備前国一宮
吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)
主祭神◆天御中主命
鎮座地◆岡山県岡山市一宮1403

「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」(「古今集」)。

吉備の中山の東山麓に鎮座する吉備津彦神社は、古代より気比太神宮、吉備社、吉備津神社、 吉備津宮ともいわれ、文亀二年(1502)「備前吉備津彦神社縁起寫」にー前略ー備前鎮守一品 吉備津彦大明神、本朝神社始日、當社為権輿也、別而神□々々爾来代々帝王下勅言、寄國中貢米 官米、奉遂造営、正宮、本宮、拝殿、舞殿、楽屋、廳屋清涼殿、参籠所、不老門、百八廻廊、 二階楼門、備中備後二三之宮殿、惣社、両御前、神宮寺、七座奉□□□都合五拾一之殿宇、 七本花表柱、鏤金琢玉、西國旅行第一之社観也、仁明天王承和十年拾月廿四日、再官位贈送 一品爵位、同神主祝部許爵冠矣、神威赫々、霊験繁昌盆新焉、ー後略ーとあり、 当社は一品(いっぽん)の宮とも言われる。
(現在境内にある石燈籠、九基に元禄十年、奉寄進、一品社と彫ってある。)

亦当社は朝日の宮とも称され、本社、本殿は夏至の日、朝日を真正面に受ける。
本殿の背後、吉備の中山の山頂元宮にある磐座も同じく夏至の太陽に向かって鎮座する。

御祭神の吉備津彦命は、第七代孝霊天皇の第三皇子、比古伊佐勢理毘古命ともいわれる。 「第十代崇神天皇印綬を賜ひて四道に将軍を発遣し給ふ時、命は即ち西海道に将軍として 下り給ふ。忽ち吉備國を言向和して、永く仁政を施し、殖産興業に御心を用ひ給ひ、 人々を愛撫せられ、吉備の文化は燦然として興り、皇化八紘に振ふに至った。人々大いに 命を敬慕し、命神去り給ひて後、社をこの吉備の中山の元住まいの所に建て奉祀し、 尊崇の誠を效した。」

そうして当社は吉備の国(備前、備中、備後、美作、伯耆、四国、兵庫の一部加古川付近まで) 一宮と言われるようになった。亦、当地には有名な吉備津彦命の鬼退治の伝説がある。 即ち、吉備津彦命があのおとぎ話の桃太郎なのである。

御田植祭(八月二日ー三日)

当社には古く平安の昔より伝わる神事、御田植祭(おんだうえさい)(県指定無形民俗文化財)がある。 室町時代文明年間に作られたと言われる「備前一宮御神事之絵巻物」に、この神事は 旧暦六月二十八日に行われていたことが見える。

現在はそれを新暦になおした八月二日、翌日の三日と二日間行われる。 八月二日午後六時より厄神祭、午後九時より本殿祭、そして本殿祭より引き続き午後十時頃より 二日の主となる祭、御斗代祭が行われる。

翌日三日朝十時より本殿祭、そして午後四時より三日の主となる祭、御幡献納祭が行われる。 八月二日、午後九時より本殿祭が社殿(祭文殿と渡殿)において行われる。 神饌を供し、祝詞を奏上した後、田舞が奉納される。田舞に奉仕する乙女は、氏子中(地元の 中山小学校の高学年、中山中学校の希望者)から選ばれる。

唄方三人、舞女八人である。唄方は割り笏を手にして調子をとりながら歌う、この唄にあわせて 舞女たちが背に花笠をおい、手に稲苗を捧げ持って舞うのである。 御田植祭の最も基本的な要素をなす苗は、氏子中から世襲的にきまった家(現在はお宮の神饌田、 もしくはその氏子の田)で丹精こめて作られる。

本殿祭が終わると、前もって渡殿に供えられていた御稲苗(笹竹に御幣と一緒に付けた六本) を二台の御羽車に三本ずつ移す。 それが終わるとすぐに御斗代神事の行われる両棚(御旅所)に向う行列が二列整えられる。

行列は、先頭に先払二人(堤燈竹箒、ハッピ着用)、次に警衛二人(太めの青竹を持ちハッピ着用)、 次に太鼓獅子(小学校男生徒、白丁)五人、次に鼻高面付榊持ち二人(白丁)、次に伶人(楽士)、 大麻持ち(神職、淨衣)二人、御羽車(二台)唐櫃(御供物入りー五穀(玄米・ 玄麦・きび・大豆・栗)、酒、干し魚)二個、次に斎主二人(神職、斎服)、その他の奉仕の神職、 その後を氏子総代、一般参列者と列をなす。

行列は拝殿から出発して、まっすぐ表参道を正面大鳥居に向って進む。 途中、行列は一列ずつ左右にある神池の鶴島、亀島にある「お棚」と言われる一間四方の 水上の祭場に分かれて行く。

行列が「お棚」に到着すると、いよいよ本番の御斗代神事が行われる。 暗闇の中に、ぼんぼりのほんのりと照らす両棚の上では、この神事が二人の斎主だけによって 簡単な式典がおごそかに行われる。
両棚では同時に、しかも同儀式がなされる。まず、斎主は御羽車より三本の御苗をとりだし、 御棚の前方にある三本の竹の筒に立てる。 それから神饌を供え、鼻高面を供し、祝詞を奏上する。

(昭和初期の「岡山民俗叢書」、「日本民俗体系」には、深夜の祭壇で神主が池に向って祈って いると、池の水面に三株の稲苗が浮び出る。とあり、元禄十六年の「備前一宮大明神并御両神年中行事」、 また、江戸末期ごろの「東備郡村誌」等には神官により神池に御苗が植えられたと記されている。)

そうして、玉串を奉りて拝礼し、神事は一応終わる。 鼻高面を撤し、また行列をなし本殿に帰参する。 奉仕者、参列者一同金幣を拝載しこの祭は終了する。

以前は、この夜、当社境内は数百にのぼる露店や見世物小屋が、さしも広い境内にところ狭し とばかり軒をつらね、また昼間には牛市もあり(江戸時代には馬市があった)、そのにぎわいは 県下屈指といわれた。 今は昔ほどではないが、それでも当社の一番にぎやかで重要な祭である。

翌三日は御幡献納祭が行われる。 まず、前日の御斗代神事にさきだつ本殿祭と全く同じ式典を行う本殿祭が午前十時より挙行される。 そして午後四時より御幡献納祭が始まる。

御幡というのは稲作文化が伝来したときの舟の帆柱をあらわし、南方からやってきた稲作文化の 伝来を象徴するものである。 当社には稲作文化並びに製鉄の技が南方よりまず、当社、当地方へ伝わり、それより日本全国に 伝わっていった、という言い伝えがある。

御幡は竹棹に白木綿を舟の帆の様に付けたものである。 御幡に使う竹は、お宮の社務所前でお祓いを受け(白装束三人)た後、神社の近くの竹薮より 採取する。

長さ四ー五メートルの竹棹に、横竹三本をシュロ縄で縛りつけ、竹棹の先端より横竹の先にも シュロ縄を張り、それに白木綿の布三反を付ける(一本の御幡に三反づつ奉納者が奉納する)。 そして紙垂を五ヶ所、扇も五ヶ所にとりつけ、先端に大きな御幣、横竹に稲苗を六束、白布を六すじ 取り付けた御幡を一つ、大きな白うちわを三つとりつけた御幡を一つ作り、全部で十八本御幡を作る。

そうして一番先頭に先祓いの神職二人、次に太鼓獅子の子供等、次に笹竹に稲苗を付けた 白装束の男女(中学生)六名、大きな鋸、鍬、鎌持ち六人、伶人(楽士)、奉仕の神職等、次に 警衛、次に御幡が十八本、御幡献納者十数人、警衛、氏子総代、一般参列者と行列をなして 神社境内の南の方より出発し、神池の東外周をまわり正面鳥居より真直ぐ随神門に入り、 拝殿に最後に入る。

途中、伶人が楽を奏し、稲苗持ち男女六名が田歌を歌う。 その御幡の行列が長い列になって進む姿は、誠に壮観である。

また行進の途中神池の鶴島、亀島の池の岸に稲苗のついた笹竹を三本ずつ立て置く。 亦、正面鳥居を入った所で御幡に付けている扇の争奪戦が起きる。

これはその扇をとり、竹につけ田んぼにさし立てるとその田は豊作となると言われる故である。 そうして最後に奉仕者、参列者全員祭文殿に入り、再び、神饌を供し、祝詞を奏し、金幣を拝載し、 御田植祭全行事を終える。 真夏にみんな装束を着て誠に全員汗だくになっての神事である。

吉備津彦神社
宮司 守分清身(もりわけきよみ)

以上、「全国一宮祭礼記」鰍ィうふう
より、この吉備津彦神社の項をお書きになった、守分宮司のお許しを得て掲載させて いただきました。

いろいろ資料をご提供いただきました守分宮司さん、ありがとうございました。 また、こころよく掲載をお許しいただきました。お礼申し上げます。