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2005年5月3日 福井 憲法を学ぶつどいにて |
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「わが国は、太平洋、日本海の波洗う美しい島々からなる。水清く緑濃く、四季巡り五穀豊かに、命満ちて幸多い国である」
これは、最終案からは削られたものの、自民党の新憲法前文小委員会が、冒頭として提案した文章です。いかにも自己陶酔に満ちた文章ですが、この文章がこのまま提示されたら、今は結構支持を集めるのではないかと、私は心配です。 国民に痛みを求め続ける小泉流政治の下で、国民は閉塞感を高めています。そういう時期は、内容はともかく見せかけの変革や美辞麗句に心を奪われやすいからです。 問題が起こったとき、対立する2者のどちらかにつくのは容易です。北朝鮮は客観的に見て問題の多い国ですが、好む好まざるにかかわらず、一衣帯水の関係にある隣国とは付き合い続けていかなければなりません。それを無視して、すべてを犯罪扱いし強硬手段に訴えることは、日本にとってもいい結果をもたらさないと思います。 拉致犯罪を徹底的に追求し補償を求めることは当然ですが、だからといって、横田めぐみさんの遺骨鑑定結果を捏造したり、国際法を無視して撃沈した他国の船を改造して「不審船」にしたてあげていいという理屈はありません。日本政府の一連の北朝鮮政策は、むしろ日本の要求の正当性を傷つけ、諸外国の協力をとりつけにくくしているのです。 南北朝鮮の分断も、さかのぼれば、アジア太平洋戦争中38度線より北を関東軍が、それより南を大本営直轄軍が統治していたことに由来します。日本が、ソ連が宣戦布告する前にポツダム宣言を受諾していれば、朝鮮民族が米ソ二大国の代理戦争の犠牲になることはなかったかもしれません。 小泉首相の靖国神社参拝、歪んだ歴史教育、領土問題、国連常任理事国問題などに反発するアジア諸国の抗議行動が起こったとき、日本の識者と呼ばれる人の反応のひとつに、「中国の若者や留学生は、日本がこれまで中国に対し、7兆円ものODAを行っていることを知らないし、中国政府もそれを周知させていない」というのがあります。 これは悪意に満ちた世論操作です。皆さんは、海外で2000万人の生命を奪ったアジア太平洋戦争の賠償として、日本がどれだけの金額を給付したかご存知ですか。賠償と準賠償を合わせても6565億9290万円。しかも、対象国の中には、「日本人民も軍国主義の共通の被害者である」として賠償を放棄した中国は含まれていません。旧大蔵省は、これらの賠償を70年代に完了済みとしており、しかも給付開始を高度成長期まで引き伸ばした結果、負担が軽減されただけでなく、企業進出の足がかりとなったと自慢までしています。 一方、同じ枢軸国であったドイツは、未だに給付を継続しており、2030年までの給付予定総額は日本円にして約9兆6千億円に達します。もし中国が賠償を放棄せず、日本が国際法上求められる賠償額を支払っていたら、戦後の経済復興は相当遅れたことでしょう。 日本が賠償を免れた理由として、被害者であるアジア諸国との力関係や米国の圧力がありました。しかし、それだけではなく、日本は今後いっさい戦争をしない、と新しい憲法で明確に宣言したことにより、戦争に対する償いを諸外国が猶予してくれたことを忘れることはできません。日本の繁栄は、アジア諸国からの借り物なのだと、私は考えます。いつまで諸外国はその返済を待ってくれるのでしょうか。 さて、私達はこれまで何度も「9条があるから日本は戦争に巻き込まれずにすんだ」と話してきました。しかし、ご存知のように、今も世界中で武力紛争、あるいはジェノサイドと呼ぶべき人権侵害が起こっています。それに目を瞑って自国が戦争していない状態だけを目指すなら、平和主義を「きれい事を言う無責任主義」と執拗に非難する西部邁氏らに反論するのは難しいでしょう。日本国憲法が規定している平和主義はその程度のものではないはずです。 侵略戦争をしない、と宣言した憲法は日本国だけではありません。古くは1791年革命後のフランス憲法が「征服を目的とした戦争はこれを放棄する」とし、1931年のスペイン憲法は第6条で「スペインは国家の政策の手段としての戦争を放棄する」と述べています。1947年のイタリア憲法第11条にも「イタリア国は、他国民の自由を侵害する手段として、および国際紛争を解決する方法として、戦争を否認し、云々‥」と明記され、イラク反戦運動の根拠のひとつになりました。サンフランシスコ講和条約で日本がその遵守を約束した国連憲章第2章をあえてあげるまでもなく、国家として戦争を拒否することは、決して異常なことでも特別なことでもありません。 しかし、それでも戦争はなかなか無くなりませんでした。その理由は、侵略ではなく自衛を口実とすればこれらの文言に抵触することなく武力行使が可能なこと、戦争を拒否するための具体的な手段が規定されなかったことにあるのではないでしょうか。 日本国憲法は、その具体的な手段として戦力を放棄することを明記しました。9条第2項の「陸海空軍その他の戦力」という用語が指す範囲は、元になった英文で"land,sea,and air force, as well as war potential"という包括的なものです。国際法上"Logistics"(兵站)にあたるイラクでの自衛隊の任務と装備が"war potential"に当たることは言うまでもありません。 また、9条が放棄しているのは侵略戦争だけであり、独立国である以上自衛権を放棄することはできないという解釈が今は主流ですが、9条の現実的な起草者とも言われる幣原喜重郎氏は1946年貴族院での演説で「或る範囲の武力制裁を合理化、合法化せんとするが如きは、過去に於ける幾多の失敗を繰り返す所以」と述べ、自衛権も含めた武力行使をはっきり禁じています。今の自民党政治家の大先輩吉田茂氏も、1946年首相当時、共産党の野坂参三氏の質問に対し「正当防衛権を認むることが偶々戦争を誘発する所以と思うのであります」と答弁しています。 万一外部から武力攻撃を受けても反撃しない、ということですから、国民の生命や財産を護るには、攻撃を予防するしか方法が無い。アジア太平洋戦争を経験した日本人はそこまで排水の陣をひいた。逆に言えば、そこまで徹底することが当時の国際社会の要請だったと言えるでしょう。 もっとも、9条が存在を禁じているのは国家組織としての軍隊であって、個人個人や私的な組織の武力抵抗については言及していません。しかし、ユーゴスラビアや東ティモールの内戦等を見ると、国民の合意の無い民兵同士の戦闘が、正規軍同士の戦闘以上に悲惨な結果をもたらす場合がありますし、アメリカ占領軍に対するイラクの抵抗組織の反撃は正当だとしても、結果として非戦闘員を含めた過剰報復の連鎖を招きやすいのも事実です。やはり日本国憲法の戦争放棄の原則は、自ら無条件の戦争不参加を宣言することで戦争を起こさせないことに集約されると考えていいのではないでしょうか。 世界には様々な民族が生活しており、そこには異なった立場や文化があります。経済は1本の物差しで計ることができますが、宗教や文化はそれぞれがそれぞれの物差しを持っていて、優劣の順位をつけられるものではありません。それらが地球という限られた資源を分け合っている以上、個々の違いを認めた上で、できるだけ衝突が少ないようなシステムを合意する必要があります。そのための現実的な提案の歴史が、各国の憲法や国際法における平和や人権思想の歴史なのだと思います。 ですから、あまりに理想的だと揶揄される憲法の平和主義も、現実的具体的な方法論としてとらえなおしたいのです。13世紀イギリスの政治家ブラクトンが「君主はなんびとの下にも立たないが、神と法の下に立つ」と法の支配を説く前、今日のように法治主義が世界じゅうに行き渡ることを、誰が予見できたでしょうか。奴隷が解放される前も、多くの人々はその苦しみが永遠に続く宿命だと感じていたのではないでしょうか。フランス革命で市民が「あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する」と宣言したとき、それはまさにこれからの目標であり、現状の追認ではなかったはずです。 戦後60年、日本人は9条を支持してきましたが、それは総体として「9条があるから大丈夫」というような消極的な姿勢だったように思えてなりません。 戦争とは国家同士が行うものです。それに合法性を認めることは、国家のために死ぬ個人を認めること、すなわち、国家の意志が、生命に関する事まで個人の意志に優先することを承認することに他なりません。だからこそ、小泉首相は、靖国を何度も参拝してそこで祀られる戦死者の準備をしているのだし、イラクの人質を救済することよりも自国の軍隊が駐留を続けることを選んだのです。しかし、日本国憲法は前文の冒頭で、先に紹介した歯の浮くような文章の代わりに、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」という実務的な文章をおき、国家が国民に優先することを認めません。 憲法前文は続いて、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と、日本国民だけでなく、世界中のすべての人間の平和的生存権を高らかに謳いあげています。 第三世界の多くにおいて、人は戦争は無くても生きること自体が苛酷であり、飢えや疾病によって生は短く、貧しさのため人生を自分で選択できない状態におかれています。戦闘行為がないことイコール幸福な状態ではありません。平和学という新しい学問を創始したノルウェーのガルトゥング博士は、これに対し、社会正義が実現され、人権が擁護され、個人が苦難や窮乏から解放されて自由に能力を花開かせる社会の状態を「積極的平和」と名づけました。日本国憲法が目指した平和とはまさにこのような平和であり、武器で脅したり金で買われた平和ではありません。それは同時に、ピンの先のボールのような危うい平和ではなく、復元力のある安定した平和であり、軍事力という余分なコストが不要となる平和です。 日本人は日本のことだけを考えていいのか、テロを撲滅するために血や汗を流せ、と改憲勢力が問いかけている今こそ、現実的で論理的な解決策として、日本国憲法の平和主義を提示するチャンスなのです。 具体的な取組みの一例として、無防備地域宣言があります。ジュネーブ条約追加議定書は、「戦闘員、移動兵器の撤去」「軍事行動を支援しない」など4項目を満たす地域を「無防備地域」と指定し、これを攻撃した場合は、無条件に犯罪とみなすと規定しています。日本では、昨年3月に大阪で無防備地域宣言全国ネットワークが結成され、全国に波及しています。 最後に、宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」第3次稿で、ブルカニロ博士という人物に託した言葉を紹介します。 「みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう」 殺し合いを始めるにはとほうもない覚悟と勇気が必要です。しかし、それを避けるために丸腰で粘り強く話し合うことには、もっと大きな覚悟と勇気が必要です。同じ涙を流すなら、生かしあうためにこそ涙を流そうではありませんか。 |
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(2005.5.3 どすのメッキー) |