|
その部屋にたった一つある窓から見下ろすと、壮麗な建物がいくつも建ち並ぶ傀侯の宮殿の向こうには、折り重なるように続く家々の屋根ばかりが見える。
山が見えないのが何だか不思議だった。山に囲まれた銀生で育ってきたハルトにとっては。
傀侯の元に出頭したとき、すぐに処刑されてもしかたないと覚悟していた。悪名高い傀侯のことだから見せしめのために拷問でもうけるかと思っていたのだが。
傀侯はハルトを客人扱いにした。牢に入れるでもなく、鎖に繋がれることもない。それどころか傀侯自ら彼を迎えてまるで友人のようにもてなした。
しかし、ハルトを見る目は氷のように冷酷だった。その整った顔の裏になにか恐ろしい考えを抱いていることにハルトは気付いた。
無名市に連れてこられてからも扱いは変わっていない。ハルトは捕虜というより傀侯の客人と見られているようだ。ただ、宮殿内のこの建物を出ることを許されていないだけだ。
そして常に誰かに監視されていた。彼が階下の戸口に近寄ると警備の者がすっと現われて物柔らかにしかし断固として引き止めるのだ。
ここは質素を旨としてきた銀生にとっては呆れ返るほど豪華でぜいたくな場所だが、ハルトにとって牢獄に違いなかった。
これからいったいどうなるのか予想がつかないだけに不安がつのった。いつまでこの軟禁状態が続くのだろう。そして何のために傀侯はハルトを捕らえたのか。
「メイ…。」ハルトはつぶやいた。メイに会いたかった。あの明るい笑顔をもう一度見 たかった。
窓の外に見える大都市はハルトにとってあまりに異質に見えた。あの緑に囲まれた銀生 の谷の風景を再び見ることはないのだろうか
広壮な宮殿の幾つもの建物を繋ぐ通路を護衛隊の制服を付けた二つの人影が歩いてゆく。
所々にいる警備兵が彼らに気付くと、さっと姿勢を正した。
「ここにも少しは慣れたと思うが、無名市はどう思うね。」護衛隊長凌駕が連れに言った。
「驚きですね。人が多くて、ごちゃごちゃして、何だか疲れます。」ルスカはそう答えた。
凌駕は声を上げて笑った。「大地界最大の都市だからな。無理もない。」
ちょうど通りかかった建物の入り口に目をやってルスカは足を止めた。戸口にいた警備兵がそれに気付いて礼をした。
「気になるのか、あそこにいる奴が。」凌駕が言った。
「―傀侯は彼をどうするつもりなんでしょう。」
「さてね、あの方の考えることは常人にはわからんよ。さて、あっちだ。君の行くべきところは。」凌駕は迷宮のような宮殿内をルスカを急き立てて行った。
彫刻と絵画とで華やかに飾り付けられた廊下を歩いて、一つのドアを凌駕はたたいた。
「お入り。」中から聞こえた声はルスカにとって聞き慣れたものだった。
中はかなり広い居室になっていた。女性の部屋らしい繊細な感じにしつらえられている。
そこに立っていたのは緋沙だった。
「ルスカを連れてきました。」凌駕は礼をしていった。
「ご苦労様でした。」
凌駕はルスカにちらりと笑みを見せると、部屋を出ていった。
ルスカはしばらくぶりに見る緋沙を見つめていた。相変わらず美しい。この宮殿の豪華な調度品に囲まれて、女王のように立つ姿はさらに。
「―護衛隊の制服が良く似合うこと。」緋沙はほほ笑みながら言った。「黒い上着のほうが金髪が映えるわ。」
「君の為に白の軍服を捨てたんだ。」ルスカは緋沙に近づいて抱き寄せた。
「あなたに教えておきたいことがあるの。」緋沙は肩に落ちかかる艶やかな黒髪をかきあげながら言った。「あなたのお友達のこと。」 ルスカは飲みかけていたグラスを置いた。
「ハルトの?。」
「そう、傀侯が銀生一国と引き替えにしたわけをね。
今度の満月の夜に傀侯はあなたの良く知っている姿になるわ。」
「―姿になるってどういうことだ。」
緋沙は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「あの人は魔鏡支配者なの。魔鏡の力で何年かに一度、より若い男の姿を奪ってその姿になるのよ。だから歳もとらずに不死身でいられるの。
傀侯はあなたのお友達の姿がお気に召したの。若くて、きれいで、おまけに白いから。
いにしえの魔道士はほとんどが銀髪の白い男達だったといわれているわ。傀侯は自分が白い姿になれば大魔道士並みの力を得られると思っているの。
今度の満月は十三ケ月に一度の逢魔月。魔鏡がその力を最大まで発揮するとき。その夜にお友達は魔鏡の犠牲になる。このことはあなたに教えてはならないときつく言われているわ。」
ルスカは愕然としていた。傀侯がハルトの姿になる。彼が子供の頃から親しみ、いつも共にいて、そして裏切った友の姿に。
「ぼくになぜ教える。教えてはいけなかったんだろう。」
緋沙の黒い瞳がきらりと光った。「あなたにハルトを殺してほしいから。私は傀侯に姿を変えてほしくないの。」
「なんだって。」ルスカは驚いて緋沙を見た。
「傀侯の今の姿は私の兄なの。十数年前傀侯に奪われるまでは。」緋沙はそう言った。
「私は兄が好きだった。歳は離れていたけど、子供ながら兄に近づく女達すべてに嫉妬したわ。兄はだれよりも美しくて、強かった。
私たち、南の華邦という小国の王族に生まれたの。無論、傀侯の属国になっていて、兄が傀侯の目にとまった時、誰も逆らうことができなかった。
兄が連れて行かれるとわかったとき、私、傀侯に自分も連れて行って欲しいといった。
兄と別れたくなかったから。
無論、両親も兄も引き止めたわ。でも、傀侯は私も一緒に無名市へ連れてきた。兄は傀侯の新しい姿になるため、そして私は傀侯の女になるために。」
「そんな…。」ルスカは絶句した。緋沙が傀侯の姿の妹だとは。そういえば、真っすぐな黒髪や、黒い瞳は傀侯と同じだが。そして王族の一員であったなら、さっきの凌駕の礼儀正しさもうなずける。
「君のお兄さんは姿を奪われてどうなったんだ。」
「知らないわ。でも、私の兄は傀侯になった。私はうれしかったのよ。今までのように小さな妹としか見てくれなかった兄ではなく私を女として見てくれたわ。」緋沙は笑みを浮かべていた。「だから私は傀侯の言うことには何でも従ってきた。彼に利用されているとわかっていたけれど、兄の役に立てるのがうれしかった。
あなたに会えたのも傀侯のおかげよ。」緋沙はルスカの首に腕を回した。
「でも、あの人がほかの姿になるのは許せない。ハルトが死ねば姿を奪うことはできない。そうすれば、次の姿が見つかるまで、後何年か兄の姿のままでしょう。」
ルスカは身震いした。「君は恐ろしいことを。」
「あなただってハルトの姿をした傀侯に命令されるのはいやでしょ。これからずっとハルトに仕えなきゃいけないとしたら。」緋沙はルスカのきちんと束ねられていた金髪をもてあそびながら言った。
警備兵はルスカの軍服を見て威儀を正した
「中の者に用がある。開けろ。」
建物のなかへ入ると、中にいた警備兵に外へ出ているよう命じた。
そして階上へ通じる階段をあがっていった
ハルトはあてがわれた部屋のベットにひっくり返っていた。
ふと人の気配を感じて起き上がると、部屋の入り口に立つルスカがいた。
「ルスカ!。君は無事だったのか。」喜びの声をあげて駆け寄ろうとしたハルトはルスカの着ているものに気付いた。「―その制服は…。」
「そうさ、ぼくは今、護衛隊の副隊長だ。」ルスカはハルトに歩み寄りながら言った。
ハルトは信じられぬようにこの親友を見た
「どうして…。君はやはり我々を裏切ったのか。」
ルスカは黙ったまま腰の剣を抜いた。銀華鋼製の武器は白い光を放ちはじめた。
「ルスカ、何を!。」ハルトが叫ぶ間もなく、剣は翻り、ハルトは危うく身をかわした。
「なぜぼくを殺そうとする。」
「君が傀侯に姿を奪われないようにするためさ。君は魔鏡に喰われて影だけになりたくはないだろう。」ルスカはハルトに剣を向けながら言った。
ハルトは気を集中して防御の体制になった体から放つ光はルスカより強い。しかし、素手の彼に勝ち目はない。銀華鋼の剣は光の防御を貫いてくる。ハルトはただ、ルスカの攻撃を避けることしかできなかった。
「影だけとは…。いったい何を言ってるんだ。」
「傀侯は魔鏡支配者だ。そして君の姿になろうとして君を捕らえた。彼の魔鏡で君の姿を奪うために。そうならないように君は今、君のままで死ぬんだ。」
傀侯が自分の姿になる。ハルトはぞっとした。自分の姿をして冷酷な施政を行なう支配者を想像するのは恐ろしいことだった。
傀侯がハルトを見るときの冷たい眼差しの意味がわかった。あれは次の自分の姿を見ていたのだ。
ハルトのからだから光が消えていった。
「―わかった。君の言うとおりだ。魔鏡に殺されるより、君の手にかかった方がいい。」ハルトは逃げ回るのをやめた。
ルスカは剣を振り上げた。ハルトは思わず目を閉じた。
ルスカは覚悟を決めたハルトを見た。青ざめた顔に思い出が重なった。
子供のころのハルト。女の子みたいで、他の男の子たちにからかわれていた。そのくせすぐむきになってかないもしない相手に向かっていった。
成人式の時、白い体の肩口にただ一つ傷を付けていたハルト。
―あの時から彼はハルトを憎みはじめたのかもしれない。自分にないものを持っているというだけで。
ハルトが何をしたというのだ。人より白い姿を持って生まれたのは彼の罪ではない。
振り上げた剣は力なく下げられた。
「…だめだ、ぼくにはできない。」ルスカはつぶやくように言った。「君が好きだったんだ。なのに君がぼくよりはるかにすぐれているのが許せなかった。
ぼくはいつまでも君に頼っていてほしかったのかもしれない。子供の頃のように。」
ハルトはうなだれているルスカの肩に手をやった。「ルスカ。」
彼はルスカが哀れに思えた。なぜ祖国を裏切るようなことをしたのかわからなかったが悪人になりきれる人間ではないことをハルトは知っていた。
「すまなかった。ぼくはもうこんな真似はしない。」ルスカは剣を収めて言った。
ハルトはうなずいた。「ぼくを殺せば傀侯は君を許さないだろうな。―しかし、ぼくが勝手に死ぬのはしかたないだろう。」
ルスカはぎょっとしてハルトを見た。「自害するというのか…。」
「剣の他に短刀を持っているだろう。それを置いていってくれ。それから、ぼくが君を出口まで送っていく。警備兵に君がここを出る時、ぼくがまだ生きていた事を見せておくんだ。」
ハルトはルスカを抱き締めた。「ぼくを忘れないで。君は親友なんだから。」
二人は階下へおりた。ルスカは警備兵を呼んで建物の外へ出た。
戸口が閉められると、ハルトは元の部屋に戻った。そしてベットのクッションの下に隠していたルスカの短刀を取り出した。
魔力を持った古代の鏡のことは昔話として知っていた。銀生の子供なら、寝る前に聞くちょっと恐い話として聞いたことがあるはずだ。
鏡に姿を喰われたものは肉体のない幽鬼となる。そして命つきるまで闇の中をさまようのだ。
ハルトは短刀を鞘から抜くと、その銀色の刃を見つめた。ほんの少し勇気をだせば、最悪の死を免れることができる。
彼はベットに腰をおろして短刀の切っ先を心臓のうえにあてた。このまま前に倒れたら一瞬のうちに死ぬことができる。処刑されると覚悟していたのだ。死の誘惑は常に近くにあった。
ふと、ハルトは短刀が白い光を帯びているのに気付いた。ハルトは一度傀侯に傷を負わせたことがあったのだ。
どうせ死ぬのなら、傀侯にもうひと太刀浴びせてから死ぬのもいい。近づくことができれば彼を倒すこともできるかもしれない。
ハルトは短刀を鞘に戻すと、元のところに隠した。
ベットに身を投げ出して天井を見つめた。妙に心は静かだった。はじめから死ぬつもりだったのだ。傀侯の意図を知った今、不安は消えていた。ただ、ルスカのことを思うと心が痛んだ。
もっと早くルスカの本当の気持ちに気付いてやれなかったことが悔やまれてならなかった。
彼を裏切り者として憎んでいられたほうが楽だった。ハルトは彼を親友として信じていたのに、何が狂ってしまったのだろう。
|