花様年華
In the mood for love
| 2000年 | 香港 ブロック2ピクチャーズ、パラディ・フィルム | |
| 製作・監督・脚本 | : | 王家衛/Wong Kar-wai |
| 撮影 | : | Christopher Doyle,李屏賓/Li Ping-bing |
| 美術・編集・衣装 | : | 張叔平/Chang Suk-ping |
| チャウ | : | 梁朝偉/Tony Leong Chiu-wai |
| チャン夫人 | : | 張曼玉/Maggie Chang Man-yuk |
タイトルの『花様年華』とは、「満開の花のように成熟した女性が一番輝いている時」の事だそうです。確かにこの映画のヒロイン「張曼玉=マギー チャン」は、どの場面でも着用しているチャイナドレスも相まって、その美しさは言葉では表現し難いものがあります。この美しさは、間違いなく、積み重ねた経験が醸し出すもの、、、と思ったけれど、実際の彼女は1964年生まれなので、「花様年華」の入口、といったところかもしれません。
一方、「梁朝偉=トニー レオン」は1962年、丁度この映画の舞台となった年の生まれ。ギラギラした感じが無くなってきて、「おぢさん」が少し入りかける危険な年頃という感じ。
『花様年華』は、そもそも、この二人の俳優が居なければ成立しない、二人の成熟した男女のための映画です。
「誰かを愛する」よりも、「誰かに愛されている」事のほうが重大な場面があります。そう、夫婦という関係は「そう」でしょう。「愛されている」と確信できるからこそ仕事に熱中し、給料を家に入れてその愛に応え、「愛してる」と言い切る。「愛されている」と確信しているからこそ相手とのあいだに子どもを望み・産み・育て、家族を「愛してる」と言い切る。
でも、もし、その「愛されている」事が虚構だったら・・・・
「愛してる」という言葉が嘘であり、「君のため」と贈られるプレゼントが幻であり、ただ「世間体」や「面倒」という感覚で維持されている夫婦であったなら、「愛されていない側」にとってその日常はどんなにか虚しい日々でしょう。
この『花様年華』の主人公二人は、そんな配偶者に裏切られている「愛されてない側」の二人です。しかも、互いのその配偶者同士が関係をしているという、おまけに引越しして隣同士になってしまったという、実にこぢんまりとした物語です。自分の配偶者の愛人の配偶者(笑)である「愛されてない同士」が「お隣さん」として出会い、多少臆病になりながらも「愛されてる」という歓びと、「愛している」という満足感を得るために時を重ねて往きます。
この映画は、実に繊細な演出と絶妙なトリックで組み立てられています。
以下、この映画でのトリックを書いておりますが、なにぶん「文才」が無いので大変にややこしくなっております。映画を観てない方には「何を書いているのか分からない」と思いますので、先ずは映画をご覧になってからお読みください。
最大のトリックは、「互いの(裏切った側の)配偶者」をも、主演した二人役者が演じている点でしょう。つまり、T.レオンが主に演じる「チャウ」の(不倫をした)妻をM.チャンが演じ、逆にM.チャンが主に演じた「チャン夫人」の(愛人を持った)夫をT.レオンが演じているのです。要するに2組の夫婦計4人の役割を主演の2人だけで演じているのです。で、実際にはこの「配偶者を裏切った二人」を主役にしたいわば『裏・花様年華』というべき場面もちゃんと撮影されていたそうで、大変だったのは2人の主役。さぞかし頭が混乱した事でしょう。
ですが、この「裏切った側を演じながら、裏切られた側を演じる」という「二人四役」は、映画全体に独特の「あやうさ」をもたらしており『花様年華』を奥深い映画にしています。
二人が出会って、互いの配偶者同士が不倫をしている事を確信したあと、、、ちなみに、この互いの配偶者が不倫関係にあると分かる件も、実に絶妙、、、「どちらが言い出して不倫関係を始めたのか?」と云う事を二人は考え始めます。「チャン夫人」は考えます・・・もし自分の夫が「目の前に居る男の妻」に誘いを掛けたのだとしたら、私は「目の前に居る男の妻」よりも価値の低い女になってしまう。。。もし自分の夫が「目の前に居る男の妻」に誘惑されたのだとしたら、「目の前に居る(少し気になり始めた)男」は情けない惨めな男になってしまう。
シミュレーションをするように互いの配偶者に扮して「不倫の始まり」を演じてみたものの、どっちの結末になっても「目の前の人」を傷つける事になる。。。このあたりのシミュレーションも、二人四役であった事を知ると、一層堪能できます。
映画の中で麻雀をする場面が何度も出てきます。香港では、新婚夫婦を階上に閉じ込めて、新婚夫婦の寝室の下に一族が揃って麻雀をしながら新婚初夜のお祝いをしたと聞きましたが、この『花様年華』でも似たような場面(メタファー)が登場します。チャウとチャン夫人が二人で部屋にいる時に、大家さん達が帰ってきて麻雀を始めてしまうと云う場面。こうしてチャウとチャン夫人は部屋に閉じ込められ、翌日の夜まで一昼夜を共にすることになります。果たして、ふたりはここで「新婚夫婦」の如く「いたして」しまうのか?チャン夫人が最後まで靴を脱がなかったのはどういう意味なのか。。。実に絶妙な演出がされています。(ちなみに、西洋では「女性が靴を脱ぐ」というのは、とてもセクシーなメタファーです)
また、チャン夫人は子どもを産むのですが、これが「誰の子ども」なのかも、微妙に謎なのです。
私は配偶者との間にできた子どもだと考えています。誰からも疑われること無く、総てを掛けて「我が子」愛し育てるためには、夫との間に子どもを授かるべきだと、彼女は判断したと思えるからです。
この映画は、一見すると「裏切られた者同士の悲哀」で綴られた映画の様ですが、必ずしもそうではありません。配偶者に裏切られ、絶望の中で互いに惹かれあって出会う二人ですが、この二人の出会いは新しい可能性を二人にもたらします。
「チャウ」にとってのそれは「小説家」とてしての成功です。
そして「チャン夫人」にとっての可能性は「チャウ」が小説家として成功する手助けをしたことであり、つまりは「人を愛し、人に関わる喜び」であり、その結果が「母」となる決断だったと思えるのです。裏切られ存在価値を見失った二人にとって、この出会いと擬似恋愛(シミュレーション)は自己回復であり、「チャン夫人」にとって息子は最高の自己実現だったのです。
音楽の使われ方もまた絶妙でした。1960年代初頭はプレスリーが大活躍していて、やがてビートルズが世界を席巻する「ロック」の時代ですが、大人が聴いていた音楽はまだ「スヰング」の時代でした。その代表がこの映画で何度も使われている「Nat King Cole」の歌う音楽です。中でも『キサス・キサス・キサス』は1960年の世界的なヒット曲で、その歌詞の意味も「いつか、そのうち、いつかね」という今ひとつ熟し切れない恋愛(不倫)の常套句の様なものなのです。
「いつか、そのうち、あの人は帰ってきてくれる」のか。。。
「いつか、そのうち、わたしも裏切って不倫に溺れる」のか。。。
どう捉えても「今はまだ・・・」という匂いに溢れた選曲です。
そう、この映画は「しそうで、しない」というか、「まだ、だめ」というか、そのギリギリの線(桑田佳祐的に言うと「ボーダーライン」)をさまよう感じが、なんともセクシーで、そして美しいのです。
まるで「ごっこ」の様に繰り返す「煮え切らない二人」の様子は、しかし、「恋愛」という「プロセスを楽しむ関係」においては或る種の理想にも見えます。(ユーミン的に言うと「14番目の月」というところ)
落ちてしまう直前の何度も確かめ合うその確認作業の一つ一つが、自分の存在意義を明確にしてくれる快感。「私」の愛が通じ、「私」が愛され求められているカタルシスに浸れる、そんな痺れる映画です。