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吉備路放浪記(18) 取材・更新記録
桃畑に古墳ももばたけにこふん
松尾 岡山市松尾に妙なものがあるという情報をいただいたので、さっそく 行ってきました。なんと桃畑に古墳が点在していました。
どうやらこの山は古墳でおおわれていたようです。とくに 案内板もありませんし、何の説明書きもありません。

松尾 松尾 前の写真の右に見える笹の藪の中にこのような石室がありました。

松尾 松尾 畑の中には石室、あるいは石室が壊れたあとの石が 点在していました。

松尾 松尾 この畑の裏側には行っておりませんが、次回はこの畑の裏側を 調べてみたいと思います。

松尾 それにしても、どうしてこの山のこの畑だけに古墳があるのでしょうか? 一見して王墓山に似ているような気がしました。
秦廃寺はたはいじ
秦廃寺 秦廃寺 秦廃寺

秦廃寺 秦廃寺

以前から気になっていた、総社市の秦廃寺に行ってきました。 想像していたより小さく、山すそにひっそりとその面影を残していました。
岡山県指定重要文化財
秦廃寺(秦原廃寺)昭和三十四年三月二十七日指定
古代、日本に伝来された仏教は、聖徳太子の出現によりその興隆期を迎え、 大化の改新を経て、聖武朝にその最盛期を迎えた奈良仏教へと発展していきます。
この秦廃寺は、現在、不動の心礎及び礎石は各一をとどめるにすぎませんが、 出土する瓦等から、飛鳥時代に創建された岡山県内最古の寺院跡とされています。
当時の寺域は、伽藍配置等については明確ではありませんが、 寺域は、東西一町、南北一町又は一町半と想定されます。また、 伽藍配置については、寺域の南限、かつて柱根一を出土した付近に南門、 その北東の塔心礎の位置するところに塔、その西側に金堂、それれらの 北側に講堂跡が存在したものと考えられています。
ここから出土する軒丸瓦は、二種類が確認されていて、その一種類が、 岡山県内で最古の飛鳥様式の八葉単弁の蓮華文の瓦で、もう一種類は、 吉備式と呼ばれるものであります。
昭和五十七年三月
総社市教育委員会
勝負砂古墳しょうぶざここふん
勝負砂古墳 勝負砂古墳 勝負砂古墳

勝負砂古墳 勝負砂古墳 勝負砂古墳

勝負砂古墳 勝負砂古墳 勝負砂古墳

勝負砂古墳の現地説明会に行ってきました。残念ながら現地で配布された資料は 引用禁止となっておりますので、写真だけの報告となります。
一部は現地での写真、また一部分はパネルで紹介されていたものです。またパネル には次のような文章もありました。
「雄略朝」期の吉備地域
「雄略朝」期(雄略大王の統治期:5世紀後半)とは、日本の古代国家形成 プロセスのなかで、近畿を核とする中央の勢力が力をのばし、地方に対する 支配を強めた画期としてとらえられている時期です。
この時期の吉備地域については、古墳の規模が縮小するなどの現象から、 まさに中央勢力の支配強化に屈しつつあった「斜陽」の状況が想定される 場合がほとんどでした。
しかし、この時期の吉備地域の古墳や他の遺跡についてのデータは万全では なく、かならずしも「斜陽」とは想定しにくいような状況をものがたる資料も、 しだいに明らかになってきました。

真備地域の有力古墳は、吉備中枢部(総社市域〜岡山市西端部)の大形古墳の 造営が下火になるのと入れかわるように現れます。あたかも、旧来の中枢勢力 の没落に乗じて、周辺の新興勢力が台頭してきたかのような感をうけます。
このことは、近畿勢力との関係の変化に連動しつつ、吉備という地域内部 での政治的変動が生じたことをしめすと考えられるでしょう。
真備という地域にねざした調査研究は、古代国家形成期の日本列島史の 解明にまで発展していきます。
以上、現地のパネルから引用させていただきました。

勝負砂古墳 勝負砂古墳 岡山大学考古学研究室の皆さん、親切な対応と丁寧な説明をありがとう ございました。大変なご苦労だったと思います。
法蓮広堂山古墳群ほうれんひろどうやまこふんぐん
法蓮広堂山古墳群 法蓮広堂山古墳群 法蓮広堂山古墳群

法蓮広堂山古墳群 法蓮広堂山古墳群 法蓮広堂山古墳群の現地説明会に行ってきました。
この古墳群は造山古墳と作山古墳の中間地点に位置する三須丘陵にあります。
今回発掘されたのは、5世紀から8世紀に築かれた12基の古墳ですが 三須丘陵では大小300以上の古墳が確認されています。今回の発掘から この丘陵一帯には1000基をうわまわる古墳の存在が予想されるそうです。

写真から3000uという広大な調査範囲がお分かりになると思います。
この近辺に1000基以上もの古墳があるとすれば、造山、作山にはさまれた この一帯こそ、吉備の中枢であったということでしょうか?
八塚古墳
八塚古墳 八塚古墳 八塚古墳

八塚古墳 八塚古墳 八塚古墳

八塚古墳 八塚古墳 八塚古墳の現地説明会に行ってきました。
八塚1号墳は6世紀末から7世紀前半に造られたようです。
八塚3号墳は1号墳より若干古い6世紀後半に築造され、7世紀代まで数回の埋葬が 行われたそうです。

見た感じ、池の中から出てきたような印象を受けました。 現説資料によりますと、この赤磐市山口周辺には15もの古墳があるようです。
北房
コスモス コスモスで有名な北房に行ってきました。 ここは以前から是非行ってみたいところでした。
北房は定古墳・大谷一号墳など有名な古墳で知られています。

定古墳 定古墳 定古墳の駐車場にある石碑です。 ここには定古墳と定北古墳の二つの古墳があります。そして 定古墳は二つの石室を持っています。

定古墳 定古墳 これが定古墳ですが、竹藪の左右に石室の入口が黒く見えるのが お分かりになるでしょうか?石碑の案内には次のように書かれて いました。

この古墳は、それぞれに横穴式石室をもつ、東塚と西塚の 2基の方墳で構成されています。
石室は、いずれも古くから開口していましたが発掘調査の結果、 東塚の石室からは4基の陶棺が出土し、西塚からも6基の陶棺と、 木棺の痕跡がみつかりました。
東塚の石室からは、純金のリング2点や金糸をはじめ、鉄刀や 鉄鉾などの武器、金銅で飾った馬具、鉄製の鋤先や、須恵器・ 土師器など、多量の副葬品が出土しています。
純金のリングや金糸は、全国的にもめずらしいものです。
西塚の石室からも、方頭大刀と推定される刀の装具や、 馬具、鉄鏃と、須恵器・土師器などが出土しています。
陶棺の形や出土した遺物によると、東塚は、7世紀前半 につくられ、続いて西塚が築かれたようです。
なお、東塚の墳丘は、石垣状の段をもっており、そこには 数回の修築のあとが認められ、最終的には5段の構造と なったと推定されます。
定古墳は、この地域の特異な終末期古墳群のなかで、 最古の段階に位置づけられるものです。
また、写真はありませんが定北古墳については、次のような記述がみられます。
定古墳の背後に位置する丘陵のの斜面に築かれた、3重の列石を めぐらす整った形の方墳で、南辺で21.0メートル、東辺で25.3メートルの 規模をもっています。
南に向かって開口する横穴式石室は、この地域でとれる礫岩の切石で つくられており、全長10.2メートルをはかります。
石室からは、4基の陶棺と、1基分の木棺痕跡が確認され、銅椀の蓋や、 大刀、鉄鏃、斧状鉄製品や、須恵器などと、やや新しい時代の蔵骨品が 出土しました。3号陶棺の蓋と身には、「記」の文字が刻まれていました。
陶棺や須恵器などから、この古墳は、7世紀の半ば過ぎに築造されたことが わかっています。定古墳・定北古墳・大谷1号墳という首長墓の系譜が うかがわれ、石室に用いられた石材の加工技術にも、徐々に発達がみられ ます。
大谷1号墳 大谷1号墳 岡山県指定史跡
大谷1号墳
北房町上中津井に所在する大谷1号墳は、奥谷の見通しの良くない 南向き斜面に独立して築かれた7世紀後半の方墳です。
1988年と1993年に発掘調査が行われ、切石積横穴式石室を 埋葬施設とし、石垣を築いて五段に積み上げた、めづらしい形の 古墳であることが明らかにないりました。
この古墳に葬られた主は、貴重な副葬品とあわせて考えますと、 大和政権と深く関わり、しかも高位の人物と推定されます。
このような成果をもとに、古墳の復元・整備を行い、1995年に 完成しました。
北房町教育委員会


下村古墳 下村古墳

下村古墳 下村古墳
現地案内板には以下のように書かれていました。
下中津井の東側丘陵頂部に築かれた下村古墳は、径25m、高さ 5mの円墳です。
埋葬施設は南に開口する横穴式石室で全長12.3m、玄室は長方形で 長さ6.5m、中央幅2.4m、高さは2mあります。用いられている 石材は、あまり加工されていないため石室全体がやや粗雑にみえます。 羨道は長さ5.8m、幅1.7m、高さ1.5mあります。
石室内には土師質の陶棺の破片が認められました。
石室の様相から6世紀の後半に造られたと思われます。


荒木城御前古墳 荒木城御前古墳 荒木城御前古墳あらきしろみさきこふん
東塚は前方部を南西に向ける、全長約45mの前方後方墳です。
前方部の幅は約16m、後方部はやや長方形で、墳頂は平坦で小さな祠があります。
前方部の形態から3世紀の終わりから4世紀の古墳で、町内では最も古い首長墳です。
西塚は前方部を南西に向ける全長約63mの前方後円墳です。前方部は後円部より3m 低く頂部はほぼ平坦で、細長く前端があまり開かないものと考えられます。後円部は 径39mのほぼ正円で高さは6mあります。墳頂には径約16mの平坦部があり、小さな 祠があります。また、墳頂には中心から少し南に寄った位置に、墳丘主軸と平行して、 全長4.5m、幅0.9mの竪穴式石室があります。
長大な竪穴式石室があることから4世紀代の古墳である可能性が強く東塚に続く首長墳 と思われます。
以上現地案内板より

写真はありませんが、このほかにも立1号墳、2号墳もありました。
たち1号墳
立1号墳が所在する上水田地域は荒木城御前古墳をはじめとする首長古墳・寺院・ 郡衙ぐんがなどが集中し、原始・古代の地域史を考えるうえで 重要な土地柄です。
平成7年に発掘調査が行われ、墳長約90mの前方後円墳であることが明らかに なりました。葺石や埴輪は確認できませんでしたが、くびれ部の後円部より竪穴式石槨が 発見されました。
年代は墳形からみて5世紀代のものと思われ、吉備北部では最大級の古墳です。
立2号墳
この古墳を観察すると、推定墳長約69m、後円部推定径約30mで、前方部には墓地造成の ために大きく削平されています。北東方向に向く前方後円墳と観察されます。
郡神社 郡神社 郡神社

郡神社 郡神社 郡神社
町指定建造物
吉備津彦命の弟、吉備雅武彦命が、この地で亡くなられたため、「御陵」を造り、この神社を 祭ったといわれています。祭神は大吉備津彦命、吉備雅武彦命、考霊天皇です。
天正14年(1586年)に毛利氏の助成で再興され、英賀郡全体の守護神として備中松山藩主の 水谷、石川、板倉氏の崇拝も厚かったといわれています。
本殿は三間四面で、入母屋造り、正面千鳥、破風付向拝一間、向唐破風造り、檜皮(銅板)葺 です。本殿の彫刻は鎌倉時代と推定される、象鼻や四面の縁下にある十二支の彫刻は桃山時代 のみごとなものです。また、本殿は一本の欅の巨木から造られているのも珍しいものです。
北房町教育委員会