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常に妥協を許さず、確固たる信念に基づいた演奏活動を全うした楽団指揮者でピアニスト、作曲家のオスバルド・プグリエーセ(1905〜1995)には、「気骨の人」という表現が相応しい。様々な苦労を重ねたプグリエーセが、自らの楽団を率いての演奏活動を軌道に乗せたのは1939年、33歳の時のことだが、それ以前のいわば下積み時代に共演した重要なミュージシャンに、エルビーノ・バルダーロとアルフレド・ゴビがいる。バルダーロもゴビもヴァイオリン奏者であり、どちらもピアソラに多大な影響を与えた人物としても知られている。プグリエーセとバルダーロは1926年、フリオ・デ・カロ楽団出身のバンドネオン奏者ペドロ・マフィアの新楽団に参加、1929年には揃って脱退し共同名義で楽団を結成した。幻のバルダーロ=プグリエーセ楽団(六重奏団)の誕生である。何故“幻”かと言うと、関係筋での評価は高かったものの、不況のあおりを受けて、レコーディングを果たせぬまま1931年には解散の憂き目にあったからである。二人の後の軌跡を考えれば、記録が残されなかったことは誠に残念。しかも、1930年にメンバーチェンジした際に参加したメンバーには、アニバル・トロイロとアルフレド・ゴビもいたのである。録音がないためにそのサウンドについては推測するしかないが、フリオ・デ・カロからの流れを汲むものだっただろうことは想像できる。
バルダーロ=プグリエーセ楽団の解散から2年後の1933年、バルダーロは六重奏団を結成した。第2ヴァイオリンにウーゴ・バラリス、第1バンドネオンにアニバル・トロイロ、ピアノ(編曲も担当)にホセ・パスクアル(後にプグリエーセ楽団の重要なレパートリーとなった「アラバル(場末)」の作曲者)を擁したこの楽団は、バルダーロ=プグリエーセ楽団以上に斬新な音楽性を誇っていたが、またもレコーディングの機会には恵まれなかった。唯一記録として残されたのは、1935年頃に放送局のオーディション用にテスト録音された1曲のみ(当時市販はされなかったが、後にコレクター向けLPに収録されて日の目を見た)。タンゴ界きっての名手であるバルダーロは、オルケスタ・ティピカ・ビクトルからアストル・ピアソラ五重奏団に至る様々なスタイルの楽団のレコードでその見事なソロを披露しているが、楽団指揮者としては本当に恵まれなかった人だ。しかし、バルダーロ六重奏団がタンゴ史に名を残しているのは、こんなエピソードがあるからだ。少年時代をニューヨークで過ごしたアストル・ピアソラは、父親から買い与えられたバンドネオンでタンゴを弾くのに、あまり積極的ではなかった。そんなピアソラが、帰国後たまたまラジオで耳にして大きな衝撃を受けたのが、バルダーロ六重奏団の末期(1938年頃)の演奏だったのである。ピアソラがタンゴ界入りを決意したのは、バルダーロの演奏を聴いたのがきっかけだった。
一方、プグリエーセはアルフレド・ゴビとの二重奏などで活動していた(ゴビについては、改めてご紹介する予定)。その後はペドロ・ラウレンス(マフィア同様フリオ・デ・カロ楽団のバンドネオン奏者だった)の楽団やロベルト・フィルポ楽団などいくつかの楽団を転々、自分の楽団も作っては失敗を繰り返し、前述のように、ようやく1939年になって本格的な活動を開始できたのだった。プグリエーセ楽団の初期のサウンドのベースとなったのは、フリオ・デ・カロの音楽である。プグリエーセはデ・カロ楽団に参加した経験こそないが、デ・カロ楽団出身でやはりデ・カロからの流れを汲むマフィアやラウレンスの楽団には在籍していたわけで、彼らから受けた影響は少なくないと思われる。また、ピアニストとしては、フリオ・デ・カロの兄でデ・カロ楽団のピアニストを終生務めたフランシスコ・デ・カロからの影響も大きい。デ・カロのサウンドは、ルバートを多用したねばっこいビートなどに特徴があったが、プグリエーセはそうした要素を更に練り上げ、緻密かつ豪快なアンサンブルを徹底的に追求することで、そのスタイルを極めることに成功した。ただし、それをひとつの形に仕上げるまでには、およそ10年もの歳月を要したのである。
(この項続く)

結成間もないオスバルド・プグリエーセ楽団(1939年) ピアノ:オスバルド・プグリエーセ
バンドネオン(左から):オスバルド・ルジェーロ、アルベルト・アルメンゴル、エンリケ・アレシオ
ヴァイオリン(左から):フリオ・カラスコ、エンリケ・カメラーノ、ハイメ・トゥルスキー
コントラバス:アニセート・ロッシ
歌手:アマデオ・マンダリーノ
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