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吉備路放浪記No.17
ここまでわかった古代吉備こだいきび
吉備路・朱千駄古墳
朱千駄古墳しゅせんだこふん
朱千駄古墳出土の石棺
赤磐市穂崎
古墳時代前期
朱千駄古墳は、両宮山古墳の南西、山陽町の平野部の 西端に位置する全長約65mの前方後円墳である。 後円部中央に、墳丘軸線に並行して埋められていた この石棺は、6枚の石で組み立てられた長持形石棺で、 ふちに縄掛突起が造り出されている。石材は播磨の 竜山石である。
石棺内からは、古墳の名称のもととなった多量の赤色 顔料と、勾玉・管玉を含むおびただしい数の小玉や、 鉄槍・蛇行状鉄器とともに銅鏡2面が発見されたという。
吉備路・八幡大塚2号墳
八幡大塚2号墳やはたおおつかにごうふん
八幡大塚2号墳出土の石棺
岡山市北浦
古墳時代後期
八幡大塚2号墳は児島半島東部の児島湾に向かった 台地上に立地する。墳丘径は約35mで、児島半島東部 最大級の円墳である。
横穴式石室の奥壁に近い部分に、石室の長軸に平行して、 この石棺が安置されていた。石棺は長持形石棺の伝統を ひいた組合せ式家形石棺で、ふちに縄掛突起が造り出されて いる。石材は播磨の竜山石である。
石棺内部は赤色に塗られ、風化した人骨とともに金製の 垂飾付耳飾・銀製の鍍金した空玉・大刀・鉄鏃・鉄製 刀子などがおさめられていた。
岡山県立博物館の「ここまでわかった古代吉備」に行ってきました。
上の写真は博物館入口に展示されている石棺です。
館内の展示は「おかやま発掘最前線」と銘打っているだけに見ごたえ のある内容でした。また、特別講座として岡山大学の新納教授の 造山古墳のデジタル測量の結果についての講演を拝聴いたしました。 まだ学外に出していないという貴重な資料をカラー印刷でいただき、 それをもとに詳しい説明をお聞きしました。やはり新納先生の人気は 高く130名の定員に対して多分200名近くの聴講者があったと思います。
新納先生ありがとうございました。
四ツ塚古墳群よつづかこふんぐん
四ツ塚古墳
岡山県古代吉備文化財センター主催の第一回考古学野外講座「蒜山の古墳を歩こう」 に参加しました。
参加者は60名を超え、1班から4班までに分かれてそれぞれ専門の講師の先生に 説明を受けました。私は3班で講師は和田先生でした。和田先生の一生懸命で わかりやすい説明に全員聞き入っておりました。


四ツ塚古墳 四ツ塚古墳

四ツ塚古墳
この写真は1号墳です。今回は特別に中に入ることができました。
一号墳
直径約24メートル、高さ3.5メートルの円墳です。 1916年(大正5年)に発掘され、入口を北に向けた片袖式の 横穴式石室が確認されました。
玄室は、長さ4.88メートル、幅1.9メートル、高さ2.32 メートルで側壁は河原石で積まれ、赤色顔料の痕跡が認められます。
横穴式石室からは、人骨ほか須恵器、土師器、刀、馬具、武具、鍛冶具、 玉類等の副葬品が、出土しました。
その大部分は、東京国立博物館に収蔵されています。
文部科学省
真庭市
真庭市教育委員会
以上、現地の案内板から抜粋させていただきました。
四ツ塚古墳 四ツ塚古墳

四ツ塚古墳 四ツ塚古墳

四ツ塚古墳
四ツ塚古墳群よつづかこふんぐんとは?
四ツ塚古墳群は、古墳時代中期の終わりから後期(今から1,450年~1,500年前ごろ) にかけて築かれた、蒜山高原で最も大きい規模を誇る古墳群です。全部で19基の 古墳から成り、そのうち16基が現存しています。特に1~4号墳が大きく人目を 引いたため、地元では古くから『四ツ塚』と呼ばれてきました。昭和4(1929)年 に1~4号墳が国の史跡に指定され、昭和63(1988)年に10基が追加指定 されました。
13号墳
直径約20m、高さ2.3mの円墳で、円形の墳丘に方形の
造出つくりだ しを付設しており、さらに周囲に溝を巡らしています。
昭和27(1952)年に岡山大学を中心とした調査団によって発掘調査が行われ ました。発掘調査の結果、木棺を埋葬した2つの埋葬施設から様々な副葬品が 出土しました。また、この古墳では埴輪が出土しており、それらは墳丘の裾部を 巡る円筒形埴輪、朝顔形埴輪のほか、人物・馬・家・鳥などをかたどった
形象けいしょう埴輪も出土しています。 出土品(蒜山郷土博物館に展示)からみて、1号墳よりわずかに古いと考えられ ます。
以上、現地で配布された野外講座の説明書より抜粋させていただきました。
和田先生をはじめスタッフの方、真庭市教育委員会の新谷さん、すばらしい 講座をありがとうございました。次回を楽しみにしております。
二万大塚古墳にまおおつかこふん
吉備路・二万大塚古墳
勝負砂古墳しょうぶざここふんの少し先にある前方後円墳です。
二万大塚古墳
真備町大字下二万字大塚
倉敷市指定史跡
この古墳は、東から延びてくる丘陵の先端に立地し、 高く大きく発達した前方部を北西に向けた二段築成 の前方後円墳です。後円部頂には石室天井石が数個 露出しており、横穴式石室をうかがうことができます。 現在、前方後円墳で、横穴式石室をもつ古墳は、 備中南部域では高梁川を隔てて東に総社市のこうもり塚、 江崎古墳と、西にある二万大塚古墳のわずか三基しか 知られていません。
二万大塚古墳は墳丘の形態や横穴式石室また、埴輪 と須恵器などから六世紀中ごろに築かれたものと 思われます。
倉敷市教育委員会
以上、現地の案内板から抜粋させていただきました。
鳥取・妻木晩田むきばんだ遺跡
妻木晩田遺跡1 妻木晩田遺跡2
妻木晩田遺跡は、今から約2000年ー1700年前に栄えた国内最大級の弥生時代のムラ の跡です。
この遺跡は、弥生時代後半のムラの様子を知ることができる大切な遺跡として、1999 (平成11)年12月22日に国の史跡に指定されました。現在は152ha(ヘクタール) が史跡に指定されていますが、総面積は170ha以上に及ぶと言われています。
中国の歴史書「魏志倭人伝ぎしわじんでん」によると、 そのころの日本は「倭国わこく」と呼ばれ、「邪馬台国 やまたいこく」「奴国なこく」「 投馬国とうまこく」など、小さなクニが各地に存在していました。 妻木晩田遺跡は、大山西麓一帯にあったクニの中心となるムラの一つで、ここには300年 間にわたる人びとの暮らしの積み重ねが残っています。
現在、洞ノ原地区を中心に遺跡の一部を公開しています。みなさんに「妻木晩田のムラ」 に生きた弥生人の息づかいを感じていただけたら幸いです。
鳥取県教育委員会
以上、現地案内板より抜粋させていただきました。

妻木晩田遺跡3
洞ノ原1号墓
むきばんだ遺跡で最初に造られた四隅突出型墳丘墓です。墳丘の裾及び斜面には、 ていねいに石を貼りつけています。北側の突出部がやや長く、踏石を並べて 墓道として使われたと考えられます。墳丘上には壺・甕・高坏等の土器が 供えられているのが発掘されました。
時期:弥生時代後期初頭(約2,000年前)
規模:長辺6.5m、短辺5.4m、高さ0.4m、突出部を含めた長辺は8.9m。
現地案内板より

妻木晩田遺跡4
晩田山古墳群
弥生時代後期後葉(2世紀後半)に最も栄えた妻木晩田遺跡も、3世紀になると しだいに衰えていきます。古墳時代になると建物がほとんどなくなり、古墳が つくられました。
この洞ノ原地区にも30基あまりの古墳があり、「晩田古墳群」とよばれています。 ここから環濠地区を見下ろすと小山が点々と見えますが、その一つ一つが古墳 なのです。
洞ノ原地区には弥生時代の墳墓群もあります。弥生時代の有力者も古墳時代の 有力者も、この眺めのよい場所で安らかに眠りたいと思ったのでしょう。
以上、現地案内板及び鳥取県教育委員会発行の「むきばんだ遺跡」より 抜粋させていただきました。
出雲・加茂岩倉遺跡
加茂岩倉遺跡1 加茂岩倉遺跡2
2000年の眠りから覚めた銅鐸
加茂岩倉遺跡は、平成8(1996)年10月14日、農道の工事中に偶然発見されました。 重機によって掘り起こされたおびただしい数の銅鐸。その一部は、発見者により工事現場 の片隅に集められ、土砂とともに斜面下に落ちていた銅鐸は、目の前にあった水田の畦に 並べられていました。
銅鐸が埋められていた穴(埋納坑)は、工事によってその大半が壊れていましたが、 かろうじてその一部が残っており、そこには約2000年前に埋められたままの状態で 身を横たえた銅鐸が姿を見せていました。
加茂岩倉銅鐸
加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸は、約45cm大のものが20個、約30cm大のものが 19個の、合計39個です。大きな銅鐸の中に小さな銅鐸を納める、いわゆる「入れ子」 状態で見つかっています。加茂岩倉銅鐸は、この「入れ子」状態の銅鐸埋納が調査に よって確認された初めての例となりました。
加茂岩倉銅鐸の特徴として特筆されるのは、銅鐸の表面に鋳出された写実性に富む絵画 です。シカ、トンボやイノシシ、カメや人面などの絵が、39個のうち7個の銅鐸に 描かれていました。そのほか、鈕と呼ばれる吊り手の部分に「×」印が刻印された 銅鐸が14個見つかっています。荒神谷遺跡から出土した銅剣358本のうち、344本 に同様の刻印が確認されていますが、こうした例は、これまでこの2遺跡出土の青銅器 意外には見つかっていません。また同じ鋳型で造られた同笵どうはん 銅鐸が15組26個もあり、近畿地方を中心に他府県に分布する同笵銅鐸も14個確認 されています。
以上、現地で配布されている雲南市教育委員会発行のパンフレットより抜粋させて いただきました。
出雲・荒神谷遺跡
荒神谷遺跡1 荒神谷遺跡2
荒神谷遺跡とは
荒神谷遺跡は、昭和58年(1983)年、広域農道(出雲ロマン街道)建設に ともなう遺跡分布調査で、調査員が田んぼの畦で一片の土器(古墳時代の須恵器) をひろったことがきっかけとなり発見されました。 遺跡の南側に「三宝荒神」がまつられていることから荒神谷遺跡と命名され、 翌昭和59年、谷あいの斜面を発掘調査したところ358本の銅剣が出土しました。
遺跡は、『出雲国風土記』記載の出雲郡いずものこほり神名火山かんなびやまに比定されている仏教山の北東3kmに 位置する斐川町神庭西谷にあります。銅剣が埋納されていたのは、小さな谷間の 標高22mの南向きの急傾斜面で、昭和60年には、その地点からわずか7m離れて 銅鐸と銅矛が出土しました。
銅剣358本
荒神谷で銅剣が発見されたとき、全国の銅剣出土総数は300本余りでしたが、 荒神谷では、4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土しました。 この発見は、わが国の弥生時代の青銅器研究の見直しをせまる大きな出来事と なりました。
銅鐸6個と銅矛16本
銅剣358本のすぐ近くに埋められていた銅鐸6個と銅矛16本の組合わせは、 これまでに例のないものでした。銅鐸には国内最古型式のものが含まれ、銅矛には 北部九州で出土する銅矛にみられる綾杉状の文様があるなど、荒神谷青銅器の発見は、 弥生時代についての興味と関心を大いに深めるきっかけとなりました。
以上、荒神谷博物館で配布されているパンフレット「荒神谷史跡公園」より抜粋させて いただきました。
写真左が発掘現場ですが、見たところ意外に浅いところに埋められていたようです。 なんとなく、急いで隠したといった感じを受けます。
吉備津神社改修工事
吉備津神社改修1 吉備津神社改修2 吉備津神社改修3

吉備津神社改修4 吉備津神社改修5 吉備津神社改修6

吉備津神社改修7 吉備津神社檜皮1 吉備津神社檜皮2

吉備津神社の改修工事を見学に行きました。
以下現地で配布されたパンフレットより抜粋させていただきました。
国宝 吉備津神社本殿及び拝殿保存修理一般公開
吉備津神社の歴史
吉備津神社は、大吉備津彦命を主神とし、数多くの神々が 祀られています。大吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子で、 四道将軍として山陽道に派遣され、朝廷に従わない鬼、温羅を 平定したとされています。
吉備津神社の起源ははっきりとはわかりませんが、平安時代の 史書『続日本後紀』に847年に従四位下の神階を授けるとの 記事があり、その頃には大社へと成長していたことがわかります。 その後、位階は次々と上がり927年の『延喜式』では明神大社に、 940年には一品の最高位を授かっています。 また、平安時代末の今様歌集『梁塵秘抄』には
「一品聖霊吉備津宮、新宮,本宮,内の宮、隼人崎、北や南の 神客人、艮みさきは恐ろしや」という歌がおさめられており、 その頃にはほぼ現在の姿に整備されていたと思われます。
吉備津神社本殿の特徴
吉備津神社本殿は1390年に勅命により足利義満が再興に着手し、 35年の歳月をかけて完成したものです。 屋根は二つの切妻屋根を縦棟によってつなぐ「比翼入母屋(吉備津) 造」と呼ばれる独特の形式で、大仏様の建築手法が随所にみられます。 平面は三間社の周囲を二重に拡張した形式をとり、建物面積258.838m2 を測る最大級の巨大な神社建築です。昭和27年3月29日国宝に 指定されました。
今回の修理は昭和31年の屋根葺き替えから約50年ぶりにおこなわれる もので、平成16年から平成20年の5ヵ年計画で行います。
(注)最後の写真は檜皮ひわだと竹の釘です。
岡山城
岡山城石垣1 岡山城石垣2
岡山城の発掘調査現地説明会に行ってきました。
今回発掘された二つの石垣です。奥側が宇喜多秀家の時代の 石垣で、手前が小早川秀秋が拡張したときの石垣です。
右の写真はこの石垣を外から見たものです。左の線ははっきり しませんが、当初の石垣の線です。右の線は拡げた石垣の線です。


岡山城金箔瓦 宇喜多家紋
左の写真は金箔が押された瓦です。右の写真は宇喜多家の家紋 五七桐紋の瓦です。


岡山城多聞櫓 烏城
左の写真は下の段の池田期の建物の基礎のようです。 そして最後に烏城の写真です。旭川をはさんで後楽園と 烏城という環境に恵まれた、岡山でもおすすめのスポットです。

史跡岡山城跡本丸本段・下の段 しせきおかやまじょうあとほんまるほんだん したのだん
岡山市教育委員会
本段の調査成果
本段高石垣の修理に先立ち、石垣の裏側の調査を行いました。
本段は江戸時代には藩主の日常生活の場である 本段御殿ほんだんごてんを中心に多くの 建物が建てられていました。
今回の調査でも、学校のコンクリート基礎きそ がたくさん築かれていましたが、花崗岩かこうがん の基礎石と凝灰岩ぎょうかいがん豊島石てしまいし)の溝が見つかりました。 これらは元禄げんろく13(1700)年に 描かれた『御城内御絵図おんじょうないおんえず』 にある多聞櫓たもんやぐらのものと考えられます。 また、小早川秀秋こばやかわひであきが 岡山城を拡げた時に埋め込まれたと考えられる、宇喜多秀家 うきたひでいえの時代に築かれた石垣も見つかりました。 石垣はほとんど加工されていない自然石を積み上げた野面積 のづらづみという積み方です。傾きは約60度と ゆるやかです。
遺物は宇喜多期の金箔きんぱく押し がわら、池田期の瓦、皿や茶碗 ちゃわん貝殻かいがら や魚の骨といった食物残滓しょくもつざんさい (ゴミ)、旧制中学校時代のインクびん、 三角定規やすずりといった学用品等が見つかり ました。
下の段(テニスコート跡地)の調査成果
遺構の有無は内石垣の状態じょうたい確認かくにんするために5カ所のトレンチ( 試掘壙しくつこう)を調査しました。うち 3カ所のトレンチで遺構を確認しました。
1トレンチからは建物の南東角の、3トレンチからは建物の東辺の、 4トレンチからは建物の南西角の基礎石が見つかりました。基礎石は 花崗岩で矢穴を残すものもあります。『御城内御絵図』に描かれた場所と ほぼ同じ地点から見つかったことから、池田期のやぐら くらのものと考えられます。 地中には当時の建物跡が良好に残っているものと思われます。また、 4トレンチでは高さ約3mの内石垣の基底部を確認しました。
鬼ノ城追記
tn
前回右回りをおすすめしましたが、気になりましたので 実際に回ってみることにしました。
今回は8才と5才の強力な応援団と一緒です。 やはり左回りよりは楽なようです。南門あたりから 坂は急になりますが距離が短いのかそんなに負担に はなりませんでした。 二人の元気に引っ張られたのか楽々と一周できました。 やはり右回りの方がいいようです。写真は第一水門を 過ぎて西門との中間点です。
鬼ノ城
鬼の城角楼
久しぶりに鬼ノ城へ行きました。目的は新しくなった 西門の写真を撮るためです。
周辺の整備もすすみ一大自然公園へと変貌しつつあります。 左の写真は入口から少し登って最初に出会う角楼です。

鬼の城西門1 鬼の城西門2

鬼の城西門3 鬼の城西門4
以上4点が復元された西門です。国道180号線からも かすかに見えるほど大きな建物です。 最初の写真に修復作業をしている方が写っていますが、 これから見てもその大きさがお分かりいただけると 思います。最後の写真は城内から撮ったものです。 下の門を閉めてしまえば、高い版築土塁に阻まれ 容易には攻め込むことはできません。


鬼の城版築土塁 鬼の城ビジターセンター
左の写真は第一展望台の近くで見つけたものです。 何の説明もありませんが、多分現地説明会のときに 使った版築土塁の模型だと思います。
右の写真は新しくできたビジターセンターです。 展示室、休憩室、トイレなどがあります。


鬼の城の地図

最後にコースの案内図ですが、西門が入口近くにあります ので、ついそのまま左回りに行ってしまいますが、できれば 元に戻って第一展望台から右回りにすすんだほうがよいと 思います。地図の「現在地」と書かれているあたりから 左回りで第一展望台まではかなり急な坂が続きます。 今回もスカートにハイヒールの方を見かけましたが一周する つもりでしたらまず無理です。軽装にタオルと水そして、 杖を持って歩く方もいらっしゃいます。特に靴は底が滑りにくくなって いるスニーカーかトレッキングシューズをおすすめします。