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次男が不登校になって、めぐりあった先生は、全部で6人。6人6様?色々な出会いがありました。しかし息子が不登校になっていなければ、記憶も薄い、風の様に通り過ぎた先生だったかもしれません…し、またこんなに印象に残ることもなかった訳ですから。
小学校4年で転校した時の担任は、おおらかな担任でした。息子が算数の宿題が完全にできずに、朝行き渋った時には、学級を放ってやってきて、叱ることも登校を促すこともせず、息子の隣に寝そべって「三国志」(マンが)を3冊読んでいました。 5.6年生でクラス替えがあり、持ち上がった先生は、ハツラツとした元気満々の先生でした。息子は5月の体育会の応援団員に選ばれ、ハードスケジュールをこなし、体育会が終わると、燃え尽きたように登校出来なくなりました。朝の出勤まぎわに、息子がトイレに入りこんで出て来ないのは、非常に苦痛でした。
担任の「毎日でも迎えに来ます」という気迫に満ちた声が、地獄からの救いの声に聞こえました。その頃の一番の心配は、友達ができなくなるのではないかという不安でした。
担任も、休みはじめた息子の説明をクラスでしてくれたのですが、 放課後遊ぶのを拒否した友達も、朝は迎えに来ます。同じ行動、同じ釜の飯で初めて友達関係ができるのかな?と思いますが、これも学校の中に巣くってしまった価値観なのでしょうか。でも、その頃はドップリつかっていた私でした。 管理が厳しい学校では、特に自分のクラスから不登校を出すという事は、担任にとっても恥だったようですし、その指導を疑われることだったようです。 担任は、校長に息子のことを報告していたようでしたが、私のことも、放任の親というニュアンスで伝えていました。校長と話をしたときは、初対面なのに「仕事を辞めて、息子の生活を建て直すのが、親としての義務ですヨ!」と一喝されました。5.6年生の担任が「仮面うつ病」で病院に通っていますと打ち明けられた時には、私のほうがビックリする次第でした。
卒業式に参加できずに、校長室で遅れて卒業証書をもらいました。校長のはなむけの言葉は、 この言葉通り、6年で通い始め、中学になってもセンター(松風ではありません。福岡市教育センターのこと)通いをしたのですが…。小学校で感じた、不登校に対する偏見からくる不利益を少しでも軽くするには、週1回のセンター通いも致し方なしと考えたからです。
しかし、センターに通った事は両刃の剣になりました。毎日苦痛だった欠席連絡からは開放されたし、忙しい毎日の合間を縫って、息子とのコミュニケーションを取る日とはなりました。 中1の担任の先生とは、マメに連絡を取りました。大きなキャンプなどの行事の前には、本人不在で説明会にも参加し、懇談会にも行ったのですが、「お母さんは、子どもを近視眼で見てる」と言われる始末でした。 2,3年の担任は、例え学校に来れなくても、基礎学力はつけますヨという先生で、小学校からゲーム三昧の息子に、小学校からの復習を、空き時間をやりくりして家庭訪問の中で教えてくれました。息子もそれを拒みませんでした。内情がわかるだけに、私も頭が下がる思いでした。(筆者は学校勤務) その頃息子は、自分の中に確信を持ちたかったのでしょう。朝新聞配達をやり、カナダ旅行などにも行きました。その事を担任に話をしましたが、そんな事ができるなら学校へとは言わずに、息子の成長を受け止めてくれました。そんな担任だったのですが、結局中学校は3日の登校で卒業しました。
進学した青松高校の通信科は、5月で行けなくなり、1年半のブランクがあって、18歳で立花高校に入学しました。 あと1年で卒業と胸をなでおろす暇もなく、3年進学間際に、担任とけんかをして学校を辞めてしまいました。その頃には、私も「何が来てもビクともしません!」という心構えが出来ていて、「え〜い!ママヨ」とばかり、息子が川、私が浮かぶ葉っぱ、その流れに従って生きています。
10年の歳月の間には、たくさんのことを学ぶました。
これは私が学んだ事のほんの一部なのですが、息子本人はもっと深く考えたのではないでしょうか…? |