| 小法廷 | 出身母体 | 任命 | 退官 | 略歴・主要判断・語録 | ||
| 三淵忠彦 | みぶち ただひこ | 1 | 裁判官 | 1947/08/04 | 1950/03/02 | 初代長官。元大審院判事。京都帝国大学卒。長野地裁にいたころ、生計のために皇室の御料林の盗伐をした気の毒な事情のある木こりたちを、窃盗罪として罰しなければならない立場に思い悩み、裁判と政治の融合を理想とした。45歳で三井信託の法律顧問となり、いったん実業界に転身。裁判の不条理から解放されるとともに、慶応大講師も兼ね、人脈を一気に広げた。そこで、片山哲(のちの日本社会党委員長)と知り合い意気投合。昭和22年5月に片山連立内閣が発足することによって、他の有力候補を一気に抜き去り、顔見知りの首相ひきいる内閣から初代長官に指名された。同年8月4日、約30人の記者に囲まれ、「裁判官は世間知らずであってはならず、政治に巻き込まれてはならないが、政治の動向に無関心であってはならない。これはわが国の空前の制度である。視野を広くして、政治のあり方、社会の動き、世界の変遷、人心の向きように深甚の注意を払って、これに応ずるだけの見識・力量を養わねばならない。私たちは、民主的裁判所の建設・完成に向かって、怠ることなく不断の前進を始めます」と述べた。空襲で渋谷の家が焼けたため、皇居で行われた親任式に着ていった礼装用のモーニングは借り物だったという。昭和天皇の戦争責任について「終戦当時、陛下はなぜ自らを責める詔勅をお出しにならなかったのか、それが非常に遺憾に思いますね。なぜ国民を感奮せしめるだけの手をお打ちにならなかったのか、と不思議に思うくらいだ」と言及したことも。また、「(陰となって働く)事務総局が優秀であることが、裁判所全体の評価向上につながる」というのが信条であった。死刑は憲法違反かが争われた裁判の判決文中、「一人の生命は全地球よりも重い」と記すも、火あぶり等と比べれば「残虐な刑罰」にはあたらないと結論づけた。法を守るべき者としてヤミ米を徹底拒否して餓死した山口良忠(東京地裁判事)事件について「山口君のストイックな精神は尊いと思うが、もし食糧管理法がなければ、もっと多くの餓死者が出ていた。ヤミ米を禁じるから配給の食糧が確保できるのだ」と話しながらも、マッカーサーに向けて裁判官報酬制度の確立を訴える書簡を送った。長官就任1年あまり後に内蔵腫瘍(※五鬼上堅磐氏は、のちに「今でいえばガンだったのでしょう」と語った)で倒れ、登庁ができなくなった。国会の裁判官訴追委員会で長期欠勤が問題となり、本間事務次官に日付のみを空欄とした辞表を預け、いったんは登庁したのだが、再び倒れ、そのまま定年を迎えた。その直後、カトリックに入信し洗礼を受ける。浦和充子事件(親の子殺し)の裁判に対して、参院法務委員会が「執行猶予付きの懲役3年の刑は軽きに失し当を得ない」として「裁判官の刑事事件不当処理等に関する調査」の報告書を出したことに「裁判所より一段高いところから事実認定や量刑に介入してくるとは、憲法を破壊するものだ」と、病床で激怒したという。定年退職の4ヶ月後に逝去。 |
| 澤田竹治郎 | さわだ たけじろう | 1 | 行政官 裁判官 |
1947/08/04 | 1952/08/01 | 元官僚で、警察部長などを歴任。行政裁判所評定官時代に、軍部を批判する発言をしたことで東京憲兵隊に拘束された。禁錮10ヶ月の有罪となるが、大東亜戦争敗戦で免訴。行政裁判所長官から最高裁入り。戦後の行政訴訟について「通常の民事訴訟と同じになり、貧乏人ではとうてい国を相手に訴訟を起こせない」と指摘。最高裁判事の国民審査制度について「意味がない」と廃止論。 |
| 真野 毅 | まの つよし | 1 | 弁護士 | 1947/08/04 | 1958/06/08 | 元第二東京弁護士会会長。一高に入学した当時、新渡戸稲造校長から「リンカーンは、アメリカの大統領になって奴隷解放を成し遂げるために弁護士の道を選んだのだ」と聞き、その伝記をむさぼり読んで、自らも同じ道を歩むことを決めたという。弁護士法制定に際し「弁護士自治」を力説。白髪で小柄な風貌ながら、その舌鋒は鋭く、妥協を徹底して嫌ったという。最高裁スタート直後、玄関の「菊花の紋章」が新憲法下ではふさわしくないと主張。三淵長官に取り外しを決定させた。「国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね」と、教育勅語をもじった文句を掲げ、天皇不敬罪で起訴されたプラカード事件判決(※多数意見は「有罪だが“新憲法大赦”で免訴」)で、「原審によって押された“不敬行為”という黒の烙印を放置するのは、基本的人権尊重の憲法の精神に反する」として、原判決破棄の反対意見。尊属殺人罪(子の親殺しを特に重罰とする規定で、1995年廃止)を合憲とする法廷意見に対し、「多数意見のように、ソレ親子の道徳だ、それ何の道徳だといって、不平等な規定がむやみに雨後のタケノコのごとく作りうるものとしたら、民主憲法の力強く宣言した法の下における平等の原理ははたしてどこへ行くのだろうか。はなはだ寒心に堪えない」と述べ、「(親子の孝は)封建主従関係と同じ根本原理」として、違憲の少数意見を書いた。そののち、1973年に同規定の違憲無効が判断された際、「やっと当たり前のことが当たり前になっただけだ。自然な『孝』が美しいのであって、法で強制してはなりません。思えばずいぶん長かった」と感想を述べた。三鷹事件(無人列車暴走・6人死亡)の大法廷審理に際し、「二審の死刑判決は破棄されるべき。死刑や無期懲役という重刑にするのに『前条の例に同じ』(刑法127条)という簡単な表現を使うはずがない。それでも重い刑を科すのは罪刑法定主義の本義にもとる」と論陣を張り、最終的に7対8の僅差にまで持ち込んだ。三鷹事件の死刑囚は、やがて判決訂正の申立ても行うが、そこでも「判決をいったん取り消し、最高裁できちんとした口頭弁論を開いた上で、相当の判決をすべき」と、ただひとり一貫して少数意見に立ちつづけた。敗戦直後の米価を基準に農地の買収対価を算出した農地改革事件で、「事実上の占領法規を前提に、しかも実勢地価を無視したものを憲法の『正当な補償』とすることはできない」との反対意見。吉田内閣の抜き打ち衆院解散事件(1952)では、「最高裁を第一審として、憲法適合性を審査する裁判は、わが憲法上認められておらず不適法」として却下判決を出した大法廷意見に、「内閣の専断で行われての解散は憲法違反で無効」との補足意見を付した。「チャタレー夫人の恋人」わいせつ文書事件では、「時代と民族と社会を超越した、固定不動の猥褻観は非科学的な観念論である。本訳書は、公然と性行為を実行している場面を描写しているわけでもない。国によってこの著作の扱いが異なっていること自体、性行為の非公然性の原則という普遍的規範の存在に対する反証になっている」と少数意見を述べた。また、共同審理の共犯者や共同被告による自白は、本人による自白の補強証拠とならない」とする反対意見。独自の意見を表明し続けたことについて、「私の経験からいえば、同僚判事の中には沈黙を守ってなかなか自分の意見を述べず、ひたすら多数意見のおもむくところを狙ってそれに追随しようとする者が多くなった。保身の術と思わざるを得なかった。私は、これでは最高裁が十分な機能を発揮することはできないと思った」と語った。また、“硬骨のリベラリスト”と評されていることにつき「私は保守でも革新でもない。真野流であって、イデオロギーなど持とうと思ったこともない。自らの所信に従って進だけ」と話した。第2代長官の候補にもあがっていたのだが、時の吉田茂首相の決断は、田中耕太郎参院議員だった。田中長官が、のちに一般世論を『雑音』と評したことについて「田中君は神経過敏すぎる。裁判官が世論に動かされて判決が反対にまわるとは考えられない。逆に批判が多いことが裁判を良くするのだ。批判をするな、というのは神の裁判だ。裁判官は神ではないのだから人間の声も聞く必要がある」と話した。 |
| 齋藤悠輔 | さいとう ゆうすけ | 1 | 裁判官 検察官 |
1947/08/04 | 1962/05/20 | 山形県出身で、家業は刀鍛冶。東京帝国大学法学部卒業後、検察官を志望し司法官試補となるが、任官直後に上席検察官と衝突して「検事不適任」の烙印を押された。そのため、いったん裁判官に転身するが、再び検事として、大阪高検の検事長まで登り詰める。普段は、酒が大好きで好々爺のような穏やかな雰囲気を持った人物だったが、保守思想を賭けた論争では人が変わったようだったという。象徴的なものとして尊属殺人罪(※1995年廃止)を合憲とする法廷意見に賛同し、違憲の少数意見を「道義を解さず、ただいたずらに新奇をてらう思い上がった意見の思想というべく、徹底的に排除されなければならない」という表現で辛辣に批判する補足意見を出したことで知られる。特に世界人権宣言を引用した真野判事を激しく攻撃し「冒頭これらを引用するがごときは、鬼面人を欺くものでなければ、羊頭をかかげて狗肉を売るものといわなければならない。要するに、民主主義の美名のもとに、その実、得手勝手なわがままを基底として国辱的な曲学阿世の論を展開するもので、読むに堪えない」と書いた。この問題は国会の裁判官訴追委員会でも採り上げられ、「最高裁判事の表現としては不穏当」としたものの「罷免訴追」とするだけの決め手には欠け、騒動はそのまま幕を閉じた。それでも動じず「陰でコソコソ悪口を言っているわけではなく、公然と判決文に書いたのだから、問題にするのは向こうの勝手だ。私は弁解する気にもなれない」と語ったという。農地改革事件で、特別措置法を違憲とする反対意見。砂川事件(駐留米軍の合憲性)の飛越上告審を担当し、違憲とした東京地裁判決を破棄差し戻し。また松川事件(列車転覆事件)の第1次上告審も担当したが、病気のため交替。のちに原審差し戻されたり、第2次上告審で無罪が言い渡されたことで「民事裁判官には刑事事件の感覚がない」と述べたことも。 |
| 岩松三郎 | いわまつ さぶろう | 1 | 裁判官 検察官 |
1947/08/04 | 1956/11/10 (依願免) |
第2代検事総長・佐藤踏佐の義弟。元検事だが民事訴訟にも精通し、戦前は大審院判事も歴任。「在任中は自信のある裁判をしたことがない。ボキャブラリーが少なく文章が下手」と、後に自己評価。農地改革事件で、真野判事の反対意見に同調。 |
| 塚崎直義 | つかさき なおよし | 2 | 弁護士 | 1947/08/04 | 1951/02/14 (依願免) |
弁護士時代には、著名な刑事事件を数多く担当。東京弁護士会会長を2度つとめ、「選挙が好きな人」と揶揄されたことも。尊属殺人罪(※1995年廃止)を合憲とした大法廷の裁判長代理で、多数意見に同調。これに関連して退官後、「人間平等の観念は立派だが、親殺しを何とも思わない者も出ている」と話す。浦和充子事件にからむ参院の司法干渉について、病床に伏せる三淵長官の代行として裁判官会議を取り仕切り、「参院法務委員会が行った刑事事件に対する調査は、憲法62条に定める国政調査権の範囲を逸脱してなされた違憲の措置である」という、強硬な申入書を議決している。 |
| 霜山精一 | しもやま せいいち | 2 | 裁判官 | 1947/08/04 | 1954/10/14 | 元大審院長で、最高裁初代長官の候補にもあがっていた人物。甥は4代長官の横田正俊。一審・二審で死刑判決となった静岡二俣事件の上告を差し戻し。その再審理の結果、無罪が確定。戦後の刑事裁判で、厳格証拠主義が動き始めたきっかけとされる。昭和24(1949)年の強盗致死事件判決で、刑事訴訟施行規則のある例外規定を見落とした「誤判事件」の裁判長。終戦直後、刑事法の大幅な切り替え時期だったとはいえ、マスコミでも大きく報じられ、病状を押して裁判官会議を招集した三淵長官から、言外に辞職を意味をもたせつつ「自発的に善処することが最も妥当」とプレッシャーを掛けられた。しかし、「たしかに判決は間違えたが、裁判官は国の大臣と違って政治的に進退するべきではなく、法によって進退すべきだ。懲戒や弾劾裁判に任せるのが妥当」と主張して、一歩も退かなかった。やがて、国会の裁判官訴追委員会が「罷免の訴追せず」と決めて、政治家レベルでの幕引きとなった。 |
| 栗山 茂 | くりやま しげる | 2 | 行政官 | 1947/08/04 | 1956/10/05 | 前ベルギー駐在大使。フランス語が堪能で、鋭い国際的視野を持っていたが、辛口の論客として外交官時代から知られていた。最高裁入りした後も、独自の個別意見を出す。三鷹事件(無人電車を暴走させ列車転覆致死)で、「二審が、一審の無期懲役を、事実調べも無しに書面だけで死刑に変更したのは、被告にとっての不当な不利益変更」とし、原審差し戻しを主張する反対意見。 |
| 小谷勝重 | こたに かつしげ | 2 | 弁護士 | 1947/08/04 | 1960/12/23 | 前大阪弁護士会会長。一審・二審で無期懲役となった強盗殺人小島事件の上告を「自白の任意性に疑いがある」として差し戻し。再審理の結果、無罪が確定。また、松川事件第1次上告審で、原審の有罪判決を破棄した大法廷意見を構成したひとり。原審死刑の三鷹事件では「法律上可能な事実、証拠調べもせずに違法。人命の尊重と条理を軽視している」として、原審差し戻しすべきとの反対意見。砂川事件で「統治行為論は三権分立制度を根本から脅かす」という意見を述べた。また、共同審理の共犯者や共同被告による自白は、本人による自白の補強証拠とならない」とする反対意見。苫米地事件(衆議院ぬきうち解散の違憲性)について、司法審査の対象外とした多数意見に対し「解散も憲法81条の『処分』であり、違憲審査の対象。しかし、解散権の乱用はない」とする意見。在任中に皇室会議議長にも選ばれた。 |
| 藤田八郎 | ふじた はちろう | 2 | 裁判官 | 1947/08/04 | 1962/08/04 | 戦前には、大審院判事、札幌控訴院長、大阪控訴院長を歴任。都公安条例事件大法廷判決の「デモ暴徒化論」を批判し、「取り締まりの安易に堕して、憲法上の大義に対する考慮をゆるがせにすることは許されない」とする反対意見。新潟県公安条例事件でも、同様の反対意見。砂川事件では、「統治行為を是認するか、統治行為に属するか否かの判断は裁判所にある」との補足意見。松川事件第1次上告審で、原審の有罪判決を破棄した大法廷意見を構成したひとり。また、共同審理の共犯者や共同被告による自白は、本人による自白の補強証拠とならない」とする反対意見。緊急逮捕前の捜索差し押さえについて「逮捕と同時か直前、直後のみ認められ、被疑者の現場存在も必要」とする意見を述べた。在任中、「法による世界平和アジア会議」の日本代表として出席。 |
| 長谷川太一郎 | はせがわ たいちろう | 3 | 弁護士 | 1947/08/04 | 1951/11/30 | 福島県の農家から教員検定試験に合格、その後弁護士に。前・第一東京弁護士会会長。真面目で実直な人柄から「グッドマンだが、グッドジャッジメントが足りない」と揶揄されたことも。退官後は沖縄問題に取り組む。 |
| 井上 登 | いのうえ のぼり | 3 | 裁判官 | 1947/08/04 | 1955/04/09 | 戦前、司法省の初代調査部長。開廷時間によく遅刻し、そのたびに書記官が法服を持って玄関で待ち受けていたという伝説の持ち主。農地改革事件で、「農地買収価格が実勢価格に合わない」との反対意見。スポーツ・歌舞伎など多趣味で知られ、退官後はプロ野球機構法律顧問をし、野球殿堂入り。 |
| 庄野理一 | しょうの りいち | 3 | 弁護士 | 1947/08/04 | 1948/06/28 (依願免) |
戦前は、大企業の顧問弁護士を務めるなど、実業界で活躍。戦後は、GHQの指示で軍国主義者等の公職追放該当者を審査する「公職適格審査委員長」に。プラカード事件では、原判決破棄で無罪とすべきとの反対意見。「ポツダム宣言受諾で、天皇の地位はGHQに従属。この変貌は天皇不敬罪の保護法益を消滅させており、被告への公訴権は最初からなかった」と、その理由を述べた。最高裁判事在任中、農相の公職追放をめぐる問題(平野農相事件)に絡んで、弁護士たちに話した「平野君より、官房長官(西尾末広・のちに昭和電工疑獄で逮捕)を取り調べるべきだ。中央公職適否審査委員会のメンバーに彼からずいぶん金が出ているそうだ」との発言が取り沙汰され、裁判官弾劾訴追委員会による調査の対象になる。官房長官によって東京地検に告訴状が提出された当時には病床に伏せていたが、駆けつけた三淵長官の説得を受けて、まもなく辞表を提出。 |
| 島 保 | しま たもつ | 3 | 裁判官 | 1947/08/04 | 1961/08/24 | 元東京刑事裁判所所長、元大審院部長。ほとんど東京で裁判官を歴任。死刑は残虐な刑罰にあたらないとする大法廷判決で、「憲法は死刑を永久に是認したものではなく、ある刑罰が残虐であるかどうかは国民感情で決まる」との補足意見。また、松川事件第1次上告審で、原審の有罪判決を破棄した大法廷意見を構成したひとり。 |
| 河村又介 | かわむら またすけ | 3 | 法律学者 | 1947/08/04 | 1963/12/31 | 東京帝大在学中に、大正デモクラシー運動の先駆として、学生や労働者に影響を与えるも、思想取り締まりが強化されるにつれ自主解散。憲法学の研究者。敗戦直後には、「大日本帝国憲法改正試案」を作成したことも。九州大学教授から最高裁入り。在任中は、補足意見を多数述べた。また、共同審理の共犯者や共同被告による自白を、「本人による自白の補強証拠とならない」とする反対意見。また、松川事件第1次上告審で、原審の有罪判決を破棄した大法廷意見を構成したひとり。現行憲法に対しては批判的立場に終始。「私は、押しつけはいかん、ということにこだわる」「自衛隊を認めるかどうかは憲法に明記すべき」など。 |
| 穂積重遠 | ほづみ しげとお | 3 | 法律学者 | 1949/02/26 | 1951/07/29 (在任中死去) |
父親は枢密院議長で男爵の穂積陳重。母親は渋沢栄一の長女。民法、特に親族法の権威的存在で、東京帝国大学教授時代から、少額裁判所や法律扶助の必要性を唱えるなど先見の明あり。同法学部長や貴族院議員も歴任。夫人は、日露戦争で「二〇三高地」を落とした総参謀長・児玉源太郎陸軍大将(伯爵)の次女。刑法の尊属殺重罰規定(※1995年廃止)には違憲の反対意見。親孝行の道徳を法律に引き写せるかどうかは別問題で、「特別規定で親孝行を強制するのは法律万能の思想。せつかく殺人罪に対する量刑のはゞを広くしたのに、尊属殺についてのみ古いワクをそのままにしたのは、立法として筋が通らず実益がない」とした。 |
| 田中耕太郎 | たなか こうたろう | 1 | 法律学者 国会議員 |
1950/03/03 | 1960/10/24 | 2代長官。佐賀県出身。福岡・修猷館高校から一高に進学。そのころチフスに罹り、医師から不治を宣告されたことをきっかけに、無教会派のプロテスタントとなるが、やがてカトリックに改宗した保守主義者。ヘビースモーカー。東京帝国大学法学部を主席で卒業。その後、いったん内務省官僚となるが、やがて同学で商法や国際法、法哲学を研究。『世界』や『平和』の文言がタブー視される時代に、相当用心深く論文を書いていたようだが、大東亜戦争開戦時には、すでに軍部のブラックリストに載っていたという。商法の権威であり日本国憲法制定に尽力した松本丞治を学問上の師とし、その娘と結婚。元参議院議員で、日本国憲法公布時には文部大臣を務めていた。史上唯一、国会議員出身で最高裁入りした判事。最高裁入り直後には、「日本人は自衛のため国連の義勇軍(※朝鮮戦争での韓国側支援)に参加することは法律的には可能だ」と発言したが、のちに「あれは一学究として感想を語ったまでで、最高裁判事としての発言ではない。憲法9条がある以上、現実にはありえない」と釈明した。長官就任直後には、「法と秩序は国家生活において、ことに現在のような変革期では最低限の要請である。無秩序を克服することが基本的人権を尊重することになる」と言及した。また、共産主義に対し「国家の番犬になる」とも言い、「共産主義者は当初、新憲法に反対した。それは天皇制の残存のみならず、民主主義の根本原理にも反対しているからだ。それが議員となるのは、議会で勢力を拡張して、獅子身中の虫となって破壊に導くためである。マルクス・レーニン主義は明らかに憲法の精神に反していると思う。これらの人々は本来憲法を否定していながら、国民の無知と非論理性に乗じて、これを是認し肯定しているように見せかけているのだ」と述べたこともあった。1952年の『新年の辞』では、「エセ哲学、偽科学によって粉飾された権力主義と独裁主義は、人間の奴隷化においてファシズムに勝るとも劣らない。赤色インペリアリズムは世界制覇の野望を露骨に顕わし始めた」と、裁判官の立場としては尋常でないほど革新陣営への敵意を剥き出しにした。しかし、日本国独立前後で多発していた公安事件の大部分に、共産勢力の関与があったといわれており、当時の時代背景も混迷を極めていた。法廷秩序・権威の維持や審理妨害の排除をことさらに強調し、吹田黙祷事件(被告が朝鮮戦争の犠牲者への黙祷を法廷内で要求、それを大阪地裁の判事が認めた)直後に、「裁判官の厳に守るべき規律」について、全国の裁判所に通達を出した。さらに、1955年の長官所長会同では「最近、一部の有識者が現在係属中の事件(※松山事件)に関し、裁判の実質に立ち入って当否を問題にし、その結果、裁判そのもの、あるいは裁判官の能力や識見に疑いを抱かせ、ひいては裁判に対する国民の信頼に影響を及ぼすおそれがあるような文章を発表していることは非常に残念である。裁判官としては世間の雑音には耳を貸さず、流行の風潮におもねらず、道徳的勇気をもって適正敏速に裁判事件の処理に最善の努力を払われたい」と、各裁判官の独立への介入にもなりかねないだけでなく、世論に対して挑戦的ともいえる訓示を行い、さらなる猛烈な批判を浴びた。また、「(被告人の)氏名黙秘は、不利益供述拒否権の乱用どころか、もはや権利として認められない」というのが持論であった。裁判官の多数意見をまとめるのに苦労したのか、国会の法務委員会で「大法廷に15人の裁判官は多すぎる」と、思わず本音を吐露。一方で、床屋で居合わせた新聞記者と談笑したり、死刑確定者を担当した教悔師からの手紙に丁寧に返信する一面も。「駐留米軍は憲法9条2項違反で、被告人は無罪」とした原審を破棄し、「自衛権はなんら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は無防備・無抵抗を定めたものではない」と判断した砂川事件大法廷判決で「安保条約が日本の防衛・世界平和と不可分な、極東の平和と安全の維持に必要である以上、米軍の駐留は憲法に反しない」との補足意見。松川事件第1次上告審で「多数意見は共同謀議を窮屈に解釈しすぎている。合意は黙示的でよい」とし、上告棄却で有罪とすべきとする反対意見。『諏訪メモ』と呼ばれる新証拠(ひとりの被告人のアリバイ証明)について「それでも列車転覆の実行の事実を揺るがすわけではない」と断じ、多数意見を「法技術に拘泥し、大局的・総合的判断を誤っている」と非難した。数々の無罪判決が続出していたこの時代、10年間の最高裁生活の中で、田中判事が書いた無罪判決や無罪意見はゼロだった。退官後は、国際司法裁判所の裁判官。オランダのハーグに赴任する直前「これからは、雑音のないアカデミックな生活が私を待っている」と語ったという。 |
| 谷村唯一郎 | たにむら ただいちろう | 2 | 弁護士 行政官 |
1951/04/12 | 1956/11/10 (依願免) |
戦前には、東京弁護士会会長を務め、戦後は司法省に勤務し数々の法改正を手がける。また、GHQによる公職追放の解除を審査する委員会の委員長も歴任。「弁護士から最高裁判事になったら、収入が激減した」と、今では考えられない当時の冷遇ぶりを暴露。三鷹事件では「二審が、検察の控訴理由(無期懲役では軽すぎて不当)について、新たな証拠調べもせずに自判したのは、刑事訴訟規則の解釈の誤りであり違法」として、差し戻すべきとする反対意見。「定年なんて老いぼれの烙印を押されるのは御免」と、任期切れ前に勇退し、日本法律家協会の会長に就任。 |
| 小林俊三 | こばやし しゅんぞう | 3 | 弁護士 裁判官 |
1951/10/05 | 1958/06/02 | いったん会社員になった後、弁護士に。ゾルゲ事件の被告・尾崎秀美の官選弁護人。東京裁判でも、松岡洋右(元外相)の弁護人を務める。その後、東京高等裁判所長官。三鷹事件(無人電車を暴走させ列車転覆・6名死亡)で、「直接口頭主義などの原則が踏まれずに死刑が科されるのは、被告の防御権を不当に制限しており、憲法31条(適正手続)の精神にもとる」とし、原審差し戻しを主張する反対意見。また、共同審理の共犯者や共同被告による自白は、本人による自白の補強証拠とならない」とする反対意見。田中元長官が他界したのち「田中さんには、法律の文理解釈よりも、もっと深い犯罪ないし刑罰に対する人生観のようなものが、その底にあるように思えてならないのです。田中さんの考え方は、もっと高い角度から見るべきであるように思うのです」と、故人をしのんだ。 |
| 本村善太郎 | もとむら ぜんたろう | 3 | 弁護士 | 1952/01/21 | 1957/01/14 | 戦前から弁護士として、会社顧問などを担当。第一東京弁護士会では司法制度調査委員長。日弁連では人権擁護委員長。就任時に「裁判以外に関心はない。裁判を通じて、法治国の体面・内容を充実させたい」と挨拶。あまり目立たず淡々と職務をこなした様子。 |
|
||||||
| 入江俊郎 | いりえ としお | 1 | 行政官 | 1952/08/30 | 1971/01/19 | 内閣法制局長官から51歳の若さで最高裁入り。当時は内部でも反発があった模様だが、長官候補にも挙がったほどの実力を持つ。白鳥事件(共産党員が芋づる式に検挙され、札幌委員会委員長が逮捕された警官銃殺事件)につき、上告を棄却(懲役20年)。しかし、この上告棄却が、皮肉にもわが国の再審基準が緩和されるきっかけとなった。砂川事件では、「統治行為を是認するか、統治行為に属するか否かの判断権は裁判所にある」との補足意見。また、松川事件第1次上告審で、原審の有罪判決を破棄した大法廷意見を構成したひとり。松川事件第2次では「被告の自白しか証拠がない」として、無罪の多数意見に同調。東大ポポロ事件(学生劇団が大学校内で発表会を行っていたところ、居合わせた私服警官の警察手帳を劇団員が取り上げた事件)で、学問の自由は大学に保障され、学生はその施設の利用者にすぎないとする多数意見に、「学問の自由は学生にも保障されるが、本件は松川事件裁判を取材し、資金カンパも行われており、学問的集会とは認められない。警官排除の手段も行きすぎ」とする補足意見を付けた。東京都教祖事件(公立校教員の労働争議)では、破棄自判の無罪判決に同調。 |
| 池田 克 | いけだ かつ | 2 | 検察官 | 1954/11/02 | 1963/05/22 | 戦前に検察首脳を歴任するも、治安維持法などの制定にタッチしたとして、終戦直後にGHQの公職追放処分を受ける。追放解除の2年後に最高裁判事就任。島根全逓事件では、公共企業体(国営企業)職員の争議行為につき、「労働関係法で争議権が否定されており、ストライキすれば刑事責任を追及される」と判断。それが春闘シーズンと重なっていたため、最高裁に政治的意図があると批判されたことも。また、同様のケースで松江郵便局事件の裁判長も務め、「公労法が争議行為を禁じている以上、それに違反した争議行為に刑罰が科されるのは当然」と、同じような体制寄り判決を出した。松川事件第1次上告審で、田中・垂水意見に同調し、上告棄却で有罪の反対意見。 |
| 垂水克己 | たるみ かつみ | 3 | 裁判官 | 1955/05/26 | 1963/11/14 | 旧制三高(現・京都大学)時代には弁論部に所属。東京高裁長官から最高裁入り。八海事件(山口の強盗殺人)の第1次上告審を担当し、「5人の共同犯行は疑問」として、広島高裁に差し戻した。事件は退官後の第3次上告審で、奥野判事によって無罪が確定され、その際「最高裁として極めて正しいあり方」とコメント。松川事件第1次上告審で「物的証拠(メモ)に関係する謀議が無くても罪責は成立」とし、上告棄却で有罪の反対意見。 |
| 河村大助 | かわむら だいすけ | 2 | 弁護士 | 1956/11/22 | 1963/06/01 | 不特定多数から多額の金を集めて摘発された保全経済会事件の和議申し立て人。その和議は不調に終わったが、弁護士としての実務能力を買われて任官。ある窃盗事件の上告審で「控訴審で被告人から国選弁護人からの依頼があったのに、その選任が遅れた場合、趣意書の提出日を差し替えるなどの措置を採らなければ、弁護人依頼権の不当な制限に当たる」とする補足意見。 |
| 下飯坂潤夫 | しもいいざか ますお | 1 | 裁判官 | 1956/11/22 | 1964/01/28 | 気性の激しさを自覚し、孔子の像を前にしては自問する日々。酒やタバコはたしなまいが、趣味は歌舞伎・野球・ラグビー観戦と幅広かった。大審院判事もつとめ、戦後、最高裁黎明期には、細野長良(大審院長)が独断専行を行っているとして、「反細野派」にまわり「将来の最高裁に暴君のごとき人物が少数派として存在すれば、裁判官の自由な意見がゆがめられる」と、GHQの民政局長ホイットニーに陳情したことも。八海事件の第2次上告で、無罪の控訴審判決を破棄差し戻し(しかし、のちに無罪確定)。松川事件(列車転覆)の第1次と第2次上告審ともに、無罪意見を激しく攻撃。第1次では「共同謀議に疑いがあっても、被告らの実行行為は責任あり」として、破棄自判で有罪とする反対意見。第2次では、仙台高裁の無罪判決を「価値のない新証拠をつっかい棒にした虚妄な論断」「世にも驚嘆に値する判文」と罵倒。「正義に反する」として差し戻すべきと意見した。遺言によって、松川事件の判決文が棺に収められたという。 |
| 奥野健一 | おくの けんいち | 2 | 裁判官 行政官 |
1956/11/22 | 1968/11/17 | 戦前は裁判官。戦後は、司法省民事局長として民法改正や裁判所法制定に関与。参議院法制局長を8年務めたあとに任官。長官候補にも挙げられる。砂川事件では、「安保条約の国内的効力の司法審査は可能。統治行為による判断回避の理由はない」として、憲法前文と9条を審査したうえで、結論は多数意見に同調する意見。また、松川事件第1次上告審で、原審の有罪判決を破棄した大法廷意見を構成したひとり。第3次八海事件上告審で、「疑わしきは被告人の利益に、の原理に従い無罪を宣告する他ない」とし、二転三転する司法判断に決着を付けた。また、官公労働者の基本権については、労働者個人の権利より公共の利益を優先する立場を採った。また、共同審理の共犯者や共同被告による自白は、本人による自白の補強証拠とならない」とする反対意見。緊急逮捕前の捜索差し押さえについて「逮捕と同時か直前、直後のみ認められ、被疑者の現場存在も必要」とする意見を述べた。苫米地事件(衆議院ぬきうち解散の違憲性)について、司法審査の対象外とした多数意見に対し「解散も憲法81条の『処分』であり、違憲審査の対象。しかし、解散権の乱用はない」とする意見。東大ポポロ事件で、学問の自由は大学に保障され、学生はその施設の利用者にすぎないとする多数意見に、「学問の自由は学生にも保障されるが、本件は松川事件裁判を取材し、資金カンパも行われており、学問的集会とは認められない。警官排除の手段も行きすぎ」とする補足意見を付けた。全逓東京中郵事件(公務員の労働争議)では、処罰すべきとの反対意見。東京都教祖事件では、破棄自判の無罪判決に対し「『あおり』の概念を限定したり、処罰の範囲を限定したりするのは、法の明文に反するもので解釈の域を逸脱している」として、有罪の反対意見。以上のような保守的判断を揃えたが、一方で、翻訳書「悪徳の栄え」わいせつ事件では、無罪にすべきとする反対意見にまわった。 |
| 高橋 潔 | たかはし きよし | 3 | 弁護士 | 1957/01/30 | 1961/12/29 (在任中死去) |
弁護士時代は、東京裁判で岸信介の弁護人を務めた。日弁連の推薦委員会委員長として、弁護士から最高裁判事に就任させる人材を探していたが、当時の冷遇ゆえ、候補者に次々断られ、結局自らが最高裁に入った。砂川事件では、「安保条約の国内的効力の司法審査は可能。統治行為による判断回避の理由はない」として、憲法前文と9条を審査したうえで、結論は多数意見に同調する意見。激論が交わされた松川事件第1次上告審では、主任裁判官だったが、田中・垂水の反対意見に同調。上告棄却で有罪にすべきとした。 |
| 高木常七 | たかぎ つねしち | 1 | 検察官 弁護士 裁判官 |
1958/06/28 | 1963/03/14 | 商人の家に生まれ、進学に反対されながらも、早稲田大学を卒業。検事から弁護士に転身し、裁判官に。「裁判官や検察官は弁護士から任命する方がいい」という法曹一元が持論。書や人形・焼き物の収集に熱心だった。「張り子の虎は闘争的じゃなく、こんなアホみたいなおもちゃは、子どもも相手にしない。しかし、人間どっちかといえばアホがいい。あんまり利口だとかえって不幸」と語ったことも。松川事件第1次上告審で、原審の有罪判決を破棄した大法廷意見を構成したひとり。松川事件第2次では「被告の自白しか証拠がない」として、無罪の多数意見に同調。八海事件第2次上告審でも無罪説を採った。 |
| 石坂修一 | いしざか しゅういち | 3 | 裁判官 | 1958/06/28 | 1965/09/13 | 「私の家は根っからの百姓。威張る人間が嫌い。金儲けもできない」と語り、大阪高裁長官のときには、職員がカバンを持とうとすると「職員には他にする仕事がある」と断った。広島高裁長官時代に、松川事件で有罪判決を言い渡した仙台高裁の鈴木裁判長に、知人として激励の手紙を送ったため、被告人の支援者らから激しく攻撃されたことがあった。そこで、最高裁判事就任後、松川事件第1次上告審に際し、回避(自分は当該裁判で審理するのにふさわしくないので抜ける)の申立てをして受理された。 |
| 横田喜三郎 | よこた きさぶろう | 1 | 法律学者 | 1960/10/25 | 1966/08/25 | 3代長官。愛知県の貧しい呉服商兼農家の三男として生を受ける。第一次世界大戦をきっかけに国際問題に興味を持ち、東京帝国大学法学部入学時には外交官を目指して政治学科にいたが、卒業時には法律学科に移っていた。学者としても東京帝大で国際法(おもに海洋法)を研究。その立場から、「満州事件は日本の自衛権の発動ではなく侵略戦争」や「大東亜戦争は国際法上、正しい戦争とはいえない」と戦時中に述べたため、『反軍教授』『学府に巣くう国賊』のレッテルを貼られ、右翼や軍部からの攻撃にさらされた。一方で、戦後には東京裁判を正当化する論文や「天皇退位論」を発表し、平和論をとなえながらも、「今の時点で国連に頼りきるのは現実には無理。まだまだ武力がモノを決める。集団自衛の方法が現実と理想を調和させたやり方」とも言及。また、1952年の「イギリス水兵事件」(2人のイギリス兵が酔ってタクシー強盗→地裁が懲役2年6月の実刑を言い渡し、両国関係が険悪化)で、鑑定証人として「たしかに裁判権は日本にあるが、国際礼儀の立場から裁判権を行使しないのが慣例」と述べた。さらに、アメリカ(シカゴ)での講演に立った際、砂川事件最高裁判決(在留米軍は合憲)について「日米安保は絶対必要。いまなお無防備・無抵抗を説く人がいるが、到底信じられない」「日米間の友好と協力の基礎を築いた」と発言したため、その現実重視路線に、革新陣営から『変節した』『裏切り者』との声があがったことも。それについては「人は変わったというが、ボクは変わらない。ずっと自由主義者で国際協調主義者」と弁明した。また「多数に誤りがあれば、時間をかけて正していく。そして多数には従う。それが民主主義だ。自分が正しいと思えば性急に貫こうとし、目的が正しければ手段は問わない、という東洋人のやり方が底にある」とも話し、安保闘争の座り込みや暴力的デモに釘を刺した形。長官就任に際し「大変な仕事を引き受けてしまった。国連の国際法委員を4年やってきたが、私個人としてはそのほうが性に合っているので、はじめは引き受けないつもりだった。今でも後ろ髪を引かれる思い」と、率直な感想を述べた。田中前長官の『雑音』発言について「あの当時は戦後の混乱時代で、法廷も非常に乱れていた。『雑音に耳を貸すな』という言葉は、田中さんだけの言葉じゃないんです。裁判官会議で字句までも話し合い、文章を直したり付け加えたりして、これでいいと決定した上で長官が訓示をするのです」と釈明した。「ボクもよく頑固者と言われてねぇ。もっとも田中さんのほうが一枚うわ手だったがね」とも語った。飯守重任氏(田中元長官の実弟)の発言(右翼の少年が中央公論社社長宅を襲って、お手伝いを殺害した事件を受けて、地裁の拘置部にいた飯守氏が『こうした事件が起きるのは左翼活動が激しいから』と発言した騒動)について、「デリケートな問題なので、今は何も申し上げられない。とにかく裁判官は誤解を生ずるような発言は避けるべきだ」と、沈痛な面もちでコメント。また、東大ポポロ事件での最高裁判決(無罪判決を破棄差し戻し)後、「学問の自由、大学の自治と社会秩序の限界をどこにひくか苦心しました。私は35年間大学教授でしたので、特別な関心があって力を注いだ、私の在任中最大の事件です」と語った。また、ずいぶん経ってから「『学問の自由は保障する』とあっても、学問の自由とはどういうことがハッキリわからない。ポポロ判決では、大学で講義することも研究発表の中に入ると判断した。教育はどうか。幼稚園・小学校で教育することは学問の自由ではないという解釈をとったんですねぇ。学問の自由として研究・発表・教育というようなことを挙げて、そのどこまでが入るかわからない」と、憲法規定の漠然不明確さに悩みをみせた。貸金請求訴訟で、利息制限法の制限を越える高利につき「法定利率を超えて余分に支払われた利息は、元本返済に繰り入れることができる」と、利息制限法の規定を一部読み替える画期的判決。上告件数の急増に伴い、法廷の秩序維持とともに「裁判の促進」を目標に掲げた。実際、最高裁の係属件数を60%減らし、その点で目覚ましい成果を残して退官。議論が白熱すると自分も渦中に飛び込んでしまいがちだった田中前長官と比べ、「これが同じ最高裁の評議かと思うほど合理的で、会議は洗練されていた」と評されるほど、豊富な国際会議の経験を存分に活かしていた。定年退官直前の「サヨナラ会見」では、「私の在任中はね、東京オリンピックもあって、社会が落ち着きを取り戻した安定期でしたね。大事件は少なくて、この時期に長官だったことを幸せに思います」と締めくくった。 |
| 山田作之助 | やまだ さくのすけ | 2 | 裁判官 弁護士 |
1960/12/27 | 1966/04/21 | 父親も大審院判事。しばらく東京地裁、神戸地裁で裁判官を務めた後、弁護士に転身。ほとんど妥協せず「あかんあかんの山田」と煙たがられたが、「裁判官に嘘を言わないのがモットー」として、刑事裁判では認めるべき起訴事実を認めたうえで、法律論で争った。任官後は「裁判を経済的にやるのは我々の義務でっせ」と、無駄な訴訟行為を徹底して切り捨てた。奈良県ため池条例事件では、「堤防の耕作物は、ため池保全に危険ではなく、財産権とみなすべき」との反対意見。象。しかし、解散権の乱用はない」とする意見。東大ポポロ事件で、学問の自由は大学に保障され、学生はその施設の利用者にすぎないとする多数意見に、「学問の自由は学生にも保障されるが、本件は松川事件裁判を取材し、資金カンパも行われており、学問的集会とは認められない。警官排除の手段も行きすぎ」とする補足意見を付けた。 |
| 五鬼上堅磐 | ごきじょう かきわ | 3 | 弁護士 検察官 行政官 裁判官 |
1961/08/26 | 1966/12/31 | 戦前は弁護士として活躍するも、戦後の司法制度改革の一環で、大審院検事に。それをきっかけに数々の要職を歴任し、4年後には最高裁事務総長にまで登り詰める。「最高裁幕開きの混乱期の裁判には、いろいろなことがあった。占領下でGHQから『あの裁判はこう判決せよ』と命じられると、地方の裁判所に説得に出かけたこともあったし、米軍からピストルを突き付けられて判決をした裁判官もいた」と、当時を振り返った。細やかな気配りが評判だった。その後、名古屋高裁・大阪高裁の長官を務め、古巣に戻った形。最高裁では、ほとんど多数意見に同調したが、全逓東京中郵事件では「郵便法79条(郵便不取り扱い罪)は、ストライキなどの争議行為で取り扱わなかった場合とそうでない場合を区別しているわけではない」として、郵便局員の争議行為を処罰すべきとする少数意見を出した。退官後は中央大学理事長。 |
| 横田正俊 | よこた まさとし | 3 | 裁判官 行政官 |
1962/02/28 | 1969/01/10 | 4代長官。父親は大審院長。弟は一橋大学教授で労働法の権威である吾妻光俊氏。母方の弟は元最高裁判事の霜山精一氏。一高時代の剣道部の後輩に、5代長官の石田和外氏。自らも剣道4段の腕前。戦前は民事裁判官として他の追随を許さぬほどの実力を発揮し、戦後は商法の知識を買われ、公正取引委員会で11年間活躍。酒豪で知られ、仕事終わりに部下を引き連れて、新橋や神田の居酒屋やおでん屋に足を運んだ。「裁判官の世界と違って、視野を大きく持っていなければ公取の仕事はできない」と話していたが、ふたたび裁判所に戻ることになり、公取の部下から帽子と背広をプレゼントされる慕われぶりだった。そして、当時の田中長官から最高裁事務総長に抜擢された。これで、長く公取にいたために出世レースで後れをとっていた同期を一気に抜き去る。そして東京高裁長官から順当に最高裁入り。キャリア裁判官出身者として初めて長官に任命される。就任記者会見では「判事駆け出しの頃、司法大臣から『裁判官は化石になっている』と言われた。血も涙もある裁判官をつくるため努力したい。国民の批判があれば襟を正して聞くべきで、独善に陥らないようにしなければならない。国民の役に立つ裁判がしたい」と述べた。その後も、司法行政や外部行事をこなしつつ、小法廷の審理にもあたった。「当時は第三小法廷にたくさんの事件があり、長官が大法廷事件だけ担当するのは間違いだと思った」と後に語る。就任わずか3ヶ月後、公務員の労働争議を一律全面禁止としていた従来の判例を変更して、郵便局員らのストライキを不処罰とした全逓東京中郵事件大法廷判決(1966年)の裁判長を務めた。「国家公務員や地方公務員も憲法28条の『勤労者』であり、労働基本権の保障を受ける。ただ、郵便は独占事業で、その停滞は国民生活に重大な影響を与える。そのため、必要やむを得ない場合は、ストに代わる措置が講じられるべきで、その限度で労働基本権は制約される。ただし、その制約は必要最小限度に限るべき」との論理で構成された判決文は、各方面にさまざまな形で衝撃を与えたり歓迎されたりした。親しい知人に「ぼくも自民党にはにらまれている。ああいう判決を出したから」とこぼしたというが、ただ、その『画期的判決』の中身は、横田前長官時代の段階でほぼ全て出来上がっていた。東京都教祖事件(公立校教員の労働争議)でも、破棄自判の無罪判決に同調。翻訳書「悪徳の栄え」わいせつ事件で、上告棄却の有罪とした多数意見に対し「思想性や芸術性が重要な部分を占めており、可罰性がない」とし、無罪にすべきとの反対意見。ある貸金請求訴訟で、前長官時代の画期的判決をさらにすすめて「高利の約束で借金し、払い続けた利息・損害金が法定利息と元本の額を超えたときは、超過分を不当利得として返還請求できる」との新判断。交通事故の慰謝料請求事件では、「慰謝料について、被害者が特別の意思表示をしないまま死亡しても、遺族が当然に請求権を相続できる」と判断し、戦前のいわゆる「『残念』判決」を変更した。20周年の憲法記念日では「憲法そのものには制定のいきさつには問題がありますが、きわめて優れたものです。進歩的な学者の中には、最高裁が憲法判断に消極的だという批判をする人もいるが、最高裁が違憲問題を扱う態度としては、慎重で控えめな方がいい。現在の最高裁のあり方は正しいと考えています」と話した。青年法律家協会問題(政治的色彩のある団体に所属する裁判官を再任拒否、その志望者を任官拒否)については「少なくとも裁判官については、そう神経質になる問題ではない」と発言。定年退官を間近に控えたころの忘年パーティーで、記者から「法廷に座るときは何を考えるのでしょう」と問われ、「天皇陛下のことです。今でも法廷では陛下を思って身体がシャンとします」と答えた。また、清子夫人について「ずいぶん迷惑をかけてきたからなぁ。窮屈な思いもさせただろうから、これからは妻のペースでのんびりいこうと思いますよ」と話したという。退官後、石田長官の下で、保守勢力が大勢を占めた状況をみて「最高裁にはもはや言うべき言葉がない」とつぶやいた。 |
| 斎藤朔郎 | さいとう きたろう | 1 | 裁判官 | 1962/05/29 | 1964/08/09 (在任中死去) |
戦前には、司法省民事局に出向して会社更生法の基礎を作成。満州の司法部次長になるが、敗戦によりソ連で抑留生活。帰国後は、いったん弁護士になるが、再度任官し、今度は刑事事件に力を入れた。松川事件第2次上告審の裁判長。有罪説を採る下飯坂判事と激論を闘わせた。「事件は人為的犯行だが、被告の自白しか証拠がない。真実発見のため、訴訟が長くかかってもやむをえないという考え方は全体主義的な思想。有罪か無罪かを証拠で確定できないことも、また事案の真相のひとつ」と述べた。東大ポポロ事件で、学問の自由は大学に保障され、学生はその施設の利用者にすぎないとする多数意見に、「学問の自由は学生にも保障されるが、本件は松川事件裁判を取材し、資金カンパも行われており、学問的集会とは認められない。警官排除の手段も行きすぎ」とする補足意見を付けた。 |
| 草鹿淺之介 | くさか あさのすけ | 2 | 裁判官 検察官 |
1962/08/12 | 1970/10/24 | 支那事変時には上海に派遣され、日華基本条約の制定に関与したことも。戦後は函館地検の検事正となり、以来検事畑。石田元長官とは親友。仁保事件(山口の強盗殺人)では、自白の信頼性に疑問を投げかけ、広島高裁に差し戻した。その後の無罪判決の先鞭を付けた形。全逓東京中郵事件(郵便局員の労働争議)では、処罰すべきとの反対意見。東京都教祖事件(公立校教員の労働争議)では、破棄自判の無罪判決に対し「『あおり』の概念を限定したり、処罰の範囲を限定したりするのは、法の明文に反するもので解釈の域を逸脱している」として、有罪の反対意見。退官後は弁護士となり、ロッキード事件田中角栄弁護団の最高顧問に。酒豪として知られた。 |
| 長部謹吾 | おさべ きんご | 1 | 検察官 | 1963/04/05 | 1971/03/31 | 銀行員だったが「性に合わない」と、2ヶ月で退職し検事に。最高検次長検事から最高裁へ。任命の際ゴタゴタがあった。本来は弁護士枠での選考だったが、候補者難から、名古屋高裁長官が推された。しかし、「裁判官枠が不当に増える」との反発を生み、結局、検察枠から起用となった。ほとんど多数意見に同調し、退官。 |
| 城戸芳彦 | きど よしひこ | 2 | 弁護士 | 1963/06/06 | 1970/12/19 | 法律雑誌社に入った後、弁護士として活躍。著作権法に精通。最高裁判事に任命される際には、政界有力者の代理人として財産返還請求書を郵送したことが問題視されたが、内閣による調査の結果、弁護士としての正当業務活動だと判断され、不問に付された。任官後は多数意見組に終始し、東京都教祖事件でも、破棄自判の無罪判決に同調。粛々と職務をこなした。 |
| 石田和外 | いしだ かずと | 2 | 裁判官 | 1963/06/06 | 1973/05/19 | 5代長官。福井県出身で11人兄弟の次男。祖父は銀行頭取出身の福井市議会議長。父は福井県庁職員だったが、中学生時代に死去。東京帝国大医学部の長男を頼って、一家で上京。一高時代は撃剣部(剣道部)に所属し、剣道師範の佐々木保蔵に出会う。先輩に4大長官の横田正俊氏。「剣の修行は千変万化。この身に迫ってくる者に対し、臨機応変・活殺自在の働きをすること」。小野派一刀流、一刀正伝無刀流、直心影流など、古流の真髄にも触れた。東帝大時代は、佐々木氏の家に同居し、塾頭となる。その縁で、佐々木師範の娘と結婚。東京地裁時代には、帝人の株式売買をめぐる政財官の疑獄事件(帝人事件)で、1935年に無罪判決。その左陪席判事だったが、主任として判決文の執筆をまかされ、その中で、検察の起訴事実を「水中に月影を掬するが如し」と断じた。捜査は、政財官の腐敗を一掃するために16人が起訴され、時の斎藤内閣が倒れたほど。また、過酷な拷問があったといわれ、その動きに釘を差した形。のちに「検察官の起訴にかかる涜職の事実は、まったく証拠がないばかりでなく、むしろさような事実の存在しないことの心証さえ得た次第である。その確信は現在に至るも微動だにするものではない」と語った。若い頃から将来を嘱望され、福島地裁や長野地裁に一時赴任した以外は、司法の中枢部を駆け上がり、『司法界に石田あり』と謳われたという。一方で、酒癖の悪さも有名で、いきなり人のふんどしを引っぱり出したり、抱きついて一緒に川に飛び込んだりしたという。モノを噛むクセもあり、貴族議員のバッヂを噛んで曲げたりもした。戦後には最高裁の初代人事課長に抜擢された。東京地裁所長時代、法務省が国会に上程した裁判官報酬の改正案(検察官報酬と同水準に引き下げ)に激怒。衆議院法務委員会に参考人として乗り込み「憲法が最高裁にゆだねた人事権を掣肘するもの」と非難した。法務省の「それでは検事がおさまらない」との発言に「その一言は捨て置けぬ。その法務官僚を直ちに罷免すべきではないか」と一喝し、結局、改正案は引っ込められることとなった。最高裁判事任命や長官任命の際も、まったく異論が出なかった。『長官就任の辞』として、「最近の社会の変化は激しく、ものの考え方は角度も変わっている。若い人たち、とくに学生がいろいろと騒いでいるのも、そういうところに原因があると考えられるが、そのために平和な社会の秩序が壊されるのを認めるわけにはいかない。裁判所は時勢よく見極める必要がある。それはちょうど激流の中に立つ巌にたとえられよう。毅然として正しく強くなくてはならない。強くというのは、裁判の独立をおびやかす者に対してである」と述べた。在任中は、公害訴訟のあり方を検討し続け、「過失」や「因果関係」の立証責任転換について、民事局が中心となって研究を重ねた。この頃から続く研究の蓄積が、のちに『新々過失論』や『疫学的因果関係』(当時の民事局長・矢口洪一氏による)などの新理論として花開くこととなる。尊属殺人罪(※1995年廃止)は刑の選択の幅が狭く極端に重いとして、違憲とした判例変更に同調。全逓東京中郵事件(現業公共企業体職員[郵便局員]の労働争議)では、処罰すべきとの反対意見。東京都教祖事件(非現業公務員[教師]の労働争議)では、破棄自判の無罪判決に対し「『あおり』の概念を限定したり、処罰の範囲を限定したりするのは、法の明文に反するもので解釈の域を逸脱している」として、有罪にすべきとの反対意見。しかし、法廷の結論は労働者寄りであり、これらの有罪破棄差し戻しや無罪判決がきっかけで、『裁判所の左翼偏向』と右翼団体から目を付けられ、当時の田中角栄幹事長が、自民党内に「裁判制度に関する調査特別委員会」の設置を呼びかけ始めた。その動きに、事務総局を通じて「その活動が係属中の事件に対する裁判批判や、裁判所の人事介入となれば誠に重大な問題」と警告。角栄氏はいったん撤退するが、3ヶ月後に『司法制度調査委員会』と名を変えてちゃっかり設置されてしまう。保守派の長官自身も、学生のデモ事件で検察側の拘置請求を続々と却下したりしていたわけだが、それでも、「裁判官は、激流の中に毅然と立つ巌のような姿勢で国民の信頼をつなぐ」と動じなかった。しかし、このような外部からの裁判所批判が一因となって、長官は、定年退官するリベラル派判事の代わりに、保守派の人物を徹底スカウトしつづけたという。その結果、全農林警職法事件では、従来の判例路線を復活させ、「公務員のストライキ権は禁止されており、この問題につきさらに審査する必要はない」と断言して、公務員の労働基本権の制約を再び正当化した大法廷判決となった。なお、石田長官はその法廷意見に賛同しており、個人としては公務員の争議行為を処罰する方向性で一貫している。八幡製鉄事件大法廷では「企業や団体からの政治献金は社会的有用行為であり、会社の権利能力の範囲内。株主の利益も害されない」と初判断。平賀書簡事件(長沼ナイキ訴訟[保安林を切り開いて航空自衛隊の訓練施設をつくる計画をめぐる事件]の裁判長[青法協会員]の上司である裁判官が、その判断内容に干渉しようとした)については、「裁判の干渉とは、力で自分の意見を押し付けること」「先輩として、親切心から立派な裁判をしてもらおうという考えしかなかったはず」と繰り返して、事態の幕引きを懸命に図ろうとした。東大闘争については「裁判官が公安事件に寛大すぎた。若い人々には母親のような態度で接してきた。その手ぬるさに気づき、父親のような厳しさで臨むようになったのは大変良いことだ。問題なのは弁護士の態度だ。弁護人は法廷で被告人以上に戦闘的な態度を採るべきではない。これを直すのは、世界で最も進歩した制裁措置を持つ日本の弁護士会の責務であると思う」とコメント。また、「極端な国家主義者、無政府主義者、はっきりした共産主義者の裁判官は、道義上好ましくない」とも発言し、さらに「青法協会員というだけで再任されないということはない。しかし、常識的な線で落ち着くと思う」との言葉が引き金となり、ブルーパージ(裁判官[特に最高裁事務総局内の]から青法協を追放する動き)につながった。さらに、司法修習を修了し、裁判官志望の青法協会員6名、そのシンパ1名の任官が、人事局により拒否される事態にもなり、その思想調査・選別の姿勢に激しい反発が巻き起こった。退官まぎわの高田事件(一審結審まで17年もかかった火炎びん事件)判決では、憲法37条1項の『迅速な裁判を受ける権利』を根拠に超法規的免訴とした一審判決を支持した。さらに、定年退職を次の月に控えた最終段階で、尊属殺人罪規定(旧刑法200条・1995年廃止)を違憲無効とする画期的判断。「尊属(親)に対する尊重報恩の道義は刑法的保護に値するが、尊属殺の法定刑が極端に重く、合理的根拠に基づく差別的取り扱いとはいえず、憲法14条1項違反」というのが多数意見で、長官もその立場に同調した。剣の道は、最高裁判事になっても続き、毎週水曜日の早朝、日比谷・第一生命ビルの地下道場で稽古に励んだ。また、最高裁でも酒癖は相変わらずで、パーティーで酔うとガラスのコップをガリガリかじって血だらけになるなど、司法界に裏の伝説を残した。退官の挨拶では、「公害や物価高は、政治の貧困が原因」と、行政を辛辣に批判した後、「長官・石田和外をご自分で採点したら」との質問には「まず100点というところでしょう」と、すがすがしい表情で答えた。退官後は、全国剣道連盟の会長や、「英霊にこたえる会」会長に就任。「もう六法全書も持っていませんよ」と話したという逸話も残っている。 |
| 柏原語六 | かしわばら ごろく | 3 | 弁護士 | 1963/12/13 | 1967/09/19 | 元東京弁護士会会長。最高裁入りについては、2回打診を受けたが固辞。3回目に引き受けた。就任の挨拶では、「弁護士と仕事の性質が違うので、勉強しなおさないと。何事もスジを通すことが大事。公平無私。法の目的である正義を実現したい」と述べた。 |
| 田中二郎 | たなか じろう | 3 | 法律学者 | 1964/01/16 | 1973/03/31 (依願免) |
行政法の研究者。講義は分かりやすく、試験の採点は緩やかで、学生から人気があった。そして、早い段階から公務員や公共企業体職員の争議権が大きな問題になることを強調し、東京中郵事件を「現代の最重要課題」として位置づけていたという。一時期は長官候補にも挙げられた。東京都教祖事件(公立校教員の労働争議)では、破棄自判の無罪判決に同調。公務員の労働争議について、再び処罰する方向性がつくられた全農林警職法事件などの3事件判決(1973年)でも、「公務員にも労働基本権があり、争議行為を行っても原則として刑罰は科せられない」とする反対意見側にまわった。さらに「そもそも本件は政治ストであり、労働基本権の問題ではなく、その点を審理すれば足りたはず。このように従来の最高裁判例を僅差(8対7)で変更することは、憲法判断の安定性と、最高裁の権威と指導性を低からしめるだろう」と付け加えた。尊属殺人罪(※1995年廃止)を違憲とした判例変更に「尊属殺を普通殺と区別しているのは、刑が重すぎるかどうか以前に、身分性道徳に立って、個人の尊厳と人格の平等に反する規定であり、違憲」とする補足意見。翻訳書「悪徳の栄え」わいせつ事件で、「わいせつ性と思想性は別」として上告棄却の有罪とした多数意見に対し「わいせつ性の有無は、思想性などとの関係で相対的に決めるべきで、多数意見はわいせつ概念に誤解がある」とする反対意見。定年まで3年を残して依願退官した後には「最高裁に入った頃は、意見を闘わせても外では談笑して毎日楽しみだった。しかし、辞める間際には、裁判官相互の気持ちの通い合いが薄れ、議論も自然とぎこちなくなり、発言しにくいような感じを持った」と話した。また、法律雑誌の座談会で「最高裁には二つの顔があると批判されているようだ。公安関係や労働基本権をめぐる事件では厳しい判断を示すが、一般の民刑事訴訟では、ある意味では進歩的ともいえる判断も出す」と述べたこともある。 |
| 松田二郎 | まつだ じろう | 1 | 裁判官 | 1964/01/31 | 1970/07/29 | 東京地裁の所長時代、部下である飯守重任氏(田中元長官の実弟)の発言(右翼の少年が中央公論社社長宅を襲って、お手伝いを殺害した事件を受けて、地裁の拘置部にいた飯守氏が『こうした事件が起きるのは左翼活動が激しいから』と発言した騒動)について、「裁判官は言動に注意を」と異例の通達。「生きた法律の勉強が大切」と、東京地裁や大阪高裁に、交通・手形・特許・労働など、さまざまな専門部を設置した。最高裁では1969年、総会屋の走りのような事件に商法違反の初判断。東京都教祖事件(公立校教員の労働争議)では、破棄自判の無罪判決に同調。退官後に出した「私の少数意見」という著書がある。プライベートでは、先立たれた夫人の写真をたくさん部屋に飾っていた愛妻家。 |
| 岩田 誠 | いわた まこと | 1 | 裁判官 | 1964/08/31 | 1972/11/25 | 膨大な証拠の中に埋もれる真実を発見することを人生の喜びだと語るほどの、生粋の刑事裁判官で、『刑事の神様』とまで呼ばれたほどの人物。最高裁調査官時代には、弁護士や行政官出身の最高裁判事に、裁判手続きなどを丁寧に説明したこともあった。最高裁事務総長や高裁長官経験者以外で、現場裁判官から初めての最高裁入り。「一生懸命裁判に打ち込んでいれば、現場から最高裁に呼ばれることもある」と、若手たちに希望を与えたという。ただ、政治色が無いとみられていた岩田氏の背後に隠れたリベラル思想を見抜き、そういう人物を密かに最高裁に集めたがっていた、当時の横田喜三郎長官の方針ともいわれている(山本祐司「最高裁物語」)。尊属殺人罪(※1995年廃止)は刑の選択の幅が狭く極端に重いとして、違憲とした判例変更に同調。松川事件の第1次上告審を、調査官として担当。被告のアリバイ証明となる証拠の閲覧を大法廷に意見答申し、無罪判決の糸口となった。青梅事件(電車暴走)の原審有罪判決を破棄差し戻し。無罪への道を開いた。全逓東京中郵事件では、不処罰の多数意見に「公共企業体の職員の争議を処罰するなら、公共企業体等労働関係法に罰則を設けるべき。公労法成立後に郵便法で処罰するのは法秩序を崩す」との補足意見を付けた。東京都教祖事件(公立校教員の労働争議)でも、破棄自判の無罪判決に同調。公務員の労働争議について、再び処罰する方向性がつくられた全農林警職法事件などの3事件判決(1973年)で、「公務員にも労働基本権があり、争議行為を行っても原則として刑罰は科せられない」とする反対意見側にまわった。翻訳書「悪徳の栄え」わいせつ事件で、上告棄却の有罪とした多数意見に「わいせつに侵害される利益と、芸術思想的利益とを比較して、後者が大きければ正当行為で無罪。しかし、本件は前者が大きい」とする意見を付す。 |
| 下村三郎 | しもむら かずお | 3 | 裁判官 | 1965/09/14 | 1973/01/01 | 裁判官として順当に出世し、東京高裁長官から最高裁入り。高裁時代は、海外小説「チャタレイ夫人の恋人」わいせつ文書事件(チャタレイ事件)を担当。一審の無罪判決に対し、有罪の逆転判決を出した(最高裁でも有罪)。最高裁では、市民の財産権と犯罪証拠収集の関係が問題になった、國學院大学映画研究会のフィルム押収事件の特別抗告を担当。「裁判所は捜査当局による押収の必要性の有無まで判断できる」との決定を出した。東京都教祖事件では、破棄自判の無罪判決に対し「『あおり』の概念を限定したり、処罰の範囲を限定したりするのは、法の明文に反するもので解釈の域を逸脱している」として、有罪の反対意見。全逓東京中郵や東京都教祖といった判例をわずか数年で変更し、公務員の労働基本権の制約を再び正当化し、有罪とした全農林警職法事件判決で、その法廷意見に賛同。尊属殺人罪(※1995年廃止)を違憲とした判例変更に「尊属卑属間の相互敬愛などの保持は、自然の発露に委ねるべき」とする補足意見。退官後は弁護士登録。ロッキード事件(運輸大臣ルート)の弁護団をまとめる存在に。 |
| 色川幸太郎 | いろかわ こうたろう | 2 | 弁護士 | 1966/05/10 | 1973/01/29 | 千葉県生まれだが、弁護士登録後は関西在住。戦時中は陸軍大尉。復員後には、地方公共事業体の調停委員や大阪市人事委員を長く務め、大阪弁護士会会長に就任。労働法に精通し、筋金入りのリベラル派として知られた。最高裁入りの挨拶で「アメリカには、時の権力に都合よく考える法律家“ガバメント・マインデッド・ローヤー”という言葉があるが、裁判官は“ピープル・マインデッド・ローヤー”でなければ」と述べた。尊属殺人罪(※1995年廃止)を違憲とした判例変更に「親と子ゆえに差別することこそ違憲。こう解しても、旧来の『孝』の観念を脱却するわけではない」とする補足意見。東京都教祖事件(公立校教員[地方公務員]の労働争議)では、破棄自判の無罪判決に同調。同日行われた仙台高裁事件(裁判所職員[国家公務員]の労働争議)判決でも、都教組事件判決で無罪とした判事らすら続々と有罪の多数意見にまわる厳しい状況で、ただひとり無罪の少数意見を貫いた。公務員の労働争議について、再び処罰する方向性がつくられた全農林警職法事件などの3事件判決(1973年)でも、「公務員にも労働基本権があり、争議行為を行っても原則として刑罰は科せられない」とする反対意見側にまわった。翻訳書「悪徳の栄え」わいせつ事件で、上告棄却の有罪とした多数意見に対し「表現の自由には知る自由を含む。わいせつ性のある文書でも、社会的価値が優越する以上、罪に問うべきではない」としたうえで、「そもそも本件翻訳書はわいせつ文書とは呼べない」と結論づける反対意見。その他、20あまりの少数意見を出したが、退官後「どれを読み返しても、ひとつも間違っていたとは思えない」と話した。 |
| 大隅健一郎 | おおすみ けんいちろう | 1 | 法律学者 | 1966/09/09 | 1974/10/01 | 日本商法研究の権威。尊属殺人罪(※1995年廃止)を違憲とした判例変更に「刑法200条(当時)は、旧家族制度的道徳観念を背景としている。法定刑が重いかどうかを問題とするまでもなく違憲」とする補足意見。東京都教祖事件(公立校教員の労働争議)では、破棄自判の無罪判決に同調。公務員の労働争議について、再び処罰する方向性がつくられた全農林警職法事件などの3事件判決(1973年)でも、「公務員にも労働基本権があり、争議行為を行っても原則として刑罰は科せられない」とする反対意見側にまわった。公務員の政治活動については、「政治的行為が刑罰で禁止されるのは、直接、国家的・社会的に重大な侵害をもたらす危険があり、やむを得ない場合のみに限定すべき」とする反対意見。一方で、黙秘権をつかって被告氏名を明記しなかった弁護人選任届を無効とする判決も出している。翻訳書「悪徳の栄え」わいせつ事件で、上告棄却の有罪とした多数意見に対し「思想性や芸術性が重要な部分を占めており、可罰性がない」とする反対意見。退官後に「学説では問題の多かったいくつかの裁判に関与できたことは、裁判官冥利に尽きる」と話した。荒縄で身体をゴシゴシこすりつける独自の健康法を持っていた。 |
【参考文献】
「日本の裁判史を読む事典」野村二郎(自由国民社)
「最高裁物語」山本祐司(講談社)
別冊ジュリスト「憲法判例百選I」(有斐閣)