52 不平等条約   53 開港とその影響   54 安政の大獄・桜田門の変

55 公武合体と尊王攘夷   56 大政奉還    


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  高校生のための日本史講座 2000.5.27 
    NO.52 幕末(6)不平等条約★
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  ||||| 52.幕末(6) 不平等条約 |||||

 
 今号は、日米修好通商条約の史料学習です。
 史料の語句については、濁音にかえたり、ひらがな、現代仮名づか
い、アラビア数字などの表記にしています。


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第一条 向後日本大君と、亜墨利加(アメリカ)合衆国と、世々親睦
 なるべし。
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<< 「大君(たいくん、タイクーン)」は、幕府の首長、征夷大将
   軍のことです。 >>
 
 締結時の将軍は13代将軍家定です。調印直後の7月に死去(公表
は8月)します。南紀派あるいは一橋派による毒殺ではないかといわ
れています。


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第三条 下田・箱館港の外、次にいう所の場所を、左の期限より開く
 べし。
 神奈川・・・・1859年7月4日
 長 崎・・・・同断
 新 潟・・・・1860年1月1日
 兵 庫・・・・1863年1月1日

 もし新潟港を開き難き事あらば、その代わりとして同所前後におい
て一港を別に撰ぶべし。神奈川港を開く後六箇月にして下田港は鎖
(とざ)すべし。この箇条の内に載たる各地は亜墨利加人に居留を許
すべし。・・・・双方の国人品物を売買する事、すべて障りなく、そ
の払方等については、日本役人これに立合わず。・・・・
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<< 実際には、神奈川は東海道の要衝でもあるので横浜へと変更に
 なります。新潟の開港は1868年、兵庫は1867年です。
 ですから、幕末の主な港は、横浜、長崎、箱館の3港です。 >>

「居留」は、一定区画を該当国の人に割り当てて居住・営業などを
 認めることです。一時的な「逗留」や、日本人や他国人も住む「雑
 居」とはことなるものです。横浜・長崎は「居留」、箱館は「雑居」
 でした。 

<< 「双方の国人品物を売買する事、すべて障りなく、その払方等
 については、日本役人これに立合わず」、これが自由貿易を規定し
 た条項ですね。 >>


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
第四条 すべて国地に輸入輸出の品々、別冊の通、日本役所へ、運上
 を納むべし。・・・阿片の輸入厳禁たり。もし亜墨利加商船三斤以
 上を持渡らは、其過量の品は、日本役人これを取上べし。・・・
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

<< 「別冊」は、貿易章程です。このなかに協定関税制が規定され
 ています。つまり、関税自主権がないのです。関税は本来その国に
 自主権があるのに、アメリカと協議しなければいけなかったのです。
 
 「運上」は関税のことです。 >>

 でも、アヘン禁止条項があるのは注目に値します。


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第六条 日本人に対し、法を犯せる亜墨利加人は、亜墨利加コンシユ
 ル裁断所にて吟味の上、亜墨利加の法度を以て罰すべし。亜墨利加
 人へ対し、法を犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本の法度を
 以て罰すべし。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

<< この条項が、領事(コンシュル)裁判権の承認、つまり治外法
 権です。 日本国内なのに、日本人が裁けないのです。アメリカの
 領事による、アメリカ法適用です。 >>

以上出典:幕末外国関係文書


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今号の練習問題は、上記史料の空欄適語補充問題です。
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第一条 向後日本(     )と、亜墨利加(アメリカ)合衆国と、
 世々親睦なるべし。

第三条 下田・(   )港の外、次にいう所の場所を、左の期限よ
 り開べし。
(   )・・・・・1859年7月4日
 長 崎・・・・・・ 同 断
 新 潟・・・・・・1860年1月1日
(   )・・・・・1863年1月1日

 もし新潟港を開き難き事あらば、その代わりとして同所前後におい
て一港を別に撰ぶべし。神奈川港を開く後六箇月にして下田港は鎖
(とざ)すべし。この箇条の内に載たる各地は亜墨利加人に(   )
を許すべし。・・・・双方の国人品物を売買する事、すべて障りなく、
その払方等については、日本役人これに立合わず。・・・・

第四条 すべて国地に輸入輸出の品々、(   )の通、日本役所
 へ、(   )を納むべし。

第六条 日本人に対し、法を犯せる亜墨利加人は、亜墨利加(   )
 裁断所にて吟味の上、亜墨利加の法度を以て罰すべし。亜墨利加
 人へ対し、法を犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本の法度を
 以て罰すべし。
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  高校生のための日本史講座 2000.5.28 
    NO.53 幕末(7)開港とその影響★
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  ||||| 53.幕末(7)開港とその影響 |||||

 
●主要港・主要相手国

 日米修好通商条約の取り決めによって、1859年から開港された
のは、〈〈 横浜・長崎・箱館 〉〉の3港です。そのなかで一番に
ぎわったのが、横浜です。幕府の所在地である江戸にいちばん近かっ
たからでしょう。

〈〈  輸出入総額は横浜が圧倒的に多かった。 〉〉

 それでは、取引相手国で先頭に立ったのはどこでしょうか?
 アメリカだと思うかもしれませんが、違います。アメリカでは18
61年から65年まで、南北戦争が起きます。日本との貿易どころで
はなかったのでしょう。これにかわって主要相手国となったのが、

〈〈  イギリスです。 〉〉

 もっとも先進的な資本主義国です。当然といえば当然でしょうね。


●輸出入品とその影響

〈〈 輸入品を代表するのが、良質で安価なイギリス製の綿糸・綿布、
   兵器や艦船。 〉〉

 このため、日本の西陣織などの伝統産業は圧迫をうけます。兵器や
艦船は、幕府や雄藩が買います。

〈〈 輸出品を代表するのが、生糸、ついで茶、蚕卵紙、海産物。 〉〉

 とくに生糸輸出の伸びはめざましく、中央高地から関東西北部をへ
て東北南部にいたる養蚕地帯は一挙に生産をあげ、製糸を中心とする
間屋制家内工業とマニュファクチュアが発達しました。横浜を中心と
する生糸貿易には、地方の在郷商人(商品作物などを生産し利益をえ
るようになった農民)の進出が目だち、「絹の道=シルクロード」
(たとえば八王子→横浜)における販売活動によって、江戸の問屋商人
に対抗しました。

 このような動きに対して、江戸幕府は、貿易抑制と問屋承認の利益
独占をはかるため、

〈〈 1860年、雑穀・水油・蝋(ろう)・呉服・生糸を横浜に直
 送することを禁止し、すべて江戸問屋を経由させるように命じる五
 品江戸廻送令を発します。 〉〉

 しかし、この法令も効果はありませんでした。大げさにいえば、農
村に胎動しつつあった近代資本主義の芽が、開港によってさらに大き
くなり、封建主義にもとづく支配体制・経済体制をつき崩していこう
としていたのです。
 在郷商人と横浜を結ぶシルクロードは、幕末の日本における近代資
本主義の生命線でもあります。

 生糸だけでなく、ティーロードもありました。伊勢国室山(今の四
日市市)の豪商、伊藤小左衛門は、生糸のほか茶に注目し、みずから
茶を栽培し、横浜に運び大もうけをします。彼は明治時代になって器
械製糸場をつくります。茶は、イギリスで紅茶として飲まれます。イ
ギリス人は朝から晩までよく紅茶を飲むので、需要も多かったのです。
(ウーロン茶、紅茶、日本茶、それぞれ茶の葉が違うと思ってる人は
いませんか?)

‐‐‐‐閑話休題‐‐‐‐

 農民が横浜へ行って商売をするのですから、当然、英会話が必要に
なってきます。彼らは、会話マニュアルのメモを手に話したそうです。
たとえば、そのメモのなかに「これいくら〈浜千鳥〉」と書かれたもの
があります。外国人にも「difficult〈moods cashy〉」などのメモが
あります。
「いま何時〈掘ったイモをイジッでねぇ!〉」
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

●金の大量流出

 日本の金銀交換比率は1:5でした。海外では1:15。そこで日本
にやってきた外国人は、銀を金と交換し(銀5→金1)、それを上海な
どにもっていって交換し(金1→銀15)、日本で交換し(銀15→金
3)、上海で交換し(金3→銀45)・・・・と、海外と日本を往復す
るだけで儲けることができたのです。
 こうして、

〈〈 日本から10万両以上もの金貨が流出 〉〉

 という事態になりました。10万両はおよそ今の80億円に相当しま
す。そのため、〈〈 品質の悪い万延小判 〉〉を鋳造します。貨幣の
質が悪い(金の含有量が少ない)わけですから、物価高がおこります。
売る側としては、小判に含まれる金が少なくなったので、それまでと同
じ価格では儲けにならないから、価格をあげます。

 幕末の物価高は、すさまじいです。

 たとえば、1853年には銭100文で米1升(1.8リットル)が
買うことができたのが、1867年には同じ額で1合1勺(0.19リ
ットル)しか買うことができませんでした。

 こうして、都市で生活する庶民は、外国との貿易がいけないんだ!と
いう不満の声がおこり、攘夷を支持する世論のようなものになるのです。


今号も、解答は不要ではないでしょうか・・・

――――――― 練習問題―――――――――

〔1〕基礎レベル 92年・センター・追試
 外国貿易の開始直後の社会・経済に関して述べた文として誤っている
ものを1つ選べ。  
@ 日本の金の銀に対する交換比率が外国と比べて低かったので、大量
 の金貨が海外に流出した。
A 開港地の中では横浜における貿易額が最も多く、取引相手ではアメ
 リカが第1位だった。
B 輸出の第1位は生糸で、茶・蚕卵紙等がつづき、輸入品は毛織物・
 綿織物が多かった。
C 幕府は江戸の特権商人を通じて貿易を統制するため,五品江戸廻送
 令を出したが効果はなかった

〔2〕基礎レベル 慶応大
 日米修好通商条約の歴史的意義を述べた次の文章のうち、誤りを含む
ものを1つ選べ。 
1.この条約以前に、箱館などの2港における領事の駐在は認められて
 おり、200余年におよぶ日本の鎖国政策はすでに変更されていた。
2.この条約により開かれた港・市において、アメリカとの通商がはじ
 めて認められることになったばかりでなく、それらの港・市における
 自由貿易の原則が確認された。
3.この条約においてはじめて導入された片務的最恵国待遇のほか、協
 定関税制、居留地内での領事裁判権にみられるように、この条約は不
 平等条約であった。
4.幕府はこの条約に続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランス
 とも同様の条約を結んだ。これらは安政の五カ国条約と呼ばれる。

〔3〕基礎レベル 慶応大

 1859年から1865年における日本の輸出入額の関係についての
べた文章のうち、誤りを含むものを1つ選べ。 
1.輸出が増大した商品を生産する産業の発達は大いに促進され、マニ
 ュファクチュア経営も成長したが、輸入が増大した商品を生産する生
 産性の低い伝統的な産業は、圧迫されることになった。
2.生産地の商人が商品を開港地に直送するようになったため、江戸・
 大坂などの特権商人は大きな打撃を受けた。幕府は、雑穀など5品に
 ついては必ず江戸の問屋を経て輸出するよう命じたが、外国商人や新
 興商人の反対により十分な効果はあがらなかった。
3.外国と日本とでは金銀比価に大きな開きがあったため、巨額の金貨
 が海外に流出し、通貨価値の下落と物価の騰貴をまねいた。幕府は改
 鋳によって貨幣の品質を高めこれに対処したが、逆に、物価上昇に拍
 車をかける結果となった。
4.開国にともなう経済の混乱と政局の激動により、社会不安が広まっ
 た。各地で打ちこわしや世直し一揆が起こり、1867年には、東海
 道から近畿、四国地方にかけての地域で「ええじゃないか」と踊り歩
 く民衆の狂乱が巻き起こった。 


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  高校生のための日本史講座 2000.5.29 
   NO.54 幕末(8)安政の大獄・桜田門外の変★
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||||| 54.幕末(8)安政の大獄・桜田門外の変 |||||

 
0.概観

 1858年、江戸幕府の最高権力者(もちろん将軍を除きます)
である大老職に就任した井伊直弼(43才)の目の前の課題は、2
つありました。

 1つは、日米修好通商条約の調印。
 条約を天皇の許可すなわち勅許を得たうえで調印することです。

 そしてもう1つは、将軍継嗣問題。

 14代将軍を、慶福(紀伊藩主。11代家斉の孫。家斉の子・斉
順{なりゆき}が紀伊家へ養子入り)にするか、慶喜(御三卿・一
橋家当主。御三家・水戸の徳川斉昭の子)にするか。

 けっきょく、前回までにみたとおり、直弼は、慶福を時期将軍に
定めて、天皇の勅許を得ずに条約に調印します。
 1858年6月19日のことです。

 これを〈〈 違勅調印問題 〉〉といいます。

1.不時登城

 慶喜をおす一橋派は、この「違勅」を材料に井伊を難詰します。
 すでに一橋派(徳川斉昭、徳川慶篤、松平慶永ら親藩、島津斉彬
ら外様大名)も調印やむなしとしていたので、条約そのものを批判
すことはできなかったのです。慶永も通商賛成で、斉彬は早くから
通商賛成でした(彼が幼児期に薫陶をうけた曽祖父の重豪{しげひ
で}はシーボルトとも交流をもった人物です。斉彬も曽祖父につれ
られて長崎に行ったこともあります)。

 一橋慶喜(21才)は23日の登城日に、井伊と面会します。
『徳川慶喜公伝』を参考に口語訳すると、次のようになります。

慶喜
「勅許をまたずして条約に調印したのは、どのような考えによるも
 のか。」

井伊
「まことにやむを得ざる事情にて、かかる事となり恐れ入る次第で
 ござりまする。」

慶喜
「いやいや、私も、条約調印のことは、あながちに反対すべきだと
 は思わない。やむをえぬ事情であれば、しかたがない。」

「・・・しかし、このような事態になって、朝廷に報告しないのは
 いかがなものか。ただ一片の宿次奉書だけで済ませておくのは、
 朝廷に対する不敬である。朝廷を軽蔑することは、罪が大きいぞ」

井伊
「さっそく私どものうち一人が上京して事の次第を朝廷に申しあげ
 ます。」

慶喜「必ずそのようにせよ。」(と述べて退出)


 この会話からも、修好通商条約そのものに反対しているのではな
くて、孝明天皇の勅許を得ていないこと、つまり違勅調印を問題視
していることがわかります。

 翌6月24日。前水戸藩主斉昭(慶喜の父)、水戸藩主慶篤(慶
喜の兄)、福井藩主松平慶永、尾張藩主慶勝(よしかつ。会津藩主
松平容保〈かたもり〉・桑名藩主松平定敬〈さだあき〉らは実弟)
は、登城日(不日登城)でないのに登城して、井伊大老に面会しま
す。
 井伊大老は、彼らの攻撃を慶喜との問答に似た口調でかわします。

・・・しかし、その直後に、井伊大老は、彼らの不日登城をとがめ
て、謹慎処分にします。慶喜も同罪とみなされました。
 
 これが、井伊大老による安政の大獄のはじまりでした。

2.志士の弾圧

 井伊直弼の政治を批判した志士たちも弾圧されます。
 総勢で100名をこえます。公家・幕臣・大名・志士はもちろん、
農民までも処分されます。

〈〈 福井藩士・橋本左内(26才)、長州藩士・吉田松陰(29
  才)、儒学者・頼三樹三郎(34才、頼山陽の子)は死罪。小
  浜藩出身の梅田雲浜(44才)は獄死。〉〉

 1858年7月には、島津斉彬が軍事演習中に急死します。彼の
手となり足となってはたらいた西郷隆盛(31才)は、一橋派とし
て奔走していた僧・月照(げっしょう)とともに錦江湾に身を投じ
ます。
 日米修好通商条約の勅許を得るために京都で奔走していた幕臣の
川路聖謨も、一橋派とみなされて謹慎になります。
 彼は、後年、江戸城開城を目前にした3月15日、ピストルで自
殺します。

 井伊大老は、老中が蟄居・謹慎と判決した者でも、これをくつが
えして死罪にしたそうです。こうした井伊大老の弾圧に、水戸藩で
は保守派が実権を握り、改革派(天狗党とよばれた)の一部の武士
は藩籍を離脱します。

 そして、

3.桜田門外の変

 1860年3月3日。
 この日、大雪のなかを登城する大老・井伊直弼の行列を、水戸脱
藩士17名・薩摩脱藩士1名が、ピストルの銃声を合図に、一斉に
襲いかかったのです。そして、彼らは大老の首を刀につきさしてふ
りかざします。

 首謀者のひとり関鉄之助は、その後1年半もの間、関東各地を逃
げ回り、越後(今の新潟)で逮捕され、死罪に処せられました。

 近年、彼らの背後には、ピストルを入手し得たような新興の豪商
や、彼をかくまったと思われる関東地方の豪農ら――水戸でコンニ
ャクなどをつくるマニュファクチュアを経営する豪農ら――がいた
のではないかと推測されています。
(最初にピストルが鳴り響いたのかどうかは諸説があります。また、
1発のピストルで井伊大老に致命傷を負わせたという説もあります)

 外国との通商がはじまった当時、資本主義的な経済・流通システ
ムに適合するかのように成長しつつあった彼ら豪商・豪農にとって、
それを妨げる古い支配体制すなわち幕府は、邪魔な存在だったので
しょう。

 なお、桜田門外の変は、「尊王攘夷の志士が大名をのりこえて政
局の前面に出た最初の劇的な事件」(井上清『日本の歴史』)だっ
たのです。
 いずれにせよ、江戸幕府の最高権力者が、白昼堂々と脱藩士らに
よってその首をうたれたということは、幕府そのものの威信が地に
おちたことを物語っていました。

 井伊直弼のライバル、水戸烈公こと徳川斉昭も謹慎のまま、その
5ヶ月後の8月15日、60才で病没します。

 幕末の第1幕が終わりを告げました。

 今号も、解答は無しで。
 以前にアップした慶応大の基礎レベル問題です。

――――――― 練習問題―――――――――

〔1〕次の史料を読み、あとの設問にこたえなさい。
 
第一条 向後日本大君と、亜墨利加合衆国と、世々親睦なるべし。
第三条 ( a )・箱館港の外、次にいふ所の場所を、左の期限
 より開くべし。
 神奈川・・・西洋紀元千八百五十九年七月四日、長崎・・・同断、
( b )・・・千八百六十年一月一日、兵庫・・・千八百六十三
 年一月一日
 若し新潟港を開き難き事あらは、其代りとして同所前後において、
 一港を別に選ぶべし。神奈川港を開く後六箇月にして( a )
 港は鎖すべし。この箇条の内に載たる各地は亜墨利加人に居留を
 許すべし。・・・・双方の国人品物を売買する事、総て障りなく、其
 払方等については、日本役人これに立合はず。
第四条 総て国地に輸入輸出の品々、別冊の通、日本役所へ、運上
 を納むべし。・・・
 阿片の輸入厳禁たり。若し亜墨利加商船三斤以上を持渡らば、そ
 の過量の品は、日本役人是を取上べし。・・・
第五条 外国の諸貨幣は、日本貨幣同種類の同量をもって、通用す
 べし。金は金、銀は銀と、量目をもって、比較するをいふ。・・
第六条 日本人に対し、法を犯せる亜墨利加人は、亜墨利加コンシ
 ユル裁断所にて吟味の上、亜墨利加の法度をもって罰すべし。亜
 墨利加人へ対し、法を犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本
 の法度をもって罰すべし。(幕末外国関係文書)

問1.この条約の背景となった列強の動きと、それに対する幕府の対
 応とを説明した次の1〜4から、誤りを含むものを1つ選びなさい。
1.清国がアヘン戦争に敗れて開国を余儀なくされたことに危機感
 を抱いた幕府は、薪水給与令を撤回し、清国・オランダ以外のす
 べての外国船を撃退することを命じた異国船打払令を出した。
2.オランダ国王ウィルヘルム2世は将軍への国書で開国を勧告し
 たが、幕府はこれを拒否した。同じ年にフランス船が、翌年には
 イギリス船が琉球に来航して通商を求めた。
3.中国航路の船や捕鯨船の寄港地として日本の開国年求めていたア
 メリカは、カリフォルニアでの金鉱の発見によって太平洋岸が開
 発されると、その要求を一段と強めた。
4.18世紀後半以降シベリア東部を経てオホーツク海に進出して
 いたロシアは、1853年、使節プゥチャーチンを艦隊とともに
 長崎に派遣し、開国と国境の確定を要求した。
問2.アメリカ側がこの条約の調印を幕府に迫った際、説得の材料と
 したのはなにか。
 次の1〜4から最も適当なものを1つ選びなさい。
 1.セポイの反乱  2.太平天国の乱  3.クリミア戦争
 4.アロー戦争
問3.日米双方において、この条約の調印を決めたのは誰か。
 次の1〜6から、正しい組み合わせを1つ選びなさい。
 1.井伊直弼・ペリー  2.堀田正睦・ペリー
 3.阿部正弘・ペリー  4.井伊直弼・ハリス
 5.堀田正睦・ハリス  6.阿部正弘・ハリス
問4.文中の(a)、(b)に入る地名はなにか。次の1〜5から、(a)、(b)
 の順に選びなさい。
 1.小樽  2.新潟  3.下田  4.堺  5.下関
問5.この条約の締結後、日本の外国貿易は急激な発展をとげること
 になった。日本の貿易構造を示した次の(1)〜(4)について、正しい
 ものを1〜5から1つずつ選びなさい。
(1)1859年から1865年の期問における日本の輸出入額の
  関係
 1.輸出額が輸入額を超えていた。
 2.輸入額が輸出額を超えていた。
 3.輸出入額はほぼ均等であった。
 4.輸出超過から輸入超過に転換した。
 5.輸入超過から輸出超過に転換した。
(2)1865年の横浜における最大の取り引き相手国
  1.イギリス  2.アメリカ  3.フランス
  4.オランダ  5.中国
(3)1865年の横浜における最大の輸出品目
  1.海産物  2.生糸  3.蚕卵紙  4.茶  5.陶器
(4)1865年の横浜における最大の輸入品目
  1.武器・軍需品  2.船舶
  3.綿糸  4.綿織物  5.毛織物


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  高校生のための日本史講座 2000.5.30 
   NO.55 幕末(9)公武合体と尊王攘夷★
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||||| 55.幕末(9)公武合体と尊王攘夷 |||||

 
1.公武合体

 井伊大老の横死後、幕閣をになったのが、老中・安藤信正です。
 5万石の譜代大名、磐城平藩主です。41才。
 彼が考えたことは、

〈〈 公武合体 〉〉、すなわち、朝廷(公)と幕府(武)とが提
携することによって、幕府の威信を回復することでした。
 1860年7月、安藤は同じ老中・久世広周(ひろちか)と連名
で孝明天皇に対して、和宮(かずのみや)を新将軍・家茂(いえも
ち。かつての慶福)の夫人に迎えるかわりに、必ず攘夷を数年後に
実行することを約束します。

 8月、朝廷は幕府に和宮降嫁を内諾します。和宮は、孝明天皇の
異母妹で、このとき家茂と同年齢の14才。

 しかし。それから1年数ヶ月後の1862年(文久2)1月。
 江戸城に登城する安藤信正の行列を、またしても水戸脱藩士ら6
名が、坂下門外で襲撃します。銃声も鳴り響きます。第二の桜田門
外の変!、〈〈 坂下門外の変 〉〉
 
 桜田門外の教訓から警備兵の数を増やしていたため、安藤は傷を
負っただけで済みました。しかし、やがて安藤は老中職を解かれ、
家督を譲り隠居と、、、、政治の舞台から退場します。その後、彼
は、明治初年の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍
と戦い、のち許され、廃藩置県の年に52才で亡くなります。


2.島津、動く!

〈〈 1862年2月 家茂と和宮との婚儀、挙行 〉〉

 その2ヶ月後に藩兵1000兵をつれて京に入った人物がいまし
た。薩摩藩主の父、島津久光です。斉彬の異母弟。母親は由羅騒動
で有名な由羅。というよりも、この騒動は、由羅一派が斉彬を廃嫡
して久光を藩主にしようとしておきたものです。斉彬の死後、久光
の子が藩主になり(久光には反対派が多かったからです)、久光の
地位は国父です。

 彼の目的は、亡き兄もつらなっていた雄藩連合を再現すべく、朝
廷の命をうけて幕府に迫り、幕政改革を断行させることでした。
 ただ、斉彬が有能な人材を登用しましたが、彼は保守的で、藩内
の中・下級武士による尊王攘夷運動に敵意を示し、有馬新七らの急
進派を同じ京都の寺田屋で殺戮させます。

〈〈 寺田屋の変です 〉〉

 同郷のもの同士が殺し合う、凄惨な事件ですね。この頃、西郷隆
盛は久光の逆鱗にふれて2度目の奄美大島送りの最中で、歴史の舞
台にはいません。(1度目は安政の大獄)
 西郷の親友の大久保正助(のち利通)は、久光に気に入られて今
回の「率兵上京」にしたがっていました。

 幕政改革の勅許を得た久光は、勅使・大原重徳(おおはらしげと
み)をともなって、教科書では「勅使を奉じて」、江戸に下向しま
す。そして、幕政改革が断行されます。

〈〈 雄藩連合の象徴的存在だった一橋慶喜が将軍後見職に、松平
 慶永が政事総裁職に、会津藩主・松平容保が京都守護職にそれぞ
 れ任命されました。 〉〉

 雄藩連合は、こんどは公武合体策と結びついて、再び幕政を主導
することになりました。そして、皮肉なことに、彼ら(特に水戸)
が唱えはじめて全国に広がった「尊王攘夷」を弾圧する立場になる
のです。まぁ、もともと身分制にたつ幕藩体制あっての雄藩や雄藩
連合ですから、中・下級武士の下克上的な風潮とをもつ「尊王攘夷」
とは、もともと相いれない立場だったのでしょう。
 また、朝廷と提携することによって、「尊王攘夷」を取りこもう
としたのでしょう。

 なお、島津が薩摩に戻るときにひきおこした事件が、

〈〈 生麦事件です 〉〉

 馬に乗って遠出してきたイギリス人が行列を横切ろうとしたので、
薩摩藩士が彼らを殺傷した事件です。このため、薩摩藩は、翌18
63年にイギリスと戦争をすることになります。攘夷運動嫌いの久
光が、攘夷をしてしまうのですから、これまた皮肉なものです。
 なお、生麦事件でイギリス人を斬った海江田信義は、のちに明治
期の子爵、枢密顧問官。もう一人の奈良原喜左衛門の弟・繁は、明
治期の沖縄県知事として沖縄自由民権運動を弾圧した人物です。


3.尊王攘夷運動、激化 

 雄藩連合を中心に公武合体が推進されるなか、尊王攘夷を藩論と
して意思統一した藩があります。長州(萩)藩です。桂小五郎(の
ち木戸孝允)ら中級武士が主導して藩論をまとめたのです。この藩
の特徴は、藩主・毛利敬親(たかちか)が「そうせい候」とよばれ
る人で、藩政は家臣任せだったのです。「尊王攘夷でまとまりまし
た。」、「そうせい」、「やはりやめます」、「そうせい」
 もともと中国地方を支配した毛利一族です。関ヶ原の合戦で西軍
の総大将で、徳川家には長年のうらみもありました。やがて桂らの
京都での活躍により、朝廷では、反幕府・尊王攘夷の立場にたつ公
家の発言力が増していきます。その先頭にたっていたのが、

〈〈 三条実美ら七卿です 〉〉

 そしてついに、孝明天皇は、上京した将軍家茂、後見職慶喜に命
じます。1863年のことです。

〈〈 5月10日から、攘夷を実行せよ! 〉〉

天皇の命令です。これに逆らうことは、尊王攘夷派に討幕の口実
を与えるようなものです。幕府は、しかたなく諸藩に攘夷を命じま
す。
 こうして、1863年5月10日。下関海峡を通過する外国船へ
の砲撃がはじまったのでした。
 長州藩士・高杉晋作は、農民を主力部隊とする〈〈 奇兵隊 〉〉
を結成します。師の吉田松陰が唱えた「草莽崛起」の実践版です。

 このころ、晩年は幕府奥医師として江戸にすむ緒方洪庵が亡くな
ります。大坂で適塾を開いていた人物です。
 その通夜に訪れた弟子の福沢諭吉は、適塾の大先輩で幕府の蕃書
調所教官もつとめた開明派の村田蔵六と再会します。当時故郷の長
州藩に仕えてまだ日も浅い、のちの大村益次郎です。
 福沢は、このとき村田が尊王攘夷で凝り固まっていることに驚き、
目を丸くします。

 こうした長州主導の無謀で過激な行動に対して、公武合体(雄藩
連合)派、つまり一橋慶喜らは巻き返しにでます。
 これが、〈〈 8月18日の政変 〉〉です。
 長州藩士らや七卿らを京都から追放します。
 孝明天皇も、「8月18日以後に申し出たことこそ、真実の朕の
存意である」といっています。攘夷論の本家本元の孝明天皇でさえ、
尊王攘夷運動のもつ身分制や封建制、幕藩制を否定さえもする性質
を警戒していたのでしょう。

 この年の末から翌1864年にかけて、京都に参預(与)会議体
制が成立します。一橋慶喜(将軍後見職)、島津久光(薩摩藩主の
父)、松平慶永(前福井藩主)、山内豊信(前土佐藩主)、伊達宗
城(むねなり、前伊予宇和島藩主)、いわゆる公武合体(雄藩連合)
の体制です。しかし、横浜鎖港問題(実質的には幕府の貿易独占)
などをめぐって紛糾し、この会議は64年3月に分裂・解体します。


――――――― 練習問題―――――――――

 大老井伊直弼の独裁政治の破綻、公武合体を推進した老中安藤信
正の失脚と相次いで威信を落とした幕府は、文久2年、独自の公武
合体の立場をとっていた薩摩藩の島津久光の意見をいれて幕政改革
を行い、有力大名との提携を進めた。ついで下関戦争の後、欧米諸国
のわが国への圧力が一段と強まると国内情勢も大きな転回を見せた。
すなわち、長州藩は下関戦争により、薩摩藩は薩英戦争の結果、とも
に攘夷の不可能を悟って開国討幕の方向をとるようになり、久しく敵
対関係にあった両藩は反幕勢力の結合を策する人達の斡旋により、
慶応2年、ひそかに軍事同盟を結んだ。こうしてついに、その翌年、
260年余の長期にわたった幕府の支配がくつがえされた。
間1 薩英戦争となった事件を次から選び、記号で答えよ。
  ア.生麦事件   イ.坂下門外の変
  ウ.桜田門外の変 エ.禁門の変
問2 幕政改革の際、尊攘派などを抑える目的で京都に新設された
  機関を次から選び、記号で答えよ。
  ア.京都町奉行  イ.二条城代  
  ウ.京都守護職  エ.京都所司代
問3 当時の欧米諸国の動向について述べた次の文のうち、誤りであ
  るものを次から選び、記号で答えよ。
  ア.幕府に迫って改税約書に調印させ、関税の引き下げを勝ちと
    った。
  イ.兵庫沖に艦隊を送り、その圧力により兵庫港を開港させた。
  ウ.対日貿易の主座を占めていたイギリスは幕府の弱体を見抜
    き、薩長両藩を援助した。
  エ.フランスはあくまで幕府支持の立場をとって、イギリスに対
    抗しようとした。
問4 「反幕勢力の結合を策する人」を記号で答えよ。
  ア.後藤象二郎  イ.岩倉具視  ウ.坂本竜馬  エ.勝海舟
問5 次にあげた幕府の滅亡前後の出来事を発生順に並べた時、3番
  目に当たるのはどれか。記号で答えよ。
  ア.王政復古の大号令  イ.江戸城の無血開城なる
  ウ.鳥羽・伏見の戦い  エ.討幕の密勅が薩長両藩に下る
  オ.大政奉還の上奏が許可される

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||||| 56.幕末(10)大政奉還  |||||

  少し早いようですが、尊王攘夷から大政奉還まで、1時限ですす
めることにしています。大河ドラマなどでは、1863〜64年に
名場面がおおいようですが、長州の尊王攘夷運動に焦点を絞って、
その展開、挫折、討幕派形成と、スピーディーにすすめることにし
ています。

1.尊王攘夷運動の挫折

〈〈 池田屋事件 〉〉

 1863年8月18日の政変で京都を追放された長州藩士ら尊王
攘夷派は、その後もひそかに京都に潜伏していましたが、翌64年
6月、彼らの多数が、惨殺、捕縛される事件が起きました。

 襲撃したのは、新撰組ですね。新撰組は、京都守護職のもとにお
かれ、尊王攘夷派を取り締まるのが主な職務でした。尊王攘夷派を
たすけて新撰組と戦うのが、鞍馬天狗です(^^; 創作上の人物
ですが・・・・。
 
 この事件のとき、のちの木戸孝允、当時の桂小五郎は、いちど池
田屋を訪れたものの同志がまだいなかったので、長州藩邸に戻り、
そのときに新撰組が襲撃した−−−−と、後年になって述べていま
すが、怪しいものです。真相は、襲撃時に池田屋にいて刀を抜いて
戦ったものの、多勢に無勢、これでは勝てないと思って逃げたと思
われます。大河ドラマ『徳川慶喜』でも、さいしょ、たたかってい
るシーンがありました。

〈〈 蛤御門の変 〉〉

 翌7月、長州軍は、京都に攻めのぼり、禁裏守衛総督の一橋慶喜
が率いる会津・桑名・薩摩ら公武合体軍(そのような名はありませ
んが)と戦って、敗北します。松下村塾出身で吉田松陰もその才能
をほめた久坂玄瑞や、首謀者の真木和泉らは自殺します。

 こうして、長州藩は、朝敵として幕府の征討軍をむかえることに
なりました。

〈〈 四国艦隊下関砲撃事件 〉〉

 そしてさらに、翌8月、長州藩をイギリス、アメリカ、フランス、
オランダの4カ国からなる17隻の連合艦隊が下関を砲撃します。
当然、長州藩は敗北します。


2.討幕への道

−−−−−−− このようななか、長州藩内では、尊王攘夷派にか
わって、保守派(恭順派)が実権を握り、蛤御門の変の責任者であ
る3家老の首を幕府に差しだし、奇兵隊を解散させるなどして、恭
順謝罪の態度をとります。
 高杉晋作らは長州から逃れ、そしてまた戻ってきて、藩の保守派
政府に対して反旗をひるがえし、少ない手勢で、下関の役所などを
占領して、ふたたび、藩の実権を握ります。1864年末から翌6
5年にかけてのことでした。

 長州藩は、戻ってきた桂小五郎や、村田蔵六(のち大村益次郎)
らを登用し、富国強兵につとめます。もう攘夷は無理だ。外国とも
交際していくことが必要だ。新しい日本をつくることが必要だ。そ
のためには、幕府をたおさなけばいけない−−−−−

 こうして、討幕派が形成されていきます。

〈〈 薩長連合 〉〉

 1866年1月。京都でひそかに開かれた長州と薩摩の会合で、
薩長連合がむすばれます。代表者は、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、
長州は桂小五郎です。このとき、土佐の坂本竜馬が仲介役になった
といわれていますが、じっさいにどのような役割を演じたのかは、
実は謎です。ドラマや小説ではかなり大きく扱われていますが・・。

〈〈 第2次長州征討 〉〉

 すでに幕府は1865年に第二次長州征討の勅許を得ていました
が、各地で一揆がおきていたため、諸藩も兵を差し出すだけの余裕
がなく、実際の攻撃がはじまったのは、翌66年のことでした。
 長州を4方面から攻撃した幕府軍は敗退、九州の小倉を占領しま
す。同年、幕府は将軍家茂(21才)の死去を理由に征討を停止し
ます。

 同年末には孝明天皇が36才で亡くなります。当時、毒殺との噂
もありました。公武合体派だったので、討幕派にとっては邪魔だっ
たので殺したのだということです。

〈〈 大政奉還 〉〉

 1867年。討幕派が「討幕の密勅」を極秘にうけて(自分たち
でつくったようなもの)、いよいよ討幕を−−−−というとき、つ
まり「討幕の密勅」の日付とまさに同じその日、15代将軍徳川慶
喜は、大政奉還を朝廷に上表します。
 実は、このとき30才の慶喜は、大政奉還後の新政府において、
今でいう大統領に就任することをねらってこの行動に出たのです。

 大政奉還の前夜、慶喜は、オランダに学び「万国公法」を訳した
西周(にしあまね)からイギリスの三権分立を、大広間の廊下に障
子屏風をめぐらして講義させています。政権をすてた人物ならば、
そのようなことをするはずがありません。彼の構想による新政権構
想は、次の通りです。
 大君は、前将軍であり日本最大の大名である徳川家当主・慶喜以
外には考えられません。

天皇(国家元首)・・・山城国を支配。
大君(大統領)・・・行政権・司法権をもつ。全国事務府(宰相=
 大臣1名、高官数名)、外国事務府など5〜6の事務府を統括す
 る。
議政院(国会)・・・立法権。大名からなる上院、各藩から藩士1
 名からなる下院の2院制。
地方・・・諸藩が支配。山城国は朝廷の領土。江戸は大君の領土。

 これを、坂本竜馬の発案である「船中八策」と照らしてみても面
白いですね。以下、現代語訳。
「第1 天下の政権を朝廷に奉還し、政令はすべて朝廷から発せら
 れる」
「第2 上下議局を設け、議員をおいて全てのことを公議によって
 決する」
「第3 有力な大名や公家や、有能な人材を顧問にする」

 このほかのものとあわせて全部で8つあるから「船中八策」です。

 慶喜派、封建制の将軍から、近代国家の大統領、「大君」への脱
皮をはかっていたのです。討幕派は、討幕の対象を失い、ますます
慶喜との対決姿勢を強めたのです。

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