心やさしい死者

 

霊を招いたり、降ろしたりするという話をよく聞きますが、私はそんなことは信じられませんでした。死んでしまえばそこですべてが終わり、この世に思いを残すことなどということはどうしても信じられなかったのです。
ですから、その類のおのは本もテレビ番組もまったく関心を持てず、見たこともありませんでした。
ところが、そんな私がどうしても信じなくてはならないことが起こったのです。
その電話があったのは、もう真夜中に近い時間でした。
「来てくれるか?」
電話の向こうで、私の恋人の健治さんが悲痛な声を出しています。
電話は救急病院からでした。彼の弟の浩君が交通事故で運び込まれたというのです。
そういえば、浩君は最近、新車を買ったばかりだと喜んでいました。でも、穏やかで慎重な性格の浩君が交通事故を起こすなんて・・・・。私は信じられない気持ちで、取るものもとりあえず、病院に向かったのでした。
私が到着したときは、すでに遅く、集中治療室で彼と彼の家族は泣き崩れていました。とくに、彼のお母さんは最近体調を崩し、自分は癌だと思い込んでいたので、立っていることもできないほどの憔悴ぶりです。
浩君の遺体は明け方近くになって家に帰ることができました。
奥の間に安置された浩君の亡骸のそばに、みんな言葉もなく座り込んでいます。妹のあずささんも泣き腫らした目をしていました。
翌日は日曜日、そして次の日は友引だったので、結局、葬儀は三日後に行われることに決まりました。そのあいだ、みんなはほとんど眠らずに、遺体のそばに付き添ったのでした。私もずっと付き添いました。
お通夜も終わり、明日が葬儀だという日の夜になって、健治さんが浩君のアルバムを持ち出し、誰にいうともなく思い出話をはじめたのです。
そして、こんなふうにいいました。
「痛かっただろうな。かわれるものなら、俺がかわってやりたかった」
そのときです。彼が突然、お腹を抱えるような格好をして苦しみ始めました。
「ううううううう・・・・・」
激しい呻き声です。
驚いたお母さんが、数珠を持つ手で彼の背中を夢中でさすりました。すると、二、三分もたたないうちに、痛みが鎮まったらしく、スッと元の状態に戻ったのです。
「・・・・体の中に、何かが入ってくるような気がした」
彼の言葉に、居合わせたものは顔を見合わせました。
「しっかりして。疲れてるのよ。でも、あなたがしっかりしないと、お母さんだって疲れてらっしゃるし・・・・・」
私は周りの人に聞こえないように小声で彼に囁きました。
そのとき、今度はあずささんが苦しそうな声をあげはじめたのです。
「ううううううう・・・・・」
さっきの彼と同じような呻き声です。
「どうしたの」
彼の両親は、つづいて起こる異変におろおろしてしまって、今にも泣き出しそうです。私は。お医者さんを呼ぼうと立ち上がりかけました。
ところが、あずささんは、また、二、三分もするとスッと背を伸ばし、きりっと顔を上げたのでした。
(あっ、大丈夫だ・・・・)
私は胸を撫で下ろしたのですが、よく見ると、少し様子が変です。あずささんはぽっかり目を開けているのですが、どこも見えていないようなのです。焦点がまったく合っていません。
「あずさ、あずさ」
お母さんが呼びかけても、その目はちょうど浩君の遺影の方に向けられ、しかも宙を泳いでいるようです。
「あずさ」
お母さんがもう一度声をかけたとき、あずささんの口がゆっくり動きました。
「・・・・お母さん・・・・ごめんな」
その声に、お母さんは、
「ヒッ・・・・・・!」
と小さな悲鳴をあげました。
私も叫びだしそうでした。
彼の手にしがみつくと、彼の手も震えています。
その声は、あずささんのものではなく、浩君の声だったのです・・・・。
「・・・・ごめんな。・・・・でも、僕が交通事故を起こしたのは、僕のせいじゃないんだ。・・・・何かに引き寄せられるようにガードレールに向かっていってしまったんだ。・・・・殺されるんだと思ったよ。・・・・お母さん、ごめんな」
あずささんは、いいえ、あずささんのなかから浩君は一生懸命に訴えてきます。私たちは驚きながらも、はじめの恐怖心が少しずつ消えていくのを感じていました。
「・・・・浩。ひとりで、寂しいでしょ。痛かったでしょ。・・・・私もすぐに行くから、待っててちょうだい」
お母さんがたまりかねたように、あずささんのなかの浩君に向かって話し掛け始めました。
「・・・・お母さん、来たらだめだ。お母さんは癌なんかじゃない。精密検査を受けて・・・。癌なんかじゃないから・・・・」
「でも、浩。寂しいでしょ。追いかけてでも、そばにいってあげるよ」
「・・・・お母さん、みんなも死にいそいじゃだめだ。いつかみんな死ぬんだから・・・・いそいじゃだめだ」
お母さんは、浩君に向かって我を忘れたかのように話し掛け、浩君はそのお母さんを気遣う言葉を次々にかけていました。
「・・・・お母さん、この家の、僕がこれからいうところに塩を置いて。・・・・この家によくないものがいるんだ・・・・」
浩君の指示どおりに、私たちは台所の隅やトイレの入り口付近に真っ白な塩を置いてまわりました。
それが終わると、浩君は、
「・・・・僕は行かなければ・・・・。お母さん、ごめんな。長生きしてくれよ・・・・」
そういったかと思うと、
「うううううう・・・・」
再び、あずささんがすさまじい呻き声をあげました。
呆然としているお母さんの手から数珠を借りると、私は、さっきお母さんが健治さんにしたようにその背中をさすりつづけました。あずささんに意識が戻り、正常になるまでにそんなに時間はかかりませんでした。
あずささんはきょとんとしています。私がみんなにかわって、今起こったことを話して聞かせましたが、本人には何が起こったのかまったく記憶に無いようでした。もちろん声も、いつものあずささんのものになっていました。
「・・・・母さん、浩は母さんのことが心配で戻ってきたんだよ。母さんが悲しみすぎると、浩はいつまでもここから離れられないよ・・・・」
健治さんの言葉に、お母さんは涙を流しながら、何度も頷いていました。
翌日、お祓いの人にきてもらって、家の中を見てもらいましたが、浩君が塩を置くようにいったところと同じ場所をいつも綺麗にしておくように、ということでした。その後、精密検査をすすんで受けに行ったお母さんは、やはり癌ではなく、徐々に元気を取り戻し、月命日には浩君のお墓参りを欠かさずに行くようになったのです。
浩君の声があずささんの口から流れ出たときこそ、私は恐怖を感じましたが、やさしかった浩君がお母さんを心配するあまり戻ってくれたのだと思うと、いまでは、浩君の霊がどこにいてもおかしくないと思うようになったのです。
きっといつもお母さんを守ってくれているでしょう。

 

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