| 窓から見える月が次第に丸くなっていく。 ハルトは焦りを感じていた。傀侯に最後の一太刀を浴びせる機会はなかなか無かった。 時折、支配者はハルトの様子を見に来るのだが、必ず護衛の者を連れていた。 ハルトは獲物を前にした蛇のような自分を見る傀侯の眼差しがいやだった。 彼が将来の自分の姿を見ているのだと思うと、それに気付かないふりをしているのがつらかった。 ついに月がほとんど円に近づいた夜、ハルトは晩餐会に呼び出された。 ―最後の歓待というわけか。 ハルトはそう思ったが、これが彼にとっても最後のチャンスだった。 ハルトは入念に身繕いをした。長い髪を銀生の習慣にしたがってきちんと編み、傀侯側が用意した華美な礼装を拒否して洗濯されて染み一つ無い白の軍服を付けた。 最後の時は白騎兵としての誇りを持っていたかった。 そして上着の下に銀華鋼の短刀を隠し持った。今夜傀侯に近づけなかったら、自害するつもりだ。 迎えの者が来て、ハルトは彼の牢獄から出ていった。 会場のまばゆいばかりに豪華にしつらえられた広間には、傀侯の帝国の主要なものたちが集められていた。いずれも礼装をつけ、着飾った夫人をともなっている。 ハルトは傀侯と共に上座にいるよう命じられた。 傀侯は閣僚たちが自分が姿を変えたときに戸惑わないように事前にハルトを披露しているのだ。 そう思うとハルトは胸が悪くなった。人々の好奇に満ちた眼差しのなかで、何か馬鹿なことでもやってやりたかったが、彼の受けた厳しい仕付けがそうさせなかった。ハルトは 礼儀正しくあてがわれた料理を口に運んだ。 会場を見渡すと護衛隊の隊長だという凌駕の姿はあったが、副隊長のルスカはいない。 それだけがわずかな救いだった。かっての親友にさらしものにされている自分を見てほしくなかった。 そして、ハルトは居並ぶ貴婦人たちのなかに緋沙を見て驚いた。交易商人の令嬢であったはずだが、今は他の女性たちのなかでもひときわ美しく、女王のようないでたちだった。 その彼女の目がじっと自分に向けられていた。どうしてか分からないが、その鋭さにハルトは戸惑った。 やがて、一通り料理が出揃って人々は騒めきはじめた。会場の中央では音楽と共に華やかな衣装を着けた踊り子達がダンスを始めた 傀侯が席を立った。近くに控えていた護衛の兵士が、彼に続こうとするのを彼は止めた 「ちょっと外へ出るだけだ。ここにいろ。」そう言って背後にあった扉から出ていった ハルトも席を立った。傀侯の跡を追ったが別に咎めるものはいなかった。 扉の外は広いテラスになっていた。傀侯は夜風に吹かれながら月を見上げていた。 「―ハルトか。」人の気配に振り返って傀侯は言った。「お前も馬鹿な騒ぎに飽きたのか。」 傀侯は近づいてくる銀生の青年を満足気に見ていた。華やかに着飾った者達の間では場違いに見える実用向きの軍服姿だが、全身白の姿は見事だった。 「お前もここへ来てあの月を見ろ、十三ケ月に一度の色合だ。美しいじゃないか。」 真円に近い月の光に照らされた傀侯は冷たい美貌に笑みを浮かべながら言った。。 ハルトは彼の傍らに立った。月光の下の庭園を見るふりをしながら隠し持った短刀を探った。 ―今しかない。 ハルトは短刀を抜くと、傀侯に切りかかった。 彼は真っすぐ傀侯の心臓を狙った。しかしその時月を見ていた傀侯が体の向きをかえ、短刀の切っ先はわずかに逸れた。 一瞬、光が夜のなかに閃いて、ハルトは何かに突き飛ばされて倒れた。 「油断していたな。お前が武器を持っていたとは。」傀侯が冷ややかに彼を見下ろしていた。傀侯の体は白い光に包まれている。 ハルトは体を起こしたが、それ以上動くことができなかった。見えない力で押さえ付けられているようだ。 「お前が軍人であることを忘れていた。美しい顔に似合わず気が強いことをな。」傀侯はハルトの手から短刀を取り上げた。 「銀生の剣だ。どこで手に入れた。」 ハルトは唇を噛んだ。最後の機会を逃し、命を絶つ手段も奪われてしまった。 「殺せ。お前などに姿を奪われたくない。」 「―それを知っているのか。」傀侯はハルトを引きずり起こしていった。「だったら私がお前を傷付けることはないとわかっているはずだ。あすの夜、お前のその白い姿は私のものだからな。」傀侯は笑いながらハルトが力の呪縛から逃れようともがくのを見やった 「しかし、だれがお前にそのことを教えたのだ。だれが武器を渡した。答えろ。傷を付けなくとも苦痛を与えることはできるぞ。」 傀侯がちょっと指を動かすと、ハルトの体に電流のような痛みが走った。ハルトは歯を食いしばって耐えた。 その時、「私が教えました。」という女の声がした。 緋沙がそこに立っていた。「その子をいじめて楽しんでいらっしゃるのにじゃまをしますわね。」 「緋沙。」傀侯は驚いたように言った。 「私、銀生の男を使ってこの子を殺させようとしました。でも、その男はそれができなかった。その代わり短刀を渡したといったからこの子が自殺するのを待っていました。 今日まで生きているとはあきらめの悪い子ね。」緋沙はハルトに冷たく言った。 「君は―。」ハルトはやっと声を出した。 「なぜだ、緋沙。」傀侯は眉を寄せていた。 緋沙は傀侯に歩み寄ると、その肩に腕を置いた。「あなたに姿を変えてほしくないのです。お兄さま。」 「私はお前の兄ではない。」 「わかっています。本当の兄なら私を女として愛してはくれなかった。あなたは兄の姿で私を愛してくださったわ。だから私はあなたの為に何でもしてきました。あなたの敵に身を売るようなことも。」緋沙は傀侯の胸に美しい頭を押しつけていた。 「今更他の姿になるなんていやです。私の兄でいて。今のままで。」 ハルトは驚きながらこの二人を見ていた。 同じ黒い髪。黒い瞳。その顔は互いに似通っていた。同じ血をうけた顔立ちだ。 「緋沙。」傀侯は緋沙を抱き寄せた。 青ざめた月明かりの下、二人の男女は美しい彫像のように一つになっていた。 ハルトは自由を奪われて堅い敷石の上に転がされているという事態にもかかわらず、憎むべき敵であるはずの二人に見惚れていた。 緋沙の閉じられた瞼から涙がこぼれ落ちた。 傀侯と緋沙が抱き会う様は画家たちが夢に見るような完璧な絵に見えた。美しい、しかし呪われた絵だった。 傀侯は緋沙の涙に濡れた瞳を見つめてほほえんだ。「―お前は私の美しい凶器だった。 何人もの男達がお前のために国を売った。」 「あなたがそう望んだからです。」 「そう、お前は私に尽くしてくれた。愛している。緋沙。」 傀侯は緋沙の顔の前に手のひらを向けた。 その手からまばゆい光が走った。 ハルトはその光に思わず目を閉じた。次に何かが彼の近くにどさりと音を立てて落ちてきたので、彼は目を開けた。 緋沙がハルトの目の前に倒れていた。華やかな衣装を着け、艶やかな黒髪を高く結いあげた姿で。しかし、あれほど美しかった彼女の顔がなくなっていた。 「何てことを!。」ハルトは悲鳴に近い声を上げた。「ひどい。こんな―。」 傀侯は緋沙を見下ろしていた。「惜しい女だが、もはや役にたたん。」 ハルトの叫び声を聞きつけて護衛の兵士がテラスに出てきた。 ハルトは傀侯に対する怒りに我を忘れ、自分を押さえつけている力に対抗して起き上がろうとした。 「お前は自分を愛している女ですら殺すのか。」 傀侯はハルトをにらんで彼にその手を向けた。ようやく立ち上がろうとしていたハルトは再び強い力にとらえられた。 ハルトの白い体が宙に浮いた。 「お前は私が必要とするまで眠っていろ。」傀侯はそう言うと、ハルトに白い光を浴びせた。 ハルトは苦痛の声を上げると意識を失った。 この有様を怯えたように見ていた兵士達に傀侯は言った。 「この女を始末しろ。目障りだ。それからこいつはもとの部屋に寝かせておけ。」 傀侯は力の呪縛を解き、ハルトはどさりと敷石の上に落ちた。 ―本当に見かけによらず力のある男だ。 傀侯は気を失っているハルトを見やって考えていた。彼の呪縛をもう少しで破るところだった。思わず手荒な扱いをしてしまったが、眠らせておけば自分を傷つけることはできないだろう。 傀侯はにやりとした。 ―明日の夜だ。待ちに待った逢魔月は。白い姿を手に入れ、真の魔導士となるのだ。 彼は衣服の裾を翻すと、何事もなかったかのように閣僚たちが自分を待っているはずの広間へ戻っていった。 |