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| 吉備路放浪記No.15 取材・更新記録 |
| 御所遺跡 2006/12/23 |
第3回御所遺跡現地説明会に行ってきました。
左から井戸ー2、井戸ー3第3回御所遺跡現地説明会資料 平成18年12月23日(土) 総社市教育委員会 平成16年12月に開始した御所遺跡の発掘調査の3次年目となる今年度の 調査では、方形居館の東側に掘られた外郭大溝の北東隅屈曲部とそれに 続く幅5mの北辺の大溝、その内側に掘られた井戸が確認されました。 この結果、居館の規模は南北117mであることが明らかになりました。 今回、発見された井戸ー2は最初に発見された井戸ー1に較べると規模は 小型ですが、当時の地面を2m近く掘り下げることや、礫や砂利を敷き詰める 点は共通しており同様の目的で設置され、同時に機能した可能性が高いと 考えられます。 このような井戸ー1・2の性格については他に類例がなく不明な点がまだ 多くあります。しかし、今回の調査では取水用の井戸として、より中心に 近い位置で石組みの井戸ー3が発見されたことから、井戸ではなく居館の 四隅に祀られた宗教性を帯びた社(やしろ)であった可能性が非常に高まり ました。 また、一方でこの井戸ー2に近接して掘られた大型の土壙からは、馬回虫の 卵が検出されたことから馬の糞尿を溜めた「野つぼ」であった可能性が指摘 され、不浄と神聖が同時に存在する現在の常識からは一見、矛盾する光景も あったようです。この馬の糞尿溜めについては、時期と地域はやや異なりますが、 承平・天慶の乱(935-940)で著名な平将門の居館について、「将門記」には 「・兵具の置所・・東西の馬打・・夜の遁所・・南北の出入り・」の記述があります。 このことから、武器庫、寝殿、南北の門の他に東西に厩舎が存在したことが わかり、恐らく御所遺跡の居館にも東西に厩舎があったと想像されます。 これまでの調査ではコンテナ700箱分の土器が出土し、その大半が11世紀 前半から12世紀後半に生産され棄てられた土師器の器です。ではなぜ このように大量の土器が繰り返し棄てられたのでしょうか?これまでの 研究で平安時代以降には、宮中や貴族の邸宅でも公式な儀式・宴会では 土師器の器が使用され、緑釉陶器・灰釉陶器や青白磁などの高級品・嗜好品 は私的な場で使用されたようです。これは1回しか使用しない土師器の 「清浄性」が、儀式・宴会の神秘性と連帯意識を高めるうえで重要であった と考えられており、御所遺跡の居館でも都と同様の儀式・宴会が度々行われた ことが想像できます。
右・井戸ー2に蓋をしていた板。このように御所遺跡では、日常生活に使用する煮炊きや貯蔵具等の土器が 少ない点や、2ヵ所の祭祀井戸(社)にみられる政治的・宗教的な空間と、 梵鐘鋳造や鍛冶炉等の手工業生産、「野つぼ」にみられる農業生産的側面 が同居していることがわかります。 これに土塁や大溝に見られる軍事性を加味すると、この居館の主の姿が おぼろげながら見えてきます。御所遺跡の居館が造営された平安時代後期 になると、赴任した国司が任期を終えても都に帰らず土着して地域の土豪の 頭領となり、言わば現地雇いの国司(在庁官人)として地域を支配・経営し、 やがて武士に成長したと考えられています。 彼らは中央政府から委託されて「国府」を運営し、軍事・徴税権と共に、 律令政治の地方官僚として地元の神々を祀る神し祗官としての性格も 受け継いでおり、その権威を利用し高めることにより周囲の私的な荘園に 対し政治的・経済的優位を得たものと推定されます。しかし、 このような権力と経済力を得て一町四方の居館を造営して権勢を誇った 「御所」の主も、源平の争乱という古代から中世への歴史の大きな変革の 中で滅亡し、人々の記憶にあった「御所」という伝承が僅かに地名として 残ったのではないでしょうか。 以上、総社市教育委員会発行の現地説明資料より引用させていただき ました。 武田さんの熱心でわかりやすい説明に感謝いたします。 ありがとうございました。 |
| 大地からの便り 2006 2006/08/26 |
岡山県古代吉備文化財センター主催の「大地からの便り2006」県内の発掘調査
報告会が岡山県立美術館でありました。調査報告は「大河内遺跡」「穴が逧古墳」「備前国分寺跡」「御所遺跡」「中島城跡」 「伊部南大窯跡」と盛りだくさんでした。それぞれに興味があったのですが、今回は 私も現地説明会に行きました、御所遺跡についてご報告申し上げます。 当日は遺物の展示も行われておりましたが、その中のパネルには以下のような 説明文がありました。 御所遺跡 総社市金井戸で行われた今回の発掘調査において、南北に直線的に延びる長さ 120mの溝がみつかりました。この溝は、南と北の端でそれぞれ西側に屈曲し、 東西辺では幅6m、深さ1.6mを測る大溝であり、方形の居館を巡る外郭 大溝と考えられます。 区画の内部では、大規模な石敷き井戸、や梵鐘 の鋳造遺構がみつかって います。 また、11世紀前半から12世紀末までの大量の土師器 の食器類が出土し、それ以前の土器が皆無であることからこの居館が平安時代末 の短期間に造られ廃絶したこと、さらに、土器が 意図的に割られていたことから、この居館において繰り返し宴 が行われていたことが考えられます。 御所遺跡のある、総社市金井戸地区は古くから 備中国府の有力な推定地であり、御所遺跡は 平安時代終わり頃の備中国府の一部であった可能性があります。 総社市教育委員会 現地説明会の際にはまだ発見されていなかった「呪符木簡」(写真右)が展示されていました。これについては以下の説明があります。 総社市御所遺跡出土の呪符木簡 この2つの木簡は、石敷き井戸から見つかりました。丸太をくりぬいた井戸枠を埋めた 土の中から、東西方向に向き合うように立てられた状態でみつかっています。表には、 まじないの文字・記号が書かれています。その意味は今のところはっきりとは わかりませんが、井戸を廃絶するときの儀式に使用 されたと考えられます。 御所遺跡は総社市教育委員会の武田恭彰先生 のご説明でしたが、武田先生の話しぶりではまだまだ何か出そうな雰囲気でした。 武田先生ありがとうございました。それぞれの遺跡のご説明をしてくださった先生方に お礼申し上げます。また、岡山県古代吉備文化財センターの皆様お疲れ様でした。 後片付けが大変だったと思います。ありがとうございました。 皆さんにはまだまだ、たくさんご報告をしたいのですが今回はこのあたりで・・・ |
| インパクト 2006/08/12 |
『東と西の近現代 もう一つの大原美術館』インパクトに行ってきました。じつは本当のねらいは児島虎次郎でした。前回見逃した 児島虎次郎記念館へ行きゆっくりと見てきました。 ところで、帰りの電車の中で、倉敷てくてくマップ携帯対応版を見ていると便利なサイト があることに気がつきました。帰りなので私には役に立ちませんでしたが、これから 行かれる方には便利かもしれません。 こちらから てくてくマップの各店に連動しており、番号を入力するだけでお店の案内が出ます。 知らなかったのは私だけかも知れませんが・・・ |
| 広畑遺跡 2006/07/30 |
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広畑(ひろばたけ)遺跡現地説明会に行ってきました。突然参加しましたのでカメラを
持っていませんでした。したがいましてここでは、説明会の資料の抜粋を掲載させて
いただきます。
広畑(ひろばたけ)遺跡現地説明会資料 総社市教育委員会 広畑遺跡は、昭和中学校の体育館建設に伴って実施した、埋蔵文化財試掘調査に よって発見されました。遺跡の存在することが判明したため、5月9日から発掘調査を 行っています。 これまで、美袋地区の遺跡としては、昭和中学校北西の山頂に位置する戦国時代の 山城:大渡城と江戸時代の美袋本陣が知られているにすぎませんでした。このほか、 荘園美袋庄の名が、『備中国新見庄資料』中に見受けられますが、所在地や美袋庄 と日羽庄の区分等についてもわかっていません。美袋の地の河岸段丘は狭く、高梁川 の氾濫原と思われ、古い遺跡が存在する可能性は低いものと考えられていました。 しかしながら、調査が進むにつれ、広畑遺跡は、弥生時代中期後半(約2000年前)~ 鎌倉時代にわたる複合遺跡であることが判明しました。 弥生時代の遺構(昔の人が地中に残した生活の痕跡)としては、中期後半から後期の 土壙(どこう)、柱穴(ちゅうけつ)、等が確認されています。土壙の中には、破損した 土器がまとめて捨てられているものもありました。また、稲の穂摘み具である石包丁も 出土しており、当時から安定した地形に立地し、水稲農耕が行われていたものと考え られます。 古墳時代においては、3世紀中頃から5世紀代の遺物は出土していないため、一時 人の営みが途絶えていた時期があったと考えられますが、6世紀後半からは再び 生活の痕跡が認められます。 特に7世紀後半~鎌倉時代にかけての遺構、遺物(昔の人が使用した道具など) が多くみられます。遺構は、建物、柱穴、土壙、土壙墓、炭窯、鍛冶炉、溝などが、 遺物としては、須恵器・土師器、緑釉陶器などの土器類のほか、土錘(どすい)(魚網 につけるおもり)、鉄器(てっき)、鉄滓(てっさい)、鞴(ふいご)の羽口(はぐち) (炉に風を送る装置の先)などが出土しています。 特筆すべきこととしては、方形の穴を掘り柱を埋めて作った建物が認められたこと です。方形の柱穴は、役所跡などでみられ、一般の集落では使用されていません。 また、緑釉陶器のような釉(うわぐすり)を塗った土器は、当時としては貴重な品で、 これも一般の集落から出土することはありません。これらのことから、平安時代に 何らかの役所関連施設が存在したものと想定されます。 また、7世紀以降鉄滓など、鍛冶関連の遺物が多くみられ、炭窯や、鍛冶炉が出土 していることとあわせ、鉄製品がこの地で盛んに作られていたことがうかがえます。 調査中であり、遺跡の性格について、今後新たな知見が得られる可能性もありますが、 現在までの調査成果をお伝えします。 以上総社市教育委員会発行の現地説明資料から抜粋させていただきましたが、資料を 忠実に転記いたしましたので、お許しをいただきたいと思います。 わりとよく行く地域でこのような重要な発見があるとは思ってもみませんでした。現地はよく 整備されており、説明も丁寧で大変わかりやすく、親しみの持てるものでした。暑い中 ありがとうございました。 |
| 操山古墳群 2006/05/28 |
岡山市の中心部にある操山に登ってきました。ここには操山古墳群と呼ばれる
たくさんの古墳があります。大阪営林局岡山営林署の案内板によりますと 操山の古墳は、当地方に勢力を誇っていた支配者の墓で休養林内には50余基 が確認されている。 これらの古墳のうち大半は、古墳時代後期(6世紀)に造られた横穴式石室をもつ ものであるが、旗振台古墳のように前期(4-5世紀)の方墳や、ふたまた古墳と 呼ばれる、入口は一つであるが、内部で二つの石室に分かれる珍しい形式の ものもあります。 ということで、5-6世紀の築造のようです。
写真は左から萩の塚、八畳岩、沢田古墳です。
左の写真は遊歩道の一部です。よく整備されており、市民のウオーキングの場所
としても活用されているようです。今回は準備もせずに行きましたので十分な説明ができませんが、もう一度 詳しく調査してみたいと思っております。 |
| 中山神社 2006/05/05 |
中山神社は、慶雲四年(707)の創建と伝えられる美作国の一宮です。
「延喜式」にも載せられた式内社で、「今昔物語」には「今昔、美作国ニ中参(中山)・
高野ト申神在マス。」と記され、「一遍上人絵伝」にも弘安九年(1286)の春に
一遍上人が美作一宮(中山神社)に詣でた様子が描かれるなど、古来より
広くその名を知られていました。
中山神社神門(市指定重要文化財、昭和五十年十一月十五日指定)は、もと津山城二の丸の
四脚門で、廃城後の明治七年(1874)に中山神社に移築されたものです。
本柱二本と控柱二本からなる薬医門形式で、屋根は切妻造、桧皮葺きです。
柱や梁には太いケヤキを用いており、あまり装飾を加えず、軒を高くしているところなど、
いかにも城門らしい建物です。
中山神社本殿(国指定重要文化財、大正三年四月十七日指定)は、「作陽誌」
等によると戦国時代に兵火に遭ったものを永禄二年(1559)に戦国大名の尼子晴久が
再建したものと伝えられています。入母屋造、妻入で向唐破風の向拝を有する
この本殿は、「中山造」と呼ばれる美作地方独特の神社建築様式であり、
中山神社本殿を最古の例としています。このように、中山神社では数多くの貴重な文化財が現在に至るまで大切に 受け継がれています。 津山市教育委員会 以上、津山市教育委員会による案内板「中山神社の指定文化財」の中から抜粋させていただきました。 |
| 津山弥生の里文化財センター 2006/05/05 |
以前から行きたかった津山の沼遺跡に行ってきました。
こちらは、沼遺跡を管理している、津山弥生の里文化財センターです。
ここには、弥生時代の生活が再現されており、大変わかりやすい展示と
説明でした。
竪穴住居です。
住居の内部です。
左の写真は天井部分を撮っています。煙が出るように穴を開けているようです。 右の写真では、組み立て方がよく分かります。
住居の内部は意外と広く感じました。窓がないので日中でも暗く、ただ寝るだけの場所のように感じました。
高床倉庫です。かなり床が高く、相当の穀物を貯蔵することができたと
思われます。
高床倉庫についての津山市教育委員会の説明です。沼弥生住居址群 紀元前三世紀頃、稲作と金属器を備えた弥生文化は、まず北九州の地に 成立し、その後、急速に伊勢湾以西の西日本に広がった。初期の稲作は、 主に自然灌漑が可能な臨海沖積地で行われ、東日本や西日本山間部 への進出は、中期以降を待たねばならなかった。 沼弥生住居址群は、美作に人々が広汎に定住し始めた弥生時代中期後葉 (一世紀頃)の典型的な集落跡である。昭和二十七年・二十九年・三十三年、 計三回の発掘調査により、ほぼその全容が判明した。それによれば、 丘陵の中央に溝を掘って区画した内部に大小五棟の竪穴住居がほぼ半円形 に並び、その中央に作業小屋と思われる長方形遺構がある。 さらに、溝の外には、三棟の高床倉庫が建てられている。 これら数棟の住居からなる集団は、当時の社会の基礎単位である大家族と 考えられ、このような大家族のいくつかが集まって、当時の村を構成していたと 推定される。 このように、沼弥生住居址群は、富や権力が集中し、階級が発生する以前の 原始社会の状態を示している。 昭和六十年三月 津山市教育委員会 |
| 国府市場 2006/04/09 |
国府市場に行ってきました。このあたりには備前国府があったとされており
さまざまな遺跡が残っております。最初に備前国庁跡に行きました。上の説明をご覧ください。
ここは備前国総社です。この説明を読むと総社という意味がよく分かります。現在修理中のようでした。
楽しみにしていた賞田廃寺ですが、この案内板以外にはそれらしいものは 見当たりませんでした。
これは唐人塚古墳の内部です。一見、石舟古墳によく似ております。石棺には
水がたまっておりました。
現地にはこのような標識が立っており、比較的分かりやすくなっていました。
また現在発掘調査中のものもありましたので、数ヶ月先には発表があると
思います。場所は山陽線高島駅から北へ2-3Kmのところです。 |