もどる

我が国におけるハンセン氏病をめぐる事実関係

 身体的変形などの症状をもたらすハンセン病は、かつて「遺伝病」だとされてきた。これは、ハンセン病の病原体たる「らい菌」の感染力が非常に弱く、幼児期における家庭内での長期に渡る身体的接触を原因とする感染が多かったための誤解であったと考えられる。

 日本においても同様に、平安時代以来、親子間の遺伝で感染するという認識であったとされる。
 だが、伝染病・感染症とはいえ、地域社会を脅かすほどの伝染・流行があったという歴史的事実は無いとみられている。

 

◆…国会・政府・自治体の動き・認識
◆…ハンセン病療養所の動き・認識
◆…ハンセン病患者の動き
◆…世間の反応・事件

◆…病理学上の知見・出来事

◆…国際的な認識
★…注釈

 

1873  ノルウェーのアルマウェル=ハンセンが、ハンセン病患者の病巣部から「らい菌」を発見し、ハンセン病は「らい菌」による感染症であるとの考え方が示された。
1897  ベルリンで開かれた第1回国際らい会議において、ハンセンの唱えた「感染症説」が国際的に承認される。この会議において「的確な治療法の存在しない現在、感染症であるハンセン病の地域への蔓延を阻止、予防するには患者隔離しか方法はない」と決議された。
  ただし、ここにいう『患者隔離』とは、「ノルウェー方式」と呼ばれる相対的隔離政策を意味していた。
 (1) ハンセン病は一般清潔法の普及により予防できる。
 (2) ハンセン病の隔離は家庭内隔離が原則(ベッドを共にして寝ないなど)である。
 (3) ただ、貧民で家庭内隔離が不完全なときは国立病院に救護隔離する必要がある。この場合も患者の同意を要する。
 (4) 強制隔離は浮浪患者等に対するごく例外的な場合のみに認めるべきである。
1899  それまでコレラ・ペストなどの急性伝染病の対策に追われていた日本で、はじめてハンセン病対策が国会の議題に上った。当時の政府は、ハンセン病が伝染病であることと同時に、患者の『取り締まり』が必要であることを認めた。
1905  伝染病予防法の対象にハンセン病患者も含むべきだとする伝染病予防法改正案が、議員立法によって国会に上程される。しかし、内務省(現在の総務省・厚生労働省・警察庁を統合したものにほぼ相当する)は、急性伝染病とハンセン病のような慢性伝染病は違うとの理由で反対し、改正案は不成立に終わった。
 ★ ここで普通に考えれば、この時点における内務省の見解は『ハンセン病患者に強制隔離は必要ない』というものだったといえる。
1906  議員立法でらい予防法案が提出される。この法案は衆議院を通過したものの、貴族院で審議未了、廃案となる。
1907 ◆ 政府案としてらい予防に関する件が提出され、可決・成立同3条では、任意入所の規定を置かず、ハンセン病患者の強制隔離を認めていた。

 この法案の提案理由は「(ハンセン病患者)が群衆の目に触れます所に徘徊いたしておりまするのは、外観上よほど厭うべきことであろうと思いますので、これらの取締りをなすことが必要なりと考えまする」とされ、隔離の対象者についても「主として浮浪徘徊して居る者で病毒を散漫し、風俗上も甚だ宜しからぬと云うものを救護して此の目的を達することを第一にして居ります」と明言されていた。
 つまり、医療・公衆衛生の観点から成立した予防法ではなく、社会風俗を乱すハンセン病患者を取り締まるための治安立法であったともいえる。

《療養所設置の最終方針(内務大臣)》
 1、市街地への距離が遠くない、交通便利な土地を選んで設置すること
 2、全国に該当患者が約5万人ある。これらの人はみんな日本国民であるから、その醜悪な病気を嫌うのはよいが、国民は病人を嫌悪すべきではない。深い同情心をもってこの病人に対すべきである。
 3、収容した病人が満足して一生を終えられるような、また安心して毎日を送れるような場所を選ぶこと。
 4、設備がよく、散歩ができ、農業等の労働に従事できるような場所を選ぶこと。(以下略)
《立法責任者である衛生局長の見解》
 隔離場所について、「島嶼に患者を送るが如き、患者の精神に大打撃を与ふるが如きは全然目的に反するものと考えた。のみならず島嶼に送るが如き処置はこの病気の伝染力に対して患者当人にあまりに過大な犠牲を要求するものであって、公正でないと考えた」と述べる。
1909 ◆ 連合府県立病院として松丘、外島、大島、菊池、全生の五療養所が設立される。このうち、香川県大島療養所(のちの大島青松園)は、島しょ部に設置されていた。
  最初の収容は、病院から浮浪患者を馬車に乗せ、シートをかぶせて護送したものであった。療養所内では、患者を大部屋に10名前後居住させる形式をとっていた。

◆ ただちに各療養所にて「患者作業」が開始される。
  九州療養所では、職員が嫌がる蠅・蚤取り作業を患者に押しつける形で、蠅・蚤取り作業を強制させた。大島に至っては、設立当初から「患者使役」として患者の労働力が頼りにされ、「作業賃金表」が明記されていた。多種多様な強制作業の結果、神経障害のある患者が指に傷ができても気が付かない、感染症を起こす、合併症を起こすなどの後遺症が頻発した。

◆ 第2回国際らい会議が行われる。そこでもハンセン病の予防は患者隔離政策を基本とすることが承認されたものの、隔離方法はノルウェー方式が唯一正しいとする第1回国際らい会議での決議内容が改めて確認され、明確化された。

1915  療養所内では自暴自棄になる患者も多く、混乱が絶えなかったため、東京全生病院(のちの多磨全生園)院長の光田健輔が所内の秩序維持のための意見書を政府に提出した。

 この光田健輔の判断で、ハンセン病患者への優生手術(断種・堕胎)が開始された。独身の男性も対象にされ、手術を医師ではなく看護長や看護士に実施させることもあり、かかる手術の結果、性交不能になったり腰痛などの後遺症に苦しむ者も多数出た。
 ★ なお、繰り返しになるが、ハンセン病は遺伝病ではない。

 大阪療養所の野島泰治医師は「其の当時は療養所内で子どもを設けた男性患者に、一種の交換条件乃至罰則の意味に於いて輸精管切除術を行ったものである」と、のちに述べる。

1916  「らい予防に関する件」と「らい予防に関する施行規則」の改正により、療養所長に対して患者への『懲戒検束権』が付与された。

 各療養所に「悪質患者」を収容するための監房が設置される。

 熊本菊池恵楓園で、病菌の伝播を防ぐということを理由に、園内のみで通用する通貨、いわゆる園内通用券を発行し始める。のちに、この園内通貨制度は全国の療養所へ広がる。
  患者に入所の際に所持金を通用券と交換させて支給し、また、作業賃等の給付も全て通用券で給付された。この園内通貨の制度により、患者が療養所外において生活することは事実上不可能となった。

1920  内務省保健衛生調査会は、「根本的癩予防策要綱」を決定し隔離の目標を1万人と設定する。
1921  内務省は、この隔離目標を受けて、まず第一期増床計画として「10ケ年かけて5000床確保」を立案する。
1923 ◆ 第3回国際らい会議が開催。そこで患者を「伝染性」と「非伝染性」とに分けて後者については隔離の対象としないという考え方が主張されるようになった。
   また、同会議は、「らいの蔓延が甚だしくない国においては、住居における隔離は、なるべく(本人の)承諾の上で実行する方法をとることを推薦する」としたうえ、「らいの流行が著しい場所においては隔離が必要である」としつつも、「隔離は人道的にすること、且つ十分な治療を受けるのに支障のない限りは、らい患者をその家庭に近い場所におくこと」「貧困者、住居不定の者、浮浪者、その他習慣上住居において隔離することのできない者は、事情により病院、療養所又は農地療養地に隔離して十分な治療を施すこと」を要求している。
1925  内務省は全国警察部長会議で「未収容患者」の収容を促すため、各県の患者救護弁償規定を緩和してでも、患者収容を促進するよう指示した。
1926  内務省衛生局は、徴兵検査の際に発見されているらい患者の数が急速に減少していることを認める。患者の年齢構成も、青壮年者の割合が減少しているのに対して、老年者が増加していることを確認。
 ★ これは隔離政策の成果というより、公衆衛生の向上の成果だと見る向きが一般的だとされる。

◆ 内務省衛生局は「民族浄化のために」という表題の文章において、未収容患者約15,000人が「全部療養所へ収容するようにすれば一番結構」であると述べる。

1927 ◆ 国立らい療養所設置に関する建議案が国会で可決される。
1929  熊本菊池恵楓園にて、創立当時からある逃走予防のために掘られた濠とともに、園の西側と北側は、高さ約2メートルのコンクリート塀及び素堀の濠によって患者の居住地区を囲み始める。

 愛知県の方面委員数十名が、愛生園で患者の生活を視察し、帰県してから、「愛知県よりらいを無くそう」という民間運動を始めたことが発端となり、その後岡山県、山口県などでも『無らい県運動』が始まる。

1930  内務省は、全員隔離・終生隔離による患者の絶滅を目指す『らいの根絶策』を策定する。
 ★
 「らいの根絶策」とは、「全部死に絶えるのを待つ50年対策」であり、「らいというものは普通の社会から締め出して、いわゆる隔離をして、結局その隔離をしたままで、らい療養所内に一生を送らせるのだというふうな考え」をいう(当時の厚生省医務局長による定義)。

 医学博士青木大勇氏は、「癩の予防撲滅法に関する改善意見」と題する論文において「伝染の難易病毒の多少を顧慮せず、科学的研究の上に立脚しないで所謂一網打尽的に、苟も癩と診断されたものは、総てこれを強制的に隔離し而も之を監禁本位に取締まると云うことは全く時代遅れの隔離法と云はなくてはならぬのであって、悪く云えば非科学的とけなさなければならぬ。」と述べ、「伝染の危険なき程度のものは解放せよ。」「早期診断及早期治療所を開設せよ」と主張している。

 大阪で行われた第8回大日本医学総会において、当時の国際連盟保健委員であったビュルネが講演し、絶対隔離を否定して相対隔離を推奨している。この講演を日本語に翻訳して紹介しているのは、当時の内務相防疫官である。
 ★ つまり政府は、らいに対する国際的知見について十分に知り得たということになる。

 バンコクで開催された国際連盟保健機構らい委員会では、隔離(家庭内隔離を含む)は伝染のおそれありと認められた患者にのみ適用されるべきであるとされた。
   また、「治療なくして、信頼しうる予防体系は存在しない」として、まず治療による予防を前面に押し出している。その上で「伝染性疾患の隔離は、らいに対抗する広汎な戦線において必要な方法であるが、らい予防の唯一無二の方法とみなすことはできない」としている。

1931  『らいの根絶策』に基づき、(旧)らい予防法が制定される。

 それに際し、安達謙蔵国務大臣は「只今国辱病とも御話のありました通り、癩のこと先ず一番に力を致さねければならぬことを考え起こしました。」「癩は根絶せしむる、決して予防ではなく根本的に日本に癩患者なからしむるという決心の下に着手しなければならぬと考えております。」「癩患者を全部収容いたしましたならば、必ず根絶することができるものと確信いたしております」と述べている。

 国際連盟らい委員会は「らい予防の原則」(「らい公衆衛生の原則」)をまとめ、ハンセン病が治療可能な病気であることを前提として、治療として良好な栄養状態の確保が重要であることを指摘した。そして、患者の社会復帰を前提とし、外来治療を可能とする制度の確立を求めた。
   さらに「らい治療の進歩の結果、多分に管理的、警察的な取締に基づく古い方法を、近代的知識と社会状態に即応して修正しうるよう諸規則の調整が必要である」という意見を提出した。

1932 ◆ 第5回日本癩学会において、九州療養所の河村正之氏が、伝染の危険のない患者を療養所にとどめ置くことは極めて無意義であると論じた。
1934  議員立法として、遺伝性とみなされた疾病の患者への断種をうたった「民族優生保護法案」が提出され、その法案にはハンセン病の重症患者への断種が明記されていた。しかし、この法案は不成立に終わる。
1936  皇紀二六〇〇年を期して、政府は「富豪の国家の浄化に向かって一層の力」を惜しまぬようにと、全ての国民を総動員するかたちで「無らい県運動」を組織化・体制化して、その政策を強力に推進する。

 長島愛生園において、いわゆる長島事件が勃発。患者らは、日頃の不満と相まって、作業拒否などの行動に出た。たまたま逃走を計画していた患者ら4名が監禁室に収容されるという事件も起き、園側との対立が深まった。そして、患者側の会合を職員が、天井裏から盗聴しているところを発見したため、患者は激高し、警官27名が到着するなか入園者大会を開いて、自治制度の確立を決定した。
   やがて、患者側がハンガーストライキに突入するなどしていったが、園側が、自治会を「自助会」として認め、患者側も作業ストライキを中止し、一応の解決を見た。

1938  群馬の栗生楽泉園にて『特別病室』が設置される。
  特別病室とは大きな錠前のかかった厚さ五寸の扉の厳重なくぐり戸で四重に守られ、半暗室で冬期積雪の候には昼夜の区別もつかなかいような「監獄」であった。保温の設備はなく、食事は握り飯一つ、梅干し一つ、夜具は薄い敷き布団一枚、掛け布団一枚であった。

 第4回国際らい会議(カイロ)において、隔離を「開放性患者」(伝染性患者)に限る一方、たとえ強制隔離が実施されている所であっても、患者の生活条件は任意隔離の場合とできるだけ同様でなければならず、合理的退所時期も保証されなければならないとされた。
   さらに、「らい者と共に働く者でも、感染に対し合理的注意を払えば殆ど感染しないという事実を歴史は示している。」として、感染力が極めて微弱であることも改めて確認している。
   そして、本会議でも治療が主要なテーマの一つとなり、その中で「食物を万遍にし、平均化しビタミンを豊富にとらせることが大切」とされ、食事等の重要性が強調された。

1939  この年までに、全国のハンセン病療養所で断種手術を受けた患者は、1,003人に及んだ。
1940  厚生省(現・厚生労働省)が各都道府県あてに、「無らい県運動」の徹底を指示する。「これが実施にあたりては、ただに政府より各都道府県に対し一層の督励を加うるを必要とするのみならず、あまねく国民に対し、あらゆる機会に種々の手段を通じてらい予防思想の普及を行ない、本事業の意義を理解せしむるとともに、患者に対しても一層その趣旨の徹底を期せざるべからず。」

 全患者のうち78%の人々の隔離が終了する。

 厚生省が作成して成立した国民優生法には、断種の対象を遺伝病とみなされた疾病の患者に限定し、ハンセン病患者は除外されることになった。

 当時の熊本県警察本部長は、本妙寺らい患者部落住民の一斉検挙を断行する。
  警務課長、情報課長、衛生課長がこれにしたがい、熊本市南北両警察署長の率いる172名の警察隊を本体とし、衛生課員15名がこれに参加し、九州療養所の職員が応援に加わり、総数220名で寝込みの本妙寺部落を一斉に強襲して検挙を断行し、つぎつぎにトラックで九州療養所内の留置監禁室に収容し、合計157名(うち未感染児童28名を含む)もの人々を菊池恵楓園の留置場や監禁室へ収監された結果、部落は消滅した。

 大島青松園は、医師数5名、看護婦数11名に対し、在園者638名という状態。
 ★ 元患者証言:「各科に医師が何人ずつかいるのではない、一つの科に1人がせいぜいで、いない場合は兼務である。だから診療は週2回か3回、受診者は待ちかねて行列する。整理に困って順番をくじ引きで決める施設もあった。待ち時間も長くなり2時間も待たされたりして、体力のない者はそれだけでさらに病状を悪くしてしまう。」

 青松園では、医療従事者の少なさから、「患者看護」として患者が病棟の患者の面倒を見るということが強制された。
  「患者看護」以外にも、外科におけるガーゼ交換、包帯巻き、内科における筋肉注射、皮膚科における軟膏の塗布までもが、「治療補助」として作業によって行われたし、ガーゼ集め、ガーゼ再生等までが作業であった。しかも、かかる作業は、軽症者のみならず重症者にも課せられていた。この労働に対する日給は、24時間勤務で1日働いて、たばこ10本さえ購入できない金額であった。

1941  青森県を津軽地方と南部地方に分け、大々的な患者収容が行われ、松丘保養園には200名近くが収容された。国立に移管された翌年にも一斉収容は実施され、さらに秋田県まで範囲を広げて、3か月で100名以上が収容された。

 鳥取、岡山、福岡、山口、宮城、富山、埼玉が「無らい県」となる。

1943  アメリカで画期的な治らい薬として「プロミン」が開発される。
  ハンセン病は不治の病ではなくなった。
1945  大日本帝国敗戦
1946 ◆ 東京大学の石館教授によってプロミンが合成される。
1947  日本国憲法施行

◆ 「第二次無らい県運動」に基づき、療養所の拡張や、「未収容患者」全員の完全収容に務める。戦前の『らいの根絶策』が、厚生省にも引き継がれる。

◆ 楽泉園で、初めての患者大会が開催されたが、その中で、在園者の生活改善要求のほか、特別病室に対する不満が噴出した。その後、厚生省の調査団が調査に入るも、厚生省が園側を擁護する立場を崩さないために運動はさらに広がり、やがては「特別病室」に対し国会調査団が派遣され、その様子が朝日新聞やNHKニュースで報道されるなど社会問題化する(「特別病室」事件)。

◆ 第20回日本癩学会総会において、石館教授によるプロミンの治験効果の研究が3例報告される。

1948  断種と人工中絶の対象にハンセン病患者を明記した優生保護法が成立する。

 厚生省医務局長経口薬「プロミゾール」について言及。

 衆議院厚生委員会において、武藤運十郎議員による請願がなされる。「新薬プロミンによる治療を、すみやかに全国入所入院患者に実施していただきたいと存じます。新薬プロミンの出現によりまして、長い間暗黒の地獄にもがき苦しんできましたらい患者にも希望の曙光がもたらされたようでございます。」
   医務局長の答弁「私どもがもし十分な予算を獲得できればすべての患者に対して、この進んだ治療薬を与えることができる、その日の遠からざることを私は信じておるのでありまして、らいというものは普通の社会から締め出して、いわゆる隔離をして、結局その隔離をしたままで、らい療養所に一生を送らせるのだというふうな考えではなく、らい療養所は治療をするところである…と私どもも考えております。」

 多磨全生園で「プロミン獲得促進委員会」が結成され、請願書を提出するなど積極的に政府への働きかけを行った。

◆ 第5回国際らい会議がハバナで開催される。この会議では、経口投与の可能なダブソン(DDS)を初めとする、プロミンなどのスルフォン剤の有効性が確認された。そして、外来治療の重要性を強調した。
  また、患者の社会復帰に関しては「らい患者及びその家族の社会的援助は、対らい政策に基本的必要性を占めるものである」とし、政府に対し「らい療養所を退所できる患者に社会復帰上の援助を与えること」を求めている。
  さらに一般国民の教育に関しては、「らいは初期のうちに治療を行い、しかも治療に熟練と経験を積んだ専門医の監督下に患者が規則正しく治療を受けるならば、らいは治癒し得るものである」と啓蒙することの必要性を強調している。

1949 ◆ 全国ハンセン病療養所所長会議が厚生省で開催される。
   尾村療養所課長は、「根絶を常に頭におけ。運営の重点は収容を徹底するにあり、次は治療」と発言し、根絶策を批判した東局長の国会答弁を全面否定した。
   これを受けて小川予防課長が「無らい運動を展開しよう」と提案し、その運動による新患者の収容の方法として、「非常に軽快したものは退所させたら如何か、神経型の古い者など出して代わって重いのを入れたら如何か」と発言した。
   この小川発言に愛生園の光田健輔園長が激しく反対し、「それは生兵法大けがのもとだ。軽い神経型で皮膚反応+の者の神経に新しい菌をみた例あり、軽快者だとて出してはいけない。遺言しておく」と発言した。

 当年度の予算折衝にてプロミンの予算が大蔵省(現・財務省)により大幅に削られたことから、多磨全生園は全国の園自治会に電報で事態を伝えるとともに、ハンストを行うなどの運動を行い、さらに時の大蔵大臣・池田勇人に面談するなどして、要求通りに増額させた予算を国会において通過させた。
1950  らい根絶を目指して全国一斉に「未収容らい患者」の実態調査が実施された。その結果、「未収容らい患者」の総数が2526名と把握され、都道府県別の数も明らかにされるに至った。
  これを受けて厚生省は、各都道府県に対し、「未収容らい患者」の一掃を指示、その収容状況を毎年報告するよう義務付けた。

 熊本県八代郡の山中の小部落において、ハンセン病を病む父親を息子が殺害し、自らも自殺するという悲惨事が起きる。
 
 当時57歳の父親はハンセン病を罹患していたが、24歳の息子が、「自分の就職、結婚にも父が生きていては駄目だと思い将来に対する希望を全く失い」、父を殺しともに死を決したというものであった。

1951  第12回国会参議院厚生委員会が開催され、当時のハンセン病の国立療養所所長であった光田健輔(岡山・長島愛生園)、林芳信(多磨全生園)、宮崎松記(菊地恵楓園)の三園長が、患者の意思に反しても収容できる法律の必要性、断種の必要性、逃走罪などの罰則の必要性などを証言した。

◆ 全国国立らい療養所患者協議会(全らい患協)が結成される。

 山梨県北巨磨郡において、保健所による消毒を悲観して一家9人が心中する事件が起きる。
  家族は、「らい病だから家内を消毒する。」と言われ、同家では延期してくれるように申し込んでいた矢先であり、強制収容・強制消毒を恐れ、また近隣からの差別を恐れての一家心中であったとみられている。

1952  全らい患協は、「らい」の名称を排する立場から、組織名も「全国国立ハンセン氏病療養所患者協議会(全患協)」と改めるとともに、「らい予防法」の改正試案を決議した。これを長谷川保議員らによる議員立法として国会に提出することも決定した。

 (1)らい予防法は保護法的性格をもったものとする。 
 (2)強制収容の条項は削除する。
 (3)全快者または治療効果があり病毒伝播のおそれのないものの退園を法定する。この場合、必要とする者に対してはアフターケアー的施設及び就業斡旋を考慮する。
 (4)病毒伝播のおそれのない者の一時帰省を決定する。

 この動きに対して、厚生省は、当初予防法改正に消極的だった態度を変え、急遽、別の予防法改正案を作成し始めるとともに、長谷川議員らに圧力をかけ、議員立法としての法案提出を見送るように説得した。そして同議員がこれを受け入れたため、画期的な「全患協草案」はついに日の目を見ることはなかった。

 これに答えて、当時の吉田首相は、(旧)らい予防法は、日本国憲法に抵触しないと明言し、当面法改正を考えていないことを明らかにした。

 いわゆる「藤本事件」が発生する。ハンセン病患者であった藤本松夫は、村のある者から患者であることを当局に密告されたとして、同人を惨殺した疑いで逮捕され、熊本地裁出張裁判で死刑判決を受けた。しかし「ハンセン病偏見によるえん罪ではないか」として全国療養所在園者を中心に救援運動が起こったが、それも空しく、患者藤本松夫は異例のスピード裁判で、57年に最高裁で死刑が確定、再審申立を却下する前に1962年、早々と死刑を執行された。

 多磨全生園にて、全入園者の総意による決定によって、園内通貨制度が廃止される。
 
 その後の調査で、施設の保管していた裏付けの現金はきわめてずさんに管理、流用がなされてきており、74万円ほども不足していたことが判明した。

◆ WHOらい専門委員会が第一回報告をまとめる。
   報告では「スルフォン剤治療が、かつてのいかなるらい治療形式よりも非常に優れている」とされ、とりわけ経口薬DDSが、「価格が安く、使用方法が非常に簡単」で経口的に投与できることなどの理由で高く評価された。患者が在宅のまま外来で治療できることも承認した。
   また、隔離について「最近のらい治療の目覚ましい効果を考えると、強制隔離に関する実施については再考を必要とする」としている。
   さらに、「らい管理に関して政策を決定するのは、あくまで公衆の保健衛生の立場からであって、決して公衆の恐怖とか偏見から行われるのであってはならない」と述べる。

1953 ◆ (新)らい予防法が制定される。このとき「近き将来、本法の改正を期する」との付帯決議がなされている。
   法改正の基本理念として厚生省は、国会において、「らいを社会の蔓延から予防し、公共の福祉をはかるためには、患者を施設に隔離することが唯一の方法であると考えている」と述べている。患者らは療養所での作業放棄などの手法で、法制定に激しく抵抗した。

◆ 全国唯一のハンセン病患者専用の刑務所として、定員を75名とする菊池医療刑務支所が、熊本・菊池恵楓園に隣接して設立された。

 日本でも、経口薬ダブソン(DDS)の治らい効果についての研究発表が行われ始める。

 第6回国際らい会議がマドリッドで開催される。
   この会議では、スルフォン剤(プロミン)について、「一般的に見て、全ての病型を含むらいの治療においてスルフォン剤の効力は確定的なものとなってきた」「スルフォン剤は過去12年間の臨床実験の結果、過去における他のいかなる治療薬より効果的であるという証明がなされていることに委員会は同意している。」とされた。

 MTL(the Mission to Lepers)の国際らい会議が、インドのラクノー市で開催された。
   「らいは個別的疾病ではなく、らい流行地においては一般的公衆衛生上の問題である。恐怖及び偏見のない公衆衛生の原理に基づいて、らい管理政策を樹立せねばならない」という基本原理が確認された。
   そして、「特殊ならい法令は廃止され、らいも一般の公衆衛生法規における他の伝染病の線に沿って立法されることが望ましい」とされた。

1954  厚生省医務局長通達で、療養所内の監房を警察に移管し、ハンセン病患者のみの留置所を療養所近辺に建設しようとした。だが、この計画は全患協や地元住民らの反対でほとんど実現しなかった。

 厚生省は、療養所での「患者看護」を廃止し、病棟の完全看護切替を指示する。しかし、職員の増員自体が極めて不十分であったため、大半の施設において部分的な切替に終わらざるを得なかった。

 長島愛生園に入所するために大阪駅からある患者が出発した後、見送りに来た娘に駅員が消毒薬を浴びせかけ、患者の立っていたところすべてを消毒するという事件が起こる。
  患者の家には警官と白衣の係員が戸をこじ開けて押し入り、手当たり次第消毒し、両隣の隣家も消毒した。そればかりかメガホンで付近に消毒を呼びかけたため、家の前は黒山の人だかりとなってしまった。

 熊本の菊池恵楓園附属竜田寮児童が、かねて要望していた近くの黒髪小学校への通学が教育委員会に認められ、通学しようとしたところ、PTA会長ら一部父兄によって激しい反対運動が展開された(竜田寮児童通学拒否事件)
   彼らは『らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬよう、しばらくがっこうをやすみましょう』等のポスターを多数貼って、児童らに「同盟休校」を呼びかけた。

◆ WHOは、「らい患者の隔離はらい予防の最も重要にして議論のある問題と考えられがちであるが、隔離の終了すなわちらい患者の解放と解放の条件も、それに劣らず重要なことがらである」と述べる。

1955  療養所の「収容者」数が11,057人にのぼり、ピークを迎える。

◆ 長島愛生園内に邑久高校新良田分室が開校。全国の療養所からの生徒の移動は、普通列車に連結した特別貸切車にて行われた(いわゆる「お召し列車」)。この「お召し列車」は1963年まで存続する。
  岡山駅につくと、「愛生園の職員や、駅員などもまじって20人ぐらいが、われわれを出迎えてくれたのです。そのいでたちに驚かされました。みんな、白い帽子に白マスク、長靴をはいて、白い予防着です。それでわれわれの目の前で、いっせいに消毒を始めたんです。」(「近代日本のハンセン病と子どもたち・考」より)

 プロミン等スルフォン剤投与の効果によって、国立療養所におけるらい菌陰性者の割合が約74%にまで急増する(1948年には約26%)。

1956  「らい患者救済及び社会復帰に関する国際会議」いわゆるローマ会議が、マルタ騎士修道会によって開催される。日本からも3名が参加。
   この会議は、「らいに感染した患者には、どのような特別法規をも設けず、結核などの他の伝染病の患者と同様に取り扱われるべきである。従って、すべての差別的な法規は廃止されるべきである」として、すべての差別法の撤廃を勧告した。差別・偏見への対処として、啓蒙手段を注意深く講ずべきことも決議された。
1957  厚生省は、療養所「収容」患者の「軽快退所決定暫定準則」についてまとめる。
   しかし、同準則は患者らには「厳秘」にされ、厚生省が同準則に基づいて各療養所に指示することもなく、しかも準則には「積極的に患者の退所を行わせる意図を含むものではない」とも注記されていた。

 衆議院社労委で、ハンセン病の社会復帰問題が取り上げられ、生省は「予防法改正の際、付帯決議として退所者に対する厚生福祉制度を確立し、厚生資金支給の道を講ずるとあったが、その趣旨がなぜ実行されないのか」と追求された。
   これに対し、政務次官は努力の足りない点を認め、「来年度は退所者に対する厚生福祉制度の確立を努力したい」と回答した。

 大島青松園において、24畳の大部屋を12畳の2部屋に分ける作業が行われた。
 ★ 開所以来、24畳の大部屋に9名、もしくは21畳に8名の生活を強いられていた。しかし、部屋の分割後も、一部屋4名の共同生活を強制され続けることとなる。

1958  厚生省による退所患者の社会復帰支援策として、更生資金貸付が始められた。
  (1)生業資金(2)支度資金(3)技能修得資金の三つに分かれており、それぞれ限度額は(1)5万円(1回限り)(2)1万5000円(1回限り)(3)月額1500円(原則6ヶ月最高2年)であり、各5年、3年、3年以内に償還することとされていた。 なお、1960年当時の勤労者世帯1ヶ月の家計総額全国平均は、59,653円であった。しかも、限度額一杯貸し付けられることも稀であった。

 熊本県で、療養所当局と警察・検察庁による「脱走患者一斉検束」が行われ、農繁期のために一時帰省していた入園者に対して、「らい予防法」第28条の罰則規定(過料500円)を適用するという事件が発生。

 菊池恵楓園にて、隔離の壁の外を巡回し、患者の逃走を見張っていた巡視が行われなくなる。それまでは、在園している看護人と巡視の数がほぼ同じだったといわれる。

 この頃のハンセン病患者数は、推定15,000名であり、このうち施設に収容されている患者数は10,834名であった。未収容の登録患者数は1,098名であり、未登録患者は約3,100名と推定されていた。

◆ 第7回国際らい学会議(東京)において、医務局長が、新らい予防法が「収容促進のため」の施策であると認める発言。同時に、「現在の患者数は、1904年の実態調査時の患者数30,393名と比較すれば、約2分の1に減少しており、更に入院患者、在宅患者いずれもが平均年齢が高年齢になっており、これらのことは日本におけるらい流行が極期を過ぎたことを示している」とも認めている。
   この会議では、患者の管理については、「癩の管理の原則は、患者の早期発見と早期治療にあることを、医学関係の人々、患者及びその家族、そして一般社会人に知らしむべきである。」と確認した。
   加えて、社会問題分科会において、「政府がいまだに強制的な隔離政策を採用しているところは、その政策を全面的に破棄するように勧奨する。」「病気に対する誤った理解に基づいて、特別ならいの法律が強制されているところでは、政府にこの法律を廃止させ、登録を行っているような疾患に対して適用されている公衆衛生の一般手段を使用するようにうながす必要がある」と決議している。

1959  第2回WHOらい専門委員会報告において、報告書は、「らいのキャンペーンは、究極的には一般的な保健サービスに統合されるべきである。」とし、「登録患者の治療を確保する方法として・・・調査、健康教育、治療は一般病院、診療所(施薬所)、保健所でなされること」と述べている。
1960  大島青松園にて、「患者看護」が廃止され、全病棟における看護職員への切替が終了した。
 
 沖縄愛楽園では、1960年代でも、電気もないばかりか水道施設も不完全であり、一週間も雨が降らないと給水不足を来たし、足にギブスをした患者でさえも自らバケツで水を運ばざるを得なかった。また、沖縄は台風被害も大きく、療養所内の貧弱な家屋はしばしば倒壊した。

◆ 多磨全生園の患者が、園から500m離れた用水掘で絞殺死体として発見された事件が起きた。
   警察は園の医師の協力の下、入所男性全員の身体検査を行い、かつ、アリバイ証明を求めた。厚生省国立療養所課はマスコミに対して、「患者が無断外出した場合、外出先がわかればただちに消毒するよう指示している。無断外出が多いということが本当なら施設、患者に厳重注意する」とコメントしている。
   この事件を報道した読売新聞は、『野放しのライ患者』との大見出しの下、「外出は親族の死亡、財産処分、相続など特殊な事情がある者以外は許されない。それも厳密な健康診断を行い、感染のおそれがないと認められた軽症者に限って園長から許可書が発行されている。これ以外は全て違反外出というわけだ。」と当時の療養所を取り巻く状況を報じている。   

 沖縄の読谷高校で、愛楽園を退園して地元中学に復学していた元患者が、高校入試に合格していながら、面接で愛楽園退園者とわかり合格を取り消されたことが判明。同校では前年にも同様の取り消しを行っていた。

1961  沖縄で、「ハンセン氏病予防法」が公布施行され、これにより退所規定及び在宅治療制度が導入された。
 ★ なお、1960年WHOらい専門委員会報告では、特別法の廃止が提唱されていた。

◆ 全患協各支部代表が厚生省交渉を実施した。その際、厚生省は、「(療養所からの)外出自体が違法」であると主張し、各支部代表との面会を拒もうとした。

 国鉄鹿児島本線の列車に無賃乗車していた浮浪者風の男を駅員がハンセン病患者と誤信し、当該車両の乗客を他の車両に移して大々的な消毒を行うという事件が起こる。

1963  全患協は、「らい予防法改正要請書」を厚生大臣に提出し、強制隔離政策の撤廃と退所者の保障、在宅医療の充実等、国の政策の全面転換を求める。
   これに対し、当時の厚生省結核予防課長は、「この要求は殆ど予防法の改正を前提としているようだが、将来のことは別として厚生省としては現行法に則って運営していかなければならない。どのような施策も法律の根拠が必要である。」としながらも「1964年度にらい予防制度調査会をつくるべく予算要求をしている」、「厚生省としても早く改正したいと思う」と発言して積極姿勢を見せていた。
1964  厚生省結核予防課が「らいの現状に対する考え方」を取りまとめる。
   そこには、「医学の進歩に即応したらい予防制度の再検討を行う必要がある」とし、その方向として「患者の社会復帰に関する対策」、「医療体制の問題」、「現行法についての再検討」の三つを挙げていた。
   つづいて、厚生省の中の「良心的な」官僚達が、法改正を企図していたが、省内の厚い壁に阻まれ、挫折に終わった。

◆ 熊本菊池恵楓園の患者が朝日新聞支局主催のアマチュア囲碁十傑戦に応募したところ、主催者側から「患者さんが会場に来られると、社会人とのトラブルが懸念される」として出場を断られた。患者自治会の抗議によりいったんは出場が認められたが、数日後に本社からの指示として再び出場拒絶を通告してきた。 なお、翌年からは患者の出場が認められるようになった。

1965  沖縄・屋我地村の「村政研究同志会」が、沖縄愛楽園入園者は「村政に直接関係ない」として屋我地村長選の選挙権を行使することに反対して、現行市町村選挙法改正を要請した。
   これを受けて、屋我地村議会が「村政における愛楽園入園者の投票権は不適当」との決議を出したため、入園者の怒りが爆発した。入園者の強い抗議により、右改正は阻止することができた。
1966  長島愛生園において不自由独身患者の個室化(一人あたり3.75畳)がなされる。
  それまでは、10畳、12畳半の部屋に独身者は4名から6名、夫婦は12畳半、10畳、6畳に4組から2組が生活せざるを得なかった。
1968  長島愛生園において軽症患者の個室化が着手される。
1969  大島青松園にて、患者部屋の個室化が完了する。
1970  全患者のうち94%の人々が隔離される。

 栃木県下の高校生1980人に行われたアンケートでは、ハンセン病を「恐ろしい伝染病と思う」と答えたものが43%にのぼったほか、病気の性質について、「遺伝病である」20%、「原因不明の悪病である」21%、「絶対に治らない病気である」26%との結果となっていた。
   さらに、この病気をどう思っているかという問いに対し、合計59%が恐れているか敬遠していると答えていた。

1971  厚生省は、国立療養所における収容患者がいつ全員死亡するのかについて、調査を行う

 このころ沖縄愛楽園では、病棟でさえ壁には大きな亀裂が入り、雨漏りで病床が水浸しになるほどであった。当時の犀川園長は、「私もかつて台湾、フィリピン、ベトナム、インドの療養所を訪ねたが、こんな惨めな病棟は珍しかった。」と述べている。

1972  沖縄が日本国に復帰し、沖縄県となる。

 大島青松園では新造船「せいしょう」を造船することになった。ところが、この船の設計において、従来通り職員席と患者席を区別する設計であることが判明した。患者自治会が強く反対したが、結局、区別が維持されたまま造船され、進水した。

◆ 全患協は厚生省当局に対して、療養所作業を患者から職員へ返還すべきこと(作業返還)を求めた。この全患協の最終通告に対して、厚生省は、「作業返還を1年間延期してもらいたい」と申し入れた。

 多磨全生園から社会復帰した青年が、同園の看護婦と数々の困難を乗り越えて結婚し、たくましく生きていく姿を描いたNHKテレビ・ドキュメント「ある結婚」が、放映予定日を前に突然中止された。
  その理由は、病気を隠して社会復帰していた別の元患者から、「偏見の壁はまだまだ厚い。」として中止の申し入れがあったことによると発表された。その後、全患協らの強い上映要請で数カ所の手直しをして放映された。
  実際、このドキュメントに出演した青年の勤務先では、一部の従業員から一緒に働くのは困ると意見が出され、実際に辞めた従業員もいた。

 長島愛生園の患者団体が県庁を訪問するために、バス会社に配車を依頼したところ、いったん承諾したにもかかわらず3日前になって断られた。前患者を乗せた際に同乗職員だけ消毒して、運転手には何の手当もしなかったことが組合の問題となったとのことであった。愛生園自治会の抗議の結果、バス会社は全面的に陳謝した。

1973  厚生省療養所課の課長補佐が、作業返還について長島愛生園に来訪したが、「本省としては作業返還に対応する措置は全くない。」と発言する。

 教育出版発行中学保健体育教科書が、伝染力の強い急性伝染病である痘瘡とらいを同一項目(『第三学年 病気とその予防 (6)とうそうおよびらい』)で扱い、「的確な予防方法がないため、現在でもなお、そうとう数の患者がいる」と誤った記載をしていたことが判明し、全患協は厚生省と文部省に対し記載の改訂を申し入れた。

1975  全患協は全国の支部代表らを集めて、「将来の療養所のあり方研究会」を開催し、予防法改正を基本的にふまえながら、隔離主義による条項(従業の禁止、消毒、質問及び調査、外出制限など)の削除、在宅治療の促進、退所者及び家族に対する援護措置等の具体的法制化を改正要求として取りまとめる。
1977  松丘保養園にて、老朽化した施設が豪雪により倒壊する。

 奄美和光園では、2室制の夫婦舎が建てられた。4畳半に2間だけだったものが、2室になったものである。
  しかし、それでも入居できるのは全体の20%にすぎず、残りの8割は、1954年築造の老舎での居住を余儀なくされていた。

 この年に厚生省がまとめた「病院調査」によると、看護職員数の設置主体別の比較において、100床当たりの看護職員数の占める比率は、国立病院の49.2%を最高に、個人病院28.4%、ハンセン病療養所は11.6%となっていた。

1978  厚生省は、国立療養所における収容患者がいつ全員死亡するのかについて、再調査を行う
1981  秋田で、軽い皮膚病をハンセン病と思いこみ、母親が二児を絞殺し、自分も自殺を図り未遂に終わるという事件が報道される。この問題にふれて松丘保養園長は、「従来の国家的偏見を断ち切って本来の医学的理解に基づく新秩序に、軌道修正する法改正が、どうしても必要である」とらい予防法の撤廃を訴えた。

◆ WHOが、「多剤併用療法」を推奨する。

1982 ◆ 琉球大学附属病院において外来治療が開始される。しかし、治療の規模もごく小規模で、年間の初診人数は1986年の25人をピークに、以後、年間数人程度に止まった。
1983  香川県で、自分も娘もハンセン病にかかっていると思いこんだ36歳の母親が小学3年生の娘の布団の中にガスを引き込んで死なせ、自分も意識を失ったが夫に見つかり一命をとりとめるという事件が起きる。
1985  菊池恵楓園で、「患者作業」が完全に療養所職員に返還される。
1987 ◆ 療養所所長連盟が、「らい予防法」の改正に関する請願書を厚生大臣に提出する。
1988  WHO「らい対策の方針」は、「’50年代のはじめまでに、スルフォン剤の顕著な効果と広範な使用は、らいの化学療法と、らい対策の方法を全面的に変革した。隔離はもはや不必要となり、感染性の患者でも在宅のままで外来で治療できるようになった」と述べる。
1995 ◆ 日本らい学会が、隔離の強制を容認する世論の高まりを意図して、らいの恐怖心をあおるのを先行させてしまったのは、まさに取り返しのつかない重大な誤りであったと認める見解を示す。
1996  当時の菅直人厚生大臣の決定により、らい予防法を廃止する。同時に、廃止措置の遅れを謝罪する

 優生保護法を「母体保護法」と名称変更するとともに「らい条項(断種と人工中絶の対象にハンセン病患者を明記)」を削除

 

 法廃止当時の療養所在所患者数6000人弱、平均年齢70歳超、7割以上の在所者が在所歴30年以上。
 戦後(1947〜)の「断種」は1400件以上、妊娠中絶は3000件以上。
 法廃止までの間に軽快退所できた者は2000人未満。一方、全国の療養所に眠る遺骨の数は23,000柱にのぼる。

(以上、ハンセン病熊本訴訟の原告側最終準備書面より、客観的資料に基づく記載を中心に抜粋し、時系列形式に編集)

 

 

1998   ◆ 元患者13名が、国を相手に熊本地方裁判所に提訴する。のちに、この原告団の構成人数は127名に達する。



2001年5月11日午前10時 熊本地方裁判所

「らい予防法」違憲国家賠償請求事件


判  決  骨  子

第一 本件の主要な争点

 
一 厚生大臣のハンセン病政策遂行上の違法及び故意・過失の有無

 二 国会議員の立法行為の国家賠償法上の違法及び故意・過失の有無

 三 損害

 四 除斥期間



第二 当裁判所の判断
 

一 厚生大臣のハンセン病政策遂行上の違法及び故意・過失の有無について(争点一)

 患者の隔離は、患者に対し、継続的で極めて重大な人権の制限を強いるものであるから、少なくとも、ハンセン病予防という公衆衛生上の見地からの必要性(以下「隔離の必要性」という。)を認め得る限度で許されるべきものである。
 らい予防法(以下「新法」という。)が制定された昭和28年
1953年)前後の医学的知見等を総合すると、遅くとも昭和35年1960年)以降においては、もはやハンセン病は、隔離政策を用いなければならないほどの特別の疾患ではなくなっており、すべての入所者及びハンセン病患者について、隔離の必要性が失われた。
 したがって、厚生省としては、同年の時点において、隔離政策の抜本的な変換等をする必要があったが、新法廃止まで、これを怠ったのであり、この点につき、厚生大臣の職務行為に国家賠償法上の違法性及び過失があると認めるのが相当である。

二 国会議員の立法行為の国家賠償法上の違法及び故意・過失の有無について(争点二)

 1 新法は、6条、15条及び28条が一体となって、伝染させるおそれがある患者の隔離を規定しているが、これらの規定(以下「新法の隔離規定」という。)は、遅くとも昭和35年1960年)には、その合理性を支える根拠を全く欠く状況に至っており、その違憲性が明白となっていた。
 2 国会議員の立法行為(立法不作為を含む。)が国家賠償法上違法となるのは、容易に想定し難いような極めて特殊で例外的な場合に限られるが、遅くとも昭和40年
1965年)以降に新法の隔離規定を改廃しなかった国会議員の立法上の不作為につき、国家賠償法上の違法性及び過失を認めるのが相当である。

三 損害について(争点三)

 原告らが被告の違法行為によって受けた被害のうち、共通性を見いだすことができるもののみを包括して賠償の対象とすることとし、慰謝料額を、初回入所時期と入所期間に応じて、1400万円、1200万円、1000万円及び800万円の4段階とする。なお,認容額の総額は,18億2380万円(うち慰謝料が16億5800万円,弁護士費用が1億6580万円)である。

四 除斥期間について(争点四)

 本件において、除斥期間の起算点となる「不法行為ノ時」は、違法行為の終了した新法廃止時1996年)と解するのが相当であり、除斥期間の規定の適用はない。

 

2001年5月23日午後6時15分

 ◆ 政府(小泉純一郎総理大臣・坂口力厚生労働大臣・森山真弓法務大臣ら)は、法律上の問題はあるが、全国にはすでに高齢の元患者らが数千人いるため、問題の早期・全面的な解決を図るべく、「極めて異例な措置」として控訴の断念を発表する。これにより、熊本地裁判決が確定

 同時に、全国の患者・元患者らを対象に、
 (1)本判決の認容額を基準とする新たな損失補償
 (2)退所者給与金制度(年金)の創設
 (3)ハンセン病資料館の充実
 (4)政府との協議の場の設置
   …などの方針を打ち出す。

 

 

もどる