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| 吉備路放浪記(11) 取材・更新記録 |
| 磐座祭 2003/04/18 |
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5月11日(日)吉備津彦神社の磐座祭があります。
昨年は私も参加しました。できれば今年も参加したいと思っています。 案内によりますと 磐座祭のご案内 当神社の境内であります吉備の中山の北峰は龍王山と呼ばれており、 神社の元宮、奥宮である磐座(神が鎮座する岩)、磐境(神域を示す巨石群) 及び龍神社があります。 例年この山を登拝し祭典をする「磐座祭」を斎行し広く一般の皆様をご案内しています。 本年は左記の通り斎行致しますので、こぞってご参加下さい。 記 日時 5月11日(日)午前9時30分ー 受付 参加費 1000円 午前10時より、神社神殿にておはらいの後、磐座へ出発。 山中にて昼食をとり午後3時頃下山予定です。 *お弁当をご希望の方は、5月10日(土)までに神社社務所にご連絡下さい。 (弁当代1000円) 吉備津彦神社社務所 086-284-0031 となっています。 管理人より 興味のある方は、是非ご参加下さい。 急な坂道を登って行きますので、足に自信のない方はおやめになったほうがいいでしょう。 できればトレッキングシューズのようなものをおすすめします。 |
| 和霊神社 2003/03/26 |
先日、福山への登山はいろんなルートがあると書きましたが、車でのルートは左図の
ように一つだけのようです。西坂台の団地の手前を山に上がっていくと、和霊神社がありますので、ここに車を 止めて、徒歩で登るのが一番楽なようです。 現地の案内板には、福山まで30分と書いています。
さて本題の和霊神社ですが、写真のようにまるで砦のような雰囲気でした。 右は小さくてわからないと思いますが、和霊神社から見た国分寺方面の写真です。 和霊神社については、山手村教育委員会のパンフレットに、次のように 書かれています。 和霊神社(岡谷)以上、山手村教育委員会のパンフレットから抜粋させていただきました。 |
| 笹ヶ瀬川 2003/03/23 |
吉備の中山から笹ヶ瀬川を上ってみました。写真は矢坂の歩道橋の上から、東を向いて撮っています。 この川を東に向いて、首部の近くまで行ってみました。 川の右は国道180号線で、北向八幡宮までは低くなっています。 また左の楢津までの間も低くなっています。 つまりこの川は、低い場所に土手でつくられています。 今の水面から見ると、もしかすると左の地面より高いかもしれません。 このように、右はすぐ近くに山があり、左は楢津の山があります。 もし、この川に土手がなければ両側の山まで水がきているでしょう。 今は、水が少ないですが、もし大量の水、あるいは海水が流れ込んでいたとすると、 このあたりは、小さな山が島になってしまうと思います。 先日、吉備の穴海で想像図を描きましたが、やはりまだ笹ヶ瀬川がなかったときには、 この想像図に近いものではなかったでしょうか? この先、旭川まではまた次の機会に・・・ |
| 歴史広場 2003/03/19 |
歴史広場 ここに来ると、古墳の形、内部がよくわかります。 子ども達にもぜひ、見て欲しいところです。 |
| 峠古墳群 2003/03/13 |
福山の西の麓になるでしょうか、総社方面から安養寺を経て倉敷方面に行く道の登りかけに、
小さな駐車場があり、そこから福山に上れるハイキングコースがあります。その道の途中にたくさんの古墳が点在しています。みな同じような石室をもっていますので もしかすると、同じ時期のものかもしれません。 ここからすぐ北に三輪山古墳群がありますが、どうも時代は違うようです。 このあたりは、次回ご報告いたします。
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| 安養寺裏山経塚群 2003/03/11 |
岡山県指定史跡安養寺のすぐ裏山にあります。 |
| 吉備の穴海(その2) 2003/03/09 |
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吉備路郷土館へ行ってきました。
目的は遺跡の場所と、その年代です。 展示されていたものによりますと、津寺遺跡(弥生時代中期後半)、上東遺跡(弥生時代後半) と書かれていました。 そして、足守川下流域には多くの遺跡があり、また多数の弥生墳丘墓が発見されている。 なかでも、楯築弥生墳丘墓は他を圧倒する規模である。 といった内容でした。 ここで、弥生時代というものを確認しておきたいと思います。 三省堂大辞林によりますと 紀元前三世紀頃から紀元後三世紀頃までの約600年間。 とあります。ということは、弥生時代中期から後期というのは100年から300年ということ になります。 さて、下の想像図の西に港の形跡が残っていなくて、吉備津という少し北にあるということは 足守川の下流域は浅くて、港にならなかったのではないでしょうか? そこで海の深い部分を変えてみました。そして斜線部は潮が引いたときには陸続きになると 考えてみました。 こうしてみると、足守川下流域の穀倉地と吉備津を中心とした海上輸送ということが あったのではないかと思えます。 また、吉備の中山はその西の麓に東山遺跡があったにせよ、岩ばかりの山でとても人が 住めるような環境ではありません。孤立した島であったと思われます。 足守川下流域の穀倉地帯、すぐ近くに大きな港、そして太陽が昇る神の島、吉備の中山といった 図式が見えてきます。 |
| 吉備の穴海 2003/03/06 |
以前、宗形神社のところで、どうしてこんなところに航海の神様がまつられているのか?というお話をしましたが、航海の神様なら海が近くにあったということになるのではないで しょうか? そこで、吉備の穴海の想像図を書いてみました。 そのポイントは、 1)宗形神社の近くに海がせまっている。 2)遺跡、古墳の最南端は陸とする。 3)吉備津など津とつく名前は、港として考える。 4)川の流れを変える。 以上のことを考えて、古代の吉備の穴海を想像してみました。 穴海と言われるくらいですから、実際にはもっと多数の島々が点在していたと思われますが、 吉備の中山周辺に限って、書いてみました。 もちろん、個人がかってな想像で書いたものですから、信用はできません。 くれぐれもご注意下さい。 海の色の薄い部分は浅いところ、吉備の中山の赤い点は、上二つが、左吉備津神社、右吉備津彦神社、 中央右が尾上八幡宮、東山遺跡の下は川入の八幡様です。 高梁川は湛井から、東へ向かい足守川と合流し、旭川は笹ヶ瀬川のながれに出てくると考えて みました。 今の岡山駅はほぼこのあたりになるのではないでしょうか? こうしてみると、吉備の中山は島になってしまいます。 はたして、古代の吉備の中山は島だったのでしょうか? |
| 大守大藤内家宅跡 2003/03/04 |
吉備津彦神社の前にあるこの碑はいつも見ながら通っていますが、どんな意味があるのか
知りませんでした。案内板もないので、ご報告のしようもないのですが、本の中にこんなことが書かれていました。 王藤内は、備前の有力武士であった難波氏の出です。 難波氏は平安京の大舎人(おおとねり)も務めていました。 そしてまた、備前吉備津宮の社家頭(しゃけがしら)でした。 つまり、王藤内は難波一族の頭だったと思われます。 「ふるさとを歩く」 黒住秀雄の見た吉備 郷土史家黒住秀雄顕彰会 吉備人出版 大藤内は王藤内とも書くようです。王藤内が活躍したのは1200年頃のことのようです。 難波氏というと難波経遠(つねとう)という名前がよく出てきますが、このあたりは また、後日ご報告致します。 |
| 顕本寺 2003/03/01 |
顕本寺意味も、文字もよく分らないところがありますが、案内板を忠実に書き写しました。 大変立派なお寺でした。 |