鬼ノ城(1)
きのじょう

鬼ノ城・角楼跡
入り口から急な坂を登って行くと、まずこの角楼(かくろう)が見えます。

角楼跡
かつては、ここには裏門的な門跡の存在が推定されていたが、平成8年度の発掘調査で 城門ではなく、特殊な遺構であることが判明した。
ここは南北両方から入り込んだ谷の頭部にあたる背面側の要地で、正面側約13m、奥行側 4mが前方へ突出した長方形の張り出し部が、城壁に付設されている。 張り出し部の下部は、推定高さ約3mの石垣とし、その上部は土積みであったようで、 張り出し部の本来の高さは約5m以上と推定される。
石垣の間にはほぼ4m間隔で、一辺約50cmの角柱が立つ。 張り出し部の外側には、通路のような幅1.5mの敷石が巡っており、また、城内側には 角楼への昇降のための石段もつけられている。

張り出し部をもつこの遺構=角楼は、背面側からの攻撃に備えるとともに西門防備をも 意図した重要な防御施設と考えられる。
なお、角楼の存在、石垣の間に立つ柱、敷石が巡っていることは、日本の古代山城では 初の発見例である。
現地パンフレットより


西門跡
角楼から少し下ったところに、西門があります。

西門跡
平成八年度から三回の発掘調査を経て、城門の上屋(うわや)を除く構造と規模の 概要が判明しました。
この城門は、十二本の柱で構成される掘立柱(ほったてばしら)城門で、柱は床面下 2.2mの地山から立っています。
総間口は12.3m、奥行は7.6−8.3mで、中央の約4mが南西に開口し、出入口になっています。 床面は大きな石を用いた敷石とし、四段の石段を上がって城内に入ります。 床面の中央やや奥寄りに、一辺最大60Cmになる角柱の本柱があり、これに精巧に加工された 門礎(もんそ)を添わせています。 門礎には、コの字状のくり込み、方立(ほうだて)、軸摺穴(じくずりあな)、蹴放し (けはなし)、造出しが刻まれており、扉は内開きであったことが判ります。
他の柱も本柱に近い大きな角柱で、開口部の柱と柱の間は板壁であったことが、調査の 結果判明しています。 この城門は、全体に前方に張り出すように作られており、城壁の幅は約10ー10.5mで、 通常の城壁幅よりやや広く、高さも少し高く作られているようです。
城壁の内側には通路状の敷石が敷かれており、門外の敷石の一部は麓下からの進入路の 最終地点と考えられます。

城門を入ったすぐ奥で、四本の柱が見つかっていますが、これは侵入した敵兵を分散 させるとともに、城内の様子を窺(うかが)いにくくするための板塀がつくられて いたものと考えられます。
西門跡は、残存状況のきわめて良い城門で、その規模は日本の古代山城では傑出した ものです。城門の上屋については、屋根のない実戦的な構造であったと考えられます。
なお、調査後の遺構については、埋め戻して保護するのが通例ですが、公開の要望が 強く、このため柱状のものを立てるとともに板壁にして、遺構の保護を図りつつ 公開していますが、これはあくまでも将来の本格的な整備までの便宜的、暫定的な ものです。

平成十一年三月
総社市教育委員会


祠
西門を過ぎて、少し歩いたところにこんな祠(ほこら)のようなものがありました。
ほかにも同じようなものが、二つありました。

鬼ノ城
千数百年前、温羅(うら)と呼ばれる一族が朝鮮より渡来し居住したといわれており、 付近の城塁は、当時のなごりだともいわれています。
また鬼ノ城一帯は、平安時代に新山、岩屋とともに山上仏教が栄え、大規模な伽藍(がらん)が 多数立ちならび、西方教化の中心地であったといわれています。
総社市

以上のような案内板がありましたので、これは鬼ノ城築造以降、数百年のもので、鬼ノ城とは 直接関係のないものかも知れません。

水門
西門から南に回りこんだところに、水門がありました。
今も、少しですが水が流れていました。



敷石
これは、南門近くの敷石ですが、写真の右側に細い溝があります。
このような溝で集められた、水が水門に集められて上の写真のように城外へ 放出されていたのでしょうか?



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