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もう10年も経つのか、というのが正直な感想である。そう、バンドネオンのフアン・ホセ・モサリーニが、ヴァイオリンのアントニオ・アグリとの共同名義による五重奏団を組んで、最初に日本にやってきたのが、今からちょうど10年前の、1994年10月のことだった(当時の名称は“モサリーニ&アントニオ・アグリ・クインテット”、翌年の再来日以降は“モサリーニ&アントニオ・アグリ タンゴ五重奏団”に変更された)。
この時は単独公演ではなく、フェスティバル・コンダ・ロータの5周年企画として行われた『パリ・ミュゼット&タンゴ』への出演という形だった。4日公演のうち、最初の2日間はミュゼット(複数のアーティストらによるレビュー形式)のみ、残りの2日間が前半ミュゼット組、後半がモサリーニ&アグリ五重奏団という構成。ちょうど当時はミュゼットがちょっとしたブームになっていたこともあり、それゆえに実現した企画だったとは思うが、なぜそれがタンゴと組み合わされたのかは、今でもよく判らない。それぞれアコーディオンとバンドネオンという蛇腹楽器がフィーチャーされる点以外に、ミュゼットとタンゴにさしたる共通項はないからである。
ベテランたちが続々と登場しては数曲ずつ演奏し、雰囲気はあっても緊張感に欠けたミュゼット組のステージに対し、“アストル・ピアソラに捧ぐ”と題し、単独でタンゴの部を担ったモサリーニ&アグリ五重奏団は、観客の度胆を抜かんばかりの気迫にこもった演奏を繰り広げ、大いなる感動を呼んだのである。当時私が「ラティーナ」誌(94年12月号)に寄せた記事から引用しておこう。
その演奏のテンションの高さには、ピアソラ本人もかくやと思わせるものがあった。もちろんモサリーニとアグリの組み合わせによるピアソラへのオマージュという内容であれば、それなりの期待はあった。だがこれほど壮絶な演奏が展開されるとは、誰が予想し得ただろう! ステージの上のモサリーニは、決してピアソラの役割を演じていたのではなかった。恐ろしいほどの気迫に満ちたそこでの彼は“完全にピアソラの魂が乗り移ったモサリーニ自身”だったのだ。アグリのヴァイオリンも、これまた言葉には言い表わし難いほど凄かった。その感情表現のあまりの深さに、何度胸を締めつけられたことか。キンテートのほかのメンバーも実力派揃いで…(中略)
それにしても、これだけ“音楽そのものの力”を感じさせてもらったタンゴのステージというのも実に久しぶりだ。その“力”は関係者の思惑も、観客の好奇心や期待すら遥かに越えていたことは確かだ。最後には、ミュゼット目当ての人も、タンゴ目当ての人も関係なく会場全体が大きな感動に包まれていたのだから。我々は、まさに至福の時を過ごすことが出来たのである。そして今回は、テーマからいえば当然ながら、一切歌なし、踊りなし、「ラ・クンパルシータ」なし、純粋に音楽だけという構成だったのも功を奏したと思う。スペクタクル形式のショーもそれはそれで素晴らしいが、たまにはこういったステージにも接していたいと思ったのは決して僕だけではないはずだ。今回のステージの成功は、今後のタンゴのコンサート企画の在り方に対しても大きな示唆を含んでいるのではないかと思われる。
この引用の後半部分について、少し補足しておこう。日本ではごく一部の熱心なファンによって細々と聴き継がれていたタンゴが、若い世代を含む広い層へと浸透し始めたのは、ブロードウェイなどでヒットしたショー『タンゴ・アルゼンチーノ』が日本上陸を果たした1987年以降のことだと言えるが、そのショーのヒット以来、タンゴ・ダンサーらを前面に据えたパターンのステージ作りが横行するようになり、ややもすると肝心の音楽がどこかへ行ってしまったかのような傾向すらみられたのである。
また、それ以前からタンゴのコンサートでは、「ラ・クンパルシータ」や「エル・チョクロ」のような有名曲を演奏しなければ、客が入らないといった主催者側の思い込みがあり、タンゴ・ファンの間でも、それがお約束のようになってしまっていた。あのアストル・ピアソラですら、1982年の初来日公演の際には「ラ・クンパルシータ」を演奏しなければならなかったのだから。
その意味で、モサリーニ&アグリ五重奏団が初来日公演で、“純粋に”音楽だけを演奏したという事実は、実はとても画期的なことだったのである、少なくともこの日本においては。そして実際に彼らの方法論は、その後に日本でのタンゴのコンサートの在り方に大きな影響を及ぼしたのである。
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1980年代のタンゴ界の新しい動きは、ほとんどがアルゼンチン国外で起こっていた。先の『タンゴ・アルゼンチーノ』(企画した二人もダンサーたちも演奏家たちも歌手も、みなアルゼンチン人だったが、最初の公演地はパリで、その後ニューヨークから世界へとツアーして廻り、本国での公演はだいぶ年月を経てからだった)もそうだし、五重奏団を率いて世界各国を公演し続けたアストル・ピアソラも、本拠地をパリに置いていた。そんな中で、パリ在住のフアン・ホセ・モサリーニも重要な役割を果たしたのである。
モサリーニがパリへ亡命して5年後の1982年に結成されたトリオ、モサリーニ=ベイテルマン=カラティーニは、新しいタンゴの動向に敏感だった私のような人間にとって、まさに希望の星だった。特に1983年録音の第1作『ラ・ボルドーナ』の衝撃は大きかった。レパートリーこそ全曲がタンゴの既成曲だったが、ジャズや現代音楽の要素を大胆に取り入れた斬新なアレンジによって、60年代以降大きな影響を与え続けたピアソラの呪縛から解き放たれたモダン・タンゴの新しい形が、そこには提示されていたのである。彼らはアルバムを追うごとにオリジナル志向を強めていった。
およそ10年間活動を続けたモサリーニ=ベイテルマン=カラティーニは、バンドネオン、ピアノ、コントラバスのトリオだったが、そこから発展する形でギターとヴァイオリンを加えて、モサリーニ&アグリ五重奏団が結成されたのは、1993年のこと。先のトリオが、ピアソラからの直接的な影響をあまり感じさせない個性的なスタイルを確立したのに対し、新しい五重奏団では一転してピアソラ音楽の再生を目指すことになったのである。
今では、ピアソラの様々な作品が、様々な形でアレンジされ、演奏されているが、その解釈の面白さに感心することはあっても、ピアソラ本人のものよりも優れていると感じることは、まずない。それは、ピアソラ自身によるアレンジが、最も完成されていて、最も必然性の高いものだからである。そんなこともあり、ピアソラの音楽はまず例外なく、ピアソラ自身による演奏が最高で、それを超えるものはありえない、というのが今も昔も変わらぬ持論である。もちろんそれはレコードやCDでの話。では、生演奏はどうなのか。ピアソラが既にこの世にいない現在、ピアソラ以外の誰かが手掛ける演奏に耳を傾けるしかないわけだが、そこではその質が厳しく問われることになる。
そこでモサリーニ&アグリ五重奏団の演奏はどうなのか、ということになるが、まず彼らは、ピアソラの音楽を、ほとんど手を加えずに、つまりアレンジせずにそのまま演奏した。ただしそれは、“コピー”と言ってしまえるような、生易しいものではなかった。再び先の「ラティーナ」からの引用。
それらの曲をモサリーニらは、ほとんどどこもいじらずに、ピアソラ自身によるアレンジそのままで演奏した。最初のうちは、何だ同じじゃないかと思いもしたが、それが決してそんなハンパなものではないことに気付くのに時間はかからなかった。そう、アレンジが同じだからこそストレートに伝わる作品の素晴らしさ、そしてそれが見事に演奏された時の説得力の大きさに、改めて感じ入ってしまったのである。(中略)こういったやり方はピアソラ亡き後のピアソラ作品の解釈に対するひとつの見解として今後に影響を及ぼしそうな気がする。
圧倒的な演奏力を見せつけた背景には、モサリーニ自身の卓越した実力のほかに、アントニオ・アグリの存在がとても大きかったことは明らかである。タンゴ史にその名を残す不世出の名手であり、実際に1962年から76年までピアソラと行動を共にして、ピアソラ・サウンドの構築にも少なからず影響を及ぼしたアグリは、ピアソラ独特のマナーたるものを十二分に心得ていた。モサリーニ自身もピアソラとの共演歴があり、ピアノのオスバルド・カローも短期間だがピアソラのグループに参加したことがあった。そうした経験を踏まえた上でのピアソラの解釈が、充分な説得力を持ち得たのは、当然であろう。
モサリーニ&アントニオ・アグリ タンゴ五重奏団は、1995年、96年と単独公演を実現、特に95年の演奏は、前年を上回る、彼らにとっても最高と思われる素晴らしいものだった。そして、彼らはこの日本で着実にファンを増やしていった。
(続く)
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