アルバム『キセキ』もしくは収録曲『正体』 / 千綿ヒデノリ

 今回取り上げますのは、千綿ヒデノリさんのアルバム『キセキ』。そして『正体』。

 千綿ヒデノリさんの事に関しては、彼の公式サイトで読んで下さい。千綿さんの「知名度」は、まだ最初にこのページを書いていた頃にはそれほどでもありませんでした。日本の音楽に興味があるみかん星人も全く知らず、友人に紹介してもらいました。その友人の音楽に対する感性の素直さ(笑)は知っていたので、2003年の1月にリリースされたアルバム『キセキ』をamazonで取り寄せて聞いたところ・・・・これが、素晴らしいので大喜びです。久しぶりに「楽しみな男」に出会ったという気分です。

 アルバム『キセキ』は大変に完成度が高いアルバムです。千綿さんのボーカルの力が余すことなく表現されていたり、アレンジの「今」な感じの含み方が絶妙であるという、アルバムの基本的な部分では「良く出来た作品」として当然備えているべきレベルを軽々と飛越しています。最も注目すべきなのは、このアルバム『キセキ』に収録された曲達の展開(順番)が大変に絶妙であるという点です。全10曲という古いアナログレコードを彷彿とさせる曲数ですが、総ての曲が「意味ある順序」で配置されていて、テーマを揃えて完成している傑作短編小説を読むような快感に満ちているのです。

 トラック1から4を通して描き出されるのは「僕の内側への視線」です。ここでは、まるで螺旋階段を降り続けるようにして彼の楽曲達は次第に
【僕】の中心に緩やかに降りてゆきます。
 1曲目の穏やかでクラシカルな『祈り』という曲で「僕には何が出来るのか」と自問する
【僕】は、自分と無関係に流れ去って行く時間と、他人と深く関わることの難しさに「取り残されそうな不安を感じます。【僕】は愛したい人と出合ったにも関わらず【僕】の愛情に自信が持てないばかりか、【僕】の存在自体に自信が持てないのです。。。。
 そんな【僕】は、2曲目の、今時のアレンジに包まれた『Cry』という曲の中で、素直な自分と素直に向き合う事の難しさに直面します。自分自身が願っているような「大人」になりきれてない【僕】は、自分が叫ぶ「愛してる」という言葉の中に「嘘とごまかし」を感じてしまう・・・なぜ?本当に愛してないから?。。。。
 続くメロディアスな『迷子の時代に生まれて』の中で、【僕】は自分の心の底にある「寂しさ」を自覚します。心の底で凍りついたその「寂しさ」が、「温もり」としての「あなた」を求めさせるその気持ちが「愛」なのか?或いはそもそも「人は皆ひとりではない」から迷子の様に誰かを求めて歩く欲望が「愛」なのか。。。「取り残されそうな不安」の中で【僕】は自分自身の「底」に到達します。
 4曲目の『満月と夜の詩』で【僕】は「なぜ、ぼくは存在するのか?」という根源的な疑問に到達するのです。

 そしてこのアルバム最高の名曲『正体』が登場し、「A面」が締めくくられます。

 『正体』に続く5曲はアナログLPの「B面」に相当するともいえますが、収録された曲はどれも広い視野と「【僕】の可能性」が綴られた楽曲になります。3曲目の『迷子の時代に生まれて』と対峙する6曲目の『ゆりかご』では、明るくのびのびとした雰囲気の中で「ひとりでは生きられない」現実を当たり前のこととして捉え、愛された記憶を頼りに【僕】の中に在る「優しさ」に目覚めます。ロックの匂いがする7曲目の『見えない星』では、「常識」や「言葉」に縛られ焦らされ踊らされて「無意味な目的=見えない星」を追う愚かさを指摘し、明日・未来は【僕】次第であることをテーマにしています。正に『正体』で得た「気付き」がもたらした独特で強烈なエネルギーを感じる曲です。さらに、人を愛しつづけるのに必要な気持ちを歌った『枯れない花』、【僕】が向かうべき未来を確信した視線で綴られる『陽のあたる場所へ』、そして【僕】が最も大切にすべきことを優しく歌い上げるラストナンバー『ほこり』。後半の5曲どれもが、凛然とした姿勢と、等身大の【僕】に対する高潔なプライドが歌い上げられているのです。

 では、そのターニングポイントに在る『正体』という曲は、どんな曲なのでしょうか。
 『正体』をひとことで言えば、「【僕】を鼓舞する曲」なのです。もちろん「鼓舞する」歌は今までにもたくさんありました。記憶に残る曲としては、大事MANブラザースバンドの『それが一番大事』とか、kanちゃんの『愛は勝つ』とか、温かく力強い歌が今までにもありました。ですが、この千綿君の『正体』は、より一層単純で、原始的であり、根源的であり、圧倒的に普遍的なのです。
 それは「ありのままの自分を認めて、自分の意志で決断する」という姿勢を意識する点にあります。
 4曲目の『満月と夜の詩』のムードを残しながら『正体』は静かな曲調で始まります。タバコとアルコールに頼り、自己嫌悪に陥り、存在意義を見出せないまま意識の「底」に到達した【僕】は、そこで、「けれど、これが【僕】なんだ」という事に気が付きます。臆病で、だらしなく、不器用で、笑われることが怖く、絶えず不安にさいなまれている、、、なのに我が強く、ワガママで、泣き虫な【僕】。だけど、そんな【僕】を自分は大好きであるという事。【僕】以上に【僕】を信じて、強く愛し続けられる存在は在り得ない事。だから、「こんな自分だけど、だけど、明日に向かって進みたい。進まなければならない」という事実に気がつくのです。そして大きな声で自分に言い聞かせる、、、
 「ありのままの【僕】で行け!」と。
 飾らず、ごまかさず、欲しいものをしっかりと掴んで、未来に向かって「行け!」と。
 振り絞るように、けれど怒鳴らず、心に響かせるように歌う『行け』という歌詞は、時には涙を誘うほどに切実で訴求力があります。千綿君が選んだ「行け」という言葉は、決して「アクティブ」や「肯定」を表現するだけの言葉ではありません。時に「僕は本当に正直か?」という問い掛けあり、「それは、僕が望んでいる未来か?」という自問でもあるのです。そう、「行け」という言葉が、歌詞が、叫びが聴き手に呼び起こすものは「決意の瞬間」そのものなのです。「決める」という心の行為こそが【僕】【僕】に与えうる最大の愛であり、ひいては愛に溢れた【僕】という存在の原点になるのです。

 素直でありながら力強いこの『正体』を聴いて少し経った頃、みかん星人はある歌(アルバム)を思い出しました。それは、尾崎豊の『15の夜』でした。20年前の1983年に出されたデビューアルバム『17歳の地図』の中の1曲であり、みかん星人が最初に聴いた尾崎豊の曲です。『15の夜』は、自分の存在意義を模索して、破裂しそうになる気持ちを抱えたまま「盗んだバイク」に乗り、行き先もわからぬ(自覚できぬ)ままに夜の街を疾走する・・・そんな歌でした。まるで鋭利な刃物を振り回すかのようなその歌は、自分を持て余す苦しさに溢れていて、深夜放送で初めて聴いたときに「凄い歌だなぁ」と感じたのです。
 『正体』には、それに比肩するような「凄さ」があります。けれど、尾崎豊の歌が「鋭利な刃物」のようだったのに比べて、千綿ヒデノリさんが感じさせるのは、温かい掌の温もりだったり、涼しく凛然とした美しい視線なのです。もちろんそれは、千綿ヒデノリさんがこの曲を作った年齢の違いもあるでしょう。もしかしたら千綿さんも「鋭利な刃物」だった頃があるのかもしれません。けどここで大切なのは、千綿ヒデノリという人が、きっと多くの愛情に支えられている。。。という部分なのです。
 最初にご紹介しました千綿君の公式サイトを読むと、彼が人との出会いを大切にしている姿勢が伺えます。人を敬い、愛し、大切にする姿勢は、当然の如く相手に伝わり、それは周囲にとても温かい空間を生み出すものです。「あの人と居るとくつろぐ」と感じさせてくれる人が居ますが、千綿君もまたそういう存在なのでしょう。ですから、集まるファンも温かい人が多いように読み取れます。
 そして、尾崎豊を見てきたみかん星人おぢさんは、千綿君のファンもまた本気で、心の底から千綿君を敬い、愛し、大切にし続けて欲しい、と願わずにはいられません。アーティストを「愛する」というのは実はなかなか難しいのです(笑)。アーティストが存在の総てを懸けて送り出した作品を素直に全身で受け止めて、共鳴し、自分の明日にフィードバックする・・・と云うのは、簡単そうですが難しい。けれど、業界で生き残り、支持され続けるアーティストたちにはそういう「本気のファン」が驚くほどたくさん居るのです。千綿君もまた、輝き続ける資質を持ったアーテイストです。本気で愛しつづけてください。

 さて・・・『正体』というよりもアルバム『キセキ』に似合うお酒は。。。。ブランデーかなぁ、と思っています。「命の水」という別名をもつブランデーを嗅ぎながら、嘗めながら、「ぼくって、、、」なんて事を考えるのは、たぶん、最高の贅沢なのだと思います。あ、くれぐれも、水でうめたりしないで下さいね(笑)

2003・06・28