−追悼1995,1.17−

翼のはえた手紙

親愛なる母上様

あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう二十年になります。
これまでに、ほんのひとときとして、あなたの優しく温かく大きく、そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。

私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。
人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること……。
この二十年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。
そして今、私はこの翼で大空へ翔(と)び立とうとしています。
誰(だれ)よりも高く、強く自在に飛べるこの翼で。

私は精一杯やってみるつもりです。
あなたの、そしてみんなの希望と期待を無にしないためにも、力の続く限り翔び続けます。
こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。

また逢える日を心待ちにしております。
最後に、あなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて。

翼のはえた“うし”より


 この手紙は神戸大学生の加藤貴光さんが書いた手紙である。(ニックネームは“うし”であった)貴光さんは神戸大学法学部二年時、阪神大震災で亡くなった。
 貴光さんはジャーナリストの落合信彦氏に触発されて国際情勢に興味を持ち、国連職員を目指していた。1993年に神戸大に入学すると、国際交流を目的として各国の学生が集まる「国際学生協会(ISA)」の活動に参加した。1994年にはソウルで韓国の学生と交流、ISA神戸支部長を努めた。将来は国連職員か国際ボランティアになるのが夢だった貴光さんは、あの日、21歳の若さでその夢を圧し潰された。
 母親の律子さんは、「心の傷にふたをしようとしても、悲しみが一瞬にして噴き出してしまう」状態から抜け出せなかったが、その悲しみが縁となって人々と出会い、律子さんを支えてきた。貴光さんがあこがれていた落合氏に、息子のことを知ってもらおうと、律子さんは十数枚の手紙を書き、貴光さんが書いた日韓の歴史観についてのレポートとともに事務局に託した。毎年、大阪で講演をする落合氏は、講演中に貴光さんのことを「感動的な出会い」と紹介する。後日、律子さんに電話をし、断腸の思いと伝える。その後、氏は著書で20ページにわたって貴光さんと律子さんのことを書いた。
 冒頭の手紙は神戸大に入学時、付き添った律子さんのポケットにしのばせたものだという。新しい生活を目前に、希望に燃えて翔びたとうとしている貴光さんは、それまで育て導いてくれた母への感謝の気持ちを言葉にしたためた。

「 私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。
人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること……。
この二十年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。
そして今、私はこの翼で大空へ翔(と)び立とうとしています。
誰(だれ)よりも高く、強く自在に飛べるこの翼で。」

 折にふれ、律子さんはこの手紙を読み返す。そして今にして思う。この手紙は夢に向かって翔び立つ貴光さんが書いたものに違いないが、自分は先に逝くけれど、母にしっかり生きよと伝えていたのだと。レポート用紙に書かれたこの手紙を取り出しては読み、今では励まされるようになったと話す。
 貴光さんの手紙は、あちこちで取り上げられ、感動を呼んだ。同じように子どもを亡くした人、親子の関係を見直すきっかけとなったと伝える人など、律子さんの許には全国から手紙が寄せられた。それが縁で交流の輪ができ、先日の追悼コンサートにも全国から人々が駆けつけた。貴光さんの手紙が会場で友によって朗読され、律子さんは涙を抑えることができなかった。いつも免許証入れにはさんでいた手紙を遺体安置所で読み返したときのように涙にくれた。
 その後、律子さんは新ユーゴの子どもたちのヒロシマ来訪を実現するなど、貴光さんの遺志を継ぐさまざまな活動をし、現在もNPO活動をするなどして前向きに生きている。

 あらためて私は言葉の力に感銘する。そして、心を言葉にすることの大切さを知る。育ててくれた母へ素直に感謝の言葉が述べられる貴光さんに、たいそう私は感動を覚える。
 しかし、この手紙を書いた貴光さんの心があまりに純粋で、背負った運命があまりに悲しい。神はかくも残酷な仕打ちをするのはなぜか。
 感謝することを忘れ、ぎくしゃくとした親子関係、人間関係が目につく中、貴光さんの手紙は、多くの人々に感謝することの大切さと、親子のあるべき原点を教えている。貴光さんのこの手紙には翼がはえ、十二年間翔び続けているのである。

            
2007年1月17日

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