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鬼ノ城
きのじょう


鬼の城西門・拡大 鬼の城角楼・拡大 鬼の城屏風折れ・拡大


(左)西門 (中)角楼(かくろう) (右)屏風折れの石垣


国指定史跡 鬼ノ城

およそ1300年ほど前、大和政権により国土防衛のために築かれた古代山城とする説が有力である。
鬼ノ城は、標高400mの吉備高原の最南端に築かれている。眼下には、古代吉備の中心地であった 総社平野や足守川流域平野を望み、吉備の津(港)も間近い。

かつて、朝鮮半島に進出していた大和政権は、天智2年(663)朝鮮半島の白村江(はくすきのえ) の海戦で大敗し、唐・新羅(しらぎ)連合軍の日本侵攻を恐れ、九州ー瀬戸内海ー畿内の生駒山系 にいたる西日本の要所に大野城をはじめとする朝鮮式山城を築城したことが「日本書記」天智4年ー6年 (665−667)の条に記されている。

一方、日本書紀などには記載がないが、朝鮮式山城と同種遺跡と考えられている神籠石(こうごいし) 式山城が16城あり、鬼ノ城もその一つである。

鬼ノ城の地名の由来

鬼ノ城は古代の正規の歴史書には登場しないが、後世の文献である鬼ノ城縁起などにでてくる。
それによると「異国の鬼神が吉備国にやって来た、彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。

彼はやがて備中国の新山(にいやま)に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、 婦女子を掠奪したので人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた・・・。
これが一般的に温羅伝承と呼ばれる説話で、地名もこれに由来している。


鬼ノ城の構造と規模

鬼ノ城は、すり鉢を伏せたような形の山で、斜面は急峻だが頂部は平坦である。
この山の八号目から九号目にかけて、城壁が2.8Kmにわたって鉢巻状に巡っている。

城壁は、一段一列に並べ置いた列石の上に、土を少しづつ入れてつき固めた版築土塁で、 平均幅約7m、推定高さは約6mもある。要所には堅固な高い石垣を築いており、その威圧感は 天然要害の地であることとあわせ、圧倒的な迫力をもっている。

このように、版築土塁や高い石垣で築かれた城壁は、数m−数十mの直線を単位とし、地形に応じて城内外へ「折れ」ているとに 特徴がある。
城壁で囲まれた城内は比較的平坦で約30ヘクタールという広大なもので、 四つの谷を含んでいるため、谷部には排水の必要から水門が六ヶ所に設けられており、 また出入り口となる城門が四箇所にある。城内には、食料貯蔵庫と考えられる礎石建物跡や のろし場、溜井(水くみ場)もある。

この他に城内には貯水池と見られる湿地が数ヶ所ある。さらに兵舎、各種の作業場なども 予測されるが未発見である。

総社市(現地に置いてあるパンフレットより)



アクセス
岡山方面からは山陽道総社ICを越えてすぐ右折、約8.5Km。
砂川公園を目指して行ってください。砂川公園から約3Kmです。



近辺の地図は
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ワンポイント
切り立った岩山の上に築かれた山城で、門と水門が目立つ城です。 想像以上に大きな建造物のようです。
地形から考えてもこの場所にこれだけのものを作るということは、相当の労力が必要だったと 思われます。
石をくりぬいて柱の穴をほる、また城内の水を外へ排水するための仕組みなどかなり 高い技術力を持っていたと思われます。



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