三輪山古墳群
みわやまこふんぐん
石室の内部です。かなり大きな部屋でした。
左から、百射山神社(ももいやまじんじゃ)、宮山墳墓群、展望台古墳です。
上の石室を外から見た写真です。
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三輪山の遺跡群
三輪山は南北約1.2Km、東西約1.1Km、最高所は標高96.3mの半独立した花崗岩からなる丘陵です。
この丘を先人たちが利用しだしたのは約2000年前の弥生時代中期頃で、天理教三輪山分教会裏山遺跡や
殿山遺跡などの小集落跡があります。
その100年ほど後の弥生時代後期には、宮山を中心とした一帯をむらの墓地として利用していたようです。
しかし農業生産や手工業生産の進展と社会機構の変革は、平等であった弥生社会に支配者(首長)層を
生みだしました。宮山墳丘墓や柳坪墳丘墓は、彼ら支配者層の墓と考えられており、規模や構造など、
庶民の墓と大きな違いをみせています。
その後まもなくあらわれる古墳は、そうした関係がより具現化したものです。
展望台古墳は全長55m、三笠山古墳は全長70mで、ともに前方後円墳です。4世紀後半頃から系譜的に
つくられた首長墳と考えられます。また各尾根上にある約70基の径10m前後の小古墳は、有力首長を
支えた人たちの墓と思われます。
6世紀代になると、古墳の内部構造に横穴式石室を採用するという大きな変化が始まります。
この地域は横穴式石室を比較的早く採り入れた地の一つとされています。
6世紀後半頃からは横穴式石室が各地で一般的となり、20基ほどがこの丘陵にも築かれたようです。
7世紀代になると古墳の築造は急減し、権力表示は古墳から寺院建築に代わり、有力豪族たちは
競って各地に寺院を建立します。
三輪廃寺は、そうした古代寺院の一つと考えられており、建物の基壇らしい版築層や古瓦の散布が
みられますが、伽藍配置や寺域は不明です。
百射山神社は、927年に完成した延喜式神名帳にその名を残す官社で、一般に式内社とよばれる古社です。
総社市教育委員会
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アクセス
国道180号線、JA吉備路が近くにある市役所口交差点を南に3Kmほどです。
左手に武道館、スポーツセンターを見ながら小さな丘を超えるとすぐ左手に、宮山墳墓群の
看板が見えます。細い道を中へ入ると駐輪場があります。
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ワンポイント
楯築遺跡を思い起こさせる雰囲気です。
やはりここも古墳と神社がセットになっています。
中央の写真に小さく立て札が立っていますが、これが何号墳とか書いたものです。
無責任な言い方ですが、吉備の中山と楯築遺跡が一緒になったような古墳でした。
概略図
その他の写真
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