松林蝙也斎(まつばやしへんやさい)
(1593〜1667)江戸前期の剣術家。名は左馬之助。独学で願流を立て、仙台の伊達家に召し抱えられた。相手の太刀を足で踏み落とす「足譚」を得意とし、家光の前で技を披露して、その身軽なこと蝙蝠の如しと讃えられたことから蝙也斎と名乗る。
丸橋忠弥(まるばしちゅうや)
江戸前期の浪人。出羽の出身とも言われ、一時加賀前田家の臣に奉公していたという。宝蔵院流槍術の達人で、御茶ノ水に道場を開いていた。由比正雪と謀反の計画を立て、江戸城攻撃を担当としていたが、事前に発覚(巷説では忠弥が短慮から他人に漏らしたのが原因とされている)、母や兄ともども鈴ヶ森で磔にされた。講談や歌舞伎でもしばしば取り上げられ、酔ったふりをして江戸城の堀の深さを測ろうとする場面は有名。なお、長曾我部盛親の落胤という伝説がある。
水野十郎左衛門(みずのじゅうろうざえもん)
(?〜1664)江戸前期の旗本奴の頭目。名は成之。父は備後福山藩主の三男で母は阿波徳島藩主の娘。1650年、父の遺領を継いで小普請となったが、病気と称して出仕を怠り、大小神祗組(もしくは白柄組)の首領となる。1657年に幡随院長兵衛を殺害するもこの時には咎めはなかった。が、後に幕府の取り締まりが厳しくなり、不行跡で評定所に召し出されるが、その時の態度が不作法であったとして切腹に処され、その子も殺された。歌舞伎等では幡随院長兵衛の宿敵として悪役となることが多い。
源博雅(みなもとのひろまさ) new
(918〜980)醍醐天皇の皇子克明親王の子。従三位皇太后権大夫。琵琶・箏・笛・篳篥などの名手。生まれた時に天上から妙なる音楽が響いた、蝉丸の元に3年通って秘曲を授かった、羅城門で宮中から紛失した琵琶の名器・玄象を鬼から受け取ったなど、「今昔物語集」等では音楽に関する伝説に富む。
宮本武蔵(みやもとむさし)
(1584?〜1645)江戸時代初期の剣豪。二天一流(円明流とも)の開祖。十三歳で初めて試合を行い、以来二十九歳の巌流島の決闘まで六十余度の試合に一度も負けなかったという。晩年は熊本で余生を過ごし、「五輪書」を書き上げた。また、剣の他、書・画・彫刻に優れた才を示したという。
三好伊佐入道(みよしいさにゅうどう)
三好清海入道(みよしせいかいにゅうどう)
真田十勇士の一人。六尺余の巨漢で、大坂の役では筋金入りの八尺の樫の棒を振り回して奮戦、秀頼と幸村が薩摩に落ち延びるのを見届けた上、自刃したという。モデルは出羽亀田の領主とも、亀田城主三好六郎の嫡子ともいう。
村正(むらまさ)
室町時代の刀工。美濃系と見られる。伝説が多く、鎌倉の正宗に師事したが破門され、伊勢国桑名郡で刀剣を製作したといわれる。徳川家康の祖父清康がこの刀で殺害され、また、嫡子信康がこの刀で介錯されたなどの伝えから、その作は徳川幕府の禁忌にあい、妖刀視されたが、それ故幕末には志士の間でもてはやされたという。
百々地三太夫(ももちさんだゆう)
「立川文庫」などに登場する伊賀忍者の頭領。極意を授けた石川五右衛門に裏切られたことから、以後は弟子を取らなかったが、伊賀忍術の絶えるのを惜しみ、霧隠才蔵にこれを伝授したという。実在の伊賀の上忍・百地丹波がモデルか。
護良親王(もりながしんのう) new
(1308〜1335)南北朝時代の皇族武将で後醍醐天皇の皇子。大塔宮。初め出家して尊雲法親王と称し、天台座主となって関東調伏の祈祷を盛んに行った。1332年討幕を計って還俗し、護良と改め吉野に挙兵、討幕の令旨を各地に送り、畿内の反幕府勢力の決起を促した。新政府では征夷大将軍・兵部卿に任ぜられたが、足利尊氏と反目して鎌倉に幽閉され、中先代の乱の際、足利直義が使わした淵辺義博に殺された。実は淵辺伊賀守に殺害されておらず、逆に淵辺に守護されて奥州石巻まで落ち延びたという伝説がある。