最後の授業
「先生、怪談話してよ!」
教室の一番後ろの席に座っている、サッカー部でクラスの人気者の男子生徒から声がかかると、それまで下を向いておとなしかった生徒たちが、にわかにうるさくなった。
「ふー、しょうがないわね。はいはい、でもみんな今晩思い出してトイレに行けなくなっても知らないわよ」
来週からは夏休みだ。小学校で教師をしている市原雅美さん(32)は、夏休み最後の授業に怪談話をするのが恒例となっていた。
市原さん自身、この街で育ち、昔からの怪談をよく知っている。それを独特の語り口で、子供たちの通学路に絡め、脚色して聞かせるのである。そうしたこともあって、生徒たちの間では評判になっていた。
市原さんは、やや暗い感じの声で話をはじめた。
「学校から隣り街へ向かう途中に、貨物船と本線の下を通る細くて長い。街灯もついていないガードがあります・・・・・。じつはそのガードを雨の降る夜に一人で通ると、後ろのほうから・・・・」
コツ、コツ、コツ・・・・・。コツ、コツ、コツ・・・・・。
女の人のハイヒールの音が聞こえてくる。歩みを止めれば、足音も止まる。急げば足音もはやくなる。しかし、走っても、また、ゆっくり歩いてもいけない。なぜなら、そうすると足音の主が知らぬ間に追いついてくるからだ。
追いついた「それ」は、相手の左肩をすさまじい力でつかみ振り向かせる。そして、その顔を見た人は2度とガードからでられない。
昔、そのガードは踏み切りで、結婚を翌日に控えた女性が、渡る途中に足を線路の溝に挟み、抜けられないまま電車にひかれて死んだ場所だった。約束された幸せが突然奪われた悲しみを誰かに訴えようと姿をあらわすのだという。
「・・・だから、みんなも雨の夜には気をつけて。あのガードを一人で通ることのないように・・・・」
話を終えたとき、教室内は静まり返り、セミの声だけが妙に騒々しく聞こえていた。
そうして、夏休み前の最後の授業は終わった。
その日は学校を出る時間が、予想以上に遅くなってしまっていた。この時期は、生徒の成績をつけるなど、授業以外にやらなければならないことが結構多い。時計を見ると7時を20分ほどまわっていた。あたりが残照に包まれる中、市原さんは足早に学校を出た。
ふと気が付くと、あれほどうるさかったセミの声がまったくしない。急速に暗闇が忍び寄り、重苦しく湿気を含んだ空気が、わずかにひんやりとしてきた。雲が出てきている。
次の瞬間、稲妻が走ったかと思うと、大粒の雨がすさまじい勢いで降ってきた。
(あ〜あ、降ってきちゃった)
頭をかばい、さらに足をはやめつつ道を急ぐ。
そのとき、ふと小さな戦慄を覚えた。
目の前に今日、生徒たちに話して聞かせたガードがあった。
夜の闇、雨、ひとり、細く長いガード・・・・。
思わず立ち止まったが、気を取り直しガードの中に飛び込んだ。
(いやねぇ、自分の作った話にビクビクしてるだなんて)
ガードの中は、ほかに誰もいない。ガードの鉄板をたたく雨の音と、自分の足音だけがやけに響く。
(このガード、こんなに暗かったかしら・・・・?)
と、思ったそのとき。
コツ、コツ、コツ・・・・。コツ、コツ、コツ・・・・。
後ろから足音が聞こえた気がした。
(・・・?)
ピカッ!稲妻がガードの外で光った。
カッ!ゴゴゴガガガゴロゴロゴロ・・・・・。
続けざまに、すさまじい雷鳴が轟いた。一瞬の緊張に思わず足を止め、改めて耳を澄ました。しかし、聞こえてくるのは、はぎしくたたきつける雨音だけだった。
また、稲妻に続いて雷鳴が轟き、ガード内にこだました残響が徐々にひいていく。
コツ、コツ、コツ・・・・・。
(・・・・!)
聞こえた!今度は明らかに背後から音がする。それは、まるで細く尖ったハイヒールで金属の薄板を突くような、硬質な冷たい響きだった。体表の毛が全て逆立った気がした。
(あ、歩かなくちゃ)
どうかしている――頭の中で切れ切れの連想が飛び交っていて、自分でも抑えられない。その混乱から逃げ出そうとするように、歩く速度が上がる。
と、背後の足音もはやくなる!
(う、うそでしょ!どうして!?)
まるで、自分が生徒たちに話して聞かせた話と同じである。
気づかないふりをして抑えていた恐怖心が、サーッっと全身を覆った。
(走ってはいけない)(振り向いてはいけない)(顔を見なければいいのよ)
かつて自分が口にしたことを、拾い集めるように、頭の中で繰り返しながら、市原さんは必死に歩いた。
コツ、コツ、コツ・・・・。コツコツコツ・・・・。
足音は確実に近づいてきている。足音の響きはすぐ背後に感じられる。
気をそらそうと顔を上げると出口までもうわずかだった。あと10メートル、5メートル、1メートル・・・・。
(もう大丈夫!)
市原さんの顔に安堵の色が浮かびかけたその瞬間。
ガシッ!
左の肩を。凍りつくような冷たいものが掴んだ。声をあげる間もなく、強い力で引き戻される。さらに強い力が無理やり市原さんを振りむかせようとする。
「キャアァーッ!」
恐怖とショックに耐え切れず、ついに悲鳴をあげ、市原さんはその場にしゃがみこんでしまった。頭の中が真っ白になった。
一瞬の空白のあと。ふっ、と我に返り、市原さんは恐る恐る、顔を上げた。
そこには、ぐしゃりと片頬と顔の中央がつぶれ、血を流しつづける女の人が、市原さんを見下ろすように立っていた。
「・・・あの、はなし・・・・わたし・・・・。あり、が、と・・・・」
その女性は、それだけいうとスーッとガードの闇に溶けていった。
市原さんはしばらくの間、その場を動くことができないでいた。わずかに原型をとどめたあの女性の口元に、なぜかかすかにやわらかい笑みのようなものが浮かんでいたのが、変に印象に残っていた。
気が付くと稲妻も雷鳴もおさまり、闇の中であんなに激しく降っていた雨もあがりかけていた。周囲の空気も、ふたたび重く熱を帯びたものに戻りつつあった。
ゴゴー!ガタン、ガタン、ガタン、ガタン・・・・。
「キャッ」
耳をふさぎ、すくむ市原さんの頭の上を、大きな音を立てながら電車が通り過ぎていった。