司法脱線ウェブログ「法治国家つまみぐい」

    小法廷 出身母体 任命 退官 備考
松本正雄 まつもと まさお 弁護士 1967/01/17 1971/12/05 第二東京弁護士会会長。当時法学部がなかった東京商大(現一橋大学)から、初の最高裁判事。大学時代はサッカー部創設に尽力した。同じく商大出身で、のちの首相である大平正芳との親交もあった。また池田勇人との交流もあったという。5代長官の石田和外とは飲み仲間。就任時は「責任は重いが、これまでのように『勝たなくては』と力まなくていい」と挨拶。翻訳書「悪徳の栄え」わいせつ文書事件では多数意見につき、わいせつ性を認定したが、のちに「フランス革命のときあれが出されていたら、思想性が認められたかもしれないが、今の日本ではわいせつ」と語り、自説をフォローした。東京都教祖事件では、破棄自判の無罪判決に対し「『あおり』の概念を限定したり、処罰の範囲を限定したりするのは、法の明文に反するもので解釈の域を逸脱している」として、有罪の反対意見。退官後は、国家公安委員会委員。
飯村義美 いいむら よしみ 弁護士 1967/09/20 1971/04/26 最初は行政官志望だったが、大学卒業時に親類の家屋をめぐって紛争があり、それを円満にまとめ上げたことがきっかけで弁護士に。電電公社の顧問弁護士を務め、東京弁護士会副会長を歴任。最高裁判事就任時には「民事問題は和解をすすめることが大切。憲法問題を除けば、いずれかに決着をつけることが必ずしも正しいとは思えない」と挨拶した。
村上朝一 むらかみ ともかず 検察官
裁判官
1968/11/19 1976/05/24 6代長官。福岡県出身。父と兄は医者。三高から東帝大へ進学。戦時中は陸軍司政官になり、ジャカルタで敗戦を迎える。抑留され復員後は、司法省民事局で民法・商法の改正作業に携わった。その姿勢は鬼気迫るもので、誰かが会議であやふやなことを言おうものなら「どこにそんな条文があるのか」と、今にも六法全書を投げつけそうな剣幕で怒鳴りつけたという。最高検公判部長時代は、松川事件・八海事件の有罪論を組み立てた。その後、裁判所に復帰し、民事と刑事に広く精通する経歴と実力を買われ、東京高裁長官から最高裁へ。目立つことを嫌い、コメントを話す際も「どうしたら短く話せるか」を常に心がけていたといわれる。長官就任時は、長官時代の激動期について「司法の危機はなかったと思う。しかし、誤解があれば解く努力をする」と語った。また、「石田さんのような名文句を思いつく才能はありません。ですが、日弁連とも話し合います。私はタカでもハトでもないつもり」と、石田長官に激高している日弁連との和解に意欲を見せた。さらに、最高裁の批判記事しか書かなくなっていた司法記者クラブなど、マスコミにも定期的な懇談会を申し入れ、疎遠となった関係を修復し、かつての『保守絶対』イメージを払拭しようとした。また、大法廷評決でも、各小法廷から2名ずつ6名の『小委員会』をつくり、そこで争点をまとめて再び大法廷にかけるというシステムを構築した。判決文が最大公約数的な妥協案になったぶん、個々の理念対決という最高裁の荒々しさは、この時代で潰えた。長官がもっとも重視したのは『迅速な裁判』の徹底で、実際、就任時点で25件あった大法廷事件を6件に、7000件以上あった小法廷の案件も2000件あまりにまで減らしてみせた。全逓東京中郵や東京都教祖といった判例をわずか数年で変更し、公務員の労働基本権の制約を再び正当化し、有罪とした全農林警職法事件判決で、その法廷意見に賛同。尊属殺人罪(※1995年廃止)は刑の選択の幅が狭く極端に重いとして、違憲とした判例変更に同調。薬局の「適正配置規制」を定めていた、当時の薬事法6条について違憲無効の判決。「薬局の距離制限と、不良医薬品や薬局の経営不安定を防ぐこととは直接つながるわけではない。薬事法の規定は職業選択の自由に反する」というのが判決理由。1票の最大格差が4.99倍まで開いた1972年衆院選について「選挙全体が法の下の平等に反する違憲状態だというべきだが、事情判決により選挙を無効にはしない」との判決。のちにこの判決について「事情判決に公選法を適用することには勇気を必要とした。違憲判決そのものを軽視する流れを招くおそれがないかということだ」とコメントした。中学校内で教師らが学力テストの中止を求めて警官隊と激しくもみ合った旭川学テ事件や、県教組役員が『テスト拒否』の指令を出した岩手教組事件では、「文部省が学力調査を通じて、教育活動に不当に介入することは排除されるべきとしても、許容される目的のため必要かつ合理的と認められるものは、必ずしも教育基本法10条1項(行政が教育を不当に支配することの禁止)に抵触しない。公務執行妨害罪が成立しうる」として有罪の逆転判決。長官在任中、1974年に現在の最高裁判所庁舎が完成。これまで、最高裁機能が入っていた霞ヶ関の赤レンガ庁舎は取り壊された。退官会見では「前任者の石田さんのように、自分で100点満点を付ける度胸はありません、自己採点すれば、もっと早く判決文を書くべきでしたので、やっと合格スレスレの75点から65点でしょうか」と述べた。
関根小郷 せきね こさと 裁判官 1969/01/17 1975/12/02 戦時中は、満州国最高法院審判官。新京(今の長春)で、戦乱をくぐり抜けて帰国。民事裁判官として手腕を発揮し、最高裁の初代民事課長に。たとえ話が得意で、最高裁事務総長のとき「最高裁判事は天下の名医。重病人だけ診察すればいい。ところが、いまは風邪や腹痛まで診察する。もっと上訴をコントロールする制度が必要だ」と発言した。この考えは、1997年の民事訴訟法改正で反映された。最高裁では、交通事故の被害者を手厚く保護する判断が目立った。「最高裁判事の頭をたたいてみたら、チアンチアン(治安)と音がする」と言った一方で、1975年の徳島県公安条例事件(あいまいなデモ規制の文言)判決では、条例合憲・破棄自判の有罪判決とする多数意見側に付いた。尊属殺人罪(※1995年廃止)は刑の選択の幅が狭く極端に重いとして、違憲とした判例変更に同調。公務員の労働争議について、再び処罰する方向性がつくられた全農林警職法事件などの3事件判決(1973年)で、「公務員にも労働基本権があり、争議行為を行っても原則として刑罰は科せられない」とする反対意見側にまわった。公務員の政治活動については、「政治的行為が刑罰で禁止されるのは、直接、国家的・社会的に重大な侵害をもたらす危険があり、やむを得ない場合のみに限定すべき」とする反対意見。
藤林益三 ふじばやし えきぞう 弁護士 1970/07/31 1977/08/25 7代長官。京都府出身。無教会主義者の熱心なクリスチャン。陽気でおしゃべり、気さくな人柄で知られる。夫人は、明治の文豪・巌谷小波の娘。弁護士時代は、協和銀行や東京興業銀行の法律顧問を歴任。『破産法の権威』『会社更生の達人』として業界で知られる存在だった。また、東京都労働委員会公益委員を務めたことも。法廷闘争では、相手方の検事から「天皇とキリスト、どっちが偉いか」などという尋問をされたこともあり「ひどいものだった」と、その弁護士時代を回想する。初の弁護士出身長官。長官としての任期は、定年まで残された1年数ヶ月のみの、いわばショートリリーフだった。就任のとき「愛ですよ。愛といっても恋愛じゃないよ。エロスの愛ではなく、アガペー。汝の敵を愛す、神の愛じゃよ。私は対立的にものを考えるのが嫌い。裁判官でもアガペーをもってものを考えるのが基本だと思う」と話した。また、「今までの最高裁公舎では、ガラスやガレキの空き地があったので開墾して、食いきれないほどできた大根を裁判所に配ったこともあった。だが、長官公舎の日本庭園にクワを入れたら怒られるだろうし。日曜ごとに主催している聖書の集まりもできなくなるかな。ま、定年までの辛抱じゃから」と笑った。一方で、保守派としての顔も随所にのぞかせ、「刑罰の適用を抑制しようとする過去の判例には、法律の拡大解釈が多すぎる。もし、それが望みなら法律を改正すべきで、そのほうがスッキリする」との意見も述べている。時はロッキード事件の捜査まっただなかで、検察がロッキード社のコーチャン社長に向けて「捜査の結果、たとえ日本の法律に触れる行為が判明したとしても起訴しない」と予告する『不起訴宣明』について、起訴便宜主義(刑訴法248条)を不当に拡張するものではないか問題となったが、最高裁は「公訴権は検事にある。検事が起訴しないとアメリカ側にした約束は永続性を有する」とする裁判官決議を出した。尊属殺人罪(※1995年廃止)は刑の選択の幅が狭く極端に重いとして、違憲とした判例変更に同調する立場をとった。全逓東京中郵や東京都教祖といった判例をわずか数年で変更し、公務員の労働基本権の制約を再び正当化し、有罪とした全農林警職法事件判決でも、その法廷意見に賛同。のちに「私の人生観と根本的に一致している」とコメントした。再審請求の門戸を開いた白鳥決定にも関与。津地鎮祭事件(神社行事への公金支出と政教分離)で、「地鎮祭は慣習化した社会的儀礼であり、宗教的効果は薄い」との法廷意見に対し「神社神道の固有の祭式で行われており、宗教的儀式であることは明らか。本件は極めて宗教的色彩が濃い」との反対意見。さらに「国家と宗教が結びつけば、宗教の自由が侵害される。少数者の宗教や良心は、多数決をもっても侵犯されない」との追加反対意見。定年退官会見では「定年がこんなに楽しいとは思わなかった。もうだいぶ前から解放感を味わっていたんだ」と、場を和ませた。その後しばらくして、「地鎮祭事件の少数意見では、私の思いを書き尽くした。あの事件で私の法曹としての使命は終わったように考えた」と述べたこともあった。
岡原昌男 おかはら まさお 検察官 1970/10/28 1979/03/31 8代長官。岩手県出身。旧制の小学校・中学校を飛び級で進学し、東大法学部英法科在学中に国家試験に合格し、20歳にして司法官試補の身分に。そこから公安検事のエリートコースを突き進んだ。しかし、その歯に衣着せぬ物言いも災いしてか、やがて特捜部検察と衝突し、一時期は出世の王道からも外された。「私の生家では、小さいときから偉くなれと言われ、私自身もそうなろうと思ってよく勉強をしたが、検察庁時代には正直言って冷や飯を食わされたと感じたこともあったですよ。だが、人間、不遇時代にバタバタしてもダメですな」と、当時を振り返った。東京高検時代には、最高裁黎明期の「裁判官諮問委員選挙」で巻き起こった、細野長良氏(最後の大審院長)排撃運動をめぐる謀略電報事件を担当し、電信法違反容疑で細野派から告発されていた長野潔(東京控訴院判事・のちに不起訴)を取り調べた。石田長官が述べた「極端な軍国主義者や共産主義者は、裁判官として不適」との意見について、最高裁判事就任時に「支持する」と一言。裁判官となったのを期に民事法を猛勉強し「民法や商法は面白いな」と、思わず同僚に漏らしたことも。長官就任時には「私の好きな言葉は『則天去私』。しかし、だからといって運を天に任せていてはダメで、必要なのは本人の努力。私は『則天去私』を、私ごころを挟まず、あるべき姿を求めていくことと理解しています。検事時代も最高裁に来てからも、私はずっとそうやってきました」と、自らの人生観を述べた。長官就任後は、過激派側に付いた弁護士が出廷を拒否するなど、目に余る法廷戦略に堪えかね「弁護士の中には相当無茶なのがいて、裁判所の努力にも限界がある。『弁護士抜き裁判』の法案が必要」「弁護を受ける権利を逆手に取られては、いつまでも裁判が進まない。法廷で問題を起こす弁護士はバッサリやればいい」と言及し、「最高裁のほうが日弁連より偉いというところが見えて気に入らない。あの法案は絶対につぶす」と、弁護士たちが強く反発した(※のちに廃案)。尊属殺人罪(※1995年廃止)は刑の選択の幅が狭く極端に重いとして、違憲とした判例変更に同調。全逓東京中郵や東京都教祖といった判例をわずか数年で変更し、公務員の労働基本権の制約を再び正当化し、有罪とした全農林警職法事件判決で、その法廷意見に賛同。1票の最大格差が約5倍まで開いた1972年衆院選について「全体として違憲状態だが、事情判決により選挙を無効にはしない」との判決に対し「問題となった千葉1区のみが違憲で、選挙も無効」との反対意見。大阪空港騒音訴訟の上告審では、住民側の『夜間飛行差し止め』『過去被害賠償』『将来被害賠償』をほぼ全面的に認めた控訴審判決を見直すべく、いったん第一小法廷で控訴審追認の方向で結論が決まりかけていたものを、長官権限で大法廷に回付。審理はそのまま服部次期長官に引き継がれた。また、すでに退官していた田中二郎氏の『最高裁2つの顔』論に対して「二つの顔があるわけがない。あったら精神分裂病だ。くやしまぎれに言っている。全農林警職法事件でも、私たちは十分に議論をつくしており、議論の積み重ねで多数意見を形成している。これが国民の常識と合致するかを探るのが私の仕事だ」と反論した。退官後、ロッキード事件田中角栄氏の有罪判決について、「判決確定までの無罪推定論は、一審判決の重みを理解しないもの」と述べるなど、あらゆる意味で検察官出身者らしいキャラを貫いた。ただ、衆院選の定数訴訟に関しては「政府に是正の意気込みがみられないのが、一番癪にさわる。まだ庶民の怒り方が足りない。裁判所も、このまま事情判決を重ねると信頼を失う」と主張しつづけていた。さらに、1970年の八幡製鉄事件判決について振り返り「企業政治献金は法律的に理屈が通らない。政治家に何億円も入るなんて悪だ。あれは『助けた判決』というんだ」と強く批判した。
小川信雄 おがわ のぶお 弁護士 1970/12/22 1975/08/06 会社員だったが3ヶ月で退社。「文化が進む社会では専門職が大切」と弁護士に。戦後は、運輸相の秘書官を務めたことも。育英事業にも関心があり、育英会の理事長も歴任。尊属殺人罪(※1995年廃止)を違憲とした判例変更に「尊属殺を普通殺と区別しているのは、刑が重すぎるかどうか以前に、身分性道徳に立って、個人の尊厳と人格の平等に反する規定であり、違憲」とする補足意見。公務員の労働争議について、再び処罰する方向性がつくられた全農林警職法事件などの3事件判決(1973年)で、「公務員にも労働基本権があり、争議行為を行っても原則として刑罰は科せられない」とする反対意見側にまわった。公務員の政治活動については、「政治的行為が刑罰で禁止されるのは、直接、国家的・社会的に重大な侵害をもたらす危険があり、やむを得ない場合のみに限定すべき」とする反対意見。
下田武三 しもだ たけぞう 行政官 1971/01/12 1977/04/02 外交官として、戦前にはオランダ・フランス・中国に勤務。戦後にも駐ソ連大使、駐米大使などの枢要ポストを渡り歩く。沖縄返還交渉での力量を、当時の佐藤栄作首相から高く評価され、最高裁判事に推される。任官したての頃、「裁判官は体制を批判してはならない。もし批判したいなら国会議員になるなどの道を選べばよい。最近の一連の司法行政は決して揺らいではいない。世界の大勢から見ると小さな問題にすぎない」と、当時の石田長官の路線をバックアップする発言も行った。1973年、大法廷が初めて違憲判断を出した刑法の尊属殺人罪(1995年に廃止)重罰規定について、15裁判官のうち、ただひとり合憲の反対意見。「尊属に対する敬愛・尊重は合理的。法定刑は立法府の裁量」と述べた。全逓東京中郵や東京都教祖といった判例をわずか数年で変更し、公務員の労働基本権の制約を再び正当化し、有罪とした全農林警職法事件判決で、その法廷意見に賛同。再審請求の門戸を開いた白鳥決定にも関与。1票の最大格差が約5倍まで開いた1972年衆院選について「全体として違憲状態だが、事情判決により選挙を無効にはしない」との判決に対し「問題となった千葉1区のみが違憲で、選挙も無効」との反対意見。全逓名古屋中郵事件で「公務員の争議行為全面禁止は不当ではない。しかし、争議行為の単純参加者は処罰せず」との法廷意見に「単純参加者も処罰すべき」との意見。在任中に、国際紛争を処理する常設仲裁裁判所の裁判官にも任命された。一方で、1972年の国民審査において、歴代最高不信任率(15.2%)を得るという不名誉も。
岸 盛一 きし せいいち 裁判官 1971/04/02 1978/07/13 父と、母方の祖父が大審院判事。小柄ながら酒豪。東京帝国大卒業後は刑事裁判畑を歩み、「帝人事件」では補充判事をつとめた。「裁判官は『孤生の竹』でなければならぬ。一本一本の竹が根を固く張りめぐらして山河を守る。裁判官はその竹のようにすがすがしい孤高の精神を持たねばならない」というのが持論。戦後、初代最高裁刑事局長に就任。新しい刑事訴訟法の立案に携わり、そこに「自白の補強証拠」や「起訴状一本主義」の概念を採り入れた。その後、新刑訴法の理想を実践するため、裁判の現場に戻り、集中審理方式による裁判の迅速化に尽力。東京都公安条例事件ではデモ規制法規につき違憲判決を出した(※のちに最高裁で破棄される)。一見リベラル派とみられ、各地方の裁判所に強い影響を与えたが、最高裁事務総長時代には、渦中の人だった石田長官の司法行政をフォローし、『青法協つぶし』に尽力した。とはいえ、財田川事件の死刑囚に再審の門戸を開いたり、韓国からの密入国者に被爆者手帳を交付することを認めるなど、裁判所の外に向けては人権擁護に徹している。最高裁判事としては、再審請求の門戸を開いた白鳥決定が有名。「再審請求の2要件『証拠の新規性』『明白性』にこだわらず、合理的にみて原判決の有罪認定に疑問があれば再審を開始しても良い」とし、再審の領域にも『疑わしきは被告人の利益に』の鉄則が妥当することを示した。尊属殺人罪(※1995年廃止)は刑の選択の幅が狭く極端に重いとして、違憲とした判例変更に同調。全逓東京中郵や東京都教祖といった判例をわずか数年で変更し、公務員の労働基本権の制約を再び正当化し、有罪とした全農林警職法事件判決で、その法廷意見に賛同。1票の最大格差が約5倍まで開いた1972年衆院選について「全体として違憲状態だが、事情判決により選挙を無効にはしない」との判決に対し「問題となった千葉1区の定員が少なすぎ違憲。しかし、当選人の効力は失わない」との反対意見。石田長官の腹心だったため、次期長官候補にも挙がったが、事務総長時代に見せた保守路線が法曹界内部で嫌われてしまった形。
天野武一 あまの ぶいち 検察官 1971/05/21 1978/09/20 会社員から検事に。大阪でタクシー汚職事件を摘発するなどし、大阪高検検事長を経て最高裁入り。就任の際「自分がそうできるわけではないが、判断は全人格的・全人間的なもの。片々たる知識ではなし、専門的素養ではなし」と挨拶。尊属殺人罪(※1995年廃止)は刑の選択の幅が狭く極端に重いとして、違憲とした判例変更に同調。審理が地裁で15年間中断した高田事件では、訴追側が被告人の迅速な裁判を受ける権利を侵害しており、免訴と結論づけた法廷意見に対し「理論的には賛成だが、まだ権利侵害の原因が明確になっていない」として、審理やり直しの反対意見。その他、全逓東京中郵や東京都教祖といった判例をわずか数年で変更した全農林警職法事件判決でも、公務員の労働基本権を認めない法廷意見にまわるなど、厳しい立場を貫いた。1票の最大格差が約5倍まで開いた1972年衆院選について「全体として違憲状態だが、事情判決により選挙を無効にはしない」との判決に対し「訴えそのものを却下すべき」との意見。
坂本吉勝 さかもと よしかつ 弁護士 1971/12/07 1976/03/26 民事が専門の弁護士。「微力を尽くす」という謙虚な挨拶で最高裁判事に就任。夫が運転する車が事故を起こし、同乗していた妻が負傷した場合、妻は自動車損害賠償保険法にいう「他人」にあたると解釈し、保険金の支払い請求ができると判示。一方で、昭和女子大事件では「私立大学が学生の政治活動を制限するのも合憲」とする判断もした。尊属殺人罪(※1995年廃止)を違憲とした判例変更に「尊属殺を普通殺と区別しているのは、刑が重すぎるかどうか以前に、身分性道徳に立って、個人の尊厳と人格の平等に反する規定であり、違憲」とする補足意見。公務員の労働争議について、再び処罰する方向性がつくられた全農林警職法事件などの3事件判決(1973年)で、「公務員にも労働基本権があり、争議行為を行っても原則として刑罰は科せられない」とする反対意見側にまわった。公務員の政治活動については、「政治的行為が刑罰で禁止されるのは、直接、国家的・社会的に重大な侵害をもたらす危険があり、やむを得ない場合のみに限定すべき」とする反対意見。中学校内で教師らが学力テストの中止を求めて警官隊と激しくもみ合った旭川学テ事件や、県教組役員が『テスト拒否』の指令を出した岩手教組事件では、文部省が教師の教育活動に影響を与える学力テストの違法性を指摘し、無罪とすべきとする反対意見をただひとり打ち出した。
岸上康夫 きしがみ やすお 裁判官 1972/11/28 1978/09/21 小学校・中学校を1年ずつ飛び級進学。京都大学から大阪地裁、東京地裁の現場を歩み、いったん最高裁経理局長に。東京高裁長官から順当に最高裁入り。再審請求の門戸を開いた白鳥決定に関与。ポルノ写真の所持では「刑法177条は国内でのわいせつ図画の販売を禁止したもの。国外販売目的では不可罰」との新判断。また、選挙での候補者を連呼しての勧誘は、買収罪の対象である『選挙運動』に当たる、との判断をしたことも。大阪空港騒音訴訟では、小法廷審理の裁判長を務め、飛行差し止めの可能性も含めた和解を試みたが、まとまらずに大法廷に回付した。口頭弁論がすでに終了した後の段階になっての大法廷回付は異例で、当時の岡原長官からの強い打診があったともいわれる。
江里口清夫 えりぐち きよお 裁判官 1973/01/09 1980/03/19 刑事裁判が専門。東京地裁では帝銀事件(赤痢の予防薬と偽って行員らに青酸化合物を飲ませ12人死亡。北海道の画家を逮捕)を担当。「一般市民は被告の自供があるからと言っているが、はなはだ危険」と、慎重な姿勢を見せた。じっくりと被告を尋問し、録音テープを何度も聞き返すなどしたうえで、死刑判決。最高裁判事就任の挨拶では「帝銀事件以外に死刑判決を出したことはない。あの事件に比べると、どんな事件にもどこか救いがある。世間的に騒がれる事件より、あまり知られていない事件の法律問題で神経を磨り減らす」と述べた。また「刑事事件の被告は、白か黒かであり、それは神のみぞ知るではなく、目の前の被告が知っている。人間そのものを裁く裁判官は、自身が裁かれている」とも語った。1票の最大格差が約5倍まで開いた1972年衆院選について「全体として違憲状態だが、事情判決により選挙を無効にはしない」との判決に対し「問題となった千葉1区のみが違憲で、選挙も無効」との反対意見。
大塚喜一郎 おおつか きいちろう 弁護士 1973/02/02 1980/02/04 旧制三高(京都大学)時代には、寮の門限に反対して、ストライキ実行委員長となり警察に拘束され放校処分。日弁連事務総長、第一東京弁護士会会長を歴任後、衆議院議員にも立候補したが落選。最高裁判事としては、公安条例事件で無罪とされた原判決を破棄差し戻すなど、公秩序を重視。一方で、米軍基地反対の闘争に参加し罰金刑を受けたために懲戒解雇となった3名の会社員に対し、「犯行の動機や目的は破廉恥なものではない」と解雇無効の原判決を支持した。1票の最大格差が約5倍まで開いた1972年衆院選について「全体として違憲状態だが、事情判決により選挙を無効にはしない」との判決に対し「問題となった千葉1区のみが違憲で、選挙も無効」との反対意見。退官後は国家公安委員。
高辻正己 たかつじ まさみ 行政官 1973/04/04 1980/01/18 鳥取県学務部社会課長、枢密院書記官、行政裁判所評定官などを務め、戦後は法務庁、自治庁、内閣法制局と渡り歩いた。法制局次長時代には、「必要最小限度の実力組織の保持は禁止されていない」とする憲法9条の政府解釈にたずさわり、のちに「警察予備隊の時は、『ありゃ警察だ』って言ってればよかったが、自衛隊ができちゃった以上、解釈が元のままでは通らない」とも語っている。内閣法制局長官から最高裁へ。就任の際、法制局と最高裁の違いについて聞かれ、「法の支配という点は似ている。しかし、政府にいれば一方の当事者。裁判官は偏しない。大事なのはそこ」と話した。神道信仰者でもあり、津地鎮祭事件(神社行事への公金支出と政教分離)で、「地鎮祭は慣習化した社会的儀礼であり、宗教的効果は薄い」との法廷意見に賛同。ある公安条例事件(ハガチー事件)で、「法務府の局長時代に、公安条例合憲の判断をした当事者」という理由で弁護団から忌避申立てを受けたが、第一小法廷で却下。大法廷にも数多く携わったが、ほとんど多数意見に同調。ただ、条例規定の明確性が問題になった徳島市公安条例事件では、明確性ありとの法廷意見に「本条例の規定は明確性を欠くが、被告の行為は規定違反」との意見を付した。退官後は、国家公安委員や、中曽根内閣の臨時行政委員会顧問などとして活躍。そして、第2次竹下内閣においては、民間人枠で法務大臣に任命された。
吉田 豊 よしだ ゆたか 裁判官 1973/05/21 1979/02/28 「不景気で経済界はダメ」と法曹界に。最高裁の初代会計課長に任命され、さらに事務総長を歴任。現在の最高裁庁舎の建設に尽力した。非公開とされているはずの最高裁裁判官会議での発言内容として、朝日新聞が記事を掲載するなどした事件があったが、その折衝を担当し「事実無根」と一歩も引かなかった。公安条例事件では、個人の権利より公秩序維持の方向性で判断。不法行為などでの妻の逸失利益は「女子労働者の平均賃金で計算するのが妥当」とした。1票の最大格差が約5倍まで開いた1972年衆院選について「全体として違憲状態だが、事情判決により選挙を無効にはしない」との判決に対し「問題となった千葉1区のみが違憲で、選挙も無効」との反対意見。津地鎮祭事件(神社行事への公金支出と政教分離)で、「地鎮祭は慣習化した社会的儀礼であり、宗教的効果は薄い」との法廷意見に対し「神社神道の固有の祭式で行われており、宗教的儀式であることは明らか。本件は極めて宗教的色彩が濃い」との反対意見。
團藤重光 だんどう しげみつ 法律学者 1974/10/04 1983/11/07 ご存じ、日本刑法学・刑事訴訟法学の第一人者。東大で刑法学者 小野清一郎の助手となり、31歳で教授に。戦後は刑事訴訟法の作成に参画した。定年退官後は、いったん慶応大学教授となり、刑法学者として初の最高裁入り。1975年には、再審の厳格な制限を緩めた白鳥事件決定の判断にも加わった。その他、補足意見や反対意見を積極的に打ち出した。特に大阪空港騒音訴訟大法廷判決で、夜間離発着の差し止めと将来被害の賠償を認めるべきと主張した反対意見が有名。判決文の中で「わが国は狭い国土の上に、世界に誇るべき経済的繁栄を享受しているが、種々の陰りをともなうことも必然の現象。公害はその最たるもののひとつで、本件はいわばその縮図として重大かつ深刻な問題を投げかけている。新しい立法措置にまつべきものが多々ある」と書いた。本件は、最初は第一小法廷に係属されたものであり、住民側有利の結論でまとまりかけていたところ、岡原長官から事件の大法廷回付を求められて、その申し出に対し、第一小法廷のメンバーの中で唯一反対しつづけた。また、チッソ川本事件(水俣病患者がチッソ本社で補償交渉をした際に、社員にケガをさせた)で、傷害罪での公訴を棄却する判断。全逓名古屋中郵事件で「公務員の争議行為全面禁止は不当ではない。しかし、争議行為の単純参加者は処罰せず」との法廷意見に「刑罰法規は抑制的に解すべき」との反対意見。津地鎮祭事件(神社行事への公金支出と政教分離)で、「地鎮祭は慣習化した社会的儀礼であり、宗教的効果は薄い」との法廷意見に対し「神社神道の固有の祭式で行われており、宗教的儀式であることは明らか。本件は極めて宗教的色彩が濃い」との反対意見。定年退官後には、死刑制度反対の立場を鮮明にする『死刑廃止論』の著書を出版。中国語や韓国語にも翻訳された。人権団体 アムネスティ・インターナショナルの集会では「免田・財田川事件の記録を読むと、無理な認定だという感じを抱かざるをえなかった。でも、これらの事件でさえも白鳥決定が出るまでは再審の門をなかなか通れなかった。言い換えれば、それ以前は再審も認められず、死刑を執行されてしまった人の中には、無実の罪で処刑された人がいた可能性が強いわけで、しかもその数は明治時代から必ずしもわずかではなかったのではないか。そのことを思うと胸が痛む」と述べた。
本林 譲 もとばやし ゆずる 弁護士 1975/08/08 1979/03/30 いったん弁護士になった後、1年間だけ仙台地裁で裁判官を務めたこともある。戦後は、日弁連の事務総長に。最高裁では、結婚話のもつれで相手の実家の5人を鉄棒で殴り殺した男について言い渡された一審・二審の死刑判決を、「犯行時に心神耗弱の疑い」という理由で破棄差し戻した。北海道の列車妨害事件で、無罪となった元被告人が提起した国家賠償訴訟では、その請求を否定。「無罪判決の確定をもって、ただちに捜査や起訴が違法となるものではない」と結論づけた。
服部高顯 はっとり たかあき 裁判官 1975/12/03 1982/09/30 9代長官。裁判所の部内では「コウケンさん」と呼ばれて親しまれた。英語が堪能で、戦後は司法省大臣官房で連合軍との折衝にあたった。最高裁民事局では、家事審判規則の制定に関与。米ハーバード・ミシガン・スタンフォードの各大学の留学経験も。大阪高裁長官から最高裁入り津地鎮祭事件(神社行事への公金支出と政教分離)で、「地鎮祭は慣習化した社会的儀礼であり、宗教的効果は薄い」との法廷意見に対し「神社神道の固有の祭式で行われており、宗教的儀式であることは明らか。本件は極めて宗教的色彩が濃い」との反対意見。浅黒い肌に頬骨の張った人相とは裏腹に、性格は温厚で控えめ。よく見るテレビ番組を聞かれ「天皇陛下みたいですが、言うと差し障りがありますから」とかわした。「私は平凡な裁判官で生活も地味。世間の目を集めるような裁判を扱ったこともないし……」と挨拶したが、長官を務めた期間は、日本史上に残る重要訴訟を立て続けに担当した他、旭川地裁判事の酒酔い乱暴事件、簡裁判事が公判担当中の女性被告人と情交関係を結んだ事件、東京地裁破産部の判事補が破産管財人から接待ゴルフやゴルフセット一式の賄賂を受けるなど、司法府内で不祥事が続発した激動の時代でもあった。岡原長官時代からの懸案であった大阪空港騒音訴訟の大法廷では、第一小法廷に続き、さらに2回の口頭弁論を重ねたうえで、控訴審で認容されていた夜間飛行差し止め請求を「民事上の訴訟としては不適法として却下を免れない」として、法の形式論だけで門前払いする住民側逆転敗訴の判決を出した。堀木訴訟大法廷(憲法25条の生存権は具体的権利ではなく、福祉的な措置は立法府の裁量事項)の裁判長も務めた。社内の原水爆禁止運動のカンパをめぐり、人事部の事情聴取を断った社員につき「労働者は企業の調査にいつも協力する義務はない」として、譴責処分無効の判断。定年退官の記者会見では、「複雑な気持ちになるなあ。あの大阪空港訴訟の結論が、よくまとまったなと思う。あんな難しい裁判は将来も無いんじゃないか」と語った。裁判官不祥事については「国民の裁判官に対する信頼の回復は、裁判に対する信頼の基本になっています。在任中は残念でしたが、その点を若い裁判官は考えてほしいのです」と率直に述べた。
環 昌一 たまき しょういち 裁判官
弁護士
1976/03/27 1982/04/11 戦前は現場裁判官。敗戦後は、最高裁調査官から司法省調査課に転じ、法務庁の行政訟務局で、会社法の改正作業に携わった。占領軍との折衝の仕事が多く「ばかばかしくなって」弁護士に転身。チャタレイ事件の共同弁護人として無罪論を展開したが敗訴。また、名古屋新幹線差し止め訴訟や、富山イタイイタイ病訴訟では、企業側代理人として活躍した。就任のとき「裁判官と弁護士は、野球にたとえれば主審と投手。投手は作戦上必要があれば、カーブもシュートも投げなければならないが、主審はストライクゾーンにボールが入っているかを見極めるだけ」と語った。また、法律改正の遅れについて「裁判は、古い洋服を仕立て直すようなもの。明治時代の洋服をディスコで踊れるようにするのは辛い」と話すなど、たとえ話を得意とした。大阪空港騒音訴訟で夜間離発着の差し止めを認めるべきとする反対意見。また、メーデーに「内閣打倒」の横断幕を掲げた公務員の懲戒処分をめぐり、裁判長でありながら「政治活動の禁止は、合理的でやむを得ない範囲にとどめるべきで、猿払事件の判例を一般化すべきでない」との反対意見を出し、労組側の立場に立とうとした。全逓名古屋中郵事件で「公務員の争議行為全面禁止は不当ではない。しかし、争議行為の単純参加者は処罰せず」との法廷意見に「刑罰法規は抑制的に解すべき」との反対意見。津地鎮祭事件(神社行事への公金支出と政教分離)で、「地鎮祭は慣習化した社会的儀礼であり、宗教的効果は薄い」との法廷意見に対し「神社神道の固有の祭式で行われており、宗教的儀式であることは明らか。本件は極めて宗教的色彩が濃い」との反対意見。
栗本一夫 くりもと かずお 裁判官 1976/05/25 1982/05/26 刑事裁判官。敗戦後に司法省刑事局で、新刑事訴訟法の作成にタッチする。当時のメンバーでまとめた「ポケット注釈全書 刑事訴訟法」は、実務家の間でロングセラーとなった。東京高裁では、映画「黒い雪」わいせつ図画事件で、一審の無罪判決を支持。映画そのもののわいせつ性は認めたが、映倫の審査をパスしており「犯意なし」との判断。東大安田講堂事件では、一審の実刑判決を破棄して執行猶予。「あの事件は、若者のハシカみたいなもの」との思いから。最高裁では、小説「四畳半襖の下張り」わいせつ有罪判決を支持。在任中は、病気で長期欠勤したこともあった。
藤崎萬里 ふじさき まさと 行政官 1977/04/05 1984/12/15 外交官として戦前はアメリカで勤務。戦後は、新憲法の政府案を説明する内閣法制局次長の通訳を務めた。外務省条約局課長時代には、日米講和条約を締結する際の、吉田元首相演説草稿を作成。条約局長時代は、日韓条約締結に取り組んだ。タイ駐在大使から最高裁入り。チッソ川本事件(水俣病患者がチッソ本社で補償交渉をした際に、社員にケガをさせた)で、傷害罪での公訴を棄却する多数意見に対抗し、「多数意見は暴力行為を容認していると誤解されるおそれ」と、一審の執行猶予付き罰金刑を支持する反対意見。
本山 亨 もとやま とおる 弁護士 1977/08/26 1982/08/10 名古屋で開業していた弁護士としては初の最高裁判事起用。内定のときは「英語が先に、しかも2週間でできた憲法をそのままにしているのはおかしい。私は改憲論者ではなく見直し論者。ただ、前文。ありゃなんだ。改正できるといいながら直すヤツは社会正義に反するごとくいう。矛盾もはなはだしい」と発言。しかし、就任のときは「誤解がある。憲法を守り職責を尽くす」と落ち着いた挨拶。免田事件の第6次再審では、検察の上告を棄却し、無罪判決への道筋を付けた。一方で、犯行の動機が不明確のまま原審で実刑が言い渡された千葉チフス菌事件(千葉大学に勤務する医師が、約1年半に渡って、合計64名に対してチフス菌や赤痢菌を故意に付着させたバナナなどの食品を食べさせ腸チフスや赤痢にかからせた)で、「異常性格者による、はっきりした動機のない無差別犯行」と断じて、被告人の上告を棄却した。
戸田 弘 とだ ひろむ 裁判官 1978/07/14 1980/03/25
(在任中死去)
刑事裁判の経験豊か。東京地裁八王子支部時代に、書類がロッカーに10年間埋もれたままになっていた事件について「刑事訴追の利益がない」として、公訴棄却の判決。「長すぎる裁判は裁判の拒否に等しい」という意識。一方で、訴訟指揮が厳しいことでも知られた。学生騒動関連の裁判では、被告欠席のまま判決を言い渡し、それに抗議する弁護団や傍聴人を警察機動隊をつかって退廷させた。さらに被告9人を拘束するなどした。

横井大三 よこい だいぞう 検察官 1978/09/22 1984/06/10 いったん裁判官になったが、1945年に司法省勤務となって以来、検事に。刑事訴訟法の「証拠法」の部分を作成した。「ポケット注釈全書 刑事訴訟法」を共著でまとめたひとり。東京地検・同高検・最高検の各公判部長を歴任。名古屋高検検事長を務めた後、専修大学教授を1年間務め、最高裁へ。被告ともめて国選弁護人が辞任したあと、後任の弁護人選任請求を認めないまま判決を下したことも。判決理由で「国選弁護人は、辞任を申し出ただけではその地位を失わない。裁判所による解任があって初めて地位を離れられる」との趣旨を述べた。殺人教唆で原審で有罪となった暴力団組長射殺事件では、被告のアリバイ成立を示し、審理のやり直しを命じた。大阪空港騒音訴訟で、夜間離発着の差し止めを認めず、過去の騒音損害のみ賠償を認めた法廷意見に「行政事件の公権力行使として、抗告訴訟で救済を求めるべき」とする補足意見を付した。一票の格差が最大3.94倍に開いた1983年衆院選の議員定数不均衡訴訟で、違憲説を採り、格差が許されるボーダーラインを『2倍程度』と示した。
中村治朗 なかむら じろう 裁判官 1978/09/22 1984/02/19 東大卒。英米法や行政訴訟に精通した理論家で、特に村上長官は、その学識を高く評価していた。一方で「青年法律家協会(リベラル思想の自主団体)」に所属する裁判官に自戒を求める一面も。青法協問題(同団体に所属する裁判官の不再任問題)が最もクローズアップされた時期には、「裁判官が親野党的な団体に所属し、思想的立場や信条に深くコミットするのは避けるべき」と述べたことも。最高裁主席調査官時代には、1972年衆院選の議員定数違憲判決で、本来は行政事件訴訟法の制度である『事情判決の法理』を引き写すことで、選挙そのものの効力は保ち、現実政治の混乱を回避するアイデアを初めて編み出した理論派の裁判官。ただし、事情判決の危険性も同時に指摘しており、「判決後、相当期間にわたって漫然と放置しているなど、国会による自発的是正の可能性が乏しいときは、選挙無効判決をすべきものとされる可能性は十分にある」との留保を付けている。アメリカの選挙権訴訟を参考にしたという。最高裁事務総局に通算16年間勤務し、司法行政に携わった。大阪空港騒音訴訟の主任裁判官だったが、夜間離発着の差し止めを却下した多数意見に反対。のちに、「この訴訟は最高裁にのぼってくるのがちょっと早過ぎるという感じもしました。下級審段階で、もっと論点が叩かれて煮詰まった段階で来るべきではなかったか」と感想を述べた。1983年の衆議院議員定数訴訟(最大格差3.94倍)では「票の価値の格差が合理的期間内に是正されない場合は、選挙無効判決も辞さない。事情判決の法理(選挙を無効にせず、違法性を宣言するにとどめる)も、その可能性を排除するものではない」という、強硬な違憲説。格差のボーダーラインを『3倍程度』と示した。また、家永第2次教科書訴訟では、「文部省が不合格処分を取り消しても、あらためて合否の検定を受ける可能性があるか審査する必要がある」として、原審判決を破棄差し戻し。また、磁気化された自動車登録ファイルも、刑法上の公正証書原本にあたるとの判断を示し、いちはやくコンピュータ時代に対応。なお、磁気ディスクの文書性については触れなかった。
木下忠良 きのした ただよし 裁判官 1979/03/01 1986/01/14 民事訴訟・行政訴訟の実務経験が豊富。キャリア裁判官出身の最高裁判事にはめずらしく、最高裁事務総局での勤務経験がない。地道に全国各地の裁判現場を歩み続け、大阪高裁長官から最高裁入り。日活ポルノ事件では、上告を棄却し罰金刑を確定させた。地裁レベルでわいせつ事件の無罪判決が増えてきていた動きに、釘を刺した形。第1次石油ショックの際、国内の石油業界で行われた闇カルテル事件では、1社と1被告に無罪。独占禁止法にいう「不法な取引制限」とは、「事業者同士が共同で対価を上げる協定を結ぶことをさし、実施の有無は関係ない」との解釈を示した。大阪空港騒音訴訟で夜間離発着の差し止めを認めるべきとする反対意見。サラリーマン税金訴訟では、「サラリーマンにも必要経費はあるが、給与所得控除の中に概算的に含まれており、事業所得者と比べ不公平ではない」とする法廷意見に「サラリーマンの実際の経費が給与所得控除を超えた場合、その制度で課税するのは合理性を欠き違憲」とする補足意見を付した。
塚本重頼 つかもと しげより 弁護士 1979/04/02 1981/10/17
(依願免)
戦前は裁判官生活を送っていたが、戦後に「安月給では食っていけない」と、弁護士に転身。東京都地方労働委員会委員を務めるなどした。温厚な表情に反してドライな一面もあり、「ニッコリ笑って首を斬る」と皮肉られたことも。過去に最高裁判事候補に上がったときは、「年齢が若すぎる」という理由で、一度見送られたこともあった。病気のため、任期途中で退官した。
鹽野宜慶 しおの やすよし 検察官 1979/04/02 1985/05/22 検察一家の家系。東京地検検事から、法務総合研究所所長、法務省保護局長、東京地検検事正を歴任。検事正時代には、参議院議員選挙直前の時期に、ストをした日教組委員長を逮捕後、2日でスピード起訴したことも。ロッキード事件の捜査が展開する初期の頃、法務事務次官として、アメリカ側の『SEC極秘資料(※証券取引委員会による調査資料。田中角栄首相らの関与を示唆する)』を入手するため、ワシントンへ飛んだ。そこで、犯罪捜査が両国間の主権問題に発展しないよう、あらかじめ『日米司法共助』の協定を結び、そのうえで極秘捜査資料を入手するという重要な役割を果たした。いったん退官後に弁護士になったが、半年後に最高裁入り。大阪空港騒音訴訟では、上告された時点で法務事務次官だったという立場上、審理を自ら回避した。また、和歌山市役所職員の汚職事件では「芸者遊びの接待も賄賂にあたる」と、初の判断を示した。
伊藤正己 いとう まさみ 法律学者 1980/01/19 1989/09/20 英米法の研究者で、表現の自由とプライバシーの関係性が専門分野。戦時中は特別研究生に選ばれ、徴兵を免れたほどのエリート。1954年からは米ハーバード・スタンフォード各大学に留学。最高裁判事就任の際は「今までは裁判所を外から見ていた。学者なら四分六で違憲性を感じれば合憲判断をした判例を批判するが、裁判官になると慎重になる」と述べた。自己の専門分野を生かして、数多くの意見を書いたことで知られる。特に吉祥寺駅ビラ配布事件判決において、補足意見の中で示した「パブリックフォーラム論(公共場所を表現活動に利用する場合の利害調整)」は有名。他に、電車内の商業宣伝放送を聞かされることがプライバシー侵害になる可能性を示した「とらわれの聴衆」補足意見など。また、「有害図書」を自動販売機に置くことを禁じた岐阜県青少年条例で、その規制を合憲としつつ「青少年の知る権利の保障は、成人に比べ低い。成人は自販機以外でも入手できるため、検閲にはあたらない」との補足意見。16歳未満との「淫行」を一律に禁じた福岡県の青少年条例の大法廷判決について、「『淫行』という言葉は正確な処罰範囲を示したとはいえず、明確性を欠き違憲無効」とする反対意見。ソープランドを無許可営業した静岡県市議の事件では「実父が営業許可を受け、その名義変更が受理されていたため、無許可の故意がなかった」と無罪に。大阪空港騒音訴訟で、夜間離発着の差し止めを認めず、過去の騒音損害のみ賠償を認めた法廷意見に「行政事件の公権力行使として、抗告訴訟で救済を求めるべき」とする補足意見を付した。サラリーマン税金訴訟では、「サラリーマンにも必要経費はあるが、給与所得控除の中に概算的に含まれており、事業所得者と比べ不公平ではない」とする法廷意見に「サラリーマンの実際の経費が給与所得控除を超えた場合、その制度で課税するのは合理性を欠き違憲」とする補足意見を付した。殉職自衛官の護国神社合祀を合憲とした多数意見に対し「司法が精神的自由を考える場合は少数者保護の視点が必要であり、宗教上の心の静穏を要求することも法的保護に値する。自衛隊の行為は違憲」とする反対意見。北方ジャーナル事件(中傷表現を含む出版物の事前差し止め)で、本件は例外的差し止め要件に該当して合憲とした法廷意見に「例外にこのような厳格な要件を求めると、事前差し止めが著しく制限される。公的人物(立候補者)の場合は原則として事後制裁とするほかない」とする補足意見を付した。退官のとき「先輩には、補足意見は無駄な独り言だと言われもしたが、学者として言っておきたいことがあった」と語った。
宮崎梧一 みやざき ごいち 弁護士 1980/02/05 1984/05/04 札幌・大阪で裁判官を務めた後に、陸軍に召集され支那大陸へ。トップで法務部見習い士官となり、敗戦のときには中尉に。しかし、運動神経が鈍いためによく殴られた思い出も。ソ連に抑留されて辛い労働を強いられ、復員後に「裁判官ではメシが食えない」と弁護士に転身。ひたすら離婚や遺産相続の細かい仕事や、刑事事件の国選弁護を引き受けつづけた。書類の作成は極めて丁寧だったが、弁護士会会長などの要職には全く就かず。そのせいで、最高裁判事として日弁連が推薦した際も、最高裁や法務省から「そんな人物は聞いたことがない」と言われてしまう伝説を持つ。判例を踏襲する地道な判断に徹したが、ストライキ中の賃金は「家族手当てもカットの対象になる。それが労働協約に示されていなくても、その慣行があれば足りる」とし、判例に実質的な手直しを加えた。ホステス殺人の、いわゆる高輪グリーンマンション事件では、任意取り調べのために警察が用意したビジネスホテルに、逮捕前の被疑者を4泊させた点について「任意捜査として許容範囲内」との判断を示した。大阪空港騒音訴訟で、夜間離発着の差し止めを認めず、過去の騒音損害のみ賠償を認めた法廷意見に「行政事件の公権力行使として、抗告訴訟で救済を求めるべき」とする補足意見を付した。
寺田治郎 てらだ じろう 裁判官 1980/03/22 1985/11/03 10代長官。名古屋出身。父も裁判官だったので、転勤が多かったという。東京帝大法学部では、日本民法学の泰斗・我妻栄の門下にいた。「自分では理科系のほうが性に合っている気がするが、半分は父の強要で裁判官になった」と話す。まもなく陸軍に召集され、法務大尉として東南アジアに渡り、ラバウル航空隊の司令部付に。敗戦後はまず、京都地裁で実務に就き、その後、順当に出世街道に乗る。最高裁民事局、大阪地裁、最高裁総務局長、大津地裁所長、東京高裁判事を経て、最高裁事務総長に就任。このころ、当時の矢口洪一事務次長とともに、司法行政を切り盛りした。戦前の日本共産党スパイ査問事件が国会で採り上げられた際に証人として呼ばれ、「国政調査権が確定判決の当否などを調査するのは、司法権介入になるか」との質問に「その目的で証人喚問を行うのは適当ではない」との見解を示した。民事裁判官らしく「裁判官は庶民の気持ちがわかる必要がある」が口癖。夫婦で神田の古本屋街に出かけたり、半世紀以上のマージャン歴を誇るなど、私生活も瀟洒さはなく落ち着いている。最高裁判事就任時には「いくら理屈が立派でも、結論が実態と懸け離れていてはダメ。裁判は人にある」と話した。男子より5歳早い女子従業員の差別定年制につき、「性別だけで男女の定年が違うのは合理性がない。民法90条(公序良俗)違反で無効」とした。長官としての談話で、最高裁の違憲審査について「一般論だが、法律の合憲性に条件を付けたり、制限解釈することで、将来の立法に発展することもありうる」と明確に述べ、埋もれた事案を大法廷に上げてきて、合憲限定解釈のお墨付きを与える手法を積極的に採用した。代表的な判決として、東京拘置所の「よど号」ハイジャック記事抹消事件ポルノ税関検査事件福岡県「淫行条例」事件サラリーマン税金訴訟など。一票の格差が最大3.94倍に開いた1983年衆院選の議員定数不均衡訴訟で、違憲状態は認めたが「是正のための合理的期間が過ぎたとはいえない」として、請求を棄却した。また、交通取り締まり目的の自動車検問は「相手の任意の協力を求める形で行われ、自動車利用者の自由を不当に制約しない方法で行われる限り」という条件で適法判断。
谷口正孝 たにぐち まさたか 裁判官 1980/04/16 1987/01/27 刑事裁判官出身。最高裁調査官も歴任。東京高裁では、メーデー事件(東京地裁で17年9ヶ月の歳月を費やした長期裁判)で、2年あまりの審理をもって「騒乱罪不成立」の判断。最高裁判事としては、国家公務員による選挙活動の有罪判決に対し「刑罰の対象になるのは、公務員の特色がある場合に限られる」との反対意見。16歳未満との「淫行」を一律に禁じた福岡県の青少年条例の大法廷判決について、「若者の性的自由に公権力が不当に介入するもの」とする反対意見。サラリーマン税金訴訟では、「サラリーマンにも必要経費はあるが、給与所得控除の中に概算的に含まれており、事業所得者と比べ不公平ではない」とする法廷意見に「サラリーマンの実際の経費が給与所得控除を明らかに超えた場合は、無所得課税となり違憲の疑い」とする補足意見を付した。北方ジャーナル事件(中傷表現を含む出版物の事前差し止め)で、本件は例外的差し止め要件に該当して合憲とした法廷意見に「公的人物(立候補者)の公的問題は、真実に反してもただちに規制すべきでない。しかし、悪意や虚偽があれば表現の自由は主張できない」とする意見を付した。
大橋 進 おおはし すすむ 裁判官
弁護士
1981/11/02 1986/06/12 大阪地裁に勤務していたが、海軍に召集され法務官に。復員後も裁判官を続けていたが、東京弁護士会会長だった父が高齢となったのをきっかけに、弁護士に転身。最高裁判事としては、中学校の課外活動中に起きたケンカがもとで左目を失明した生徒が起こした民事訴訟で「課外活動は生徒の自主性を尊重すべきであり、特別な事情がない限り、学校側に監視監督の義務はない」として、原審判決を破棄し差し戻した。また、地裁は死刑、高裁は無期懲役と判断が分かれていた連続殺人事件で、「罪責が重大で罪刑の均衡・一般予防の見地からも、極刑がやむを得ないと認められる場合には、死刑の選択も許される」とし、破棄差し戻し。別の4人連続殺人事件では、死刑選択に関して「犯行の罪質、動機、態様、結果の重大性、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状」という9要件を掲げ、その後の死刑判決の一般的基準となった。ポルノ輸入を規制する税関検査は「検閲にあたらない。関税定率法が規制する『風俗を害すべき書籍・図画』とは『わいせつ物』を意味する」と限定解釈した法廷意見に「規制文言を放置せず、意味の分かりやすい文言に改正するのが望ましい」との補足意見を付した。北方ジャーナル事件(中傷表現を含む出版物の事前差し止め)で、本件は例外的差し止め要件に該当して合憲とした法廷意見に「差し止め請求を肯定するには、名誉と表現価値を比較考量し、類型化して判断するのが相当」とする補足意見を付した。
木戸口久治 きどぐち ひさはる 弁護士 1982/04/12 1986/01/08 石川県から18歳のときに上京。中央大学卒業後に陸軍に召集され南方戦線へ。復員後は5日間だけ検事になるが「同期より遅く任官して、将来どうなるか」と、弁護士に。第二東京弁護士会会長。十条製紙の顧問弁護士として、立木所有権・境界・公害などのトラブルがあれば、現場に出向いて丁寧な話し合いで、訴訟前の解決に努めた。東京地裁の調停委員をしていたときは、委員手当てを全額寄付した。家庭のもめごと解決をボランティアと考えていたことから。最高裁判事の就任時には「憲法は教条的に解釈するのではなく、社会の変化に対応することが大切」と述べた。大法廷の衆議院議員選挙定数不均衡訴訟では、3.94倍の格差を違憲とする反対意見。交通事故の保険金請求問題では「事故発生と同時に保険会社に直接請求できる。ただし、権利行使は賠償額が確定したとき」という判断。サラリーマン税金訴訟では、「サラリーマンにも必要経費はあるが、給与所得控除の中に概算的に含まれており、事業所得者と比べ不公平ではない」とする法廷意見に「サラリーマンと事業所得者の実質的租税負担の格差が著しく恒常的となれば違憲」とする補足意見を付した。ポルノ輸入を規制する税関検査は「検閲にあたらない。関税定率法が規制する『風俗を害すべき書籍・図画』とは『わいせつ物』を意味する」と限定解釈した法廷意見に「規制文言を放置せず、意味の分かりやすい文言に改正するのが望ましい」との補足意見を付した。在任中に中央大学創立100周年記念式典に招かれ「判決文は一般国民にわかりやすい理由と文章でつくられなければいけない」と講演した。
牧 圭次 まき けいじ 裁判官 1982/05/28 1989/11/24 大学卒業直後、まもなく太平洋戦争が勃発。身体能力の優れた者が選抜される現役兵として入隊した。復員後は、東京地裁の現場裁判官。米空母エンタープライズ寄港に反対する学生達が、東京・飯田橋で警官隊と衝突した事件で、デモ行進のプラカードを「用法上の凶器」と認定した。そこから最高裁人事局、同刑事局長、千葉地裁所長、東京高裁判事、最高裁事務総長を歴任。法務省の「弁護士抜き裁判法案」について、当時の岡原長官が「同法案は必要」と答えた際、事務総長として国会に呼ばれたが「長官の発言が波紋を描いていることは客観的事実として承知しているが、趣旨から言って裁判の公正さとは関係がない。裁判の実情を率直に述べたことにより、国民がある程度実情を理解し、それが特例法案の論議にも及んでいるのだと思う」と答えた。最高裁判事としては、外国人登録の指紋押捺拒否事件で、昭和天皇崩御による大赦で免訴の判決。北方ジャーナル事件(中傷表現を含む出版物の事前差し止め)で、本件は例外的差し止め要件に該当して合憲とした法廷意見に「差し止め請求を肯定するには、名誉と表現価値を比較考量し、類型化して判断するのが相当」とする補足意見を付した。
和田誠一 わだ せいいち 弁護士 1982/08/16 1986/04/23
(在任中死去)
紡績会社にいったん就職したが軍隊に。しかし、病気のため除隊。敗戦後に裁判官となるが、すぐに弁護士に。「これからは国際感覚が必要」として、アメリカに私費留学。関西では渉外弁護士の草分け的存在。大阪弁護士会会長。同弁護士会が「憲法違反の少年法改正反対」との垂れ幕を作ろうとしたとき、「軽々しく『憲法』という言葉を使うべきでない」と発言。自らを「常識的な人間。それが長所でもあり短所」と分析。「誰から見ても当たり前のことを当たり前に言うのが難しい」と自戒もしていた。最高裁では、自衛隊機が全日空機と空中衝突した事故で、執行猶予を付けた多数意見に対し「教官機としての安全保持の責任があるのに、位置関係の確認を怠る過失があった。禁固2年が相当」とする反対意見。秋田県大館市の市議会議長選で、それに先立っての会派での候補者選出段階で現金授受があった汚職事件で、「議員職務の密接関連行為」と認定し、収賄罪を成立させた。
安岡滿彦 やすおか みつひこ 裁判官 1982/10/01 1990/05/04 軍隊から復員後は、東京を基点にしながら、秋田や静岡の地裁もまわり、裁判実務や司法行政経験を積んだ。司法研修所所長だった当時、裁判官の酒酔い乱暴事件や女性被告との関係など、不祥事続きだったことから、修習生たちに「予断にとらわれないで、着実に進む将棋の王将のようになれ」と説いた。最高裁では、日大闘争で警官ひとりが死亡した傷害致死事件で、「裁判官は、このままの訴因だと無罪だという心証を得ている場合に、検察側に訴因変更を促すことはできるが、命令する義務はない」とする判断で、被告人の防御権を保障する立場を表明した。衆院選定数訴訟でも、最大3.94倍の格差を違憲とする反対意見。格差のボーダーラインを『3倍程度』と示した。公金での接待については「1人2万円の飲食費、花代9万5千円、二次会費4万円は、社会的儀礼の範囲を逸脱し、違法」と、最高裁での初判断。
角田禮次郎 つのだ れいじろう 行政官 1983/11/08 1990/12/03 戦前は内務省に入り、戦後、自治省から内閣法制局に。大平・鈴木・中曽根の3内閣にわたって長官を務めた。靖国公式参拝は「違憲の疑い」、徴兵制は「奴隷的拘束・苦役からの自由を侵害し違憲」など、数々の政府統一見解をまとめた。最高裁では、京都の幼児水死事件で「国家賠償法にいう河川など公の営造物の管理責任者は、事実上の管理をしている国や公共団体も含まれる」と判断。山口県の殺人事件では、一審二審の有罪判決を破棄し「実行犯の自白の任意性に疑問」として無罪判決。最高裁が、破棄自判で無罪を言い渡すのは異例。ポルノ輸入を規制する税関検査は「検閲にあたらない。関税定率法が規制する『風俗を害すべき書籍・図画』とは『わいせつ物』を意味する」と限定解釈した法廷意見に「規制文言を放置せず、意味の分かりやすい文言に改正するのが望ましい」との補足意見を付した。
矢口洪一 やぐち こういち 1→3 裁判官 1984/02/20 1990/02/19 11代長官。京都府出身。父親も裁判官だったが、いったん裁判官をやめてドイツに渡り、再び任官するような気ままな性格だったため、のびのびと育った。180センチ、74キロという、大正生まれとしては大柄な体格でスポーツ万能。戦時中は海軍の法務見習い尉官となり、法務大尉にまで出世。復員後、民事事件を専門とする裁判官に。しかし、横浜地裁で「鎌倉社長殺人事件」を担当したこともあり、その際は犯罪事実をわずか5行にまとめてみせた。「裁判官が認定した構成要件該当事実を簡潔に記せばよく、情状などは主文におのずから反映されている」と、シンプルな判決文に美学をみるかのよう。最高裁事務総局で経理や人事、事務総長など重要ポストを占め、25年間にわたり司法行政に携わったため、『ミスター司法行政』の異名をとった。民事局長時代は、4大公害訴訟やサリドマイド薬害訴訟など、難事件を検討した。「裁判官だけが訴訟技術や社会の動きに関して意見を交換する場を閉ざされるというのはおかしなこと。新しい社会現象が起きて、訴訟の規模が大きくなれば、裁判官が個人で新しい局面を切り開くには限界も出てくる」と、裁判官たちの孤高に懸念を表明してもいる。青法協問題や裁判官不祥事などの事態にも、裁判官離れした行政手腕・政治手腕を発揮した。一方で、話し好き、パチンコ好きの素顔も。最高裁では、長官就任に際して「行政や立法は未来を先取りする仕事。司法にも先取りしたい気持ちはあるが、それは必要最小限度で、本来は謙抑的であるべき。しかし、消極主義ではない。必要があれば毅然と権限を行使する」と挨拶した。「過疎で裁判が1件しかないところもあれば、多忙を極めるところもある」とし、簡易裁判所の統廃合政策を「住民サービスの面でも、われわれの使命」と位置づけ、抜本的な改革を推進。また、日本での陪審制の可能性を探るため、40代の優秀な裁判官を積極的に諸外国へ派遣し、実情を調査させた。「裁判を専門家集団だけに任せることには限界があります」「わが国が西欧に範をとった近代裁判制度を採用した以上、陪審制度は、ただダメだダメだといわないで、とことん可能性を探るべきです。参審制も同じです」と、その心意気を語った。法廷内(傍聴席)で傍聴人がメモをとることを初めて容認。判決当日に即、全国の裁判所に向けて大法廷判決文をファックスで送り、メモ自由の徹底を図った。百里基地訴訟(航空自衛隊と反対派住民の、敷地をめぐる土地トラブル)では、通常の民事事件として処理し、国側勝訴。自衛隊と憲法9条との関係につき、判断を避けた。共有林の分割を禁じる森林法の規定に違憲判断を示したり、殉職自衛官の合祀事件で、山口県護国神社に合祀を申請した県隊友会の単独行為と認定し、政教分離には抵触しないとしたうえで、「静謐な宗教的環境のもとで信仰生活を送る利益は、ただちに法的保護に値するとはいえない」との判断も示した。さらに、有責配偶者からの離婚請求を認め、いわゆる『破綻主義(理由はどうあれ、夫婦関係が修復できなければ離婚を容認していく方向性)』を積極的に採用する大法廷判決も、同長官の頃。ポルノ輸入を規制する税関検査は「検閲にあたらない。関税定率法が規制する『風俗を害すべき書籍・図画』とは『わいせつ物』を意味する」と限定解釈した法廷意見に「規制文言を放置せず、意味の分かりやすい文言に改正するのが望ましい」との補足意見を付した。退官挨拶では、「司法制度は安定性が大きな柱で、固定化しやすいんです。しかし、最高裁が40年以上経た現在、世界の大勢からもひとつの転機であるように思いました。司法制度を見直す機会を作ることができたので、結果どうするかは次代の人が決めてほしい」と、後輩に司法の将来を託した。
島谷六郎 しまたに ろくろう 弁護士 1984/05/08 1990/01/23 東大卒業後は海軍法務官となり、支那・海南島で敗戦を迎える。支那で2年間の抑留生活をおくり、1950(S25)年より弁護士に。7代最高裁長官 藤林益三氏の事務所に所属し、銀行の顧問弁護士などをつとめた。日弁連では、外国弁護士対策委員会の初代委員長。最高裁では、企業による職員の個人調査に関する慰謝料請求訴訟で、「共産党員でなければ文書で表明せよ、という調査方法は不相当な面もあるが、社会的な許容範囲内」と判断し、原告の請求を退けた。任意捜査段階で、本人の承諾なき所持品検査によって覚せい剤が見つかり起訴された事件では、「捜査に重大な違法はない」とする法廷意見に対し、違法収集証拠排除法則に基づいて「将来の違法捜査を抑制する見地からみて相当でない」とする反対意見。サラリーマン税金訴訟では、「サラリーマンにも必要経費はあるが、給与所得控除の中に概算的に含まれており、事業所得者と比べ不公平ではない」とする法廷意見に「必要経費が給与所得控除を超えていれば、無所得課税となり、違憲とはいえないまでも給与所得制度の再検討を期待」とする補足意見を付した。16歳未満との「淫行」を一律に禁じた福岡県の青少年条例の大法廷判決について、「処罰対象が具体的に明示されず、あいまいさが残り、取り締まりに行きすぎを招く危険性がある」とする反対意見。殉職自衛官の護国神社合祀を合憲とした多数意見に「自衛隊の行為は神社との共同行為であり宗教活動だが、法的利益の侵害がない以上違法とはいえない」との意見を付した。
長島  敦 ながしま あつし 検察官 1984/06/12 1988/03/16 現場の検事として容疑者を取り調べたのは3年間ほど。法務省の秘書課長や青少年課長として、法案策定作業などに従事した。法律学者との交換留学で、米スタンフォード大に2年間学ぶ。帰国後は、アジア極東犯罪防止研修所長に、日本人として初めて就任。その後、法務省矯正局長、最高検公判部長、名古屋高検検事長を歴任して退官。東洋大学で法学を教えていた。最高裁では、原告による不当提訴があれば、被告は慰謝料を請求できると判断。「原告の主張が事実や法的根拠を欠き、これを知りながらあえて提訴するなど、著しく相当性を欠く場合」という基準を示し、乱訴に歯止めをかけた。放送などでの、韓国人名の日本語読みをめぐる裁判では、「他人から氏名を正確に呼ばれることは人格権に含まれる」と判断しながら、「害意を持って不正確な呼称をしたなど、特段の事情がなければ違法性はない」として、結論としては請求を棄却した。サラリーマン税金訴訟では、「サラリーマンにも必要経費はあるが、給与所得控除の中に概算的に含まれており、事業所得者と比べ不公平ではない」とする法廷意見に「サラリーマンの実際の経費が給与所得控除を超えた場合、その制度で課税するのは合理性を欠き違憲」とする補足意見を付した。北方ジャーナル事件(中傷表現を含む出版物の事前差し止め)で、本件は例外的差し止め要件に該当して合憲とした法廷意見に「社会通念上とうてい許しがたい侮辱的名誉毀損には事前差し止めが許される」とする補足意見を付した。
高島益郎 たかしま ますお 行政官 1984/12/17 1988/05/02
(在任中死去)
外務省に入った1年後に陸軍に召集される。北朝鮮で捕虜になり、ソ連に抑留。極寒のため凍傷となり、足の小指を失ったほど。「ソ連の体制は嫌いだが、ロシア人は愛すべき国民」と後に語った。復員後はオーストラリアや香港で勤務し、条約局長などを歴任。日中国交正常化問題では、政治決着に持ち込みたい中国側に対し、法理論で対抗。当時の周恩来首相に、その場では「法匪」とののしられたものの、のちに「外交官はああでなければ」と言わしめた。最高裁判事就任に際しては、「憲法は私たちの行動規範」と語った。金額欄に「壱百円」と「\1,000,000-」と2通りの記載がされている約束手形の扱いについて、一審と二審で判断が分かれていたところ「漢数字の記載を信用」と、地裁の判断を支持した。森林法の共有林分割制限規定は、憲法の保障する財産権に抵触し違憲とした法廷意見に対し「持分2分の1に限って分割を制限するのは違憲」とする意見を付した。
藤島  昭 ふじしま あきら 検察官 1985/05/23 1994/01/01 戦時中は海軍で主計少尉。宮崎の航空基地で敗戦を迎えた。検事として横浜地検に赴任。米ミシガン大学に留学後、法務省の人事課長や官房長、東京地検検事正、法務事務次官、最高検次長検事など要職を歴任。軽トラック運転中の業務上過失致死事件で、禁錮10ヶ月の原審判決を破棄し、執行猶予を付けた。山口組組長狙撃事件では、自白の信用性と事実誤認の疑いを理由に破棄差し戻し。検察官出身のわりには、意外と被告人寄りの判断が少なくない。実父でない韓国人による認知を無効と訴えた訴訟では、韓国の民法に基づき出訴期間制限を過ぎていることを理由に却下された原審に対し「日本の民法ではそのような制限はなく、適法な訴え」として、やはり差し戻し。天然痘予防ワクチンの副作用をめぐる訴訟でも、「禁忌者(予防接種を受けるべきでない者)の審理が不十分」として、原審に差し戻した。一票の価値の最大格差が3.18倍となった1990年衆院選の議員定数不均衡訴訟について、「違憲的状態だが、かろうじて合憲」とする多数意見に付いた。
大内恒夫 おおうち つねお 裁判官 1985/11/05 1992/03/23 東京地裁をスタートに最高裁訟廷部へ。そこから再び裁判実務に戻って15年のキャリアを積む。最高裁事務総局では、秘書課長兼広報課長を務め、最高裁判決のレクチャーをする調査官と、受ける新聞記者の間を調整した。経理局長時代は、現代の最高裁庁舎の建設を担当し、「だいたい500年は大丈夫ですよ。関東大震災クラスの地震がきても平気です」とコメントした。東京高裁長官から最高裁入り。長官候補に挙げられたことも。沖縄完全復帰要求デモの際、警官が死亡した殺人容疑事件で無罪判決を受けた男性が「そんな起訴は、そもそも違法」と国会賠償を請求した訴訟。原審は違法と認定したが、「合理的な嫌疑があれば起訴に違法性はない」とする判断。石川県山中温泉で白骨死体が見つかった、死体遺棄・強盗致死未遂事件では、一審二審の死刑判決を破棄し「共犯者の供述に疑問」として差し戻した。森林法の共有林分割制限規定は、憲法の保障する財産権に抵触し違憲とした法廷意見に対し「持分2分の1に限って分割を制限するのは違憲」とする意見を付した。

 

 

【参考文献】
「日本の裁判史を読む事典」野村二郎(自由国民社)
「最高裁物語」山本祐司(講談社)
別冊ジュリスト「憲法判例百選I」(有斐閣)

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