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| 吉備路放浪記(14) 取材・更新記録 |
| 大供本町遺跡 2006/03/11 |
大供本町遺跡(だいくほんまちいせき)の現地説明会に行ってきました。
この遺跡は平安時代から室町時代まで続く荘園「鹿田荘」(しかたのしょう)
だとみられています。鹿田荘は大変広く旧国道2号線の南側に位置し、この大供本町遺跡から東は 岡山大学医学部構内まであったと推察されています。 出土品から弥生時代には人が住み始めたということです。当時はここから数百メーター 南が海岸線だったというこから食料と交通という面では住みやすい環境だったのかも しれません。 |
| 吉備の渡来文化 2006/02/04 |
岡山県立博物館へ「吉備の渡来文化」ー渡り来た人々と文化ーを見に行ってきました。縄文時代以降の出土品から、どのように国際交流をしてきたかを探るものです。 展示されているものは、どれも貴重なものばかりで普段目にふれないものです。 また、年代別に並べられた土器を中心とする出土品は大変みやすく、分かりやすい説明が ありました。 会期は3月5日までとなっておりますので、お近くの方はぜひお出かけください。 なお、記念講演会などいくつかの催し物もあるようです。 |
| 岡山藩藩学 2005/12/08 |
国指定史跡旧岡山藩藩学跡 岡山藩藩学は、藩主池田光政が寛文九年(1669)に藩士の子弟教育のため 創設した学校です。学校の敷地は南北202.5メートル(112間半)、東西110.7 メートル(61間半)もあり、南から南門(本瓦葺き、薬医門)、?池、校門 (入母屋造り、本瓦葺き)、講堂(入母屋造り、本瓦(錣)葺き、建築面積120坪)、 中室、食堂を一列に配し建てられ、東側に文学場五舎、西側に演武場五舎等が 配置されていました。 藩学校は、廃藩置県後の明治四年(1871)七月に閉校になり、その後、明治九年 (1876)に岡山県師範学校、同四十四年(1911)年岡山県女子師範学校が置かれ、 旧建物は漸次撤去されていきました。大正十一年(1922)年の史跡指定当時には、 講堂、校門、南門等が残されていましたが、昭和二十年六月二十九日の岡山空襲 により、残念ながら焼失してしまいました。この?池が岡山藩学跡として現在残されている 唯一の遺構です。 ?池は中国古代のきまり(周の?宮の制)によったもので、全国的に類例が少なく、 大正十一年三月八日に国の史跡に指定されました。 平成八年三月 岡山市教育委員会 岡山中央中学校の一角にあります。 |
| 鬼ノ城についての勝手な推測 2005/12/05 |
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663年に白村江の戦いに敗れて各地に朝鮮式山城を作ったという
ことになっています。そして百済の人たちが大勢日本に亡命してきたと
考えられます。
朝鮮式ということは吉備の人が作ったのではないということです。もちろん労役は 吉備の人たちがしたにしても、図面を引いて考えたのは百済の人だったと思えます。 また、かなりの人数の百済の人たちがこの地に住み着いたのではないでしょうか? 船で吉備の津へ来て、近くの一宮近辺に住んだのでしょうか? そう考えると辛川(唐川)、高麗寺などという地名はここに百済の人々が住んだという ことになるのかも知れません。 百済の人々と地元吉備の人々とは最初人間関係がうまくいかなかったのでしょうか? そして温羅伝説が生まれたのでしょうか?考えれば考えるほどわからなくなってきますが 整理してみますと 1)鬼ノ城は百済の人々によって作られた。 2)たくさんの百済の人々が参加した。 3)吉備の津があったためこの地に住んだ。 4)その名残が辛川とか高麗寺という地名になった。 ということでしょうか? あくまでも私個人が想像していることなので、あまり真剣に考えないで下さい。 |
| 岡山文化観光検定試験 2005/12/04 |
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今日は岡山商工会議所主催の「岡山文化観光検定試験」3級を受験してきました。
50問90分で70点までが合格です。
すべての問題を載せるわにはいきませんので、私が出来なかった問題の正解を
書かせていただきます。
------------------------------------------------------ 1)朝鮮通信使の宿として使われたのは瀬戸内市牛窓町の「本蓮寺」です。 2)岡山県三大河川で全長が最も長いのは旭川で、約142kmです。 3)岡山県内で一番高い山は後山です。 4)満奇洞は全長400m、最大幅25mの回遊式になっている。生成物に「竜宮」 「乙姫の寝殿」「乙姫と浦島」という名前が付けられている。 5)備前焼中興の祖と言われているのは金重陶陽です。 6)蒜山高原のシンボルと言えるジャージー牛はニュージーランドから導入された 体の色が茶色の牛です。 ------------------------------------------------------ というわけで、6問間違えました。帰りに皆さんに伺ってみるとかなり出来たそうです。 もう少し勉強すればよかったと反省しております。来年は2級の試験があるそうです。 皆さんも受けてみませんか? |
| 倉敷美観地区 2005/12/03 |
倉敷美観地区に行ってきました。とくに目的はなかったのですが 半日ぶらぶらとゆっくり見学しました。 ここに掲載する写真はめずらしくもないでしょうが、左から 倉敷駅、美観地区入口です。
最近有名になったベロタクシーに乗って美観地区の中の有名な スポットを一周していただきました。 料金は500円で所要時間は約20分です。説明もしていただけます ので皆さんもぜひご利用ください。
こちらは少し早い昼食をいただいた本町の手打ちそばと地酒の「さくら」さんです。
私がいただいたのは十割そばでした。そばができるまで森田酒造の萬年雪という
辛口の酒を熱燗でいただきました。そばも酒も結構なお味で大満足の昼食でした。さくらのご主人には了解をいただかずに掲載させていただきました。 もし不都合でしたらメールをください。即刻削除いたします。
スケッチをされている方をたくさん見かけました。
最後に訪れたのは大原美術館でした。ここには有名な絵画がずらりと
並んでおり、一番時間をかけていただきたいところです。入館料は1000円でした。 |
| 御所遺跡その弐 2005/11/10 |
これが土師器の破片です。土師器とはなんでしょう?三省堂大辞林で
調べてみました。「古墳時代から奈良・平安時代にかけて用いられた素焼き土器の総称」と あります。総社市教育委員会文化課から配布された資料によりますと 出土したほとんどが「土師器の椀・坏・皿の三種類の食器」で占められて いるとのことです。 この土器に900年も前の人の手が触れたのかと思うと不思議な気持ち がします。 |
| 御所遺跡 2005/10/29 |
総社市の御所遺跡に行ってきました。土師器が多数出土したとの報道がありましたので、
現地説明会に参加しました。左の写真はその全貌ですが、後ろの山の頂上に鬼ノ城がかすかに見えます。右の写真は 今回最も話題になった井戸です。木をくりぬいて作られています。
この二枚の写真は土師器の破片です。かなりの数で政治的な儀礼に使われたと 考えられています。
この写真はすぐ近くにある御所宮跡です。
御所宮境内にある備中国府の説明です。この説明で国府の意味はある程度わかりますが、 今日の現地説明会では、これが平安末期の備中国府の可能性が高いとのことでした。 妹尾兼康の時代、平家方の拠点となっていた備中国府は源平の乱の合戦時に消滅させられた のではないかと思われます。(以上総社市教育委員会文化課の資料より抜粋させていただきました) |
| 彦崎貝塚 2004/10/30 |
中央の写真は猪の顎だそうです。
中央の写真の窪んだところに埋葬されていたそうです。そして右の写真は、こんなに地表から浅いところからも貝殻が出ています。 ここは、縄文晩期の貝塚だそうで、ほとんどがハイ貝という種類です。前期の牡蠣から ハイ貝に変わってきた、何らかの海の変化があったのでしょうか?
これはサザエのようです。縄文彦崎人は結構美食家だったのかも知れません。右の写真は現地で拾ってきた貝と石です。五千年前のものだと思うと、なんだか 不思議な気がします。 最近の調査で、ベンガラのような塗料で塗られた土器の中から、猪の骨が 出てきたという興味ある発見もあります。 この彦崎貝塚の特徴のひとつに、縄文から弥生、古墳時代を経て中世にいたるまで の遺物が出土していること、また貝殻でできた装飾品、釣り針、石器はもちろんのこと 多数の人骨が出土していることなどがあげられます。 もしかすると、この時代の考古学上に新しい説が生まれるかも知れません。 今回が今年度の最後の現地説明会だということでしたが、来年度以降にもますます 新しい発見があることだと大きな期待が寄せられます。 灘崎町教育委員会の皆さんをはじめとするスタッフの方々、小雨の中お疲れ様でした。 田嶋さんの熱意とユーモアにあふれるご説明には感動いたしました。 ありがとうございました。 |
| 津島やよい講座 2004/10/09 |
岡山県教育委員会主催の「津島やよい講座」「弥生時代のくらしを
考える」という催しが岡山県立美術館で開催されました。写真にありますように、出土品の展示と専門の先生方の講座と そして、先生方のパネルディスカッションがありました。 講座は標題のとおり、出土品から弥生人の生活を考えるというものでした。 特に稲作の話題が多かったように思います。 個人的には、南方遺跡から発掘された数々の木製品に興味をひかれました。 この出土品は、保存状態がよく当時の生活ぶりを生々しく物語っているようでした。 岡山駅から北、西は笹ヶ瀬川、東は旭川あるいは百間川までの、数キロ 四方の中に津島遺跡をはじめいくつかの遺跡と、それを取り巻くように 古墳があります。 今は都合上それぞれの遺跡の名称がついておりますが、もしかすると ひとつの集落だったのかも知れません。また、同じ集団が場所を変えながら 生活していたのかもしれません。 いづれにしても、古代「吉備の穴海」と呼ばれた時代、上に書きました二つの 川の堆積で平野部ができ、そこで稲作を中心とした生活が営まれその後 集落はもっと大きな集団になり、その首長たちがこの古墳に葬られたのでは ないでしょうか? 時代の前後はわかりませんが、これと同じことがこの津島遺跡の西にあたる 楯築近辺でもおきたのではないでしょうか?弥生の人々は旭川、笹が瀬川、 足守川といった川の下流域で農耕を主とした生活を始めたのでしょうか? 講座を運営された、教育委員会の皆様ありがとうございました。たくさんの 立派な資料もいただきました。次回があることを期待しております。 |
| 吉備路文学館 2004/05/08 |
| 子供神楽 2004/05/05 |
毎年の恒例になった吉備津彦神社の子供神楽に行ってきました。一昨年の取材に快く応じてくださった西山君が中学一年生に なって出演していました。この写真は西山君とお父さんです。 お父さんご無理をお願いして写真を撮らせていただきました。 ありがとうございました。 写真集は こちらから 残念なことにまだあまり知られていないようです。もっともっと たくさんの方に見ていただきたいものです。 |