八百比丘尼(やおびくに)
若狭国小浜に伝わる、齢八百歳に達したという伝説の老比丘尼。幼い頃に人魚の肉を食べて不老長寿を授かり、諸国を放浪したという。いつまでも若いままで、透き通るような白い肌をしていたので、白比丘尼とも言われる。
柳生十兵衛(やぎゅうじゅうべえ)
(1607〜1650)江戸前期の剣豪。柳生宗矩の嫡子。剣の実力は父以上で、早くから家光の小姓として仕えたが、勘気を被って致仕。以来再出仕するまで柳生で新陰流の研鑽につとめていたというが、隠密として諸国を廻っていたという説もある。父の死後は家督を継いだ。本当に隻眼であったかは不明。
柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)
(1527?〜1606)安土桃山時代の兵法家。柳生新陰流の祖。若年より武術を好むが、上泉伊勢守に完敗してその門下に入り、二年後には一国一人の印可を受けた。後に京で徳川家康に招かれ、宗矩と共に剣技を披露して、柳生家が将軍家指南役になるきっかけを作った。
柳生宗矩(やぎゅうむねのり)
(1571〜1646)江戸時代初期の兵法家。柳生石舟斎の五男で、父の推挙を受けて徳川家の兵法師範となった。関ヶ原・大坂の陣で戦功があり、また政治的にも手腕を発揮、大目付などの要職に就任し、後に大名に列せられた。
八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま) new
三種の神器の一。八尺瓊とは大きな玉(一説には多くの玉を八尺の緒に貫いたもの)のことであり、大きな玉で作った勾玉か。
八咫鏡(やたのかがみ) new
三種の神器の一。八咫とは巨大な、の意であり、巨大な鏡か。天照大神が天の岩戸に隠れた時、石凝姥命が作り、天照大神が瓊瓊杵尊に授けたといわれる。伊勢神宮の内宮に天照大神の御魂代として奉斎されていると。
奴の小万(やっこのこまん)
(1722〜1806)江戸中・後期の奇女。大坂の薬種問屋木津屋の養女で本名は雪。学問・武芸に優れ、一切の縁談を断りきままに暮らしたが、奇行が目立ち、女伊達奴の小万と渾名されて浄瑠璃や読本のモデルとなった。
由比正雪(ゆいしょうせつ)
(1605〜1651)江戸前期の浪人軍学者。江戸で軍学を教え、旗本や大名の家臣など多くの弟子を集めた。1651年に幕政批判と浪人救済を掲げて弟子と共に謀反(慶安の変)を企て、自身は駿府城の乗っ取りと久能山の家康の遺金を狙うが、事前に発覚。駿府で自害した。
祐天(ゆうてん)
江戸前・中期の浄土宗の高僧。陸奥磐城生まれで、字は愚心。12歳の時に増上寺で剃髪、のち諸寺に遊学していた。名利を求めず隠棲していたが、徳川綱吉と生母・桂昌院などの帰依を受け、その懇請により諸寺の住持を経て、1711年には増上寺三六世を継ぎ、大僧正となった。多くの廃寺復興に功績を残し、晩年は目黒に庵居してそこで没した(祐天寺は弟子がその地に開いたもの)。実録や講釈で庶民にも人気があり、そこでは前世の因縁で愚かだった祐天が、成田不動の力で叡知を得て、様々な奇瑞を示したこととなっている。また、累を成仏得脱させた物語も有名。
由利鎌之助(ゆりかまのすけ)
真田十勇士の一人。元・三河野田城主菅沼新八郎の家臣で、賤ヶ岳の合戦で真田幸村の軍と対決。穴山小助と一騎打ちするが敗れて生け捕られ、幸村の配下となったという。
頼豪(らいごう)
(1002〜1084)平安中期の天台宗園城寺の僧。藤原有家の子。博学徳行をもって知られたが、白河天皇の皇子降誕を祈祷し、恩賞として園城寺に戒壇造立を乞うたが、延暦寺の反対で許されず怨死。皇子がわずか四歳で死んだのはその怨霊によるものと噂された。また、死後に数万の怪鼠となって延暦寺の経巻を食い破ったという伝説が「源平盛衰記」「平家物語」に見え、その姿は妖怪「鉄鼠」として知られる。また、滝沢馬琴の読本「頼豪阿闍梨恠鼠伝」では、鼠に妖術を授ける僧として登場する。
雷電為右衛門(らいでんためえもん)
(1767〜1825)江戸後期の力士。信濃の人。江戸の力士浦風林右衛門に入門し、谷風の内弟子となる。1788年に松江松平家の抱え力士となり、1790年には江戸に出ていきなり西関脇となった。2m弱の巨体から繰り出される怪力で無敵を誇り、張り手、鉄砲、かんぬきの三手を禁じられたという伝説が現役中に生まれた。当時の最高位であった大関を16年間務め、幕内32場所中254勝10敗21分の記録を残した。また、自ら記した13年間の巡業日誌が現存している。
羅城門(らじょうもん) new
平城京・平安京の正門。朱雀大路の南端にあり、北端の朱雀門と相対する。京の外郭線に造られた唯一の門で、外交使節の送迎や祭祀の場ともなった。「今昔物語集」の盗賊と死人の髪を抜く老婆の物語や、内裏から紛失した琵琶の名器・玄象を門の階上で鬼が弾いていたなど、平安京の羅城門には数々の怪異譚が伝わっている。