三○一号室からのナースコール
急患もなく、静かな夜でした。
「何かあったら、すぐに起こしてね」
と言い残し、ベテラン看護婦のふたりが奥の控え室で仮眠をとりはじめ、ナースセンターの一室には、新米の私だけが残されていました。
初めての夜勤です。少し緊張しているため、私は二時を過ぎても、少しも眠くなりませんでした。
三○一号室のナースコールが鳴ったのは、二時半ごろのことです。
「見てきます」と仮眠室の先輩へ声をかけ、私は懐中電灯を片手に、三階にあるその患者の病室へ急ぎました。
「どうしました?」
そう声をかけ、「篠屋」と名札のあるドアを開けると、中年の婦人が一人、ベッドの上に坐っていました。
比較的元気そうなその様子を見て、様態が急変したのではなく、別の用事で呼ばれたことに気がつきました。
「あたし、見たのよ!」
今にも泣き出しそうな声で、婦人は窓を指しています。
「えっ?何をですか?」
「変なのが、窓の外から部屋の中を覗きこんだのよ」
「ここは三階ですよ」
そういいながら、私はカーテンを開け、窓の外へ懐中電灯を向けました。
誰もいません。中庭の街灯がうすぼんやりと輝いているだけです。
念のために私は窓を開け、左右を確認しました。
一瞬、肌寒い風が吹き、かすかに花の匂いがしましたが、何の異常もありません。
「誰もいませんよ」
「看護婦さんは、幽霊、見たことある?」
「いえ。篠屋さんが見たのは、幽霊だったんですか?」
「この病院、変よ。もう何度もあたし見てるのよ。さっきのが一番ひどかった。赤ん坊の幽霊。体が一つなのに頭が三つもあるのよ。そのうちの一つがカエルみたいに潰れて・・・・。、もういや!」
夢でも見たんじゃないですか?といいそうになるのを私は堪えました。神経質そうなこの患者を怒らせるだけだと思ったのです。
「もういませんし、大丈夫ですよ。もしもまた出るようなら、遠慮なく呼んでください」
私はそう言って病室を出ました。
二度目に私が呼ばれたのは、それから一時間後のことです。
「どうしました?」
部屋を開けると、婦人は青ざめた顔で窓を指差しました。
「ほら、聞こえるでしょ?赤ん坊の泣き声」
何も聞こえない私は、この人少し神経がおかしいのかもしれない、と思いながら、窓へ近づきました。
とたんに、私にもはっきりと聞こえたのです。少し遠くで泣いている赤ん坊の声です。
私は急いで窓を開けてみました。
泣き声はやみ、暗闇の向こうから強い消毒液のにおいが漂ってきます。私は懐中電灯の明かりを闇に向けてみましたが、何も見えません。そして赤ん坊の泣き声も、もうどこからも聞こえてきませんでした。
「多分猫ですよ。猫の鳴き声って、赤ん坊の声に聞こえることがありますし」
自分を納得させるように私はそう言って、婦人のほうへ顔を向けました。
すると、婦人が私のほうを指して、怒鳴ります。
「あなた、見えないの!あなたの後ろ、窓の外にいるのよ!」
「えっ?」
私は振り返りましたが、何も見えません。
「閉めて!早く閉めて!中に入ろうとしてる!」
婦人が絶叫し、私は慌てて窓を閉ざしました。
窓の外に、泣き叫ぶ赤ん坊を抱えた女性が見えた、と婦人は私に説明しました。女性は防空頭巾をかぶっていて、そして腰から下がなかったといいます。
「きっと、私を連れに来たのよ。こわい!」
脅える婦人をどうにかなだめて寝かしつけ、私は病室を出ました。
嘘をついているようには見えませんが、何も見てない私には、婦人の話が信じられなかったのです。
三度目に呼ばれたのは、四時を少しまわり、そろそろ空が白身はじめてくる時分でした。
婦人は病室の前の廊下にうずくまって、私が来るのを待っていました。
「どうしたんです?」
「部屋の天井に、人の顔がたくさん浮かんでるの。こっちに来いって、口々に私を呼ぶの」
私は、明かりの消えている病室のドアを開けました。
ひんやりした空気とともに、消毒液と花の匂いが一瞬だけ、強く匂いました。
私は得体の知れない恐怖を感じながら、ドアの横のスイッチを入れましたが、部屋の明かりがつきません。何度スイッチを入れても、まるで反応がないのです。
私は懐中電灯を部屋の天井へ向けましたが、何も異常は見られません。
部屋の中へ足を踏み入れようとすると、婦人が怒鳴りました。
「ダメよ!危ない!今入ると、あなたも引き込まれる」
信じたわけじゃありませんが、そういわれてしまうと、部屋の中へ足を入れることが恐く、私は戸口から懐中電灯の明かりで、部屋の隅々を照らしました。
「何もいませんよ。明かりがつかないのは、多分ブレーカーが落ちて・・・・」
そう説明しながら振り向くと、廊下に、婦人の姿はありませんでした。
「篠屋さん?篠屋さん、どこですか?」
廊下やトイレを探し回りましたが、どこにもいません。私は慌てて、ナースセンターへ駆け戻りました。
「三○一号室の患者がいないんです」
「三○一号室って、昨日亡くなった篠屋さんのこと?」
遺体は地下の安置所にある、と聞かされた私は(まさか?)という思いにからかれ、安置所へと急ぎました。
ひんやりとした安置所の扉を開けると、消毒液とともに飾られている菊の香りが強く私の鼻をつきました。
そして、ベッドの上に置かれている遺体は、まぎれもなく、何度も私を呼んだあの婦人でした。
「あなたも引き込まれるわよ」といった婦人の言葉を思い出し、私は逃げるように安置所から飛び出しました。