★ 日本透析医会誌原稿:透析医のひとりごと欄 ★

30年透析の時代  

  元町HDクリニック(兵庫県透析医会)  申 曽洙

 かつて透析で5年も10年も生きていける、ということはあまり想定できなかった。透析が長期になると骨がぼろぼろになると聞いても何か不思議な気がしていた。ところが当院(1974年開院)透析者の透析期間が5年10年となっていくと、 ALPの上昇と膝痛が出現して驚かされた。やがて10年透析者がどんどん増えていった。はじめは10年透析を大変なことと思っていたのに、すぐにそれが当たり前のことになって、 それが15年、20年、25年と伸び、今では30年透析さえ当たり前のことになってしまった。

<30年透析者の言葉>
 
 2004年09月元町HDクリニック談話会での30年透析者の言葉が、印象に残っている。その方々が透析を始めた頃は、予後が1年とか、3-4年と言われていた。ご主人に、 すぐ死ぬかずっと生きるか、どちらかちゃんと決めてくれと言われたとか。30年も生きるんだったら、 もっと真面目に生きたらよかったとか。
 この数年、当院の30年以上透析者は20人以上になっている。そして35年透析者が出現し、 遂にこの2008年5月には40年透析が達成されてしまった。ただし40年透析者は、伊藤医院が 閉院となり2005年から当院に来られた伊藤清行先生である。


<2004年第1回超長期透析者会>

 2004年10月に伊藤清行先生からメ−ルで超長期透析者の座談会をしてはどうかと提案があり、 急遽、兵庫県腎友会、兵庫県透析医会などに連絡の上、11月28日に、33年以上超長期透析者座談会が 当院8階の会議室で開かれた。
 この時点で兵庫県下における33年以上の超長期透析者は、伊藤医院の伊藤先生と当院の3名、 日和佐医院、住吉川病院各1名の合計6名であったが6名とも出席できて、兵庫県透析医会 (吉矢邦彦学術統計委員長と日和佐真名先生)と兵庫県腎友会からも参加 (会誌編集局の高重靖さんと小谷編集長)、この時の様子は兵庫県腎友会会誌<きぼう>に2回に渡って連載された。

<2006年第2回超長期透析者会>

 その2年後に再会したときは、6人中2人が欠けていたのだった。
 2006年5月14日(日)午後1時より,前回と同じく元町HDクリニックの会議室で、長期透析者会の同窓会2006と 名付けて、前回出席の4名とともに、兵庫県腎友会(前回参加の高重靖さん)、それに兵庫県透析医会宮本孝会長と 坂井瑠実先生も参加、再会を喜んだ。

<2008年第3回超長期透析者会>
 そして、さらにその2年後の本2008年、再び同窓会をとの伊藤清行先生のメ−ルには、 「これで最後の会合になるでしょうから」と書かれていた。
 早速あれこれ調整後、2008年5月11日13時から、伊藤清行先生40年透析のお祝いを兼ねて、 今回はホテルオ-クラ神戸(ロビ-階メインバ-エメラルド)で開催された。
 幸い前回の4名全員が揃って参加でき、その他にも宮本クリニック、坂井瑠実クリニックなどの長期の方も若干名、 それに宮本孝、坂井瑠実、日和佐真名の各先生など、合計15名(+準備設営の当院スタッフ2名)の多数の会になった。車椅子の方もあり、配偶者の参加もあった。

<超長期透析>
 透析医療は本当に進歩した。今や透析で何年でも生きていけるのである。しかし。
 しかしこの超長期透析が現代医学の大きな成果であるという一面とともに、また何という行き違いであり、 また何という皮肉であろうか、という思いも胸に迫る。
 あれこれ合併症で苦戦中の超長期透析者の痛みを思えば、絶える生命を守ってきたとだけ言い募るわけには いかないのである。これからの透析者は、透析で30年-40年経過しても、特に合併症で困ることはなくなっていくに 違いないとしても。

<親から子への死体腎移植>
 最近、生体腎移植がかなり増えてきたそうである。親子間、親族間で腎臓が提供されている。しかし死体腎については 親が子に臓器を提供できないという。
 透析者の親が死ぬときに、その死体腎の1個はその子に与えられるべきではないのか、透析の子に自身の死体腎が 移植されることを喜ばない親は少ないのではないだろうか。
 やっと透析科が認められたように、親から子への死体腎移植が晴れて許される日が近いことを信じたい。 それが認められ推奨された時、死体腎移植が急速に増えるのではないかと私は期待している。