※聖書は日本聖書協会発行 「新共同訳聖書」から引用させていただいています。

                      神を忘れない人生 

                            お話 牧師 佐々木  稔 
ルカによる福音書
 12章1節〜10節

 12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

はじめに

 考えてみますと、人は、忘却するもの、いろいろなものを忘れるものです。昔、ジャイアンツの長嶋茂雄選手が、子供の一茂さんを球場に残して、忘れて帰ってしまったという有名な話があります。忘れることは、もちろん、わたしにもあります。下の書斎にいて、忘れ物を取りに、2階の牧師館に上がりますが、上がると、何を取りに来たのか忘れてしまい、何も持たずに、また、書斎に戻ることがあります。皆さんもいろいろなものを忘れるでしょう。

 ずいぶん前ですが、ある人とお話をしていました。すると、その人は、人間がいろいろなことを忘れるということは、いい面もあるのだというのです。わたしは、エーッと思いました。その人は、もし、人がすべてのことを何でも忘れないで覚えていたら、困ることもたくさんあるのではないかというのです。すなわち、人生には、つらいこと、いやなこと、苦しいこと、恥ずかしいことなどもいろいろある。それらをすべて忘れないで覚えていたら、人間は苦しくてやれないのではないか、忘れるということがあるから、やれるのではないか。だから、忘れるということにも、よい面があるのではないかというのです。わたしは、忘れることにもいいことがあると聞いてびっくりしたのを覚えています。

 確かに、そう言われてみれば、人生には、忘れたいこともあるかもしれません。また、忘れた方がよいこともあるかもしれません。でも、人生において、他のことは忘れても、決して忘れてはならないものもあります。これを忘れたら、幸せになれないものがあります。それは、もちろん、神です。わたしたちを愛して、恵みを与えてくださる神を忘れて生きる人生に真の幸せはないのです。また、自分の大切な魂への霊的配慮を忘れて生きる人生にも真の幸せはないのです。すなわち、わかりやすく一言で言えば、霊的なもの、スピリチュアルなものを忘れて、この世のものだけで生きようとする人生には、真の幸せがないということになります。これが、キリストが教えたことであり、聖書全体が教えていることです。

そこで、このことを、端的に印象深く教えている、愚かな金持ちといわれるキリストのたとえ話を、本日はします。一度聞いたら、生涯、忘れられないたとえ話でしょう。このお話を通して、わたしたちを愛してくださる神を忘れず、神とのまじわりで魂が満たされる真に幸せな人生を、喜んで歩んでいくことを学びたいと思います。

1、愚かな金持ちのたとえ話が、語られるきっかっけは、遺産分配問題です

 まず、わたしたちは、愚かな金持ちのたとえ話が、語られるきっかっけから見ていきましょう。すると、きっかけは、キリストが、人々、群集に大切なお話をしているのに、1人の人が、それをさえぎって、遺産をめぐる争いを解決してくれるように依頼したことにあります。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」とありますが、1世紀のイスラエルにおける遺産分配は、どのようになっていたのでしょう。

 すると、長子、すなわち、その家を受け継ぐ長男が、次男以下の他の兄弟たちの2倍を受けることになっていました。たとえば、当時は、子供が多かったのですが、息子が5人いたとします。すると、1を足して 6にして、父親の遺産を6等分します。そして、その6等分のうちの2等分を長男が受けます。後の4等分を次男以下の4人の兄弟が、1等分ずつ受けます。ですから、長子・長男が必ず、次男以下の他の兄弟の2倍受けるという決まりでした。これは、旧約聖書の申命記21章15節から17節に記されています。

 ルカによる福音書に出てくるその人に、兄弟が何人いたかまでは、わかりませんが、兄弟同士で骨肉の争いをしていたのでしょう。分配規則があるのに、その規則を無視して、長子・長男が全部を1人占めしようとして、次男以下の他の兄弟たちに少ししか分けなかったのでしょうか。それとも、規則にしたがって、ちゃんと分けていたのに、次男以下の他の兄弟たちが、もっと取ろうとしていたのでしょうか。あるいは、双方が、たくさん取ろうとして、お互いに泥試合をしていたのでしょうか。

詳しいことは書いてありませんが、いずれにしても、父親の遺産をめぐって骨肉の争いをしていました。そこで、当時は、裁判に訴え、裁判官の判決を求めるとか調停人を立てて問題解決を図るということが折々にありました。また、調停を、宗教の指導者に依頼するということもありましたので、群集の1人が、宗教の指導者と見なされたキリストに解決を依頼しました。

でも、キリストは、遺産問題の解決には、入ってきませんでした。なぜなら、遺産問題を扱うことは、神の子にして救い主メシアであるキリストの働きに属さないからです。それは、他の人々に任せればよいことだからです。キリストがなすべき働きは、もっと根本的な人の救いに関することです。

しかも、その人が、イエス様に遺産問題の解決を依頼したのは、健全な分配を健全な精神で望んでいたのでなく、遺産をできるだけ多く自分のものにしたいというきりがない欲望のため、すなわち、貪欲のためでした。イエス様だって、こう言っていたぞと兄弟に言って、自分が少しでも多く遺産を手に入れるためだったのです。悪く言えば、イエス様を利用することになります。

ある注解者は、もう1人の兄弟もその場にいたであろうと考えます。すなわち、イエス様に解決を求めたその人の兄弟もその場にいた。そこで、その人は、イエス様、わたしのそこにいる兄弟は、自分ばかり遺産を多く取ろうとしているので、わたしにもっと多く分けるように、イエス様から言ってくださいよという意味で、イエス様を味方にしようとして依頼したと理解します。実際、その人の兄弟も、そこにいたのかもしれません。いずれにしろ、その人は、イエス様を自分の味方につけて、遺産相続を有利にしようとしたのです。人間というのはそういうものなのです。人間は貪欲で、もっと欲しい、もっと欲しいと動くのです。貪欲はきりがないのです。飽くことを知らないのです。

でも、イエス様は、その人の心の動機をちゃんと見抜いています。そんなことに巻き込まれるお方ではありません。そこで、その人の貪欲を見抜いて、厳しく拒否します。言い方も厳しい言い方になっています。そこに、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」とありますが、実は、もともとの言い方は、「人よ、だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」となっていて、「人よ」という呼びかけの言葉が、わざわざ最初に入っていて、厳しく拒否したことを意味します。では、どうして、その人は、イエス様に、遺産をめぐる争いにおいて、自分に有利な発言をイエス様にしてもらおうとしたのでしょう。すると、この世の財産がたくさんあれば、幸せになれると思っていたからです。

でも、この幸福観は、間違いです。なぜなら、魂のある命をもつ人間の真の幸せは、この世の富や財産をたくさんもつことにではなく、自分に魂のある命を与えてくださった創造主なる神との豊かなまじわりにあるからです。人の真の幸せは、物にあるのでなく、愛の神との豊かな人格的まじわりにあるのです。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」というのは、人の真の幸せについての聖書全体の教えです。わたしたち、日本の人々は、人の命と聞くと、人の心臓が動いて生きているのが、人の命と考えると思いますが、神の民のイスラエルは、違うのです。イスラエルの人々は、人の命、すなわち、人が生きているということを神との関係で考えます。

旧約聖書の創世記2章6節、7節で考えます。すなわち、人間は、万物の創造主なる神により、体は土の塵で造られましたが、さらに、鼻から、命の息といわれる魂を神により、吹き込まれて、はじめて生きるもの、すなわち、命をもって生きる者になったことを、旧約聖書を通し、教えられてきました。こうして、人間は、他の動物と違って、霊的存在で、魂のある命をもって、神との人格的なまじわりに生きる者に造られたことが、人間の比類なき価値になりました。それゆえに、動物と違って、魂のある命をもって、神との人格的なまじわりに生きる者に造られた霊的存在である人間の真の幸せは、そのような価値ある者に造ってくださった愛の神との人格的な豊かなまじわりにあり、富や財産をたくさんもつことにはありませんでした。

確かに、神との人格的な豊かな交わりに生きる霊的存在である人間も、この世で生きていくのに富や財産が必要です。しかし、富や財産が、神との人格的まじわりの代わりになるわけではりあせん。神との人格的まじわりがなければ、もはや神との関係において、人間は、霊的に死んでいることになり、どんなに、この世の富や財産があっても、真の幸せにはなれないのです。神との関係が壊れていては、真の幸せになれないのです。建て直しをしなければなりません。

 ですから、キリストが、「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」というとき、このような旧約聖書の教えの上で語っています。キリストが出現してから書かれた新約聖書を理解するためには、キリストが出現する前に書かれた旧約聖書の教えが前提されていることを、みんなで覚えましょう。日本の人々がもつ命の理解で読んだのでは、意味が不十分になります。

 魂のある命をもつ霊的存在である人間の真の幸せは、富や財産になく、愛の神との豊かな人格的なまじわりにあるというキリストの教えは、すばらしいですね。本当にそうです。もし、そうでなければ、逆に困るでしょう。もし、人間の真の幸せが、富や財産の多さにあるなら、ごくわずかの人々しか、真の幸せになれないでしょう。富や財産をたくさんもっているセレブといわれる語句少数の人々しか、真の幸せになれなくなり、大多数は幸せでなくなり、それでは困るでしょう。富や財産の多さに関わりなく、だれでも、どの人も、真の幸せになれる道がなければ、困るでしょう。だれでも、どの人も、自分は、生まれてきて、本当に幸せであった。自分は生きてきて本当によかった、幸せであったといって、人生が終われなければ困るでしょう。

 でも、安心しましょう。富や財産の多さに関わりなく、だれでも、どの人も、真の幸せになれる道があるのです。いつくしみ深い天の父なる神が、キリストを通し、ちゃんと用意していてくださっているのです。ですから、だれでも、望めば、真の幸せを自分のものにできるのです。そして、それが、神との関係を大切にする信仰による道です。真の幸せは、魂のある命をもつ霊的存在であるわたしたちが、信仰により、神との豊かな人格的なまじわりに喜び生きる方法です。そこで、キリストは、この生き方を、反面教師的に、愚かな金持ちの印象深い、一度聞いたら忘れられない仕方で教えてくださいました。

2.愚かな金持ちは、神を忘れて生きました

 わたしたちは、愚かな金持ちのたとえそのものを見ましょう。愚かな金持ちのような生き方をしてはいけませんよという反面教師的に教えています。

 イスラエルにある金持ちがいました。広い畑をもっていました。たぶん、パンの材料になる麦畑だったのでしょう。豊作でした。倉をいくつも持っていました。でも、収穫したものが、入りきれません。そこで、金持ちは、どうしたら一番よいのか、よく考えたのです。熟慮しました。その結果、今ある倉をすべて壊して、もっと大きい倉をたくさん作って、そこに、麦だの、その他の穀物だの、さらに、これまでに蓄えた財産を、みんな新しい大きないくつもの倉にしまえばよいと考えました。
そして、それらが一段落したら、自分の命の源である魂にこう言おう。わが魂よ、長年分の蓄えができたぞ。さあ、これでもう安泰だ。わが魂よ、安息せよ、食べよ、飲め、楽しめと言うぞと考えたのです。日本の人々は、これを読んでどう思うでしょう。この金持ちは、将来のことをよく考えて将来困らないように備えたのだからよいではないかと思うでしょうか。それとも、豊作だと大喜びして、穀物を売り払い、入ってきたお金をパーッと使って、一文無しになったのでなく、ちゃんと蓄えたのだからよいではないかと思うでしょうか。

 いいえ違います。神の愛と恵みを知っているイスラエルの民に属する者としては、とても愚かです。もちろん、愚かという意味は、学問を知っていないとか、勉強の知識が無いという意味の愚かでなく、生き方において知恵が無いという意味での愚かです。まず、自分の畑が豊作であったことを神に少しも感謝していません。豊かな収穫を与えてくださったのは、恵み深い神です。種を蒔きますが、砂漠的な気候にもかかわらず、雨を与え、豊かな収穫を与えてくださったことを神の恵みとして感謝する心がまったくありません。神への感謝を完全に忘れています。神に心が向いていません。これは、霊的に愚かです。わたしたちは、神に心を向け、神への感謝を忘れないようにしましょう。また、この金持ちは、異教の民に属する人ではありません。旧約の歴史を担ったレッキとした神の民イスラエルの人です。イスラエルの民は、旧約聖書を通し、天地(あめつち)を造り、自然を支配し、雨を降らせて実りの季節を与え、豊かな収穫を与えてくださるのは、神であることを知っているはずです。

 また、イスラエルの民は、神に導き出されたあの信仰の人、アブラハムの子孫で、絶えず、神の恵みを受けてきた民です。かつて、エジプトで奴隷として苦しめられていたとき、神から指導者モーセを与えられ、数々の奇跡により、出エジプトし、父と蜜の流れるといわれたもっとも肥沃な地を恵みにより与えられました。そして、定着し、国を作り、旧約の歴史を担ってきましたが、旧約聖書に記されているように数え切れない恵みを受けてきました。世界の諸民族の中で、イスラエルの民だけが、神の民にされていることは、大きな恵みでした。それなのに、この金持ちには、神への感謝が何もありません。神に心が向いていませんし、感謝もありません。これは、霊的に愚かです。わたしたちは、今の時代の神の民にされている恵みを思って、神に心を向け、神に心から感謝しましょう。

 さらに、この金持ちが愚かなのは、自己中心であることです。この金持ちは、神を忘れていましたが、人々と一緒に生きることも忘れていて、自分だけがよければよいという自己中心の考えでした。この金持ちは、何度も、わたしの、わたしのを繰り返しています。17節に「金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが」とありますが、「作物」という言葉は、もともと、「わたしの作物」という言い方です。18節に「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい」とありますが、もともとの言い方は、「わたしの倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこにわたしの穀物や財産をみなしまい」となっています。19節に「こう自分に言ってやるのだ。」とありますが、もともとの言い方は、「こうわたしの魂に言ってやるのだ。」という言い方です。

 こうして、この金持ちは、「わたしの作物」、「わたしの倉」、「わたしの穀物や財産」、「わたしの魂」と言いまして、何でも自分のものと思っています。魂までも、自分の意のままになると思い込んでいます。この金持ちは、神のことも忘れていますが、自分と一緒に生きる人々のことも忘れています。神の民イスラエルにおいては裕福な人々は、自分たちの裕福さが、神の祝福によることを感謝し、自分の周囲にいる貧しい人々への愛と信仰による施しが、神から命じられていましたが、この金持ちは、自分と一緒に生きる人々を助けようとしないのです。

 助けようと思えばいくらもできたのです。「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい」とありますが、「倉」と「もっと大きいの」は、もともと複数形です。ですから、倉を1つだけ持っていたのではありません。いくつも持っていたのです。そして、それらすべてを壊して、もっと大きな新しい倉を建てるのですが、「もっと大きいの」も複数形ですから、新しく建てる倉も1つでなく、いくつも建てるのです。ですから、神の恵みに感謝し、人々を愛し、自分と一緒に生きている貧しい人々を助けようと思えば、いくらでもできたのです。そして、そうすれば、さらに、神から豊かな祝福を受けることができたのです。

 でも、しないのです。熟慮した結果、考えた結果は、神へも感謝しないし、人々も助けないし、自分のためだけに、大きな倉をいくつも作って蓄えるだけでした。17節に「金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが」とありますが、「思い巡らす」という言葉は、よく考える、熟慮するという意味の言葉です。ですから、この金持ちは、よく考えた結果、熟慮した結果、神へも感謝しないし、人々も助けないし、自分のためだけに、大きな倉をいくつも作って蓄えるだけの人生に歩もうとしたのです。その場の思いつきでなく、自分の一生をよく考えて、熟慮して考えたのですから、愚かです。何だ、よく考えた生き方がこれなの、がっかりだなあということになります。

 今の日本の人々の生き方は、どうゆう生き方でしょう。自分さえよければ、いいのだよという自己中心の生き方も強いかもしれません。あるいは、自己中心より、格差が広がり、多くの人は、自分のことだけで精一杯で、他の人々のことまで、気が回らないという状況でしょうか。あるいは、複合しているのでしょうか。あるいは、さらに他のいろいろなことが複雑に作用しているのでしょうか。

 いずれにしても、今、毎日、いろいろなことが生じて、日本の社会のある面を表しているでしょう。そして、いろいろな生き方がありますが、わたしたちは、迷うことなく、聖書の教えに従い、神との豊かな人格的まじわりをし、神から与えられる恵みを日々率直に感謝し、周囲の人々と助け合い、神に造られた人間として、真の生き方をみんなで喜んでしていきたいと思います。

3.神を忘れない賢い人生を歩みましょう

 さて、この金持ちは、自分を愛して恵みを与えてくださる神を忘れ、また、自分の命の元である魂への大切な霊的配慮も忘れて、ひたすら、この世の富と財産を自分のためにのみ蓄えることだけに、心を向けてきました。でも、この金持ちから、ある夜、魂が突然取り去られことになり、金持ちは、地上の人生を終わり、これまで蓄えてきたすべての富と財産を失います。また、金持ちの魂は、死後、神に出会いますが、神とのまじわりを築いてきませんでしたので、神とのまじわりに受け入れられることがありません。それゆえ、神は、この金持ちを愚かな者と呼びかけました。

 20節に、「今夜、お前の命は取り上げられる。」とありますが、もともとの言い方は、「今夜、お前の魂は取り上げられる」という言い方です。すなわち、これも、今日のはじめのところでお話しましたように、旧約聖書の教えに基づく言い方です。人は、神により、体と魂を与えられて命ある者とされて、生きる者になりました。それゆえ、魂が取り去られることは、死を意味します。ですから、もちろん「今夜、お前の命は取り上げられる。」というのは、その夜突然、金持ちに死が訪れるという意味です。では、その夜、突然、死が訪れたら、金持ちの魂は、死後どうなるだろうと読者は思うのですが、特に、書いていません。

どうして書いていないのでしょう。それは、書かなくても、十分わかるからと思われます。実際、読者は、十分わかるでしょう。金持ちの魂が神に受け入れられないことを十分悟るでしょう。読者は、自分は、金持ちのようにならないように注意し、用心しようと決心するでしょう。この金持ちのように生きてはだめだ。神に心を向けず、神とまじわりもせず、神の恵みに感謝もしない、他の人々も助けない、ただ自分の利益のためにのみ生きる愚かな生き方をするのでなく、「神の前に豊かに」、すなわち、神に心を向け、神の恵みに感謝し、神との人格的まじわりで、命の元である自分の魂への霊的配慮を豊かにしながら、他の人々と一緒に生きる賢い生き方に、自分は生きようと信仰による決意をするでしょう。

本当にそうです。今日も同じです。今日も、確かに、いろいろな生き方があります。でも、神の愛によって魂をもつ者に造られた人間の、真の生き方は、ただ1つです。それは、「神の前に豊かに」生きる生き方です。すなわち、魂のある命を与えて人を生かしてくださる神に心を向け、いろいろな恵みを惜しみなく与えてくださる神に感謝し、神との人格的まじわりをし、自分の大切な魂に霊的配慮を与え、一緒に生きていく人々を愛して、助け合う生き方です。これが、「神の前に豊かに」生きる生き方で、真の生き方であり、賢い生き方であり、知恵ある生き方であり、霊的に賢明な生き方で、神に造られた人間の唯一の健全な人生です。

 そして、この「神の前に豊かに」生きる生き方は、だれにでも、どんな人にでも、開かれています。老いも、若きも、中学生も、高校生も、子供もこの生き方ができます。また、男も女もできます。職業や社会の立場にも関係ありません。国籍、民族にも関係ありません。もちろん、富や財産の多さにも関係ありません。

 真の幸せになりたい人は、だれでもできます。わたしも、若いときに、「神の前に豊かに」生きるこの生き方に、恵みにより導かれ、この生き方で40数年人生を歩んできて、本当に喜んでいます。人は、この生き方をするために生まれてくるのです。人は、この生き方をして、本当に人として喜んで生きるのです。人は、真の幸せになれるのです。道はちゃんと開かれています。だれでも、恵みにより、この道を歩むことができます。


結び  

 以上のようにして、キリストによる愚かな金持ちのたとえ話を見ます。これは、反面教師ですから、愚かな金持ちのようにならにようにしましょうと読むのです。愚かな金持ちは、神を忘れて生きようとしましたが、わたしたちは、神を忘れないように、みんなで励まし合って生きていきましょう。

 わたしたちは、愚かな金持ちと正反対の生き方をしましょう。神に心を向けましょう。神のいろいろな恵みに率直に感謝しましょう。神との人格的なまじわりにおいて、自分の大切な命の元である魂が、喜びで満ち溢れるようにしましょう。一緒に生きていく人々を愛し、お互いに助け合いましょう。神を忘れず、「神の前に豊かに」みんなで喜んで生きていきましょう。