連載エッセイ 思い起こせば…

第4回 息子のこだわり



 思い起こせば、不登校になってから息子は私にいろいろな症状を出して訴えてきました。
まず手始めに朝の登校前の腹痛。これは小学校5年生の頃ですが、登校前にトイレの前にかばんを置いて入り込んだら、30分も40分も出てきませんでした。毎日のことなので、こちらが根負けをして放ったらかして出勤せざるを得ませんでした。が…まだ放課後には、サッカーをしに学校に遊びに行ける状態でした。

 6年になると、4月から(教育)センター通いをするようになりました。
 また、学校に行かなければいけないという気持ちが働いていたのでしょう。夜は早く寝なくちゃという気持ち、しかし朝は起きられない、と交錯しているようで、毎晩2〜3時間おきに私の枕元にやって来ては、眠り薬はないかと聞くので、私もビオフェルミンの錠剤を粉にしては「ハイ、お薬ョ!」って渡していました。

 そんなもんで気休めにもなるはずがなくて、何回もやって来てはその繰り返しでした。そのうち一晩中起きて朝を迎えるようになり、ファミコンの音が聞こえ、ピンポンピンポンと鳴り響いていました。そのあい間に「ア〜」と深いため息が聞こえ、その声は胸をえぐるような深いため息でした。

 学校の行事のたびに、友達が突撃隊のように1階のフェンスを乗り越えて迎えにやってきて、窓越しに「いるか〜?」と探すので、カーテンをすべて閉め篭城する様になりました。
また、祖母が早朝迎えに来るとの連絡が入ると、水筒を持って押入れの天袋にもぐりこんでいました。
 4年生までまめに私がつれていった床屋にも行かなくなり、髪は伸び放題。小学校の卒業証書を、私の出勤に合わせてもらい2人で取りに行った時には、髪は肩までかかるようになっていました。

 中学校に上がる節目には、本人も「小学校には行けなかったけど、中学は絶対行くよ」と口癖のように言っていたので、私も一抹の不安はあっても心は踊っていました。
入学の2日〜3日前に、本人も決心して長い髪を切ってくれと言うので、初めて息子の髪を散髪しました。まったくの素人で、こけしのような頭になってしまい、本人も短すぎたとぼやくので心配だったのですが、入学式の当日は行けたので安心しきっていました。

 その日の学活では「あくび」ばかりをし目立っていたらしく、教室の後ろに並んでいたお母さん達が、
「見て見て、あの子あくびばかりしているよ」
とささやいている声が耳に飛び込んできて恥ずかしい限りでした。それが余裕とばかり思っていた事が、そうではなかったと思ったのも、3日目からは元の状態に戻ってしまったからです。中学卒業まで、センターに行く以外は登校しませんでした。

   外に出なくなったため、本人の要望は私が一手に受けていました。新しいファミコンのカセット買いからビデオどり、注文の本など…。
 新しいファミコンを買った時には、同時に攻略本を買いにリーブル天神から積文館、booksホンダと駆けずりまわり、カセットの発売日には、ブルートからカメレオンショップから電話帳で回れる範囲を調べ、駆けずり廻るという日々でした。
 夜はファミコンの凄い音が聞こえていました。小学校の頃のようなスーパーマリオの「ピンポンピンポン」という音ではなくて、「ダダダダダー!」というような戦闘音ばかりが聞こえ、「畜生ー!」とか「殺してやる!」という物騒な声が聞こえていました。今ではその頃のカセットはお蔵入りをして、もう見向きもしませんが、とめどなく次から次へとせがまれたと思います。
 親の会でも時折話題になりますが、何年駆けずり廻ったらいいのかねーと不安になりましたが、2〜3年はパシリに徹していたように思います。

 物だけではなく手を洗いにしょっちゅう立つようになり、
「アライグマラスカル君(私があだ名をつけたのですが)今手を洗いに立ったなー」
と、1日何回もその姿を遠目にして眺めていました。手首の皮はカサカサになり網目状に血がうっすらとにじむようになっていました。

 その頃、同時に食べ物も受け付けなくなりました。1日1食、本人が食べ過ぎたと思った時には、次の日ガンとして食べないので、何日も何日も何ヶ月も続くうちに、私も食べる量は本人に任せるようになりました。しかし、だんだんひざの皿が丸く浮き上がってくるのを見ると、ポトンと涙がこぼれそうになりましたが、ただ見ているだけでほかに手立てがありませんでした。

   この三年間は、また最悪というぐらいの兄弟の仲が悪い時期でした。長男も3ヶ月ほど不登校(中2の1月〜3月まで)だったのですが、中3になると一転して無遅刻無欠席とがんばり、高校に進学。早朝の補習やら週3回の塾通いをこなす程ハードな生活だったので、鉾先が毎日ノラリクラリしている様に見える弟に向かったのでしょう。しょっちゅう接触しては、本棚がドーッと倒れるほどひどいけんかをしていました。次男は彫刻刀の小刀を握って、部屋に入ってこられたらいつでもヤル気でいましたし、兄の方も構えていたので、本人達の間に部屋をとって、接触しないように気を配っていました。

 ある日、兄の「おまえは人間のクズ!」といった言葉に逆上し、包丁を持ち出して
「お母さん、あいつを殺していいか」
と聞きました。私も動揺し、ピンポン玉のようにあれこれ考えをめぐらせたのですが、
「それはダメだ」
とありきたりの答えしか返せずに、それを聞くと次男は黙って出ていってしまいました。その夜遅くかかってきた母の電話で、真冬にハダシで5時間かかって母の家まで歩いていった事が分かり、ホッとしました。

 母のところには1ヶ月ほどいました。
 私の育て方が甘すぎると常々思っていた母は、朝の6時から散歩、昼は机に座らせて勉強、と鍛えていました。が、1ヶ月で母が音を上げたのと、本人が帰りたいといったので迎えに行きました。長男の大学進学の選択に合わせて、長男に遠まわしに県外の大学に勧めたのも、この事があったからです。この事があってからか解りませんが、次男も自分の中に確証が持ちたかったのか、早朝の新聞配達をやってみたいと言い出しましたので、問い合わせをして、募集をしているところを探しました。これは、引っ越すまでの1年半続きました。

 中学を卒業と同時に、ほかの町に引っ越しました。進学した通信制高校には近くなりましたが、5月に行かなくなってしまいました。それから1〜2年は相変わらずファミコン三昧でしたが、手洗いの回数が減り、少しづつ食事をとるようになっていました。買いたいものがあれば、外に出るようにもなりました。

 1回だけ私の行き付けの美容院へ行った事があります。なじみの店長に事情を話して、夜9時の閉店まぎわに、他の美容師を全員帰しての気の使い様でした。本人もその髪型が気に入ったのですが、その1回しか行きませんでした。髪が伸びた分髪形に合わせて切ってくれと言うので、形がくずれないように切っていましたが、何回も散髪する間に元の形がわからなくなってしまいました。
 本人の、横が長いだの髪を少なめになどの注文に合わせているうちに切り過ぎてしまい、しばらくは髪が伸びるまで2〜3ヶ月は外に出ないという状態を繰り返していました。

 現在はここ1年くらい私も髪を切った事がなく、前髪が顔を覆ってしまい、じゃまだからバンダナを準備してくれと言って、くくっていました。そのうち自分でバサッと切ってしまって、後ろ髪は手に余ったのかゴムでくくるようになっています。この髪型が気に入ったのか、私も見慣れたのか、なんとも本人になじんで見えるのが不思議です。

   年月を振り返ってみても、嵐のように吹き荒れた感じがします。息子を腫れ物を触る様に全く心が見えなかった頃、自分自身も悩みの渦中にいながら、「自分の息子を信じろ!」「がんばれとは絶対に言うな!」というその二言とは私の心の中にしっかりと残ったのです。しかし当の本人は、「そんな事言ったけ?」といまではケロリと忘れてしまっているようでした。