)に
あり。しかる間、かの義時朝臣、ひとえに言詞を教命にかり、ほしいまま
に裁断を都鄙にいたす。あまつさえ己〔自分〕が威をかがやかし、皇憲を
忘るるが如し。これを論ずるに、政道謀反というべし。

 早く五畿七道の諸国に下知して、かの朝臣(あそん=義時のこと)を追
討せしめよ。かねてまた、諸国荘園の守護人地頭等、言上を経べき旨あら
ば、各(おのおの)院の庁に参れ。

 
 上皇の命に従って鎌倉幕府を倒すか、それとも幕府に従って謀叛人とな
るか。東国御家人のなかには迷うものもいました。度重なる政争の末に北
条氏の専横に不満を抱く藤原秀康・三浦胤義らのように、上皇軍に加わっ
た御家人もいました。

 こうしたなか、「尼将軍」政子のもとに、主だった御家人が召集されま
す。そして、彼女は次の演説を行ないます。


●政子の演説

 二品(北条政子)、家人らを廉下(すだれの近く)に招き・・・いわく、
「みな心を一にしてうけたまわるべし。これ最後のことばなり。故右大将
軍(頼朝)、朝敵(平家や義経、奥州藤原氏をさす)を征罰し、関東(幕
府)を草創してよりこのかた、・・・その恩、既に山岳よりも高く、溟渤
(めいぼつ、海)よりも深し。報謝の志(感謝に報いる気持ち)浅からん
や。しかるに、今逆臣のそしりによりて、「非議の綸旨(りんじ)」=後
鳥羽上皇の道理にあわない幕府追討命令)を下さる。

 名を惜しむの族(やから、関東武士)は、早く(藤原)秀康、(三浦)
胤義ら(上皇方についた御家人)を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべ
し。

 ただし、院中(後鳥羽上皇の側)に参らんと欲するものは、ただいま申
し切るべし・・・」

 群参の士(そこに集まった御家人たち)ことごとく命に応じ、しばらく
涙をうかべ、返報を申すことつぶさならず。

(出典『吾妻鏡』)


 この演説をきいた御家人らは「武者の府」を守るため、一致団結のもと
上皇軍と戦うことを決意します。

 こうして鎌倉軍は京都を攻略して圧勝し、後鳥羽・順徳・土御門の3上
皇を配流、仲恭天皇4歳(順徳の子、後鳥羽の孫)は即位式をあげる間も
なく廃位されます。

 そして、高倉天皇の第2皇子で後鳥羽上皇の同母兄の行助法親王(ぎょ
うじょほっしんのう)42歳が皇位につかず上皇(後高倉上皇)として院
政を開き、その子・後堀河天皇9歳が即位します。

 承久の乱後、幕府は没収した上皇領3000余か所に新たに地頭をおき
ます(新補地頭、しんぽじとう)。そして、京都を監視し、西国の訴訟を
担当する機関として「六波羅探題」が設置されます。

 こうして、東国政権として出発した鎌倉幕府は、その勢力を西国に
もおよぼすことになったのです。


●後世の承久の乱の評価

 頼朝勲功は昔よりたぐいなき程なれど、ひとえに天下を掌にせしかば、
君としてやすからずおぼしめしけるも断わりなり。・・・しかれど白河・
鳥羽の御代のころより政道のふるきすかだようようおとろえ、後白河院の
御時兵革おこりて・・・天下の民ほとんど塗炭におちにき。

(頼朝が)その乱れをたいらげたり。後室(=北条政子)その跡をはから
い、義時久しく彼が権をとりて、人望にそむかざりしかば、下にはいまだ
きず有というべからず。一往のいわればかりにて追討せられんは、上(後
鳥羽上皇)の御とが(=罪)とや申すべき。

(出典:北畠親房『神皇正統記』)



========= 練習問題1(慶応義塾・2000/改)=====

 次の文章の空欄に適する語句を入れなさい。

 3代将軍が( a )の子、公暁によって暗殺され、源氏の血統が断絶
すると、幕府は後鳥羽上皇に皇子の将軍就任を要請して拒否され、やむな
く摂政( b )の子、頼経を迎えた。上皇はこのとき、皇子を送り出す
どころか、幕府に対し( c )国の長江・倉橋両荘の地頭を罷免するよ
う要求してきた。上皇は京都において実権を握り、北面の武士や西面の武
士をおいて幕府に対抗可能な軍事力を整備し、討幕の機会をうかがってい
たのである。そして1221年、ついに義時追討の宣旨がくだされた。
( d )によれば、これに対し北条政子は御家人らに「名を惜しむの族
は、早く秀康、( e )等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし」
とよびかけた。東国の武士らがこれに呼応し、まもなく京都は占領された。

 乱の後、後鳥羽上皇は隠岐へと流され、土御門・順徳の両上皇も各々、
土佐、佐渡へと配流された。仲恭天皇は位を追われ、かわって( f )
が即位した。上皇方の所領は没収され、いわゆる新補地頭がおかれること
になった。地頭らのなかには、( g )により前任者の権利と収入とを
そっくり継承する者もあった。

 義時は乱後、諸国の( h )に命じて土地調査を行い、地頭の任命や
御家人の軍役負担の目安とするため田図帳をつくらせた。



−−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−



a.源頼家  b.九条道家  c.摂津  d.吾妻鏡  
e.(三浦)胤義  f.後堀河天皇  g.新補率法
h.守護


======= 練習問題2(センター本試験・2001)======

 承久の乱に関して述べた文として正しいものを、次から1つ選びなさい。

1.後鳥羽上皇は、新たに北面の武士をおいて軍事力の増強をはかった。
2.乱後、守護の収入を保証するために、幕府は新補率法を定めた。
3.乱の結果、後鳥羽・土御門・順徳の3上皇が配流され、仲恭天皇が廃
  された。
4.白河上皇いらい続いてきた院政という政治形態は、この乱によって終
  わりを告げた。



−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−



〔3〕1→新たにおかれたのは「西面の武士」、2→「守護」ではなくて
 地頭(新補地頭。「新たに補任(ぶにん)された地頭」という意味)で
 す。4→今号冒頭をご参照ください。


======== 練習問題3(センター追試験・93)=======

 承久の乱後に幕府がとった政策として適当なものを、次から選べ。

1.六波羅探題を設置して、西国の御家人を統制した。
2.それまでの本補地頭をやめ、新たに新補地頭を設置した。
3.執権を補佐する2名の引付衆を置いた。
4.北条氏の一族で評定衆を独占させ、専制的傾向を強めた。



−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−



〔1〕2→「新補地頭=新たに補任(ぶにん)された地頭」に対して、そ
 れ以前からおかれていた地頭を「本補地頭」といいます。3→引付衆の
 設置は1249年。4→いわゆる「得宗(とくそう)専制は、1247
 年「宝治合戦」いごのことです。(さまざまな説がありますが、承久の
 乱の時の執権「義時」のひ孫にあたる執権「時頼」が「合議制から得宗
 専制への過渡期」に位置づけられます。



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執権政治〔3〕「御成敗式目」−−−−−−−−−


■執権最盛期(13世紀前半から中頃)

 執権−−−泰時・経時・時頼(専制の萌芽)
 執権を中心とする有力御家人の合議制、裁判制度の充実。
 
 1224年 連署を設置(執権を補佐「二人執権」)
   25年 評定衆を設置 
   32年 御成敗式目51か条の制定
   47年 宝治合戦(三浦泰村一族を滅ぼす)
   49年 引付衆を設置(裁判の公正化・迅速化)

■御成敗式目

 右大将(頼朝)以来の先例と武士社会の道理(慣習)を成文化。


1.法と衆議

 1221年承久の乱を乗り切った2代執権北条義時は、その3年後
に61歳で急死します。義時の後妻・伊賀氏(伊賀朝光の娘)は、娘
婿の一条実雅を将軍に、実子の政村(のち7代執権)を執権につけよ
うと企てますが、これを北条政子が阻止します。

 このとき六波羅探題として京にいた泰時41歳(義時の長子)・時
房49歳(義時・政子の弟)は、伊賀氏の変後に鎌倉に戻り、泰時が
執権に、時房が新たに連署に就任します。 

 翌25年、「尼将軍」政子68歳が亡くなると、泰時は北条一門や
三浦・安達ら有力御家人、二階堂・大江ら吏僚層から約10名を評定
衆に選び(世襲ではありません)、幕政や訴訟の最高評議機関として
の評定による政治をはじめます。

 こうした合議を中世の語で「衆議」といいますが、東国武士の慣習
だったと思われます。



====== 練習問題1(86年・共通一次本試験)======

 北条義時の子に該当する人物に関する文として正しいものを選べ。

1.彼は、和田義盛を倒した後、政所別当のほかに、侍所別当をも兼
 ね、北条氏の権力を強めた。
2.彼は、執権として、最初の武家法典である御成敗式目の制定に中
 心的役割を果たした。
3.彼は、承久の乱後、六波羅探題に就任したが、その後、鎌倉に帰
 り、初代連署となった。
4.彼は、源頼家を幽閉し、実朝を将軍にたて、自らは政所別当に就
 任して、北条氏の権力確立への道をひらいた。



−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−


〔2(泰時のこと)〕1→義時、3→時房、4→時政

===============================


2.鎌倉幕府の将軍


 源氏将軍は3代で絶え、摂関家の藤原(九条)頼経が4代将軍に迎
えられます。初代頼朝は、幕府を創設したカリスマ性もあって主従制
的支配権(御家人と主従関係を結ぶこと、本領安堵・新恩給与など御
恩をほどこすことなど)と統治的支配権(幕政を統括することなど)
の2つの権限をもっていましたが、2代将軍以後は後者の権限が有力
御家人からなる合議制や執権、そして評定衆に属するようになりまし
た。

 ただ、前者の主従的支配権は誰もこれを代行することができないの
で、将軍の存在は不可欠で、幕府滅亡まで9代続きます(摂家将軍2
代・皇族将軍4代)。鎌倉幕府の将軍は、しばしば自らに権力を集中
しようとして京に送還されますが(藤原頼経・頼嗣・宗尊親王など)、
将軍の専制を抑えたのが、以上の「衆議」や御成敗式目51か条など
の「法」だったのです。

 オーバーにいうつもりはありませんが、イギリスの大憲章〔マグナ
=カルタ、1215年〕の意義は、法によって国王(ジョン王)の王
権を拘束・制限したことにあります。御成敗式目51か条もまた「鎌
倉王」の王権を拘束・制限したものだといえます。



3.御成敗式目51か条 1232年


 1232年〔貞永元〕、御成敗式目51か条を制定した執権北条泰
時は、弟の六波羅探題重時に宛てた手紙(消息)のなかで、次のよう
にその制定理由・目的等を述べます。

「このたび制定した式目は、たしかに、漢籍の文を典拠にしたわけで
はない。われら武家社会の道理を書きしるしたものだ。こうした規定
がないと、事実よりも原告被告の力関係による判決がなされたり、以
前の判例が無視されて裁判がおこされたりする。

 人の高下(地位・身分)によらず、公正な裁判が行なわれるために
この式目を制定したのだ。式目には、多少、律令など公家社会の法と
は異なるものもあるが、決してこれらを変更・否定するものではない。
京都の公家などで誹謗・非難する者があったら、この趣旨を心得て問
答をしてくれ。」

(「北条泰時書状」より)

 いうまでもなく、御成敗式目は、鎌倉幕府の執権制の最盛期を象徴
するものです。式目制定にあたって泰時は、毎朝1回明法道の目安
(これを明法博士中原明基が鎌倉幕府に撰進した「法曹至要抄」とす
る説が有力)を読んだそうです。

 条文の表記、配列などはこれら公家社会の法を参考したものですが、
その内容は、武家社会の道理、そして「右大将家(頼朝)以来の先例」
を明文化した独自のものです。

 編纂に関与したものは、泰時、連署時房(泰時の叔父)、11人の
評定衆、法理に明るい矢野倫重・斎藤長定(浄円)・佐藤業時・大田
康連(問注所初代執事三善康信の三男)らです。

 なお、式目は幕府の法制担当者だけに秘蔵されるものではなく、書
写してひろく地頭御家人に周知徹底させた発布法だということもおさ
えておいてください。

 式目以降、新たに制定された追加法が、「式目以来追加」です。

 幕府の裁判においては、式目、追加、判例(先例、傍例)が重視さ
れました。また、御成敗式目は室町幕府においても基本法とされ、庶
民の読み書きの手本書としても長く活用されたのです。

 一例をあげると、戦国時代に一向一揆の総本山でもあった本願寺に
おいて、犯罪者を処罰するさい、御成敗式目をそのまま適用すべきか
どうかが議論されています。



======== 練習問題2(81年・共通一次本試験)====

 次の文章についてア、イがいずれも正しい場合には1を、アが正し
くて、イが誤っている場合には2を、アが誤っていて、イが正しい場
合には3を、ア、イいずれも誤っている場合には4を記せ。

ア 鎌倉幕府の政治は初め将軍の専制であったが、皇族や貴族が将軍
 に迎えられようとしたため、御家人たちは武家社会の道理による政
 治を望み、北条時政ら有力御家人たちの合議による政治が始まるこ
 とになった。

イ 北条泰時は、執権の立場を強化するため連署制を採用する一方、
 政務にすぐれた御家人をも含めた合議体制を作り、さらにその専門
 機関を新設して訴訟の公平と迅速化を図り、ついで御家人社会の基
 本となる法律を制定した。



−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−



〔4〕ア→時政らの合議と摂家将軍とは20年の隔たりがあります。
 イ→訴訟の公平と迅速化をはかる引付(衆)の新設は時頼のとき
 (1249年です)



====== 練習問題3(87年・共通一次本試験)======

 貞永式目(御成敗式目)に関する説明として誤っているものを選べ。

1.貞永式目は、源頼朝以来の先例や武家社会の慣習などを基準とし
 て制定された。
2.貞永式目は、北条泰時の指導のもとに、引付衆を主要な起草者と
 して編纂された。
3.貞永式目は、室町幕府のもとでもひきつづき基本法典として重視
 された。
4.貞永式目は、のちには,実語教・庭訓往来などとともに、民衆の
 手習いの教材にも用いられた。



−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−



〔2〕


======== 練習問題4(91年・センター追試験)====

 御成敗式目および制定者たちに関連して述べた文として誤っている
ものを選べ。


1.北条泰時を中心とした幕政担当者は、道理によった裁判を行おう
 とする政治理念を持っていた。
2.御成敗式目は、承久の乱後、実力で朝廷側を圧倒した幕府が、律
 令にかわる全国法として制定したものであった。
3.御成敗式目制定当時の幕政は、合議の理念にもとづいて運営され
 ていた。
4.御成敗式目は、後代の武家法制定にも大きな影響を与えた。



−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−



〔2〕律令を否定するものではありませんでした。泰時書状(消息)
 より。


======= 練習問題5(94年・センター本試験)=====


 御成敗式目の制定について説明した文として適当でないものを選べ。

1.この法は、制定者の属した社会の先例や道理に基づいていた。
2.この法は、権勢の有無にかかわらず公平に裁判するために制定さ
 れた。
3.この法は、律令法の内容と異なる規定を含んでいた。
4.この法は。公家の支配や律令を否定する目的で制定された。



−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−



〔4〕


========= 練習問題6(中央・90)=========

 御成敗式目(貞永式目)に関して誤っているものを選べ。

1.この式目は、北条泰時が源頼朝以来の先例や、道理とよばれた武
 士社会の慣習・道徳にもとづいて制定した法典である。
2.この式目の制定によっても、律令の系統をひく公家法、荘園領主
 が定めた本所法は、その効力を失わなかった。
3.この式目は、全文51か条からなり、御家人の権利や所領相続を
 めぐる規定などが多くふくまれている法典である。
4.この式目は、北条泰時が裁判の公平と迅速をはかるため、訴訟機
 関である引付の設置と同時に発布した法典である。



−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−



〔4〕


====== 練習問題7(87年・共通一次本試験)======


 貞永式目の第15条は「侍においては、所領を没収せらるべし。所
帯なくんば、遠流に処すべきなり。凡下の輩は、火印をその面に捺さ
るべきなり。執筆の者また同罪。」と文書偽作の罪を定めている。

 これに関する説明として誤っているものを選べ。

1.中世社会では土地をめぐる争いが多く、裁判の証拠文書の偽作が
 頻発した。
2.中世社会では身分によって、刑罰に差がつけられていた。
3.文書を偽作した凡下に対する処罰は、所領の没収と肉体刑である。
4.偽作文書の作成は、文筆能力をもつものに依頼して行われること
 が多かった。



−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−



〔3〕火印(焼きごてなどでで顔面に捺印される刑罰)のみ。


========= 練習問題8(中央・90)=========

 式目追加に関して正しいものを選べ。

1.この追加法は、式目の不備を補うため、北条泰時が式目とは別個
 に追加・制定した法令である。
2.この追加法は、式目の不備を補い、また新しい事態に対応するた
 め、鎌倉幕府が必要に応じて発布した法令である。
3.式目追加の追加とは、式目発布以後、鎌倉幕府がまとめて発布し
 た法令を意味している。
4.この追加法は、式目が主に御家人を対象として制定されたのに対
 し、公家・社寺・庶民などを主たる対象として制定された法令とい
 える。



−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−



〔2〕


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執権政治〔4〕「得宗」時頼 −−−−−−−−−−



1.鎌倉時代の「水戸黄門」


 鎌倉幕府の政治史は、大きく3つに分けられます。将軍専制(頼朝)、
御家人合議制(時政から時頼)、そして得宗専制(時頼から滅亡)です。

「得宗(とくそう)」は、北条義時の法名「徳宗」に由来しますが、北
条氏一門の家督をつぐ者のことです。
 権力者内部で特定個人が実質的な権力をもって推進する政治を専制政
治といいますが、「得宗専制」の布石をしいたのが、泰時の孫で5代目
の執権、北条時頼とするのが通説です。

 時頼には、「増鏡」や謡曲「鉢の木」でしられるように、旅の僧に身
をやつして諸国の政情や御家人の生活をみてまわったという「廻国(か
いこく)伝説」があります。「廻国伝説」といえば「水戸黄門漫遊記」
の徳川光圀の方も有名ですね。

 時頼が実際にまわっていたのではないかとする説も近年ありますが、
このような伝説が生まれたのも、彼らの政治が御家人や領民から支持さ
れたからだと思います。

 さいきんの大学受験でも、史実や実在の人物をもとにした「伝説」も
しばしば出題されます。(江戸時代の佐倉惣五郎、赤穂事件など)

 そこで、以上、廻国伝説について述べさせていただきました。


 
2.宝治合戦−−1247年−−


 頼朝の死後、有力御家人らのサバイバルゲームの末、梶原、比企、畠
山、和田、そして源氏本家が滅びます。残ったものは、北条、三浦、安
達、足利などですが、このなかの三浦氏が滅ぼされたのが1247年の
「宝治(ほうじ)合戦」です。

 このときの三浦氏の当主は泰村です。鎌倉市中で激しい戦闘がおこな
われますが、安達泰盛の活躍もあって、ついに三浦一族は頼朝の墓所法
華堂でそろって自刃します。



3.得宗専制の布石


 時頼の政策として、1249年「引付衆」設置、蘭渓道隆を宋から招
いて「建長寺」を創建したことなどがあげられます。また、5代将軍・
藤原頼嗣(よりつぐ)を廃立して、あらたに後嵯峨上皇の第1皇子・宗
尊親王を迎えたことなどがあげられます。「皇族将軍」のはじまりです。

 しかし、1256年(29歳)のときに赤痢にかかったため、執権職
を一族の長時に譲り、出家します。出家の住まいが最明寺(さいみょう
じ)で、かれ自身、「最明寺入道了房道崇」と号します。

「最明寺入道」時頼はその後も北条氏一門の長、すなわち「得宗」とし
て政治を主導するので、このころから「得宗専制」が成立したと思われ
ます。

 1263年に時頼は亡くなりますが、彼の「得宗」の地位は子の時宗
12歳にうつるのでした。   



========= 練習問題1(慶応義塾・2000)======

問.次の文章の空欄に適する語句を記しなさい。

 鎌倉幕府では、「( 1 )入道殿」の通称で呼ばれた執権北条時頼
が、1249年に評定衆の下で訴訟実務に当たる( 2 )の制度を設
け、訴訟の迅速な処理を図るようになっていた。



−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−



1.最明寺  2.引付


========= 練習問題2(同志社・2000)=======

( ア )は裁判の迅速な処理のため、( イ )の下に( ウ )を
置いた。執権の地位は強大なものとなり、一族中その地位を世襲する嫡
流の当主は( エ )と呼ばれた。彼はまた、皇族から( オ )を将
軍としてむかえ、朝廷との関係改善をはかった。



−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−



ア.北条時頼  イ.評定衆  ウ.引付(引付衆)
エ.得宗  オ.宗尊親王

  

=========== 練習問題3(成蹊・91)========

 北条時頼に関する記述として正しくないものを選べ。

1.有力御家人の三浦氏を滅ぼした。
2.政務と司法の合議のため評定衆をおいた。
3.諸国巡回の伝説が謡曲「鉢の木」となった。
4.裁判を迅速・公正にするため引付衆をおいた。
5.執権職を長時に譲った後も幕政をにぎっていた。



−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−



〔2〕


=========== 練習問題4(共通一次・85)======

 次の文章についてア、イがいずれも正しい場合には〔1〕を、アが正
しくて、イが誤っている場合には〔2〕を、アが誤っていて、イが正し
い場合には〔3〕を、ア、イいずれも誤っている場合には〔4〕を記せ。

ア 北条氏の一族や家来は、泰時のころから、評定衆に加わるなど、幕
 政に重要な役割を果たしていたが、時頼のころになると、安達氏をは
 じめ多くの有力御家人が滅亡した結果、得宗専制政治が確立した。
イ 北条時頼は、御家人の所領に関する訴訟事務の迅速化をはかって引
 付衆をおき、また、藤原氏出身の将軍を追放し、最初の皇族将軍とし
 て宗尊親王を迎えた。



−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−



〔3〕


=========== 練習問題5(共通一次・86)======

 北条泰時の孫に当たる人物に関する文として正しいものを選べ。

1.御家人の所領に関する訴訟を迅速・公正に処理するために引付衆を
  おいた。
2.後醍醐天皇が挙兵をくわだてると、天皇を捕え、隠岐に流した。
3.朝貢を強要した元の使者を追い返し、北九州の防備を強化した。
4.別荘内に文庫を創設し、内外の典籍の書写や収集に力を注いだ。



−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−



〔1〕2→北条高時、3→北条時宗、4→北条実時  


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執権政治〔5〕惣領制 −−−−−−−−−−−−−


 
 まず、次の史料をご覧ください。これは戦国時代のキリシタン大名として
有名な大友宗麟(義鎮)の祖先である鎌倉時代の大友氏がのこした文書です。


------------------------------------------- 全文 ------------

所領配分の事

嫡男大炊助入道分(大友親秀)  相模国大友郷地頭郷司職
次男宅万別当分(詫間能秀)   豊後国大野庄内志賀村半分地頭職
 別に注文あり。
大和太郎兵衛尉分(一万田景直) 同庄内上村半分地頭職
 別に注文あり。
八郎分(志賀能郷) 同庄内志賀村半分地頭職
 別に注文在り。
九郎入道分(大友能職)     同庄内下村地頭職
 但し、故豊前々司の墓堂に寄附の院主職なり。
女子犬御前分     同庄内中村地頭職
女子美濃局分     同庄内上村半分地頭職
 別に注文あり。
帯刀左衛門尉(大友時直)後家分 数子これあり。 同庄中村内保多田名

 右、件の所領等は、故豊前々司能直朝臣、代々の将軍家の御下文を賜わり、
相違無く知行し来たる所なり。しかるに尼深妙(じんみょう)、亡夫能直の
譲りを得て、将軍家の御下文を賜わり、領掌せしむる所なり。これにより能
直の遺言に任せ、数子等を孚(はぐく)まんがために、かくの如く配分する
所なり。しからば均分の状に任せて、依違(いい)無く領掌せしむべきなり。
ただし、関東御公事仰せ下さるる時は、嫡男大炊助入道の支配を守り、所領
の多少に随って、その沙汰を致すべきなり。よって後日の証文として惣配分
の状、件(くだん)の如し。

延応弐年(1240)四月六日  尼深妙(花押)

(出典「志賀文書」)

------------------------------------------------------------



 大友能直(よしなお)は、源頼朝の庶子ともいわれていますが、18歳で
奥州合戦に加わり、曽我兄弟の敵討ちのときには頼朝の身辺を守るなど、草
創期の鎌倉幕府で活躍した御家人です。筑後国の守護も歴任します。



1.武家の正妻・女性


 能直は1223年、52歳で亡くなりますが、そのあとは妻である「深妙」
が夫の所領を管理します。「亡父の譲りを得て、将軍家の御下文を賜わり、
領掌せしむる所なり」とありますように、幕府の将軍からもこのことは保障
されていたことがわかります。

 そして、史料は1240年ですから、能直死後17年のことです。おそら
く、深妙も高齢に達したため、自分の子や彼らの未亡人に譲ったのだと思わ
れます。嫡男の親秀(ちかひで)がすでに「入道」、すなわち出家している
ので、能直死去時に親秀が幼少だったとは考えられません。

 つまり、子らが幼いために深妙が一時的に所領を管理していたのではない
のです。能直は自分とともに生きてきた妻に対して、その所領(遺産)の管
理を委ねたのでしょう。

 武家の家における正妻は、一門の家族、家来やその家族の面倒を見るなど、
役割はきわめて大きく、夫の死後も一族や家来をたばねる存在だったと思わ
れます。北条政子が頼朝の死後、幕府で重要な役割を担ったのも、「2代・
3代将軍の母」であるよりも、「鎌倉殿頼朝の妻」だったからだと思われま
す。

 つまり、北条政子は当時珍しい女性ではなく、深妙のように多く存在した
「武家の正妻」を代表する人物だったのです。ほかにも、頼朝から下野国寒
河(さむかわ)郡と阿志土(あじと)郷の地頭に任命された小山朝光(おや
まともみつ)の母の例があります(教科書などにもその下文の写真がしばし
ば掲載されています。(山川詳説教科書では93ページ上の写真)



2.分割相続


 武士の一族は、その大きさにもよりますが、「一門・一家」とよばれ、こ
れを代表者である「惣領」が他の「庶子」を率いていました。遠隔地に居住
するものも、血縁で強く結びつき、「惣領」を中心に鎌倉幕府に奉仕してい
たのです。

 史料では、惣領である親秀に大友氏の本拠地である相模国大友郷の「地頭
郷司職」が譲られていますが、他の7人には、ほぼ均等に分割して譲られて
いることがわかります。

 これを「分割相続」といいます。また、いうまでもなく、女性(惣領の姉
妹や義理の姉妹)にも均等に分けられていることがわかります。


 鎌倉時代の「惣領制」は、その後期になると、分割相続から嫡子が単独で
相続する「嫡子単独相続」へ変化します。また、それぞれの庶子は独立し、
「血縁的結合」から近隣の地域で結ばれる「地縁的結合」へと変化していき
ます。

 これらの変化についても要チェックです。



−−−−−−−−−− 練習問題1(オリジナル)−−−−−−−−−−−

 北条政子に関連して述べた文として、誤りのあるものを1つ選びなさい。

1.この人物には、父が決めた結婚相手との婚礼を拒否して頼朝のもとに駆
  け込んだり、夫の愛人の家を破却するなど、東国女性らしい逸(実)話
  が多い。
2.当時、女性が地頭に任命される例はなかったので、この人物が武士団を
  従える尼将軍として実権を握ったことは、珍しいことだった。
3.同時期、朝廷の実権もある女性が握っていたため、慈円「愚管抄」には、
  日本が「女人入眼(にょにんじゅげん)の国=女性が支配する国」にな
  ったと記されている。
4.この人物は、夫、娘2人を相次いで亡くし、長男、次男、孫が殺害され
  たのちも幕府政治の安定につとめ、承久の乱に際しては、御家人らに幕
  府を守るよう力説した。



−−−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−



〔2〕


−−−−−−−−− 練習問題2(早稲田・95)−−−−−−−−−−− 

 地頭に関する説明のうち誤っているものを選べ。

1.平安時代末期には、荘園や公領に地頭が存在するところもあった。
2.朝廷や荘園領主が地頭の全面的設置に強く反対したため、1186年に
  はその設置範囲が大幅に限定されている。
3.鎌倉時代に女性が地頭に任命されることはなかった。
4.新補地頭とは、承久の乱後に設けられた新たな基準が適用された地頭の
  ことである。



−−−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−



〔3〕


−−−−−−−−− 練習問題3(国士舘・95)−−−−−−−−−−−

 中世武家社会における女性の地位について誤っているものを選べ。

1.所領を分割相続する時、女性も相続することができた。
2.所領を持っていた女性が結婚した後も、その所領は妻のものであった。
3.女性は所領を持っていたが、地頭などに任命されることはなかった。
4.不孝な子どもから所領を取り上げる「悔い返し」ということが行われて
  いたが、それは母親もできた。



−−−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−



〔3〕


−−−−−−−−− 練習問題4(センター追試験・92)−−−−−−−

 鎌倉時代の惣領制について述べた文として正しいものを選べ。

1.惣領は、一族内の家ごとに、長男がなるのが通常であった。
2.惣領は、一所懸命の地を守るために、親の所領を単独で相続した。
3.庶子は、惣領の指揮にしたがって幕府の御家人役を勤めた。
4.庶子とは、一族の中で、次に惣領の地位に就くものをいう。



−−−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−



〔3〕


−−−−−−−−− 練習問題5(南山・91)−−−−−−−−−−−−

 惣領制に関して誤っているものを選べ。

1.鎌倉時代、武士の社会では一族の長を惣領、他を庶子といった。
2.惣領は将軍の家人となって一族を代表し、大番役などの公事を一族に割
  り当てた。
3.所領は庶子・女子にも分割相続されたが、惣領はその所領に対する統制
  権をもっていた。
4.鎌倉末期になると、惣領制は崩れ、地縁的結合よりも血縁的結合が強ま
  る情勢となった。



−−−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−



〔4〕「地縁的結合から血縁的結合」ではなくて、「血縁的結合から地縁的
 結合」です。

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執権政治〔6〕地頭と中世の農民 −−−−−−−−−−−



1.地頭と荘園領主


 鎌倉幕府の首長である将軍と主従関係を結んだ開発領主を、「御家人」
といいます。

 彼らは、戦時には必死に戦い、平時には京都大番役や鎌倉番役(江戸
時代の「参勤交代の源流」)をつとめます。これを「奉公」といいます。

 そして、将軍が御家人に対して行なう「御恩」には、従来の土地支配
を保障する「本領安堵」、新たに所領を給付する「新恩給与」がありま
した。

 また、「承久の乱」時の上皇方の武士が下司・公文などの荘官をつと
めていた荘園・公領などには、幕府方の地頭御家人が荘官に任命(補任、
ぶにん)されました。彼らを「新補地頭」といいます。(これ以前の地
頭は「本補地頭」とよばれます。)
 
 こうして、新たに幕府の勢力がおよんだ西日本では、貴族や寺社が荘
園領主で、それを管理するのが地頭御家人といった状況が数多くみられ
るようになりました。
 鎌倉において執権を中心とする合議制から得宗専制へと推移するなか
で、おそらく政争から逃れるために、西日本に移住して領内に館をかま
える地頭御家人も増えたと私は思います。

 鎌倉幕府の訴訟実務書である「沙汰未練書〔さたみれんしょ〕」では、
地頭・御家人を次のように定義づけています。


●沙汰未練書

一 地頭とは、右大将家以来、代々将軍家に奉公し、御恩を蒙る人の事
 なり。
一 新補地頭とは、承久兵乱の時、没収の地をもって、所領等を充て給
 わる事なり。地頭得分率法の御事書これあり。
一 御家人とは、往昔以来、開発領主として、武家の御下文を賜わる人
 の事なり。開発領主とは根本私領なり。また本領ともいう。


 東国出身の地頭御家人にとって、貴族や寺社はもともとおそれたり敬
う対象ではなかったのですが、朝廷との友好関係を保持しようとする3
代執権泰時が「御成敗式目」で冒頭の条文に寺社を尊重すべきことを掲
げたこともあって、彼らもまた荘園公領制の枠組のなかで職務の遂行に
つとめます。

 しかし時代がたつにつれて、西国の地頭御家人は荘園・公領をわがも
ののように支配し、年貢を領主におさめなかったりする例がふえてきま
した。

 これを荘園領主である貴族や寺社は幕府に訴えますが、幕府にしてみ
れば、御家人あっての幕府ですから、そう簡単には処罰することもでき
ません。かといって、貴族や寺社を無視することもできませんでした。

 そこで、幕府がくだした判断は、地頭に土地(下地)の管理一切をゆ
だね、年貢納入だけを義務づける「地頭請所」、地頭と領主とで土地を
折半して支配させる「下地中分」などでした。

 こうして地頭による排他的な土地支配がひろがり、彼らは次の南北朝
・室町時代には、「国人」とよばれる領主階級へと成長していくことに
なります。


●下地中分

和与(わよ)す
 備後国神崎庄下地以下所務条々のこと
右、当庄の領家高野山金剛三昧院(こんごうさんまいいん)内遍照院
(へんじょういん)雑掌行盛(ざっしょう・ゆきもり)と、地頭阿野侍
従殿(あのじじゅうどの)季継御代官助景との相論(そうろん)、当庄
下地以下所務条々の事、訴陳に番(つが)うと雖(いえど)も、当寺知
行の間、別儀を以て和与せしむ。田畠・山河以下の下地は中分せしめ、
おのおの一円の所務をいたすべし。よって和与の状、件(くだん)の如し。

 文保弐年(1318)二月十七日
                 地頭代左衛門尉助景 在判
                 雑掌行盛 在判

(出典「金剛三昧院文書」)



=========== 練習問題1(センター追試・92)====

 荘園や国衙領の境界をめぐるさまざまな階層の人々の動きについて述
べた文として適当でないものを選べ。

1.国衙の介入を嫌った領主は、不入の権を得ると、国衙の使いの荘園
  内への立入りを拒否した。
2.起請文をつくり一揆を結んで提出した要求を領主から拒否されると、
  荘民は、荘外の村や山林に逃散することもあった。
3.個々の荘園や国衙領ごとに設置された地頭は、地頭請によってその
  権限を領域の外へ拡大することが認められた。
4.惣村が発達した畿内やその周辺では、荘園の領域をこえた地域の人
  々の連合体も生まれ、土一揆の基盤となった。



−−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−



〔3〕

*−−−−−−−−−−−*−−−−−−−−−−−−*−−−−−−



2.泣く子と地頭には勝てぬ


 鎌倉幕府には忠誠を誓い、命をかけて華々しく戦う御家人も、民衆、
とくに農民らにとっては、生産物を収奪する直接的な支配者であること
にかわりはありません。

 次の史料をみてみましょう。有名な「阿テ河荘民の訴状」です。


●阿テ河荘民の訴状   

 阿テ河ノ上村百姓ラツヽシテ言上
一 ヲンサイモク(御材木)ノコト。アルイワチトウノキヤウシヤウ
(地頭の京上=京都大番役)、アルイワチカフ(近夫)トマウシ(申し)、
カクノコト(如)クノ人フ(夫)ヲ、チトウノカタエせ(責)メツカ
ワレ候ヘハ、ヲ(テ)マヒマ候ワス候。ソノヽコリ(残り)、ワツ(僅)
カニモ(漏)レノコ(残)リテ候人フヲ、サイモクノヤマイタシ(山出)
エ、イテタテ(出立)候エハ、テウマウ(逃亡)ノアトノムキ(麦)マ
(蒔)ケト候テ、ヲイモト(追戻)シ候イヌ。ヲレラカコノムキ(麦)
マカヌモノナラハ、メコトモ(妻子共)ヲヲイコ(追込)メ、ミヽ(耳)
ヲキリ、ハナ(鼻)ヲソキ、カミ(髪)ヲキリテ、アマ(尼)ニナシテ、
ナワ(縄)・ホタシ(絆)ヲウチテ、サ(苛)エナマント候ウテ、せメ
せンカウ(責詮講)せラレ候アイタ、ヲンサイモクイヨヽヽヲソ(遅)
ナワリ候イヌ。ソノウエ百姓ノサイケイチウ(在家一宇)、チトウトノ
(地頭殿)エコホ(毀)チトリ候イヌ。

ケンチカン子ン(建治元年、1275)十月廿八日
              百姓ラカ上(百姓らがたてまつる)

(出典「高野山文書」)


 逃亡した農民の妻子に対して、「耳を削ぎ、鼻を削ぎ」という地頭
(湯浅氏)の行為には身も震える思いがしますが、この史料から、たど
たどしい文章ではありますが、農民らが一致団結して、地頭の横暴を荘
園領主(京都白川の寂楽寺。のち高野山が領主)に訴えるようになった
ことがわかります。



=========== 練習問題2(センター本試・95)====

 鎌倉時代の農民に関連して述べた文として正しいものを選べ。

1.名主や小百姓(作人)は御恩に対して奉公をもってこたえ、戦時に
  は戦場でたたかい、平時には鎌倉番役などをつとめた。
2.名主は、鎌倉時代の後期になると、一定額の年貢の納入を請け負う
  かわりに、荘園を支配した。
3.名主は、下人などを使って耕作を行い、小百姓(作人)は名田など
  の一部を請負耕作して生計を立てていた。
4.小百姓(作人)は、鎌倉時代の後期になると、名主を排除し、用水
  の利用配分などを決定した。



−−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−



〔3〕


=========== 練習問題3(京都・98)========

 承久の乱以降、地頭の非法が激化したため、荘園領主は代官である預
所や( 1 )を現地に派遣したり、幕府に地頭を訴えたりした。やが
て、年貢納入を地頭に請け負わせる地頭請、さらに荘園の現地を地頭と
領家で折半する( 2 )が見られるようになった。一方、1275年
の紀伊国( 3 )荘のように。百姓が地頭の横暴を訴えることもあっ
た。

問.空欄に適する語句を記しなさい。



−−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−



1.雑掌  2.下地中分  3.阿(氏の下に一)河


=========== 練習問題4(文教・2000)======

 幕府と朝廷の2つの政権がそれぞれ全国を支配していたことに関連し
て述べた次の文のうち、誤りのあるものを1つ選びなさい。

1.国衙領の御家人は公家側の国司と武士側の鎌倉殿の両方からの支配
  を受ける。
2.荘園に対する荘園領主の権力の強さを示すものとして、地頭請や下
  地中分の方法がある。
3.公武の二元的支配は当初公家側優位で進んでいたが、承久の乱以後、
  武家側優位の二元的支配へと変化した。
4.義時が諸国の守護に命じて大田文をつくらせたのは、土地に対する
  幕府の支配権を強化するためであった。



−−−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−



〔2〕



3.中世の農民


 中世の農民(百姓)は、古代律令制下の班田農民、近世(江戸時代)
の百姓とはことなり、一定の土地に縛られず、移動の自由が認められて
いました。

 このことを伝えるのが下記の史料です。

●「御成敗式目51か条」第42条

一、百姓逃散の時、逃毀と称し損亡せしむること。

 右諸国の住民逃脱のとき、その領主ら逃毀と称して妻子を抑留し資財
を奪いとる所行の企はなはだ仁政に背けり。もし召し決せられんところ
に年貢所当の未済あらばその償いをいたすべし。しからずば早く損物を
糺返せらるべし。
 ただし去留〔きょりゅう〕においては、よろしく民〔たみ〕の意〔こ
ころ〕にまかすべし。

(出典「御成敗式目51か条」)


 百姓が土地から逃亡(逃脱)したときに領主である地頭が「逃毀(ち
ょうき)」と称してその百姓の妻子を抑留する所行を「仁政」に背くも
のと戒めています。

「逃毀」についてはさまざまな解釈がありますが、私は、「逃亡した百
姓の妻子や資財を奪い取ってもよい」とする地頭側の論理だと思います。

 これを鎌倉幕府は、「仁政に背く」もの、すなわち悪しき慣習だと明
言しています。頼朝の挙兵以前から存在した武者の慣習が、承久の乱を
経て全国の統治機関となり、撫民〔ぶみん、民衆をいたわること〕政策
をすすめるようになった鎌倉幕府によって否定された一つの例だといえ
るでしょう。

 この条文で注目されるのは、土地を去るのも土地に留まるのも民(百
姓)の意思によることが大原則とされている点です。

 もちろん、農業の名人として地頭たちから引く手あまたの「カリスマ
百姓」がいたとは思われませんが(そのことを伝える史料もありません)、
移動の自由をもつことは、次の南北朝や室町時代にみられる自治村落の
惣や一揆における百姓の自治・自立意識につながるものだと思います。


========== 練習問題5(センター本試・93)=====

 鎌倉時代の荘園構成に関して誤っているものを選べ。

1.百姓・凡下などと呼ばれる上層農民は、百姓名の名主として年貢・
  公事などの負担を負った。
2.水呑百姓は名田をもたず、百姓たちに雇われたりする存在で、村落
  生活における多くの権利を奪われていた。
3.下人・所従は主人に隷属し、しばしば譲与・売買の対象となるよう
  な存在であった。
4.荘園の管理にあたる下司・公文等の荘官は給田・免田を与えられ、
  この地には雑公事はかからなかった。



−−−−−−−−−−− 解答 −−−−−−−−−−−−−−−−−−



〔2〕文章は江戸時代の百姓に関するものです。


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