ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Pilipp Telemann 1681-1767)についての学習ノート

2002年11月4日

海老澤敏監修『THE GREAT COMPOSERS 第33号 バロック・フェスティヴァル』同朋舎1994 pp.772-773

・1681 3/14 ニュルンベルク生まれ
・独学で音楽を学ぶ。
・12歳で最初のオペラを書く。
・音楽の道に進むことを反対され、法学生としてライプツィヒ大学に入学。
・聖トマス教会で自作品が演奏されたのを機に、ライプツィヒで活動するようになる。
・その活躍ぶりはライプツィヒ市の教会音楽の指導者を脅かすほどであった。
・1704年、ゾーラウおよびアイゼナハにて宮廷楽長をつとめる。
・ゾーラウでは最初の妻ルイーズ・エバーリンと結婚したが、出産時に死亡。
・フランクフルトでは教会のカントル(合唱長)となった。
・フランクフルトでマリア・カタリーナ・テクストルと再婚。
・1721年10/16、ハンブルクの5大教会の音楽監督に就任。ここでかつてないほどの多作を強いられる。(年間100曲のカンタータ、祝祭・葬送用のモテット。受難曲、オラトリオの新作を毎年発表。5大教会すべての祝典用音楽の作曲)
・世俗音楽の分野でも、市民のための音楽会の運営、オペラの制作。
・「教会の音楽監督が世俗音楽を演奏すべきではない」との批判があり、ライプツィヒの聖トマス教会のカントル職に応募し第1候補となり、ハンブルク市に辞表を提出。驚いた市当局が非難を撤回し俸給も上げ慰留につとめた(結果、聖トマス教会のカントル職はJ.S.バッハに決まった)。
・その後、自伝を著し、出版や販売を手がけ、自作品を印刷するための木版を彫ったりもした。
・音楽理論に関する本を書きたいと考え、1740年以降執筆にも取り組んだ。
・晩年に作曲したオラトリオの名曲には、1701年に知己となったヘンデルからの影響もある。
・1767 6/25 ハンブルクで没した。

今谷和徳『バロックの社会と音楽 下 ドイツ・イギリス編』音楽之友社1988)

(p.106)
○アイゼナハの宮廷について
・1703年ヨハン・クリストフ・バッハ(宮廷オルガニスト兼チェンバロ奏者)が亡くなる。・後任はヨハン・ベルンハルト・バッハ(1676-1749,J. S. バッハのまたいとこ)
 当時、君主ヨハン・ヴィルヘルム公はフランス趣味。
・1706年宮廷舞踏教師(オケの指揮もした)パンタレオン・ヘーベンシュトライト(1667-1750)の下で、1708年から宮廷オーケストラの合奏長となったのがテレマン。
・1709年には宮廷楽長となり、1712年にフランクフルト・アム・マインに移る。

(pp.162-167)
○ライプツィヒでの学生時代
・1702年ライプツィヒのオペラ劇場の指揮者として少なくとも4つのオペラを書き上演する。1705年にライプツィヒを去ってもライプツィヒのために作品を書いていた(1720年にはライプツィヒのオペラ活動は終わっていた)。
・1702年(クーナウとは別の)コレギウム・ムジクムを組織し、定期的に公開演奏会を行った(当時、同じく大学生だったヨハン・フリードリヒ・ファッシュ(1688-1758)も別のコレギウム・ムジクムを組織)。
・ツィンマーマン店…テレマン→ゲオルク・バサタザール・ショット(1687-1736,新教会オルガニスト)→J. S. バッハ
 リヒター店…ファッシュ→ヨハン・ゴットリープ・ゲルナー(1697-1778,ニコライ教会オルガニスト)

(pp.211-)
○ハンブルクでの職業作曲家時代
・1721年 7/10、ゲルステンビュッテルの後任としてフランクフルト・アム・マインから赴任。(没する1767年 6月までの46年間)
・ヨハネ学校のカントール、市の音楽監督、5つの主要教会(聖ペテロ、聖ニコライ、聖カタリーナ、聖ヤコブ、聖ミヒャエル)の音楽監督
・日曜日毎にあたらし教会カンタータを2曲、
・聖職就任式のための特別のカンタータ
・毎年一曲の新しい受難曲(結果、1722年以降毎年作曲され、《マタイ》6曲、《マルコ》2曲、《ルカ》5曲、《ヨハネ》7曲が現存!)

(pp.220-223)
・1722年にオペラ劇場の音楽監督も兼ねることとなった。
・ハンブルクのドイツオペラは、カイザーやテレマンによって盛んとなる。
・17世紀から公開演奏会が定期的に行われていた(マティアス・ヴェックマンやカイザー)。
・テレマンはハンブルクでもコレギウム・ムジクムを組織。バウムハウスという旅館のホールで定期的に公開演奏会を開催。
・1761年にはアウフ・デム・カンプ(ハンブルクにおける最初の演奏会場)が建てられ、会場をバウムハウスから移す。

○協奏曲 D-dur

・ヴァイオリンとトランペット
1. Vivace
・冒頭はトランペットの付点のリズム
・続いてヴァイオリンの登場
・それぞれの楽器の特徴を活かした旋律のソロ
・短いながら多くの要素がコンパクトに詰まっている。

2. Adagio
・ヴァイオリンのカンタービレで印象的なテーマが、ユニゾンを基本とした簡素で動きの少ない伴奏楽器群との対比により際立つ。
・トランペットはお休み

3. Allegro
・文字通り快活。動き回る。
・ここでも楽器の特性を活かしたソロの旋律

【マクダ・マルクス=ヴェーバー(那須田務 訳)「フィリップ・ピケット指揮、ニュー・ロンドン・コンソート」LONDONレーベル(POCL-1864)1996】

・ヨハン・ゲルステンビュッテルス(1650-1721。ヴィスマル出身のドイツの作曲家、器楽奏者。生涯の大半をハンブルクのヨハネウム・ギムナジウムのカントルを務めた。)の後任としてハンブルクに招聘された。
・1722年からオペラの監督を務めた。
・1723年(42歳)、最初の大きな祝典である海軍省(ハンブルクの通商航海を監督し保護するために1623年に創設された官庁機関)の100年記念祭。(4/6)
・「快い音楽」と評された。
・ハンブルクの詩人ミヒャエル・リーシーによって書かれた祝祭カンタータ("セレナータ ーまことにありがたきとがめー")と導入のための序曲からなっている。
・フランス風の序曲(連続する舞曲からなる組曲)は祝典を始めるための適切な音楽形式と見なされていた。
・当時好まれたバロックの音画的な手法による風や波の描写を行っている。
・曲につけられた主題的な標題がテレマン自身によるものかどうかは確実ではないが、同時代人の筆記ではある。
・祝典的なフランス風序曲に続いて、様式化された社交舞踏形式の楽章が続く。短いが簡潔な、水の静と動の状態を描写する。
・楽章を追うごとにテンポがどんどん速くなり、かつ動きが激しくなる。第7曲メヌエット「吹きすさぶ風」において頂点に達する。
・潮の干満の動きをジグで表す。
・船上の船員たちの素朴な表情をカナリー(カナリー諸島の原住民の踊りをまねた17世紀フランスのダンス。8分の3、8分の6拍子で強迫に付点音符を使い、ジグに似たリズムをもつ。)で表す。

管弦楽組曲(序曲) ハ長調《水の音楽(ハンブルクの潮の満干)》

Overture C-dur "Wassermusik"


I. 序曲
Ouverture
・緩・急・緩
・緩:落ちついた開幕。
・急:「わくわく」でオーボエとの協奏的。対比的。
   中間に緩をはさんで「わくわく」はまた続く。
・緩:

II.サラバンド:眠るテーティス
Sarabande: Die schlaffende Thetis
・ブロック・フレーテ2本。夢見心地でゆったりとすすむ。

III.ブレー:目覚めるテーティス
Bourr・e: Die erwachende Thetis
・華やかで軽やかなブレーのリズム。
・上向の第1動機で伸び上がる。
・ブロック・フレーテ2本。

IV. ルール:恋に落ちたネプチューン
Luore: Der verliebte Neptunes
・ロマンティックな淡い恋いの雰囲気。
・落ちついた足取り。

V. ガヴォット:踊る泉の精たち
Gavotte: Spielende Najaden
・テンポ軽快。
・中・低音域で動き、幻想的に踊り回る。

VI. 道化:戯れるトリトーン
Harlequinade: Der schertzende Tritonus
・華やかさが戻る。
(・トリトーンの力強さ?)
・引っかけるリズムの動機。
・特殊な奏法or楽器

VII. メヌエット:吹きすさぶ風
Der St・rmende Aeolus
・音画的な表現。遠くから風が向かってきて、吹き抜けていく。
・波の上を渡る風、巻く風、

VIII. メヌエット:快い西風
Menuet: Der angenehme Zephir
・ゆったりとした気分で風に吹かれる。
・リコーダー
・前のメヌエットと比べ、メヌエット的な要素が強く残っている。

IX. ジグ:潮の干満
Gigue: Ebbe und Fluth
・充ちてくる潮の様子を音画的に表現。
・次第にひいてゆき、音楽が終わる。

X. カナリー:愉快な舟人たち
Canarie: Die lustigen Bots Leute
・楽しげな舞曲。
・素朴さを残した2拍子系ダンス。

【エッカルト・クレスマン(上尾信也 訳)「ラインハルト・ゲーベル指揮、ムジカ・アンティクワ・ケルン」ARCHIVEレーベル(UCCA-3127/30)1989】

・帝国自由都市ハンブルクの市参事会がテレマンを市の音楽監督並びにヨハネウム学院のカントールに招聘することを決定。
・20歳(1701)にライプツィヒ大学の法科学生時代にカントール、歌劇場音楽監督、歌手、宮廷楽長、作曲家。

・1705年ゾーラウ(ポーランドに近い)にてプロムニッツ伯エルトマンに宮廷楽長として仕える。
・幾度かポーランドを訪れ、ポーランドの民俗音楽に惹かれる。

・1706-1712年アイゼナハのザクセン大公の宮廷礼拝堂付コンサート・マイスター。
・この時代にJ. S. バッハと知り合い、共に演奏を楽しんだりもした。
・C. P. E. バッハの名付け親にもなっている。

・1712年フランクフルト・アム・マインに移る。

・1721年にはハンブルクに移る。
・ヨハネウム学院(エリート校)での音楽授業、市内5つの主座教会への音楽の提供、オペラの芸術監督、バイロイトとアイゼナハの宮廷のための作曲活動(《ターフェル・ムジーク》では、この両宮廷の「教会附属聖歌隊長」という役職が記されている。)が主な職務。
・各種記念行事、就任式、葬儀、都市や領主の公式な祝典などの機会音楽。
・出版者、音符植字工。作品カタログを使った音楽営業活動。
・1728年出版《忠実なる音楽の師》は多くの種類の楽器のための、様々な難易度をもつ、あらゆる種類の室内楽を集めたもの。
・1728年《演奏技法ソナタ集》教育・啓蒙的要素。
・クラヴィーア、オルガン、ヴァイオリン、ブロックフレーテ、クヴェールフレーテ(トラベルソ)、オーボエ、シャルマイ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、コントラバス、ポザーヌを演奏し、楽器の特性と技術に精通していた。
・1718年作曲家について述べた一文「それぞれの楽器に自らの歌を歌わせよ。かくて奏者は喜びを覚え、汝もまた楽しみを得ん。」

○《ターフェル・ムジーク》について
・1621年トーマス・シンプソン(イギリス出身のハンブルクの音楽家)が出版。
・1668年G. W. ドゥリュッケンミューラー《ターフェル・コンフェクト(食卓のお菓子)》を出版。
・1674年ヨハン・フィッシャーがハンブルクで出版。
・1681年イナーツ・フランツ・ビーバー《メンサ・ソノーラ(食卓の音楽)》

○テレマンの《ターフェル・ムジーク》について

・「プロデュクシオン(Production)」という名で第1~3集に分けられた作品集。
・合奏の高等技術の養成のためでなく、室内楽を楽しむために書かれた。
・実際に宴会の食卓で演奏されたかもしれない。
・「ソナタ」「組曲」「協奏曲」より《ターフェル・ムジーク》の名のほうがよく売れるのではないかという目論見もあった。
・1732/33年の冬、リガにいる友人の商人J. R. ホランダーへの手紙
「私の楽譜販売業は、多くの子供たちによってその教育のために、私に多額のターラー金貨をもたらしています。そのため多くの心配事が解決しました。楽譜の販売は、私が生きるための畑であり、鋤であるのです。いまは満ち足りています。」
・《ターフェル・ムジーク》の予約購入のキャッチ・コピーとして
「この作品は、いつの日か私の名声を高めてくれることになるでしょう。あなたにこの作品の値段については、一時たりとも後悔させることはありません。」・・・予約購入者に限り8ライヒスターラー。
・206人からの予約。アウルリッヒやドルフシュタットといった小さな宮廷、ドレスデンのパンタレオン・ヘーベンストライトやヨハン・ゲオルク・ピゼンデル、ベルリンのヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ。パリ、リヨン、コペンハーゲン、デルフト、スイス、スペイン、ノルウェーからも。イングランドは1名ヘンデル(《ターフェル・ムジーク》16の楽曲からモティーフを借用している。ex. Op.7-4 《オルガン協奏曲》←《ターフェル・ムジーク》第2集 D-dur の組曲のアリアのモティーフ)。
・ギャラント様式の先駆者。《ターフェル・ムジーク》においてすでに見られる。
・1737年に8ヶ月にわたるパリ滞在は、《ターフェル・ムジーク》の人気のためにフランス人たちが準備したもの。
・1718年ヨハン・マッテゾン宛の書簡では「(協奏曲について)自分の心にまったく訴えかけてこない。」
・各集の楽曲が、組曲、四重奏曲、協奏曲、トリオ・ソナタ、ソロ・ソナタという順で配置。
・これらを通して、四重奏曲の形式の確立と発展に寄与。
・フランス様式が支配的ではあるが、イタリア、ドイツ、ポーランド様式の要素も含まれている。つまり、汎ヨーロッパ的な音楽である、と言える。
・自らの作曲家としての欲求を鳴り渡らせ、美と喜びとエスプリを兼ね備えた室内楽の真の傑作。

【上尾信也「楽曲解説」「ラインハルト・ゲーベル指揮、ムジカ・アンティクワ・ケルン」ARCHIVEレーベル(UCCA-3127/30)1989】

・市民の音楽愛好家が家庭音楽としての室内楽を楽しむための目的もないことはない。
・大きな編成もあるので、当時活発になりはじめていた公開の演奏会も意図していたのではないか。
・技術的には全くアマチュアレベルで手に負えないわけでもなく、プロフェッショナルの音楽家もアマチュアの愛好家もそれなりに演奏効果をあげられる、極めて穏やかなまた個々の演奏家の技量にあった創造性(インプリヴィゼーション)が楽しめる。
・17世紀以降の家庭音楽に欠かせない声楽曲というジャンルが全くない。これは1728年《忠実なる音楽の師》と好対照。
・新旧とり混ぜた楽曲形式や様々な編成、発想のプレゼンテーションの場と考えられる。
・曲想も17世紀的な古いものから斬新なものまで、イタリア、フランス、ポーランドなどの民俗的なものを含んだもの。
・「食卓に並ぶ多種多様、豪華絢爛な料理のような、器楽曲の百科全書」がテレマンの意図ではなかったかという気がする。
・1733年の初版時には「Musique de Table partage en Trois Productions (3つの曲集に分けられた食卓の音楽)」というフランス語の表題で出版された。
・全体は3つの曲集(プロデュクシオン production)から成る。
・各巻とも、序曲(組曲)ー四重奏ー協奏曲ートリオ・ソナターソロ・ソナター終曲の6曲で構成されている。
・序曲は3つともフランス風序曲(緩ー急ー緩)、標題音楽、舞曲、エールが続く組曲。
・四重奏曲は(古典派の四重奏曲とは異なり)3つの独奏楽器に通奏低音という楽器編成。通奏低音のソロとトゥッティは、場合により独立した動きをみせる。
・協奏曲は基本的には合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)の形をとり、独奏楽器群(コンチェルティーノ、ソリ)が合奏群(コンチェルト・グロッソ、トゥッティ、リピエーノ)に対抗する形態。コンチェルティーノは2声ないし3声で、独奏部では通奏低音を加えたトリオ・ソナタの編成。第2集のみ急ー緩ー急のイタリア風協奏曲の様式で、ほかは緩ー急ー緩ー急の教会ソナタ風の配列。
・トリオは(古典派以降のソナタとは異なり)上声に2声の独奏楽器と低声部に通奏低音を配した編成。時おり通奏低音であるチェロがソロ楽器として重要な位置を占める。
・ソロは、独奏楽器と通奏低音の対話といった典型的なバロックのソナタ。教会ソナタの形式(ソナタ・ダ・キエザ)。四重奏曲とトリオでもこの形式(第1楽章に重々しい模倣様式の緩楽章、第2楽章にフーガ風の急楽章、第3楽章にカンタービレでホモフォニックな緩楽章、最終楽章にフーガ風の急楽章を配している)。
・終曲は冒頭の序曲(組曲)と同じ楽器編成。急ー緩と急のダ・カーポ
・中心的な役割を占める独奏楽器がある。第1集ではフラウト・トラヴェルソ、第2集ではヴァイオリン、第3集ではオーボエ。これらの楽器は、それまでのリコーダーやヴィオラ・ダ・ガンバに取って代わって人気が出てきた楽器であり、アマチュアの楽器というよりプロフェッショナル、ヴィルトオォーソといった芸術家の手に委ねられることが多い。

○協奏曲 ヘ長調(Concerto F-dur)

・第2集(PRODUCTION II)の第3曲。
・第1曲序曲(組曲)はD-dur,
 第2曲四重奏曲はd-moll,
 第4曲トリオはe-moll,
 第5曲ソロはA-dur,
 第6曲終曲はD-dur。
・1. Allegro
・トゥッティが5回繰り返される間に3つのヴァイオリンの技巧的なソロが織り込まれている、典型的なリトルネッロ形式。

・2. Largo
・d-moll
・3つのヴァイオリンの静謐な対話で、時に対位法的にまたある時は旋律的。

・3. Vivace
・8分の3拍子。フーガ風トゥッティをもつリトルネッロ形式。

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佐々木幹雄