烏の新らしい少佐は礼をして大監督の前をさがり、列に戻って、いまマヂエルの星の居るあたりの青ぞらを仰ぎました。(ああ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません。)マヂエルの星が、ちょうど来ているあたりの青ぞらから、青いひかりがうらうらと湧きました。(宮沢賢治「烏の北斗七星」)
みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」3次稿)
僕らは心から平和を望むが、武器で脅した平和なら、金で買われた平和なら、そいつとたたかうだろう。互いに相手を見下さず、互いに相手にへつらわぬ、自由な暮らし求めてともに進む兄弟だ。(林光「ひとつ名前の兄弟の歌」)
現代の偽善的な政治のあらゆる教条のうちで、「平和を望むがゆえに、戦争の準備をしなければならぬ」という教条ほど、多くの災禍を引き起こしたものはない。(マルクス「侵攻!」井上正蔵訳)
次の戦争を準備しながら、平和は尊いなどといっている人たちは、住民を無視し、だます人たちである。(阿波根昌鴻)
五本の指はすべて力が違う、形も違う、立場も違う、だがその一つ一つの役割は大きい。五本の指全部が協力し、理解し、団結すれば何事も簡単にできる。だが、出来たときに威張る指はない(阿波根昌鴻)
戦争屋の喜ぶことをしてはならない。彼らは私たちの分裂、ケンカを喜ぶでしょう。消費は美徳に踊らされて貧乏するのも喜ぶでしょう。不規則な生活をして病弱になることも喜ぶでしょう。時間を無駄にして勉強をしないで無知になるのも喜ぶでしょう。私たちは、戦争屋を喜ばさない生活をすることも大事な平和運動であると考えてその実行に勤めております(阿波根昌鴻)
自国を愛するということは、必ずしもその現在の政府を支持することではない。自国に対する真の愛情は、国民から見て現在の政府が誤った道を歩んでいると見なされる時、また、その政府自体と国全体にまた自国を含む世界に対して大きな実害をおよぼすおそれのあると考えられるときには、国民がそれを正しい道に戻させ、その政策を変える努力をすることを求めるものである。(サマヴィル米国の哲学者)
どのような手段が人間を戦争から救い出せるか、そのようなことを求めてはならない。自分自身に向かってつぎのように言いたまえ。「戦争が不条理なもの、醜怪なものであることを知りながら、なぜわれわれは戦争をするのか?その矛盾はどこにあるのか?戦争の真実、恐怖と死とを支配するほどに圧倒的なその真実はどこにあるのか?」と。それがわかったときにはじめて、自分でどうにもならないものに身をゆだねるようなかたちで、盲目の運命に身をゆだねることはなくなるだろう。そうなったときはじめて、われわれは戦争から救われるだろう。(サン・テグジュペリ「人生に意味を」山崎庸一郎訳)
人間の偉大さというものは、人類全体の運命だけから考えられるものではない。ひとりひとりの個人は、また一つの世界なのだ。(サン・テグジュペリ「人生に意味を」山崎庸一郎訳)
闘牛士はぼくの気に入らない。ぼくが愛しているのは危険ではない。ぼくは自分がなにを愛しているかを知っている。それは生命だ。(サン・テグジュペリ「人間の土地」山崎庸一郎訳)
私は独裁者にはなりたくない。支配はしたくない。できれば援助したい。ユダヤ人も黒人も白人も、人類はお互いに助け合うべきである。他人の幸福を念願してこそ生きるべきである。お互いに憎しみ合ったりしてはならない。世界には人類を養う富がある。人生は自由で楽しいはずである。貪欲は人類を毒し、憎悪は憎悪をもたらし、悲劇と流血を招く。思想だけがあって感情のない人間はだめである。知識よりも思いやりこそが必要である。思いやりがないと暴力だけが残る。兵士諸君、犠牲になってはいけない。独裁者の奴隷になってはいけない。愛を知らぬ者だけが憎しみ合うのだ。人生はもっともっと美しいものである。(チャップリン 映画「独裁者」)
おにのしろのおそろしいおには、じぶんがされたとおりに、ひとにもしないではいられないという、そういうおにだったのでした。もっとも、どんなおにだって、みんなこのおにとおんなじにきまっています。(ジョーダン採話/吉田甲子太郎訳「ぺにろいやるのおにたいじ」)
自然界では、いろんなものが共生しているでしょ。いろんな種類の木や小さい草など、いのちがかかわりあって懸命に生きるということが総合的に受容されていますよね。 地球を考えてみてもね、国境、国境言うてはりますけど、人間が線を引いてるだけで区切りつかしませんやん。そんなこと言わなくても、地球の上では、どこでも同じように太陽がさしてるし、同じように水は動いていますしね。 地球上では、人と人、人と自然、国と国が、おたがい網の目のようにつながっているでしょ。 みんな地球だ、故郷だという意識を深めていかないと。 自分のまわりから嫌いなもんなくなればいいわ、あとはだれかがちゃんとしてくれてはるわという無責任な態度と違てね。それが、生きる責任でしょ。(鞍馬寺貫主・信楽香仁(しがらき こうにん))
もし貧しい人々が飢え死にするとしら、それは神がその人たちを愛していないからではなく、あなたが、そしてわたしが、与えなかったからです。神の愛の手の道具となって、パンを、服を、その人たちに差し出さなかったからです。キリストが、飢えた人、寂しい人、家のない子、住まいを捜し求める人などのいたましい姿に身をやつして、もう一度こられたのに、わたしたちがキリストだと気づかなかったからなのです。(マザー・テレサ)
人の命を神聖なものとする手段はひとつしかありません。それは平和です。(ラビン元イスラエル首相>95年暗殺)
私の信ずるイスラム教は、権威ではなく信仰である。政治的な教義ではなく、倫理的な信条なのだ。私は覇権主義に抗して、その精神性にのみ与するものである。預言者ムハンマドのメッカでの受難と、永遠に続く理想の純粋さのみ自己を結びつけ、聖職政治による独裁的な国家を形作るような概念には従わない。なぜなら、もはや時代は預言者が御姿をあらわした時とは違っているからだ。自分たちの運命について思いをはせ、自分たちの運命を切り拓くこと。イスラム教は私にそうすることの権利を与えてくれるのである。(ジャマル・エディーン・ベンシャイフ/いとうせいこう訳)
他に選びようがない、何もかも間違っているから。僕たちは、哀しみをいっぱい抱えて行き先のない道なき道を行くだけ。 (中略) 始まりは同じだった僕たち。 そして、この世が終わるとき、僕らを隔てるものは何ひとつないのに。 (シャヒ・サダト詩集「おお、友よ」より)
世界はまたしても、気違いじみた命令や過大な要求でいっぱいだ。ぼくたちが必要とする世界は、知力・勇気・祖国愛・名誉心・正義感などのミニマムがあればやってゆけるような世界だのに、現に僕たちのまえにある世界は何だろう?ぼくはうんざりする。何もかもうまくゆかないから有徳だったり、無用な欠乏状態が支配しているから諦念を悟ったり、組織が欠けているから蜜蜂のように勤勉だったり、政府が戦争にひとを引っぱりこむから勇敢だったりすることには、ぼくは飽きあきしているんだ。カレ、ねえきみ、徳性というやつはどれもこれも、もうたくさんだよ。ぼくは英雄になることはきっぱり拒絶する。(ブレヒト「亡命者の対話」の「ツィフェルがあらゆる徳性にたいする憤懣を表明する」から、野村修訳)
戦争をなくするための努力は、差別や不平等をなくするための努力といっしょのものでなければならないし、困った問題が起きたとき、その困ったことを弱いものにおしつけることはやめる、ということを世界中の人が決心しなければならないのである。さあ、それはたいへんなことだ。しかし、われわれはもう、その方向に足を踏み出すよりほかに道がないのではないか。(佐藤忠男「戦争はなぜ起こるか」)
海はわれわれを分かつのではなくひとつにしてくれる。島々はわれわれを支え、島々が集まってできた国家は、われわれを大きく強くしてくれる。 ミクロネシアの歴史は、いかだやカヌーに乗って海を探検したときに始まった。ミクロネシアの民族は、星空の下を旅した時代に生まれた。世界はひとつの島なのだ。(ミクロネシア連邦憲法前文より)
平和は単に戦争がない状態をいうのではなく、ひとつの決意をもった行動が平和だと考えます(カレン・オルセン,コスタリカ元国会議員) 軍隊を廃止し、平和教育を徹底し、清潔な選挙制度を確立して民主的制度を改革し、積極的な平和外交を展開すれば、外国から侵略されることはありません。(カレン・オルセン,コスタリカ元国会議員)
今の状況で確実に言えること、言わなければならないことは、テロリズムであろうと、その報復攻撃であろうと、その時、問われているのは、殺す側に立つのか、殺される側に立つのかということである。ブッシュ大統領の言うようにテロに立つのか、自由民主主義に立つのかではない。またどっちもどっちというものでもない。どっちもどっちというのならそれは、どっちも殺す側でしかない。まず立つべきは殺される側であって、決して殺す側に立ってはならない。(玉光順正さん 真宗大谷派)