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タンゴ楽団や歌手のレパートリーには、これまでにご紹介したタンゴ、ミロンガ、ワルツ以外に、どんなものがあるのだろうか。演奏される機会は少ないものの、幾つかの音楽形式があり、それらは大きく二つに分類出来る。ひとつは、タンゴ楽団のダンス・バンドとしての性格上演奏された外来のダンス音楽で、例えば次のようなものがある。
【フォックストロット】 1910年代にアメリカ合衆国で流行ったダンス音楽。1920年代からアルゼンチンでも好まれた。
【ポルカ】 19世紀前半にヨーロッパで生まれた2拍子の舞曲。初期のタンゴにも影響を与え、19世紀末にはアルゼンチンでも流行した。
【パソ・ドブレ】 スペイン生まれの舞曲。行進曲風の2拍子もしくは3拍子で、1920年代にはアルゼンチンやフランスでも流行した。
【ルンバ】 19世紀にキューバで生まれた音楽だが、1930年代には形を変えて、社交ダンスとしてアメリカやヨーロッパで流行した。
また、マズルカ(ポーランド生まれの舞曲)などの影響のもと、ブエノスアイレスで生まれた音楽形式にランチェーラがある。2拍目にアクセントがある民謡調の3拍子で、1920年代から30年代にかけて流行した。女性歌手アダ・ファルコンが歌ってヒットした「メ・エナモレ・ウナ・ベス(一度恋に落ちた)」(フランシスコ・カナロ作曲、イボ・ペライ作詞、1932年)のように、作品として生き残ったものもあるが、音楽としては完全に過去のものである。
今挙げたようなダンス音楽は、フランシスコ・ロムート楽団やオスバルド・フレセド楽団などが1930年代前後に比較的多く取り上げていたし、1940〜50年代にも、タンゴやワルツと共にこうした曲を専門に演奏していたエンリケ・ロドリゲス楽団のような存在もあったが、一般的に幅広く演奏されるほどの内容があったとは言い難い。
もうひとつの流れは、新しい音楽形式の開拓といえるもので、代表的な例としてはカンドンベがある。カンドンベはもともと、18世紀後半から19世紀前半にかけて、ウルグアイのアフリカ系黒人たちの儀式として始まった。その後黒人の減少とともに本来の形は失われ、19世紀末には、3種の太鼓(それぞれチコ、レピーケ、ピアノと呼ばれる)によるリズム・パターンとしてカーニヴァルの中に取り込まれていった。カンドンベはタンゴの成立にも多少の影響を与えたとも考えられていて、タンゴのルーツ指向が強まった1930年代後半から、新しい形のカンドンベが生み出されるようになった。この動きは、1930年代にセバスティアン・ピアナらの手によってミロンガが蘇生したのとも関連している。
新しいカンドンベは、ミロンガのリズムを基本に、先に触れた3種の太鼓によるリズム・パターンを加えてアフロ色を強くしたものである。ただしそれは、カンドンベの文化的背景をより強く持つウルグアイでの話で、アルゼンチンの作品のほとんどはそこまで本格的なものではなかった。だいたいはミロンガにカンドンベ的なビート感を加味した作品で、形式名もミロンガもしくはミロンガ・カンドンベとなっていた。セバスティアン・ピアナのいくつかの作品のほか、1942年にミゲル・カロー楽団が初演、ピアソラによるユニークな録音もある「アサバーチェ」(エンリケ・フランチーニ、エクトル・スタンポーニ作曲、オメロ・エスポシト作詞)などが知られている。一方ウルグアイでカンドンベ復活の立役者となったのは、<「ミロンガ」その2>にも登場したピアニスト、ピンティン・カステジャーノスで、「カンドンベ・オリエンタル(ウルグアイのカンドンベ)」(1940年)などの作品を残している。
ウルグアイとアルゼンチンでは演奏スタイルも異なり、カンドンベを得意としたウルグアイのロメオ・ガビオリ楽団は、3種の太鼓を加え複雑なリズムを表現したのに対し、アルゼンチンの楽団はせいぜいパーカッションを補強する程度だった。フアン・ダリエンソ楽団の「カンドンベ・オリエンタル」にはパーカッションが入っておらず、多少ビートの強いミロンガにしか聞こえない。アルゼンチンでのカンドンベ普及に一役買ったのは歌手のアルベルト・カスティージョで、ウルグアイで作られた作品を積極的に取り上げて、それがトレードマークのひとつとなった。
(この項続く)

ヴァイオリン奏者/楽団指揮者/作曲家のロメオ・ガビオリ(1912〜1957)
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