1995年1月17日に起こった阪神・淡路大震災から13年になる。10年めの年はマスメディアは大きくとらえて報道したが、その後は関連ニュースや記事が急激に減った。このようにして激甚災害も風化してゆくのだろうか。
私のふるさと神戸は表向きにはめざましい復興を遂げた。その速さは世界でも手本にされていると聞く。それは喜ばしいことに違いないが、表からは見えない部分で震災がもたらした苦しみは続いている。たとえば6,434名と言われる犠牲者の多くに高齢者と病気や障害を持つ方々が含まれていた。九死に一生を得たものの、現在も孤独や生活苦で安らぎを得ることができない人々が多く居る。
牧秀一さんは震災直後の95年1月26日、神戸市東灘区の小学校に「よろず相談室」を開設、5人のメンバーでスタートした。途方にくれて誰とも話せない人たちと関わる活動を始めた。@今後の生活、不安・悩みについて相談に乗る。A「よろず新聞」を毎日配布して情報を提供する、というものだった。新聞の配布によってボランティアと被災者の間に対話が生まれた。牧さんたちは夜ふけまで話を聞き続け、病気や法律の相談は専門家につないだ。
その小学校には、当時まだ400名が生活していた。二月の避難所は底冷えがした。火災防止のためにストーブは使用禁止で、寒さを防ぐ発泡スチロールが床一面に敷かれているばかりだった。そんな状況で、冷たい雨の降るある日、音楽会が開かれた。市内の小学校の先生たちがヴァイオリンを奏で、憔悴しきった人たちが聞き入った。その美しい音色は心に染みわたり、涙で頬をぬらしながら余震の続くなかを人びとは精いっぱい歌った。見上げてごらん夜の星を――。
その避難所も9月の学校再開へ向けて閉鎖される。最後まで残された中高年の5家族も、9月10日に避難所を後にした。閉鎖の前日まで続けられた『よろず新聞』は、7ヶ月で終了する。
翌1996年、震災2年めを迎えて被災者の生活は落ちついてきたように見えたが、内実は悪化する一方で、孤独死や自殺の記事が目についた。牧さんによると、このときまでに震災が原因でストレスや病気の悪化によって命を落とした人は830名に及ぶ。この状況に耐えられず、牧さんは「よろず相談室」を再開する。こうして96年3月、会社員、主婦、教師、学生ら13人のメンバーで再スタートを切るが、その半数はみずからが被災者でもあった。
牧さんはこうしてまた困窮した人びとと出会う。やっと入居できた仮設住宅は夏は蒸し風呂で冬は冷蔵庫のようだったという。おまけに多くの仮設住宅は不便な場所に建てられていた。神戸市が設置した48,000戸の3分の1が神戸の中心から片道2時間かかり、もよりのスーパーまで徒歩40分もかかったという。入居者のうち独居の高齢者は12,000世帯に及び、仮設住宅が全面解消された2002年1月までの5年間で、仮設住宅の孤独死は235名、その多くはアルコール依存症、栄養失調、病状悪化、そして自死だった。
牧さんによると震災後3年間で2度のコミュニティー分断があった。避難所から仮設住宅へ転居する時と、その仮設住宅から復興住宅へ転居する時である。入居優先順位による選別は、高齢者ばかりの住宅を生み出すという弊害を生じさせた。支えあいながら生きてきた人たちにとって、この分断は大きな痛手だった。神戸市内にある復興住宅には35,000世帯が入居、震災6年後の居住者の内訳は4割が65歳以上の高齢者、3割が一人暮らし、5割が病弱者であった。高齢者の割合は増加し、孤独死と自死は途絶えることがなかった。
話は逸れるが牧さんの活動で私がひどく心を打たれたものに識字教室「大空」の開講と、独居の高齢者に手紙を届けるというのがある。識字教室は、文字が読めないため怖くて電車に乗れず、仮設住宅にこもっている人が居ると知ったことから始める。「よろず相談室」周辺に「読み書き教室はじめます」とポスターを貼り、ビラを配ると人びとが集まった。字を覚えて世界が広がり、喜びを知った人の文章を牧さんは紹介している。牧さんは言う。知識は人を解放する力を持っている、と。全国170万人も居る義務教育未修了者や読み書き計算のできない人のための「夜間中学校」や「識字教室」の存在を広く社会に伝えるべきだとも。
私が牧さんのことを知ったのが、2005年の12月に掲載された朝日新聞の震災特集シリーズの記事だった。独居の高齢者に手紙を書こうと呼びかけたところ、全国から手紙が集まった。高齢者と文通を続け、会いに行って感激しあった人たちのことも記事にあった。また、教師が生徒たちにそのことを持ちかけ、文通が続いている学校もある。お年寄りたちは寂しい一人暮らしに届けられる手紙をポストに見つけ、抱きしめるようにして自室へ戻って行かれるという。この話に感動し、私にも出来ることがあると気付かされた。
牧さんはHAT神戸という高層住宅を中心に、独居高齢者の「話を聞く」ことを柱とした活動をし、識字教室を週1回開いている。ボランティアの人たちと地道な活動を続けておられるが、資金面や活動できる人の不足に、厳しい状況にあると思われる。そんな中でも牧さんは動かずにいられない。震災13年めを迎えるにあたり、牧さんがまとめた岩波ブックレットNo.540の「被災地・神戸に生きる人びと」―
相談室から見た7年間 ― を再読しながら活動を紹介した。ささやかながら、私も呼びかけずにいられない。
巻末で牧さんはボランティアについてふれている。さまざまなボランティアに出会うなかで、感動する人びとに多く出会った反面、疑問をもつような活動をしている人びとにも出会ったという。また牧さんは、諸事情により現地で活動できない人にも支援はできると訴える。被災者への手紙、ボランティアへの激励の手紙、カンパなどである。行政は心を支えるような支援をせず、心の支えになろうとするボランティアに援助をしなかった。今でもおそらく改善されていないだろう。
ふるさと神戸に対し、私と Hiroshi は直後に衣類を集めて届けるということしかできなかった。震災の翌年には病を得て、何かをしたいという気持ちがありながら何もせずにいたことに忸怩たる思いがあった。牧さんはボランティアとは「自分でできる範囲で無理なく、やりたいこと、やれることをする。その行為に見返りを求めない。だが責任をともなわず、いいかげんでいいのではない」と定義する。そして訴える。ボランティアは志さえあれば誰にでもできることではないだろうか、と。
震災から7年を経た時、牧さんは6年間の「よろず相談室」の活動をまとめた。この冊子は全国の人びとの心に響いた。「おわりに」で牧さんは言う。
「私たち市民やボランティアにできることは、被災した人びとにそっと寄り添い、共に歩むことなのではないか」
「震災を生きてくぐり抜けた私たちは
悲劇だけを与えられたのではない。
人の痛みを我が事のように受けとめ理解し
交わる場をも与えられたのである」
このブックレットに書かれた状況から、さらに6年の月日が流れている。あれから少しは震災被害者のなかでも弱者の立場は改善されたのだろうか。あの大震災以後も、世界や国内で地震が多発している。人のことではなく、自分のことである。被害を受けるのも、受けた人に何ができるかということも、自身の問題として捉えれば、いくらかでも自然災害への心構えや弱者に対する思いやりの気持ちは育つ。したいと思って何もせずにいた私も、勇気を出して今からでも何かをしようと思い直した13年めの1月である。
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