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吉備路放浪記(9) 取材・更新記録
石棺の底石 2002/12/19
真如院の石棺の底石 真如院にも石棺の底石があるとは知っていたのですが、何度行ってもわかりませんでした。
これも薬師寺先生に教えていただいて、やっとわかりました。
上に出ている部分だけで、約150cmでしょうか?埋まっている長さはわかりませんが やはり190cmくらいはあるのかもしれません。
伝賀陽氏館跡 2002/12/17
伝賀陽氏館跡 伝賀陽氏館跡 かなり古い建物の跡で、周りに堀が巡らされていた形跡があります。
有名な場所でいろんな資料に出てきますが、ここには案内板がありませんでした。 今まで名前だけは知っていたのですが、場所が特定できずに困っていました。
先日、偶然にも薬師寺先生にお会いして、このことをお話ししたところ連れていって くださいました。
先生の「吉備の中山」と古代吉備(吉備人出版)によりますと、賀陽(かや)氏とは
古代の備中国における最有力者であり、同時に吉備第一の大社吉備津宮の祭祀権を 握っていました。とあります。
薬師寺先生ありがとうございました。
辛川城 2002/12/16
両国橋から 中央に見える山が辛川城のあった山ではないかと思われます。
先日頂上まで登ってきましたが、それらしいものは見当たりませんでした。
この写真は、両国橋から写したものです。
以前、辛川は備中か?という疑問を書きましたが、このことについて再度考えてみます。
1)細谷川を挟んで東が備前、西が備中ということになっています。 そして写真は、細谷川から少し右を向いて撮影しています。
2)向こうに見える家並みは国道180号線沿いの境目と言われる地区です。
3)山陽道の吉備SAはもう少し東にあります。 以前、辛川の戦いはこのSAの南であったのではと、書きましたがそれはここに辛川の戦いで 活躍した武将のお墓があるからです。このことについては、後日ご報告したいと思います。
4)しかし、写真の中央の山の西麓で戦があったのなら、備中、備前は微妙です。
5)現地になにも案内板がありませんので、なんとも申し上げられませんが、もし細谷川が 備前、備中の境で、動かなかったとしたら辛川は備前ということになるのではないでしょうか?
やっと見つけた法螺貝の井戸 2002/12/15
法螺貝の井戸 法螺貝の井戸 やっと法螺貝の井戸を見つけました。
ただの井戸ではなく、立派な石垣で囲っていました。
深さは50-60cmです。
この井戸はいつからここにあったのでしょうか? 井戸があったということは、ここに人が住んでいたのでしょうか?
成親のお墓のすぐ下になりますが、なにか関係があるのでしょうか?
そして、なぜ法螺貝なのでしょうか?
法螺貝の井戸 2002/12/14
きょうは午前と午後の二回、法螺貝の井戸を探索に行きましたが、結局見つかりませんでした。
申し訳ありませんが、次回ということにしてください。
ついでに藤原成親のお墓に行きましたので、掲示板の写真を撮ってきました。
岡山県指定史跡
藤原成親遺跡
京都、鹿ケ谷において僧俊寛とともに平家追討の密議にやぶれ、俊寛は鬼界島へ、藤原成親は 冶永元年(1177年)この地「有木の別所」に流された。
成親は、有木山の中腹にある山寺(今なお十数個の礎石をのこす高麗寺か)で配所の月を 眺めるうち非業の最期をとげたという。
成親の供養の石塔は、荒れ果てていたが、明治四十三年整備され現在に至っている。
幕末の万葉調歌人として広く知られている、平賀元義は、この地での成親の最期について
「あたらこの成親がごときよき臣を有木の山のうもれ木にして」とうたっている。
岡山市教育委員会
以上のように書かれていました。写真は「吉備の中山写真集(1)」をご覧下さい。
なお、文中の「配所」という意味がわからなかったので、辞書を引いてみました。
三省堂大辞林によりますと
罪を得て流された場所とあります。
辛川の戦い前後 2002/12/02
備前概略図 今までのことを整理してみますと、左の地図のように備前と備中の境目になる児島湾の沿岸 では、あちこちで戦があったようです。
そして、その戦いの最終ラウンドが秀吉を迎えての高松城水攻めということになります。
常山城では女軍の物語、柳畑では多くの戦死者、高松城では清水宗治の切腹と悲しい話が たくさん残っています。
辛川の戦いは、たしか1579年ではなかったかと思いますが、自信がなかったので消しました。
吉備津彦神社の本 2002/11/24
以前、吉備津彦神社の本が11月末に出るとお知らせしましたが、すでにできていました。
さっそく買い求めましたので、目次をご紹介します。
目次
吉備津彦神社の由緒
御祭神
明るく開ける神域の空間
神の池の鶴島・亀島
樹齢千年の〃平安杉〃
東洋一・安政の大石灯籠
流造・元禄に再建された本殿
女性と子供の神・摂社子安神社
末社七社ー七つの華表
国・重文の太刀銘井上眞改
神々のかたち
心覚坊舜祐尊賀の活躍
カラフルな阿吽の狛犬
重源と吉備津宮常行堂/常行堂瓦
江戸時代初期、一級の甲冑
神宮寺の梵鐘
寄進状にみる戦国武将の興亡
空を泳ぐ鯉のぼり・端午の節句
こども神楽の奉納・子安神社例大祭
神が宿る元宮の磐座祭/神迎えと神送り
伝吉備津彦命御陵
一宮を美しく・花菖蒲祭り
随神門正面から太陽・日の出祭
深夜の祭り御田植祭
今日の御田植祭
秋の例大祭・流鏑馬神事
あとがき
吉備津彦神社・社殿方位図
神棚のまつり方
年問行事/式典ご案内

これを見れば吉備津彦神社のことが全てわかります。 お問い合わせは、吉備津彦神社社務所TEL086-284-0031まで。
どこかにチラッと私も出ています。
備中辛川の戦い 2002/11/24
境目 以前、備中辛川の戦いが気になると書きましたが、それは辛川は備中か?ということです。
写真の中で、鼻ぐり塚のあたりに、細谷川が流れており両国橋がかかっています。
そこから、高松城を結んだ180号線の近辺に境目という地区があります。 まさに、備前と備中の境目ではないかと思います。
さて問題の辛川の戦いは山陽道吉備SAの南あたりであったのではないかと思います。
そうすると、辛川は備前ではないかということになります。
ふとそう思っただけのことで、個人の憶測ですから、あまり真剣に考えないで下さい。