タンゴのアーティスト(1) 「アニバル・トロイロとその系譜」その1

バンドネオン奏者として、作曲家として、そして楽団リーダーとして、大きな業績を残したアニバル・トロイロ(1914〜1975)については、入門講座でもこれまでにも何度か名前が登場しているので、よく知らないが名前だけは覚えた、という方もいらっしゃるだろう。小松亮太のファンであれば、「ラ・トランペーラ」の作曲者としてご存知かも知れない。1940年代のブエノスアイレスでは、優れた才能を持ったアーティストがたくさん登場して、タンゴの黄金時代を担ったのだが、中でもトロイロはその象徴的存在だった。いや、それどころか、130年に及ぶタンゴの歴史全体を通しても、タンゴ史上最高の歌手カルロス・ガルデル、モダン・タンゴの世界を極めたアストル・ピアソラと並ぶ、真のビッグ・ネームと言えるのである。

トロイロと同時代に活躍した楽団リーダーでは、カルロス・ディ・サルリ、フアン・ダリエンソ、オスバルド・プグリエーセが特に有名で、人気も高い。それぞれ音楽性は大きく異なるが、唯一無二の個性的なスタイルを編み出したという点では共通している。それに対してトロイロ楽団は、基本的にはフリオ・デ・カロ以来のスタイルの延長線上にあるが、今挙げた3人の楽団のような強い個性はアピールしない。むしろ中庸といった表現が近いだろうが、それは決して平凡という意味ではない。洗練されすぎず、かといって決して野暮ったくならず、下町の気分を今に伝えてくれる。とてもバランスの取れたそのサウンドは、タンゴのメインストリームそのものというか、王道と呼ぶに相応しい。

トロイロのタンゴの特徴を一言で表すなら、歌心に溢れている、ということになろうか。トロイロのバンドネオンが、正に「よく歌う」という感じなのだが、作曲家としてのトロイロが、インストゥルメンタル作品もさることながら、「スール(南)」(オメロ・マンシ作詞)を筆頭に、歌のタンゴに類稀な傑作を数多く残したこととも無関係ではない。とにかく歌の伴奏のうまさはピカ一だったし、フィオレンティーノ、アルベルト・マリーノ、エドムンド・リベーロ、ロベルト・ゴジェネチェなど、楽団に去来した歌手たちはみんな一流で、その多くは楽団から独立した後もソロで活躍した。

トロイロのオルケスタ・ティピカは40年近く活動を続けたので(1937〜1975)、楽団を構成するメンバー(重要な人たちについては、次回ご紹介しよう)も少しずつ入れ替わり、その間にサウンドも変化していった。初期(1940年代前半)はテンポが速く、軽快でスウィング感に溢れた演奏が魅力だったが、外部アレンジャーの積極的な登用など、アレンジ面に重きを置くようになるのに伴い、そのサウンドは重厚になっていった。またトロイロは、オルケスタを率いての活動のほか、1953年からはトロイロ=グレラ四重奏団(《タンゴの楽団編成(4) 「コンフント」その1》を参照のこと)、1968年からはアニバル・トロイロ四重奏団(バンドネオン、エレキ・ギター、ピアノ、コントラバスという編成)でも活躍。1970年にはピアソラとのバンドネオン二重奏でも2曲録音している。

レコーディングは1938年に2曲、そして1941年から71年までほぼコンスタントに行っていて、特に1941年から49年、そして61年から71年まで在籍したRCAに残された録音はCD16枚("Obra completa en RCA"シリーズ。バラ売り、輸入盤のみ)に録音順にまとめられているので、その間の変遷を辿ることは可能である。40年代前半のフレッシュな演奏ぶりなども実に魅力的だが、残念ながら音は良くないので(もちろんこれは本人たちではなく、レコード会社のせいだが)、これからトロイロを聴いてみようという新しいファンは、RCA復帰後の録音が収められた"Obra completa en RCA Vol. 9"(BMG 74321 58605-2) "同 Vol. 10"(BMG 74321 62491-2)あたりから入るのがいいだろう。演奏もより現代的になっている。第9集にはトロイロ=グレラ四重奏団のアルバム(1962年録音)、第10集には海外向けに選りすぐりのインストゥルメンタル作品を演奏したアルバム"Troilo for Export"(1963年録音。編曲をフリアン・プラサが担当)がそのまま収められ、残りの収録曲ではロベルト・ゴジェネチェらの歌が堪能できる。

この項続く


Anibal Troilo (Pichuco)
アニバル・トロイロ
(1964年のアルバム"Pichuco es tango"のジャケットより。“ピチューコ”というのはトロイロのあだ名である。もうひとつのあだ名にゴルドというのがあるが、これは「でぶ」という意味)


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